前年、関東、関西両地区での試合の再開でフットボールの復興が本格化。1947年は関東でも公式戦が再開され、また東西の優勝校による東西大学王座決定戦・甲子園ボウルが創設された。ただし、防具と装具はまだまだ不十分で、関東では協会で2組用意し、試合校に貸し出すなどの対応が取られた。
1947.01.01
お知らせ
甲子園ボウル誕生、第1回大会を慶大が制す。ライスボウル開催を決定、第1回大会を1948年1月に開催
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 3月31日
・ 4月2日 ・ 5月3日 ・10月4日 ・11月22日 ・ |
・教育基本法・学校教育法施行、六・三・三・四制スタート
・大日本体育会、アマチュア規定施行 ・日本国憲法施行 ・日本占領の英国軍、引揚げを発表 ・東京ラグビー場竣工(のちの秩父宮ラグビー場) ・学制改革:1947年~50年頃は、旧制中学と新制高校が混在 |
フットボール | ・ 1月22日
・ 3月 ・ 3月11~14日 ・ 4月13日 ・ 4月13日 ・10月18日 ・11月16日 ・ ・翌年1月1日 ・翌年1月17日 ・翌年1月17日 ・翌年1月25日 |
・接収中の甲子園球場に使用許可
・六・三学制改革、中高の体育必須科目としてタッチフットボールを採用 ・関東連盟・文部省、高校教師向けタッチフットボール講習会開催 ・第1回関西中学タッチフットボール決勝戦、豊中中が池田中を下す(甲子園球場) ・第1回甲子園ボウル、慶大が同大を下し第1回覇者 ・関東連盟、関東地区戦後初の公式戦、明大-立大(早大東伏見グラウンド) ・関西連盟、京大が加盟し4大学でリーグ戦開幕(西宮球技場) ・立大-同大定期戦開催 ・第2回甲子園ボウル、関大、明大を下し初優勝 ・復活東西大学選抜戦、第1回ライスボウル開催(ナイルキニック競技場) ・日本フットボール協会設立 ・第1回明大-関学大定期戦(甲子園球場) |
前年、関東、関西両地区での試合の再開でフットボールの復興が本格化。1947年は関東でも公式戦が再開され、また東西の優勝校による東西大学王座決定戦・甲子園ボウルが創設された。ただし、防具と装具はまだまだ不十分で、関東では協会で2組用意し、試合校に貸し出すなどの対応が取られた。
[1]主な出来事
1.京都大の創部
●1月、京都大一年の澤田久雄氏は、同大のグラウンドを訪問。同大伊藤荘造氏(1948年卒)と会い、同大より京大の創部に対する支援を受けた。澤田久雄氏は鈴木耀一氏、神田綽夫氏(46年入学)とともに8人ほどの部員で秋に活動開始した。初代監督には米軍のジョン・ピンカーマン氏が就任。部員には海軍兵学校出身者が多かった。ピンカーマン氏は14年生まれで当時33歳の米陸軍京都軍政部の陸軍総長。アンバランス・ラインのシングルウイング体型を採用し、初のリーグ戦となった48年秋季リーグ戦では同大を27-7で破った。全国優勝の関大には12-13で惜敗。ピンカーマン氏は2年間監督を務め京大フットボールの活動初期を指揮した。同氏は除隊後もジャーナリストとして活躍。帰国後も日本の外務省の招きなどの仕事で30余回来日し、多方面に貢献した。
[2]甲子園ボウルの誕生
1.東西王座決定戦創設の動き
●戦後、いち早く復興の活動を始めた同大OBは、1942年主将の三浦清氏が復員して監督に就任。同氏は戦前盛んに交流していた慶大との対戦を企画し、当時関学大監督で関西フットボール連盟書記長だった井床國夫氏に相談し、毎日新聞社に支援を依頼することとなった。
毎日新聞社は、日本で最初の公式試合(1934年11月29日、東京学生選抜-YC&AC)から3か月後の35年1月13日、関西で初のアメリカンフットボールの紹介試合として明大-早大を甲子園南運動場で開催するなど、戦前の関西地区のフットボール活動を支援してきた新聞社であった。
