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INFORMATION ニュース

1946.01.01

1946年(昭和21年) 活動13年目

お知らせ

関西地区で終戦7か月後に試合開催。関東地区でも11月に再開の試合。高校タッチフットボールも競技活動開始

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月10日

・ 3月6日

・ 8月9日

・ 8月15日

・11月3日

・12月21日

・12月30日

・国際連合総会第1回開催

・日本初のスポーツ専門紙、日刊スポーツ創刊

・第1回国民体育大会夏季大会開幕(京阪神地区にて)

・戦後初の全国中学校野球大会開幕。ポール・ラッシュ博士、開会式で祝辞

・日本国憲法公布

・昭和南海地震、和歌山県潮岬沖で発生(M8.0)

・文部省、六・三・三・四教育制度を発表

フットボール ・ 2月20日

・ 3月19日

・ 3月21日

・ 4月21日~

・ 6月29日

・ 9月

・10月12日

・11月2日

・11月18日

・12月22日

・12月28日

・翌年1月18日

・関西米式蹴球連盟設立(会長:池尻浩三氏)

・関東連盟、連盟創立委員会設立

・戦後初の試合、関西地区OB-関西学生(西宮球技場)

・OBを含め、関西3大学で復活春季リーグ戦。全関大が優勝

・アメリカンフットボール関東連盟発足(会長:井上素行氏)

・関西米式蹴球連盟、「関西フットボール連盟」に改称

・関西リーグ開幕。同大優勝

・第1回国民体育大会(京都)のオープン参加として全関東-全関西(西宮球技場)

・関東大学リーグ、オープン戦開幕。慶大2勝

・関東紅白戦開催。慶・立・法-早・明・日(ナイルキニック競技場)

・中学(現高校)タッチフットボールの初試合、豊中中-池田中(西宮球技場)

・全早大-全慶大(ナイルキニック競技場)

 

前年1945年は年の三分の二が戦争状態であり、やっと8月の終戦から再建活動が始まったが、多くの困難があった。この頃、食べることにも不自由な時代であり、その中でスポーツをする、スポーツをするための活動を行うことは、贅沢の極みの時代だった。しかしながら、関係者の努力により徐々にではあるが、活動再開の組織活動とともに、試合も行われ始めた。

[1]主な出来事

1.各チームの活動再開の動き

(1)関東の大学チームの活動開始状況

関東の各チームの活動再開の状況は、次の通りであった。

●早大は4月に全学の体育会が正式に再発足するのに合わせ、この年1月頃から福神愛夫氏(1946年卒)、並木直邦氏(47年卒)、加賀山外与雄氏(47年卒)を中心に、卒業生や部員の捜索、新入部員獲得、予算申請、グラウンド探し、部長就任依頼などが行われた。そして戦前34年8月に開始した同部恒例の岳温泉の合宿を、戦後間もないこの年の夏、7人の参加で再開した。

●立大では3月、倉橋新一氏(1947年卒)が松浦才五郎(47年卒)、木原茂(48年卒)、古河進一(47年卒)、八木昌夫(47年卒)の各氏を集めると、15、6人の部員が集った。11月からは立大神学院のグラウンドも使用できるようになり、レスリング部の部員に練習に参加してもらいタックルの練習をするなど、本格的な活動の復活が始まった。

●明大は花岡惇氏を中心に連絡網を確立させ、徐々に再建していった。

●法大では、当時川崎市木月に駐留していた米軍第八空軍対空無線部隊が法政二高グラウンドを使用して練習を行っていたが、この見学などで元部員と連絡が取れ、若林忠志氏(元コーチ、1935年卒)、保科進氏(元監督、38年卒)、石田錘吾氏(47年卒)、山脇正雄氏(48年卒)らを中心に再活動の取り組みが始まった。

●慶大は春から山片厚氏(1940年卒)、菱田茂氏(47年卒)が中心となってかつての選手を探し、ともに二世選手である藤本武氏(49年卒)、服部太郎氏(51年卒)ら17、8人が集まった。しかし、防具類はなく、用具なしでの練習が続いたが、連盟が米軍から譲り受けた2チーム分の防具を使用して試合を行った。

