ボウルゲームの誕生とともに各大学チームの活動が日常となってきた。また米軍関係者の普及活動支援、文部省の体育教科への取り込みにより、高校における活動も動き始めた。一方、競技活動開始から15年、法大・神谷博選手が亡くなり試合中の事故による初めての犠牲者となった。フットボールと安全が初めて検討された。
1948.01.01
お知らせ
慶大、甲子園ボウルで2回目の優勝。関東でも高校の活動開始、高校日本一決定戦が始まる
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 1月1日
・ 1月4日 ・ 4月7日 ・ 5月15日 ・ 6月28日 ・11月13日 ・12月10日 |
・関税および貿易に関する一般協定(GATT)発効
・日米国際電話再開 ・世界保健機関(WHO)設立 ・第一次中東戦争勃発 ・全国高等学校体育連盟(高体連)発足 ・大日本体育会が「日本体育協会」に改称 ・国際連合、世界人権宣言を採択 |
フットボール | ・ 4月
・春 ・秋 ・11月21日 ・翌年1月2日 ・翌年1月9日 ・翌年1月9日 ・翌年1月22日 ・ |
・文部省体育指導要領中央講習会でタッチフットボールが体育教材に
・関西、4大学に関西OB、甲南高(後の甲南大)を加えトーナメント開催 ・関東高校6校によるトーナメント開催 ・法大・神谷博選手、試合中の脳傷害で初の死亡事故 ・第2回ライスボウル、関東選抜が連覇 ・第1回東西高校タッチフットボール王座決定戦、池田高が麻布高を下す(甲子園球場) ・第3回甲子園ボウル、慶大が関大を下し2回目の優勝 ・名古屋バウル、関学大-明大(瑞穂競技場) ・初の実業団チーム、アンドリウス商会活動開始 |
ボウルゲームの誕生とともに各大学チームの活動が日常となってきた。また米軍関係者の普及活動支援、文部省の体育教科への取り込みにより、高校における活動も動き始めた。一方、競技活動開始から15年、法大・神谷博選手が亡くなり試合中の事故による初めての犠牲者となった。フットボールと安全が初めて検討された。
[1]主な出来事
1.グラウンドの確保
●終戦後の物資不足や社会的混乱が続く1948年度、関東連盟はその本拠グラウンドとして、戦前に使用していた「芝パーク競技場」(「芝公園運動競技場」から改称)の使用を開始した。石が多いグラウンドで、戦前の35年に当時の東京学生連盟の役員・選手が整備し、2年間公式戦で使用していた。その後、戦時対応で高射砲陣地となり、荒れていた。この年の作業は35年と同様、連盟関係者や学生部員総勢200人で、高射砲を支えた頑丈な台座の撤去、大小の岩石の除去などを行った。大変な作業だった。米国人から「日本の選手は敵と戦う以前に、こういうグラウンドでプレーすること自体、大変勇気がある」と変な誉められ方をしたという。新制高校や大学生の部員らがひと夏かけて掘り起こし、荒れ果てた土地を整備した。関西では、復活第一戦から西宮球技場を本拠地として使用した。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●この頃は多くのチームが戦災で焼け残った防具を修理し、または手製のものを使用していた時代。関学大では米軍神戸基地軍属のロー氏がときおり来校して週1、2度のコーチをするとともに、11月27日の同大戦の前に、米軍使用済みの米国製防具を大型ジープに満載して提供するなど、関学大の部活動に大きな支援をした。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●計時停止中ならば、25秒計が動いていても(レフリーのレディフォープレーの後でも)、1人のプレーヤーの交代が可能になった。
●さらにチーム確保の変更後ならば、交代人数に関する制限はなくなった(攻・守専任の2プラトーンが可能になった)
[3]春季試合
1.関西6チームのトーナメント戦
●関西では春季に加盟4大学に加え、関西OBチーム、甲南高(旧制・現甲南大)の計6チームによるトーナメント大会を実施。関学大がQB米田満(二年)、FB徳永義雄(旧三年)、E井床由夫(二年)の活躍で甲南高、関西OB、関大、同大を連破して優勝した。
[4]関東・秋のリーグ戦
●この年の関東学生リーグ戦は、芝パーク競技場とナイルキニック競技場を使用して開催。10月9日に明大―立大で開幕したリーグ戦で注目を浴びたのは、シングルとダブルのウイング体型だけだった日本で最初にT体型を披露した早大だった。日系二世の鳴海米生コーチの指導による採用で、未消化に終わったが、シーズン終了後のライスボウルでも全関東がT体型攻法を採用して関西を混乱させた。