●毎日新聞大阪本社では当時代表兼編集局長の本田親男氏からフットボールの大試合の企画が持ち上がり、運動部が具体的な検討をすることとなり、当時運動部副部長で米国フットボールの状況に詳しい中出輝彦氏(京大ラグビー部OB)を中心に企画が練られていた。中出氏から「東西のナンバーワンの対戦にしてはどうか」との提案がなされ、米国の「ボウルゲーム」からすり鉢状の甲子園球場を使用した東西の大学優勝校の招待試合を開催することとなった。
ちょうどこの年1月22日、駐留軍接収の甲子園球場で一般の試合を行うために使用することが許可された。この試合の担当者として、葉室鐵夫氏に白羽の矢が当たった。同氏は日大時代の1936年にベルリン五輪の競泳男子二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、当時入社1年目の若手記者だった。水泳担当だったが、「冬は暇だろう」との理由で、フットボール担当となった。また、試合開催には米軍からさまざまな支援を受けたが、その交渉は毎日新聞大阪本社の社会部員、今村得之氏が当たった。同氏はハワイ生まれの日系二世で、ハーバード大で学んだ後に慶大に留学。フットボール部員として36年、東京学生連盟が米国に派遣した全日本チームの一員だった。
2.甲子園ボウルの誕生
●同大からの働き掛けが先か、毎日新聞社の企画が先かは不明だが、ともかく企画から開催まで短期間ながらも日本フットボール連盟(戦後から1960年までは、「アメリカン」が入らない単に「日本フットボール連盟」の名称だった。サッカー、ラグビーを含む「フットボール」の名称使用は、おそらく自国で「フットボール」とこのスポーツを呼んでいた進駐軍からの示唆があったものと思われる)、毎日新聞社によるアメリカンフットボール大会「毎日甲子園バウル」として開催することになった。当初は同大-慶大の戦前の交流戦の再開から持ち上がった対戦だったが、同大は46年に関西学生リーグで優勝し、慶大もリーグ戦ではなかったが関東の大学のオープン戦で2勝無敗と1位に相当する成績であったことから、ちょうど東西の優勝校の対戦と言ってもいい顔合わせだった。
大会名称はBOWLの発音に近付けた「毎日甲子園バウル」となった。ただ、「ball」と「bowl」が混同され、広告媒体などでは「日本アメリカンフットバウル協会」、「大学アメリカンフットバウル‥‥」と表記されたこともあった。かくして関東代表の慶大は、14時間かけて試合前日の13時に大阪に着き、毎日新聞社を訪問。同大と試合のルールを確認し、その日は甲子園球場の2階和室に宿泊し、試合に臨んだ。
●プログラムには、当日の進行が次のように紹介された。(原文のまま)
大 會 順 序 |
|
(1)入場式 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ | 10.30 |
役員、豊中、池中、同大、慶大 | |
(2)開会式 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ | 10.35 |
(イ)開会辭‥‥‥‥‥‥‥‥‥司会者 | |
(ロ)フットボール聯盟 ‥‥‥ | |
(ハ)進駐軍‥‥‥‥‥‥‥‥‥ | |
(ニ)毎日新聞社‥‥‥‥‥‥‥ | |
(ホ)退場‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ | 10.55 |
(3)進駐軍樂隊演奏‥‥‥‥‥‥‥‥ | 11.00 |
同 終了 | 11.20 |
(4)豊中中学対池田中学試合‥‥‥‥ | 11.30 |
終了 | 12.40 |
