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INFORMATION ニュース

1945.01.01

1945年(昭和20年) 活動12年目

お知らせ

日本フットボール復活。ポール・ラッシュ博士中心に再建活動始まる

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月27日

・ 3月10日

・ 4月30日

・ 8月

・ 8月15日

・ 8月30日

・ 9月15日

・10月2日

・10月28日

・アウシュヴィッツ強制収容所解放、2月4日:米英ソ、ヤルタ会談開始

・米軍、東京を大空襲、4月1日:米軍、沖縄本島に上陸

・ドイツ総統ヒトラー、自殺

・6日広島、9日長崎に原爆投下

・日本、ポツダム宣言受諾を表明。日本の終戦

・甲子園球場、進駐軍に接収、11月14日:後楽園球場、進駐軍に接収

・明治神宮外苑競技場、進駐軍に接収。ナイルキニック競技場と改称

・連合国総司令部を東京に設置

・東京六大学野球OB紅白戦(神宮球場)

フットボール ・ 9月10日

・秋

・翌年1月1日

・ポール・ラッシュ博士、再来日

・10月頃から、関西でチーム再建活動始まる。関東地区でも復活準備開始

・米軍第1回ライスボウル、全在日米軍-全在韓米軍で開催

8月15日の終戦により、これまでの戦時体制が終わった。しかし、3年半に及ぶ戦争で、日本国内は荒廃し、物資がない中でのフットボール活動の再興は困難な状況であった。戦前のフットボール関係者も徐々に「以前」に戻り始めたが、日々の生活に追われた。その中で、終戦からひと月も経たない中、ポール・ラッシュ博士が来日し、関係者と連絡を取り合いながら、フットボール復興に向けた動きが始まった。復興は互いの連絡が比較的取りやすかった関西が先だった。

[1]終戦直後のフットボール復興

1.ポール・ラッシュ博士の再来日

●8月15日に終戦を迎えた。1934年に活動を開始したアメリカンフットボールは、他の競技に比べて比較的「若いスポーツ」であり、OBなどの競技関係者も若く、ほとんどが戦地に出征していた。戦場で倒れたOBも多く、また社会の混乱もあって消息不明のOBも多かった。

●このような状態の日本に、ポール・ラッシュ博士が総司令部陸軍少佐として9月に再び来日(11月に中佐になる)。1934年の競技活動開始のときと同様、戦後の活動再開の中心も同博士だった。博士は帰米後、米陸軍情報部日本語学校人事課長となり、終戦後の45年9月20日、米軍総司令部陸軍中佐としてマニラから来日。開戦時に日本人に帰化していた日系二世卒業生を中心に、関東でさっそくフットボールの復活に乗り出した。

 

2.関東における復興活動の開始

●関東における復興の中心となったのは、加納克亮前理事長、井上素行(早大)、島クラレンス(立大)、山本厚(慶大)、花岡惇(明大)の各氏で、総勢35人。ポール・ラッシュ博士の下で何回かの会合が持たれた。学校には戦争により既にフットボール部の組織はなく、最初の作業は戦前の部員や関係者の消息を探し、連絡網を作成することだった。

●兵役に就いた戦前の日本人選手は、ほとんどが大陸や南方の戦場に送られたが、日系二世は戦前、卒業後にハワイに戻った者も多く、また日本に残った日系二世は戦地に出征する者は少なく、語学力を生かして通信社や放送局に勤務する者が多かった。彼らは東京近郊に住んでおり、連絡が取りやすく、すぐにポール・ラッシュ博士と再会することができた。さっそく日本のフットボールの再興を目指すこととなり、まずは戦前の関係者との接触を模索した。一方、日本生まれのOBは戦場に行ったものも多く、関東在住者は特に空襲で住居を焼失するなど、以前の住居や連絡先にいない者がほとんどだった。

●このため、通信事情が悪い中での関係者連絡網の作成には多大な労力を要した。同時に、徐々に関係者の連絡が取れていく中で、まだ大学自体が混乱していたが、各校で部再建の動きや現役学生に対する部員募集の動きも出てきた。部活動の復活には、旧部員との連絡と活動への復帰、コーチらの指導者の就任と新部員の確保、ボールや防具、練習用具の手配、それに練習場所の確保(戦前のグラウンドの多くは使えず、校庭内の荒れ地での練習が多かった。練習時間の大半を「土ならし」に充てたチームもあった)、活動資金の準備など、やるべきことが多くあった。