法大は主将の山脇正雄(弟・四年)を核に山脇(兄)、米村克人、村田とバック陣の充実で、慶明の二強に割り込むと見られたが、主力の負傷で低迷。さらに法大にとっての最終戦となった11月21日の日大戦では、QB神谷博(二年)がボールを受けたラン中にタックルを受け、脳神経を痛めて病院に緊急搬送。当初は身体が動かないものの意識はあり、試合の結果などを聞いていたが、翌22日に死去するという日本フットボール界初の犠牲者を出してしまった。緊急理事会の調査で突発的な事故と断定されたが、翌12月にカリフォルニア州大学体育協会のコーチ協会ルール委員会から、事故の詳細な報告書の提出を求められた。その調査項目は細かく、事故の状況や使用していた防具、事故後の処置など16項目に及んだ。関東連盟ではこの調査に感謝し、質問への回答を送付した。この報告書の質問は、日本のフットボール活動の安全管理の観点から大変参考になり、その後、健康管理の徹底を見習う方針を決定した。
●2年連続優勝争いとなった慶明戦には、慶大の選手たちが神谷博選手を追悼して法大のユニフォームを着用して出場した。T渡辺光章(二年)、C多田祥太郎(二年)、G星敬(二年)を並べた重量ラインを生かし、QB服部太郎(二年)のリバースでTD。トライも藤本武(二年)がE太田裕之(三年)にパスを成功させて7-0。2Qに明大がFB山下からE小林へのTDパスで7-6と迫ったが、後半は慶大・藤本、明大・内山の走り合いの末、4Qに藤本がオフタックルを突いてのTDで追加点挙げた慶大が明大の猛反撃を振り切り、関東リーグ初優勝を遂げた。優勝慶大(5勝)、2位明大(4勝1敗)、3位早大(3勝2敗)、4位立大(2勝3敗)、5位日大(1勝4敗)、6位法大(5敗)となった。
[5]関西・秋のリーグ戦
●関西4大学による秋季リーグは、和歌山や奈良(奈良春日公園)まで試合会場を拡大して開催。関学大と関大がともに全勝で、最終日の12月4日に西宮球技場で両者が対決した。関学大がHB平野誠二(旧三年)からE中村泰幸(二年)へのパスで先制すると、関大が2QにQB羽間平安(三年)の強引な中央突破で同点に追い付き、そのまま6-6の引き分けとなった。
●12月13日にやはり西宮球技場で開催された再試合(優勝決定戦)も関学大が徳永義雄(旧三年)の52ヤード独走で先制したが、関大はQB羽間平安(三年)がランで2TDを挙げ、さらに30ヤードのインターセプトリターンTDなどで25-6で勝利し、2年連続の王座に就いた。1位関大(優勝、2勝1分)、同1位関学大(2勝1分)、3位同大(1勝2敗)、4位京大(3敗)
[6]社会人の活動
●関東で、立大1939年卒の西島威氏を中心にアンドリウス商会(横浜の機械・自動車商社)がチームを設立し、初めて実業団としてオープン参加で登場。この年、立大OBのメンバーも加えて立大と対戦した。またアンドリウス商会は、関西在住の各大学のOBチームであるA.F.Cと対戦し、0-19で敗れた。社会人チームは戦前の6人制ではビクター、三洋商会が活動していたが、11人制フットボールでは日本初の社会人・実業団チームだった。同社の経営陣はYC&ACの有力会員であり、その関係からチーム創設に熱心に取り組んだ。また同社は日本チームへの支援にも積極的で、立大にユニフォームや防具を寄贈した。
[7]第3回甲子園ボウル
●1949年1月9日、ライスボウルの1週間後に開催された「第3回甲子園ボウル」は慶大と関大の対戦となり、好天無風の絶好の条件で接戦となった。慶大は強力ラインを前面としたT攻撃体型で優勢に試合を進めるが、要のQB服部太郎(二年)が欠場で好機を生かし切れない。しかし、2QにFB藤本武(三年)からHB田中早苗(一年)のリバースでTDし、トライも成功し7-0となってからはペースを握った。藤本の豪快な中央突破を中心に攻め、3Q終了間際に藤本からE太田裕之(三年)へのTDパスが決まり、トライも成功して14-0。4Qには関大のシングルウイング体型からのFB大西博史(三年)の中央突破の独走TDで開始した猛反撃を、藤本の80ヤードのパントなどで抑え、14-7で勝利して2度目の王座に就いた。この試合、慶大の藤本は2TDに絡むプレーやパントリターンなど、激しい関大のタックルを受けて、顔面血だらけになりながらも大活躍(試合後に鼻骨損傷ならびに口腔全部裂傷の診断)。関大は慶大のパスをかなり封じたが、ラインプレーを防ぎ切れなかった。