(5)米式蹴球戰技解説演技‥(慶大)(同大) | 0.40 |
終了 | 1.00 |
(6)同志社大学対慶応大学試合‥‥‥ | 1.00 |
3.第1回甲子園ボウル開催
●試合日の4月13日、うららかな春の陽光が射す甲子園球場。慶大(コーチ:島本忠治氏、選手19人)-同大(コーチ:田中佐久男氏:選手22人)の試合は、観客は700人だったが、米軍第25師団軍楽隊の演奏が雰囲気を盛り上げた。米国の関係者は、当時米国で大観衆の中で行われるフットボールの試合にわずか700人しか集まらなかったことにちょっと驚いたとのことだった。大学戦に先立ち、タッチフットボールの公式戦(関西中等学校大会)決勝が行われ、豊中中が池田中を14-0で下した。
●大学戦は13時に開始。慶大がシングルウイング体型からともに日系二世のQB服部太郎(二年)、FB藤本武(一年)の日系米国人留学生と快足HB白井正之(二年)が活躍。1Q、藤本が同大ゴール前8ヤードから俊足を生かして甲子園ボウル第1号のTDを挙げた。慶大はライン戦でも圧倒し、4Qには同大の疲労もあって45-0で圧勝した。試合中は、東京の後楽園球場から招かれた当時野球の名解説者として評判だった江藤震一氏がスマートな名調子でプレーごとに逐次解説し、観客に競技を説明した。
試合後、米軍第25師団から寄贈されたウイニングボールが、慶大RE菱田茂主将に手渡された。なお、この日は4Qになると甲子園球場を使用する予約を先に取っていたプロボクシングの試合が内野側で始まった。こちらの観客は1,000人弱だった。
●慶大は試合当日夜は毎日新聞社講堂に泊まり、翌日の大阪駅6時発東京行きで帰京した。なお、甲子園ボウルが東西の大学の王座を決定する試合として位置付けられたのは、関東が秋のリーグ戦を再開した1947年開催の第2回甲子園ボウルからであった。試合のタイトルは、第2回が「東西大学両リーグの優勝校試合」、第3回大会が「東西大学1位決定戦」、第4~6回が「全日本大学王座決定戦」、第7回からは以降も続く「東西大学王座決定戦」となった。
「第1回甲子園ボウル」の結果を伝える翌日の毎日新聞の記事は写真1枚付で記事は22行。開会式や解説演技など試合以外のことが大半で、試合については「午後1時から関西、関東両リーグに優勝した同志社大と慶大の試合が行われ午後2時半終了したが、結局慶大が勝ち湯浅本社運動部長より優勝盾を授与した」と簡単な内容が掲載されただけだった。まだ物資が不十分な時代であり、大手新聞社の新聞もタブロイド判(現在の新聞紙の半分の大きさ)表裏の2ページだったので、詳しい記事の掲載は無理だった。
[3]再開に向けた1947年春の活動
●5月29日、関東フットボール連盟の総会で会長に加納克亮氏が就任し、この年からリーグ戦開幕を目標に前進することになった。それと同時に米軍を当てにしていた用具の入手が不可能となったため、国内で製作することが必要になった。そこで東京・神田小川町の日本屋運動具店で作ることにしたが、当時は物資不足の折、戦前のような皮革を使用することはできず、その代用としてゴムとフェルトを使った不充分のものであったが、それを採用することになった。
それでも、一式が約5,000円と当時としては破格だった。その用具と米軍払い下げの用具でその年のリーグ戦を開催することができた。試合会場は明治神宮外苑競技場を予定していたが、接収していた米軍の許可が必要なためスケジュールを米軍に提出したが、米軍が使用するため借りることが不可能になり、急きょ各校のグラウンドを使用した。
●立大は合宿費を稼ぐために部員全員が宝くじを東京・銀座や上野、浅草で販売し、ジャガイモや闇米を何とか工面して茨城・竜ケ崎で戦後初の合宿を行った。合宿では一晩中のみや蚊の攻撃を受けて防御できず、昼は小学校の運動場のコンクリートのようなグラウンドで身体中擦り傷や捻挫で苦しめられるなど、終戦直後のフットボール活動は苦労と困難の連続だった。