●日大は1944年9月に繰り上げ卒業をしていた吉田武夫氏が復学してコーチに就任するとともに、笠原恒彦コーチとともに関係者と連絡を取り、ぎりぎりの部員11人を組織化した。

 

(2)関西の大学チームの活動開始状況

●関大は杉山利治(四年)を主将にして再建した。

●同大は、戦後いち早く復員した1942年主将の三浦清氏を中心に復興の活動を始め、その後同氏が監督に就任。終戦直後の45年10月に同志社大校友会各部総会があり、早くもフットボール部が復活して正式に校友会体育部のメンバーになり、翌46年には初めて校友会から1,800円の部費配分を受けた。校友会各部総会には河原健児氏(46年卒)、主務の三好氏が出席。以降戦前の部員と連絡を取り、戦後の初代主将となった伊藤荘造氏(48年卒)らとともに再建活動を行った。部員獲得にも熱が入り、秋には部員20人ほどになった。

●関学大は、前出の中谷一明氏(42年入学)、井床國夫氏、百々道夫氏(43年入学)を中心に再建を図り、新入部員の獲得は主に百々氏が担当。45年暮れには20人ほどの部員が集まり、練習が始まった。

 

[2]連盟の活動再開の状況

1.関西の連盟の活動再開

●戦後のフットボール活動再開は関西から

2月20日、関西3大学の代表が集まり、「関西米式蹴球連盟」を設立。会長に池尻浩三、理事長に松葉徳三郎の両氏が就任し、大阪市中央区高麗橋に事務所があった池尻会長の会社「日本物産」がしばらくの間、復員してきた各校OBの会合場所となった。

設立総会では、
(1) 関西米式蹴球連盟の設立
(2) 3大学米蹴部の速やかなる設立
(3) 3月中にOB対学生の公開試合を行う
(4) 防具の入手を米軍に交渉する
を決めた。

 

2.関東の連盟の活動再開

●関東は会場と防具の確保難で一歩出遅れた。関東連盟は3月19日、東京・お茶の水の岸記念体育会館に集まり、二世連合会を中心に早大・明大から各3人、立大・慶大から各5人、法大から2人、それに朝日新聞社の加納克亮前理事長を加え、連盟創立委員会(復活委員会)を結成。委員長に加納克亮氏が就任した。

●各大学のOBは積極的に部の再建を現役学生に働き掛けること、7月には復活後最初の試合の開催を目標とすることを決めた。まずは連盟再結成のための資金集めにOBクラブを設立し、入会金30円として会員を募るとともに、OBクラブ主催のダンスパーティーを開催し、収益金を連盟運営費用とするなど積極的な活動を行った。

●6月29日に井上素行氏を会長とした関東フットボール連盟が発足した。連盟事務所は理事の古谷義雄氏(1943年日大卒・日系二世)が勤務していた東京・丸の内の丸ビル5Fのコメット商会に置いた。当時は電力も不足しており、日本を代表とする丸ビルでも薄暗かったが、そこに理事が毎週1回集合して計画を練った。

●連盟発足時の部員数は早大20人、明大16人、立大16人、慶大19人、法大22人、日大11人の計104人。組織は発足したが、各校とも防具を十分に確保することができず、連盟はポール・ラッシュ博士の人脈を通じて22組の防具を入手して、連盟管理とし、試合ごとに対戦両チームに貸し出すという運用を行った。当初、7月のリーグ戦再開を計画しながら防具がそろわず、開催は大幅に遅れていたが、思いがけない形での第一戦(立教学院体育の日、後述)が実現した。

●装具費用捻出のために、フットボール部出身卒業生の団体であるA.F.C(American Football Club)主催でダンスパーティーを開催した。A.F.Cは当初、現役チームを財政的に支援する連絡組織だけであったが、1948年からは関東地区でOBチームを編成し、現役チームと対戦した。関西でも49年からチームを編成し、学生間のみの対戦だった活動を支援した。