●連盟は活動資金を得るために、この年から翌年にかけてダンスパーティーを数回開催した。ダンスパーティーは戦後、日本の文化の一つとして広く開催されたが、その始まりはダンスの文化がある米国と深い関係のあるフットボール界から。フットボール界のダンスパーティーは米軍の支援も受けて毎回盛況で、収益金は各チームの活動費などに充てられた。

●戦前も活動資金を得るために各大学の部主催の催しがあったが、映画の上映(特に戦争開始以前は米国映画)やハワイアンなどのバンド演奏が多かった。戦後、各大学では部全体で米軍食糧補給船の深夜作業や都心各地での宝くじの販売、後楽園球場でのアイスキャンディ販売などのアルバイト作業などでも復興の資金を得ていった。大学間の横のつながりが他のスポーツと比べて密なフットボール界で、徐々に復旧の態勢が整ったチームは、空いた時間に他大学のチーム再建を支援するなどの活動も見られた。一通りの態勢が整うと、学校間での合同練習や6人制のスクリメージを実施することもあった。

 

アメリカンフットボールで卒業後や現役引退後もチームの枠を超えて横のつながりが強いのは、競技人口が少ないこともあるが、おそらく試合で何十回も相手と接触し、格闘し、そしてフェイクをするとともに、戦略・戦術のスポーツとして、相手を研究することが多いという競技特性のためであると思われる。その傾向は現在でも続いている。

 

●なお、米軍は戦争中でもフットボール競技を続行していた。米国内だけに限らず、進駐したアジアや欧州の米軍基地内で、軍隊のレクリエーションの一環として基地対抗の試合が各地で開催されていた。

 

3.関西における復興活動の開始

●ポール・ラッシュ博士を中心として関東では連絡網の整備が行われていたが、復活の第一歩は関西が先だった。関西は空襲による被害が関東に比べて少なく、地域的にも近距離にまとまっていたこと、関東の半分の3大学であったこともあり、復興の兆しは関東より早かった。

●このような状況下で、いち早く復員してきた坪井義男氏(関大OB)、中谷一明氏(関学大1942年入学)、井床國夫氏(関学大41年卒)らが中心となり、45年10月には復学選手の結集を呼び掛けた。関西地区駐留軍は、終戦とともに接収した甲子園球場(10月3日接収)で米軍対抗フットボール試合(球場周辺がいちご畑だったことから「ストロベリーボウル」と呼ばれた)を開催しており、駐留軍関西地区長官であったW・C・キーン少将の支援を得て、関西在住卒業生や部員はその観戦に招待され、復活への意欲を燃やした。試合会場では、米軍から観客に対し、フライドチキンやコーヒーなどが振る舞われ、また甲子園球場のスタンドで再会した関係者に日本でのフットボール活動復活の働き掛けが行われた。

●関東、関西とも再開の大きな障害は、焼失、逸散、整理されてしまったボールや防具類、特にスパイクだった。練習では防具なしで練習することが日常だったが、焼け残りの用具や軍靴を改造したスパイク、戦場から持ち返った千人針で補強したショルダーパッドなど、不ぞろいながらもなんとかそろえ、焼け野原やいも畑と化した各校運動場に、あのフットボールの鈍い衝撃音が戻ってきた。

●防具類は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)などを通して米軍保有の装具の提供があり、徐々に整えられていった。また、関西では兵庫・伊丹の米空軍基地に防具が十数個あるとのことで、坪井義男氏(関大1941年卒)と杉山利治氏(関大三年)が大阪・千里山と伊丹間を徒歩で受け取りに行った。

 

[2]公式規則

◆公式規則変更

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●フォワードパスは、スクリメージ・ライン自陣後方5ヤード以上の位置からパスを投げなければならなかったが、現在と同様、スクリメージ・ラインの後方(自己のエンドゾーン側)ならばどこからでも投げてよくなった。日本では、独自に1941年にこの規則としていた。

 

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経験とわずかのOBによる復興が始まった。関係者の安否確認と連絡網の作成は、通信事情が悪い中、当時の作業としては莫大な労力と時間が必要であったと思われるが、徐々に作られていった。一方で、戦前のフットボール誕生時の日本アメリカンフットボールの父であるポール・ラッシュ博士の再来日と、米国のスポーツであるアメリカンフットボールの駐留米軍の協力・支援も大きく、徐々に再活動の組織や体制が作り上げられていった。