●米国のフットボールの最新動向や技術は、米国の書籍から情報を得た。古本屋での購入のほか、各地の米国民間情報教育局(CIE)図書館(後のアメリカ文化センター)の利用、極東放送網(FEN)の受信などで最新情報を入手した。
[4]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●何もない時代で、ヘルメット、ショルダー、ジャージ、パンツ、ストッキング、スパイクなどフットボールの装具も多くが身の回りの品々で代用された。ジャージは普段着の大きなシャツ、ショルダーには布切れや座布団、綿製品を使用し、スパイクはズック靴や払下げの軍靴、ヒップバッドには雑誌や剣道の胴着を使用することもあった。
●ジャージは外部に制作を依頼するのではなく、炭火の七輪に石油缶を乗せ、酸っぱい独特の臭いの中で、白いトレーナーを入れてチームの色に染め上げる場合もあった。スパイク相当は旧陸軍の軍靴を靴屋に持ち込み、鉄板を抜いて代わりにラグビーのポイントを打ってもらったりした。アイスホッケーの靴を改造した場合もあったが、これは当時は高級品だった。
●ショルダーは1センチもある厚革に分厚いフェルトで裏打ちした重い鎧のようなもので、これは雨中では水を吸い、さらに重くなった。ボールも入手困難で、形式も古く、空気調整は開口部の革ひもを解いてチューブの口を取り出し空気を注入し、終わればニードルで革ひもを締めるというやっかいなものだった。しかし入手困難な時代のため、大切に扱い、寿命を延ばすためポマードを塗って使用した。長年の使用で変形したボールも多かった。
●時期は不明だが、戦後間もない頃、米軍放出品を販売していた神戸・元町の「サトーブラザーズ」(佐藤昇氏ら4兄弟で運営)が取り扱い品の一部として米軍放出のフットボール関係の防具・装具を販売していた。同社は米軍放出のバーベル、ダンベル、ボクシング用品にカナダ軍放出のアイスホッケー用具も販売していた。関西のチームはもとより、関東のチームも遠征時に同店を訪問し、物資の少ない中で装具類を調達した。その貢献で佐藤昇氏ら兄弟は、1996年6月16日の第40回神戸ボウルで関西連盟より表彰された。
●関東学生連盟は2チーム分の防具を揃え、対戦する両チームに貸与し、その試合が終わると次の第2試合の対戦チームがそれを使用するという運用を行った。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●インバウンズラインは、サイドラインから15ヤード(45フィート)だったが、54フィート4インチになった(グラウンドをちょうど3等分)。
●プレーヤーの番号は、NCAA規則委員会によって次のようにすることが強く要請された。
エンド:80番台、タックル:70番台、ガード:60番台、センター:50番台、バックス:10~49番。
●計時中(ゲームクロックが動いているとき)、1人のプレーヤーが交代できるようになった。従来、交代は計時停止中(パス不成功、第1ダウン獲得など)のみ可能だった。
●前腕を使用して相手に打撃を加えることは反則となった。
[5]関東大学リーグ戦
●春季にオープン戦形式で数試合が行われた関東では、秋には戦後第1回の総当たりのリーグ戦を開催することとし、隔週で連盟理事会を開催して準備を進めた。
●そして、秋には待望の関東大学連盟戦後初の6校総当たりのリーグ戦を開催した。10月18日に早大東伏見グラウンドの明大-立大で開幕。明大が27-12で戦後の関東最初の公式戦に勝利した。