 

[3]春の関西の試合

●関西での復活第一試合は、終戦から約7カ月後の3月21日に行われた西宮球技場での関西OB-関西学生。連盟役員に名を連ねた若手OBの熱意と経験で関西OBに一日の長があり、13-0で関西学生を下した。この試合が関東・関西通じて戦後初の試合で、1942年秋のリーグ戦を最後に途絶えていた試合が3年半ぶりに復活した。

●続いて4月6日には京大グラウンドで3月21日の試合と同じ関西OB-関西学生の対戦を行い、OB軍の坪井義男(関大OB)、茨木(慶大OB)、井床國男(関学大OB)、中野庸吉(慶大OB)の経験豊富なラインの技量もあり、24-0と関西OBが勝利した。

●復活第一回春季リーグ戦は各チームとも卒業生を含めた3大学で、4月21日に入場料3円で西宮球技場で開幕。全関大52-0全関学大、全関大13-0全同大、全関学大6-0全同大の結果となり、選手の半分をOBが占める全関大が戦後初、そしてリーグ誕生以来負け知らずの4連覇を飾った。

 

[4]秋の関東の試合

1.オープン戦の開催

●関東の各大学には戦時中も日本に残った二世の元選手も多く、慶大、早大、法大、日大などでも復活の動きがあり、立大はその中でも活動が活発だった法大を招いて試合を開催した。試合は11月18日、立教学院体育の日の行事として、駐留軍が接収して「ナイルキニック競技場」と名を変えた明治神宮外苑競技場で開催された。立大はHB大江力(四年)、倉橋新一(四年)の活躍で32-0で勝った。この試合が関東地区の戦後の初試合であった。

●この関東での戦後初試合を行った立大と法大は、比較的早くチーム体制が整っていた2校であり、試合で使用された両チームの防具は、ポール・ラッシュ博士が手配した米国製の新品だった。しかし、関東では、防具と会場の確保が十分にできなかったため、リーグ戦は開催できず、計4試合をオープン戦として行った。

日 付 スコア 会 場
11月18日 立 大 32-0 法 大 ナイルキニック競技場
11月26日 早 大 46-0 明 大 早大戸塚グラウンド
12月5日 慶 大 62-0 日 大 早大戸塚グラウンド
12月28日 慶 大 18-0 早 大 早大東伏見グラウンド

この結果、優勝チームは決められないものの、日系二世が比較的多くおり、用具も恵まれていた慶大が日大と早大を下して2勝したため、慶大が翌年春の「第1回甲子園ボウル」関東代表と後日決まった。

 

2.全関東紅白試合の開催

●関東ではシーズン終盤の12月22日、競技の解説パンフレットを配布するなど、普及を目的としたOBも含めた全関東紅白試合(紅軍:全慶・立・法、白軍:全早・明・日)をナイルキニック競技場で開催し、白軍が19-6で勝利した。この試合の映像は、NHKライブラリとして残されている。現存が確認されている日本フットボールの試合の映像としては、1934年の日本で最初の公式試合に続く2試合目の映像である。

また翌47年1月22日、シーズン最後の試合として全慶大-全早大をナイルキニック競技場で開催。両校応援団が訪れ、多数の観客も観戦した一戦は、1Qに全早大がセーフティーで2点を先制したが、2Qに全慶大が逆転し、全慶大が19-2で勝利した。秋の全チーム総当たりのリーグ戦は開催できなかったが、関東でも急速に本格的な活動再開の準備が整った。

 

[5]秋の関西の試合

1.関西学生リーグ戦の開催

●9月に入り、競技の名称も「鎧球」から昔懐かしい「アメリカンフットボール」に戻った。競技団体名も変更し、関西は「関西フットボール連盟」と改称。10月12日に秋季大学リーグ戦を西宮球技場で開始した。

開幕第1戦の関学大-関大は、関学大のパス攻撃が功を奏し、前半に挙げた13点を守り切って13-0で関大を破る殊勲の1勝を挙げた。春にOBも含めた試合で優勝した関大は、関西の大学との対戦で創部以来初の黒星を喫し、さらに同大にも12-13で敗れ、リーグ3位と思わぬ成績となった。