[8]第2回ライスボウル
●「第2回ライスボウル」は久しぶりに晴れ渡った1949年1月2日、ナイルキニック競技場に10,000人の観客を集めて行われた。関東のヘッドコーチ(ヘッドコーチ)は井上素行氏で、関西は坪井義男氏が率いた。関東は新戦法のT体型を試験的に使用した。それまではウイングバック、ダブルウイング体型からのパワープレーが中心で、QBの後方でバックスが交錯するランプレーは、初めて見る者にとっては複雑なものだった。
このT体型攻撃を展開する関東は関西を翻弄。1Q3分にQB山脇正雄(法大四年)の50ヤードのパントリターンTDで先制。以降もFB杉原克昆(立大二年)、LH河西和泉(早大一年)、渡辺行庸(早大二年)にFB藤本武(慶大三年)、内山孝(明大二年)を加えたバックが走り回り、大型ラインは関西のオープンプレーを完全に封じ込め、52-0と完勝し、関東の層の厚さを見せつけた。当時、この「ライスボウル」は戦前の1938年3月に第1回が行われた東西選抜対抗試合(戦前4回開催され、関東の4勝)の後継ボウルゲームとの認識が強く、第1回大会に続く関東の勝利で、試合翌日の新聞では「関東6連覇」と報道された。
[9]その他のボウルゲーム
●甲子園ボウルの3週間後の1949年1月22日には名古屋の瑞穂運動場で「第1回毎日名古屋バウル(第2回明大-関学大定期戦)」として明大と関学大が対戦、関学大が19-6で勝利を飾った。東海地区では35年に来日中の全米学生チームが4月 3日に名古屋鶴舞公園運動場で紅青戦を開催したが、それに続く戦後初のフットボール試合だった。多くの観客がフットボール観戦は初めてのことであり、大会プログラムには、簡単かつ整理された競技説明が掲載された。この試合は名古屋地区での最初のボウルゲームで、日本全国にフットボールを普及するための日本協会の活動として開催したが、その後の展開は進まず、東海地区にチームが誕生するには、あと20数年待たなければならなかった。
[10]高校タッチフットボールの活動
1.高校・関東の活動
●4月、旧制中学から新制高校に変わっていく中で、春頃から関東でもタッチフットボールの活動が数校で始まった。以前から米軍の支援や講習会の実施を受けた結果の活動開始だった。また日大と明大の学生による高校向けの講習会が、当時東京・幡ヶ谷にあった日体大グラウンドで開催され、急速に活動が活発になっていった。5月10日には麻布高と都立府中農林高(現都立農業高)が対戦した。10月9日に大学の開幕戦と関東の高校の初のリーグ戦が、芝パーク競技場(戦前使用していた芝公園運動競技場)で開幕。高校は麻布高、都立九段高、都立六高(現都立新宿校)、都立十中(現都立西高)、都立府中農林高、慶応高の6校で12時半から開会式を挙行した。関東高校の最初の公式戦、麻布高-慶応高が行われ、麻布高が40-0で勝利した。麻布高が5戦全勝で優勝、2位は4勝1敗の都立十高だった。この年の関東の高校試合はリーグ戦形式で行われて1956年まで続き、57年からはトーナメント方式となった。
2.高校・関西の活動
●関西ではこの年、関学高タッチフットボール部が創部し、第1回関西高校タッチフットボール大会を開催して府立池田高が優勝した。この年に京都府と山口県も関西高校タッチフットボールの組織に加盟した。
また、甲子園ボウルで高校日本一決定戦の同時が始まり、第1回は府立池田高(大阪)が麻布高(東京)を下し、初の高校王座に就いた。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●リーグ戦の思い出
「交通、食事の状況が悪く各選手は大変苦労した。ユニフォームも米軍の下着シャツを二世の先輩にもらい、それを集めて試合をするという大変貧しい格好だった。」(1949年明治大卒・FB・主将・内山孝)
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戦争を挟みいろいろな困難を乗り越え15年の活動を続けてきたが、ついにフットボール活動での最初の犠牲者を出してしまった。日本での競技活動前は、米国では多くの死傷者が発生するスポーツとして報じられていたが、14年の活動でそれが払しょくされていたこの頃の事故で、競技活動や運営に大きな警鐘が鳴らされた。これまで、社会人チームは、大学のOBが集まってチームを編成していたが、この年、日本で初めて(6人制を除く)の本格的な実業団チーム、アンドリウス商会が発足した。その後、充分な活動の継続はできなかったが、画期的なことだった。