シーズン終盤の12月20日にそれまで全勝の明大(4勝)と慶大(3勝)がナイルキニック競技場で対戦。花岡惇コーチの好采配の明大と前年覇者の慶大と、優勝争いに影響する対戦となり、明大が3QにTDを挙げて試合終了間際までリードし、会場を後にする観客も出始めた。しかし、慶大は終了40秒前にフィールド中央、エンドゾーンまであと45ヤードの地点からの攻撃で、左腕FB藤本武(一年)が投じたパスは明大ゴールライン左隅に飛び、E太田裕之(一年)の腕に吸い込まれると、太田裕之はそのまま2、3歩進んでTDし、慶大が追い付いた。しかし、同点後のTFPのキックが失敗し、6-6の引き分けに。この試合に勝てば優勝が決まる明大は4勝1分けでシーズンを終え、優勝争いは次週の早慶戦に持ち越された。
●12月25日に開催されたリーグ最終戦の早慶戦。前半は両チーム無得点だったが3Qに慶大はいずれも藤本武(一年)が絡むパスで立て続けに2TDを挙げて早大を引き離した。その後、慶大が1軍選手をベンチに下げたためか、早大の奥田隆英(四年)のパスが決まり始める。最後は慶大の藤本のパスを早大の奥田がインターセプトしてそのままTDし、早大が13-12で大番狂わせの勝利を挙げた。
この結果、慶大が3勝1敗1分けとなり、4勝1分けの明大が戦後初優勝を遂げた。慶大は勝利を確信し、控え選手を起用したことが裏目に出た形だった。これで1943年の中断から5シーズンぶりの関東の公式戦全日程が終了。翌48年1月1日開催の「第2回甲子園ボウル」まで10日余りしかなく、明大はその準備で忙しい毎日を送った。
●戦後のフットボール復興に現役チームを資金面などで支援した各大学OBが組織するA.F.C(American Football Club)は、チームを編成して試合も行ったが、11月22日に日大下高井戸グラウンドで慶大と対戦し、45-0で勝利。12月25日には明治神宮外苑競技場で明大・法大連合チームと対戦し、14-6で勝利と、OBが強い時代だった。
[6]関西大学リーグ戦
●関西学生リーグは京大が加盟し、4大学となって11月16日から西宮球技場で開催。4校総当たりのリーグ戦は11月16日、同22日、12月7日に各2試合の開催で行われた。
開幕日の2試合は、第1試合で新加盟京大がデビューし、関学大と対戦。関学大が38-0で勝利した。2試合目は関大が21-0で同大を下した。第2節の関大-京大は京大が健闘。このシーズンの優勝校となる関大に1点差(12-13)に迫ったが、関大が2勝目。2試合目の同大-関学大は同大が30-16で快勝した。最終節の12月7日は京大が前年度優勝チームの同大に27-7で勝利し、関大は関学大を20-0で下した。
●関大はT井原勇雄(二年)、G勝部秀一(二年)らのライン力とHB北尾郁之介(三年)を筆頭とする大西博史(二年)、大内昭吾(一年)、小向らバック陣の活躍で3戦全勝優勝。関西フットボールのルーツ校、そして戦前、関西で無敗だった関大が復活し、甲子園ボウルの出場権を得た。
[7]第2回甲子園ボウル
●ともに初出場の関大と明大の対戦となった「第2回甲子園ボウル」は、1948年1月1日、寒風吹き粉雪が舞う中で開催された。オープンプレーが好調な関大は、2QにQB羽間平安(二年)からRH北尾郁之介(三年)へのロングパスで明大陣5ヤードに進み、続いて大西博史(二年)のオフタックルでTD。このTDを守り切って6-0で勝利し、創部13年目で宿願だった全国初制覇を遂げた。
関大のこの決勝TDは、ラインとバックスが目まぐるしく入れ替わるスペシャルプレー「シフトフォーメーション」によるもので、明大があっけに取られている一瞬の隙を突いたものだった。後半、明大はラインが関大と互角に渡り合い、FB内山孝(学部三年、主将)の中央突破、LH斎藤耕一(予科三年)の小気味よいエンドランなどで進んだが、あと一歩ゴールラインに届かなかった。