●優勝を懸けた関学大と同大の試合は2-2という大変珍しいスコアで引き分け。優勝決定戦として11月17日に再戦となった同大-関学大も0-0の再度の引き分けとなり、シーズン3度目の対戦となる12月7日の優勝決定再々試合で同大が7-2で勝利し、初優勝を飾った。

●関西ではこれらのリーグ戦中に関西OBチームとして、関西・関東の大学OBの関西在住者が、同大、関大、関西学生選抜と対戦した。関西OBは同大とは12-12の引き分けだったが、関大には51-6で、関西学生選抜に14-0でそれぞれ勝利した。OBも含めた関西学生リーグの復活支援だった。

 

2.第1回国民体育大会オープン競技としての参加

●11月2日、京都を主会場に開始された第1回国民体育大会にオープン競技としてフットボールも参加し、全関東対全関西の対抗戦を西宮球技場で開催した。秋のリーグ戦に備えて練習を重ねていた関西に対し、関東は戦後初めての試合かつ練習不足だったが、FB藤本武(慶大一年)が中央突破のTDで先制。3QにFB坪井義男(関大OB)からQB中野庸吉(慶大OB)へのパスで同点とし、7-7で引き分けた。

 

[6]高校における活動の開始

1.ピーター・オカダ氏の池田中、豊中中訪問

●タッチフットボールの旧制中学(現高校)への普及が早くも開始された。駐留米軍の後援で、関西ではピーター・オカダ氏が大阪の池田中、豊中中、奈良の奈良中を訪問。タッチフットボールの紹介と指導を行い、それを三隅珠一氏らが継承、支援した。現高校フットボールの始まりだった。

なお、韓国でもこの年、米軍の支援で培材高、普成高、輔仁高の3校でフットボール競技か開始されたが、継続できずに自然消滅した。韓国ではその後、1958年の成均館大の活動開始以降、競技の普及が始まった。期せずして日本・韓国で始まった高校のフットボール活動は、米国の両国に対する同じ教育方針があったのかもしれない。

 

2.日本で最初のタッチフットボール試合

●ピーター・オカダ氏の訪問で始まった中学フットボール。12月18日に日本で最初のタッチフットボールの試合が、西宮第二球技場で池田中と豊中中の間で開催され、豊中中が6-0で勝利した。1947年3月に、文部省がタッチフットボールを体育指導要領に取り入れ、4月に中央講習会を開催する前の活動だった。また47年4月13日の「第1回甲子園ボウル」では大学の試合に先立って両校の招待試合が行われ、豊中中が14-0で勝利した。

 

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●ボールのスナップは、QB以外のどのバックに対してボールを出してもよくなった。
●ボールがスナップされるときは、スクリメージ・ライン上の7人とセンターから手渡しでボールを受けるプレーヤー(QB)を除く攻撃側のプレーヤーは、ラインから1ヤード以上離れて位置しなければならなくなった。
●タイムアウトの回数は、前後半各チーム3回から4回になった。
●従来、ゲームの遅延(スナップまでに25秒超過)の反則の対象は、前後半のラスト2分以内であったが、試合中、いつでも適用されるようになった。
●パスを両チームのプレーヤーが同時キャッチした場合は、攻撃側のキャッチとなった。従来は、規定はなく、取り合いだった。
●1941年の変更で、フィールドに入ってきた交代選手は、フィールドキャプテンの承認を得てから味方と話すことができるようになったが、この制限が撤廃され、いつでも話すことができるようになった。

 

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終戦後1年余りでOB、現役のフットボールの復興に懸ける情熱は高く、さまざまな困難の中で着実に前進し始めた。他のスポーツに比べて米軍の協力も強く、フットボールの復興の動きは早かった。防具と装具はまだ十分ではなかったが、試合の開催、さらには東西の優勝校の対戦の計画も持ち上がってきた。