●明大の関西遠征は、この頃まだ戦後の混乱が続いており、特急や急行がない当時の交通事情で、急に決定したもの。花岡惇監督がなんとかGHQに手配し、当時の進駐軍専用車両を1両手配。12月30日の午後に東京発で、翌31日6時に大阪着。そして1月1日の試合後は夜行で帰京という2夜行車中泊、0旅館泊の足掛け3日の強行軍だった。明大の関東大学リーグ優勝決定は、甲子園ボウルの10日前。通信事情が悪いこの時代、関東代表の明大の校名とメンバー表は、甲子園ボウルのプログラムの印刷に間に合わず、その部分だけ白紙だった。
●なお、10月21日からの第2回国民体育大会でフットボールが正式種目となったが、食糧事情などにより東軍が棄権し不参加。そのために、翌年以降国体種目から除外となった。ただし、この国体では池田中-豊中中の模範試合が行われ、18-18で引き分けた。
[8]第1回ライスボウル
1.「ライスボウル」の誕生まで
●1946年11月、関東大学連盟に関西学生連盟と毎日新聞社から47年元日に東西の優勝校の対抗王座決定戦(「甲子園ボウル」)を開催したいとの連絡があった(実際は「第1回甲子園ボウル」は47年4月13日に開催)。関東大学連盟として、これに賛成する回答をしたが、東京でも戦前に行われていた東西選抜対抗戦(オールスター戦)再開の計画を持っていた。関西チームが上京してくる旅費や宿泊費、その他で当時25,000円ほどの出費が必要であったが、その頃発刊したばかりの日刊スポーツの有馬直記者が試合や各校の練習を見に来ていたため、関東大学連盟は同記者を12月の会合に呼び、趣旨を説明して後援を依頼した。有馬直記者は、社長に相談してみようとのことで、後日、秋山社長と相談の結果、後援を引き受けようとの返事を得た。
日本協会は、主催権はあくまでも連盟にあり、後援依頼だけを強く要望すると、それも了解してくれた。しかし準備の時間も少なく、元日には「甲子園ボウル」が決定しているため、やむを得ず1948年1月17日にナイルキニック競技場(明治神宮外苑競技場)予定として、日刊スポーツ社と共同で準備に掛かった。まず、米軍に競技場の使用の交渉し、許諾を得た。出場選手はリーグ戦終了後にオールスター軍を戦前のように選出し、それを中心にチームを編成。監督、コーチの選出、その他ポスターなどでの宣伝と多忙な日が続いた。
そして、この競技会に何か名称を付けようと考えた。進駐軍では「ライスボウル」という名称で、既に米軍の極東選手権試合を行っていたが、戦前、東西選抜対抗戦を米国のある新聞が「日本でも正月にボウルゲームを行っている。日本は米を主食としている国だからさしずめ『ライスボウル』とでも云うのではなかろうか」という記事を掲載していため、進駐軍に確認したところ、同じでもよいということで「ライスボウル」の名称となった。
●日刊スポーツでは、「米軍ライスボウル」で韓国から来日した朝鮮進駐軍第7軍のコーチでミシガン大選手だったラルフ・ストライプ軍曹を招いて連盟理事との座談会を記事にして掲載するなど、年末から紙面を大きく割いて報道した。
2.第1回ライスボウル
●開会式で「Here we are again(我ら再びここに相集いました)」と、13年前に日本フットボールの生みの親となったポール・ラッシュ博士の挨拶と始球式で試合開始。主審は沖健吉、審判員は安田實、花岡惇、川島治雄の各氏であった。復活が早く、3週間前の甲子園ボウルで明大を下した関大勢中心の関西と、藤本武(慶大一年)、内山(明大)と個人技のあるバックス豊富な関東は五分五分と見られた。
●先手を取ったのは関西。大西博史(関大二年)のパスを捕球したQB羽間平安(関大二年)が好走してTD。関東がLH佐藤一、RH町田与助(三年)の日大勢の50ヤードパスでTDし、佐藤のトライ成功で逆転すると、関西は巨漢E井床由夫(関学大二年)が独走で再逆転と、1Qは関西が13-12でリードする熱戦となった。
しかし、後半に入ると関東の重量ラインが押し勝ち、藤本の40ヤード、HB”超特急”白井正之(慶大四年)のインターセプト、QB山脇正雄(法大四年)の好リードもあって、関東が33-12で圧勝。関東のコーチ陣、井上素行(早大出)、島クラレンス(立大出)の好采配もあり、戦前の東西選抜対抗試合から通算5連勝とした。観客も当時としては大変な数の6,000人が集まり、大会は大成功だった。
●この「ライスボウル」は戦前に4回開催された「東西選抜対抗試合」を継承するもので、この試合も「米蹴 東西学生オールスター対抗戦 (「復活第1回ライスボウル」)」として戦前の試合と関連付ける試合の名称であった。戦前の「東西選抜対抗試合」は大学戦にOBも加えたチーム編成(ちょうど1954年に創設された「西宮ボウル」と同じ)だったが、戦後の「復活ライスボウル」は現役学生のみのチーム編成として発足した。なお、大学戦に先立って「東西中等對抗タッチフットボール戦」として奈良中学(後の奈良高)-都立六中(後の都立新宿高)の試合が行われた。
●この「ライスボウル」のゲーム終了後、東西連盟の役員が会合し、懸案となっていた「日本フットボール協会」の再建を決定した。本部は日本体育協会との関係上、東京に置いて理事長も関東大学連盟から出すことになり、戦後初代の理事長(通期第2代)として関東大学連盟の理事長を務めていた服部慎吾氏が就任した。
[9]高校タッチフットボールの活動
●六・三制への学制改革が決定し、文部省がタッチフットボールを体育指導要領に取り上げ、各地で講習会を開催した。関東大学連盟は文部省と共同主催、朝日新聞社後援で、3月11~14日に関東、甲信越を中心に東北、北海道を含む東日本全体から130人の中・高体育教師を集めてタッチフットボールの講習会を行い、関西でも奈良県で中央講習会が開催された。
3月、「文部省学校体育指導要綱教材伝達中央講習会要目改正にともなう講習会」(奈良橿原競技場)に滋賀県から奥原直助氏ほか数人が受講。同月、滋賀県内で同県の学校の体育教師に対して伝達講習会を奥川氏を講師に開催した。同県では4月の民主体育研究協会で体育研究スケジュールを決定し、彦根中学校球技研究部を創設した。
また、5月には大阪の中百舌鳥競技場で文部省の体育実技伝達講習会が開かれ、タッチフットボールが多くの体育教師に紹介された。
●10月、滋賀県立彦根中学校に同県初のタッチフットボール部が結成され、12月の全関西中学校タッチフットボール大会に彦根中学校が出場し、大阪府立池田中学校に惜敗した。
●数年後にタッチフットボールは必修課目から除外されたが、高校フットボールの基盤はこの時期に形成された。前述の通り、11月1日の第2回国民体育大会(金沢)では池田中と豊中中の模範試合が行われ、18-18で引き分けの好試合を展開した。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「終戦後の混乱のため、戦前よりプレーをしていた小生がプレーイング・マネジャーで切り盛りしました。甲子園では、新フォーメーションのシュートアンドシュート(現在ではルール違反だと思います)により唯一のTDが印象的」 (関西大1949年卒HB 北尾郁之介)
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前年の関東の試合、関西での公式戦の再開を受けて、4月に「第1回アメリカンフットボール大会・東西大学王座決定戦甲子園ボウル」が開催され、秋の公式戦の結果で翌1948年元日に第2回大会が開催。東西学生選抜戦の創設、高校フットボールの始動など、戦後フットボールの本格的再開の年となった。