朝鮮戦争が6月に勃発し特需ブームとなる中で、日本フットボールに本格的に近代Tフォーメーションが登場した記念すべき年となった。スピードとタイミングを重視する近代Tは、本場米国では1940年頃から普及し始めていたが、日本への伝播は戦争などの影響で10年遅れた。48年からT体型に最初に取り組んだ早大が、この年5月7日、花園ラグビー場で開催された関学大との交流戦で54-6と圧勝し、一躍注目を集めた。この年の少し前から米国のさまざまな情報が国内にも伝えられ、T体型の登場はその結果であった。本格的な実業団チーム、大阪警視庁(現大阪府警)が誕生した。
[1]主な出来事
●この頃の東京・大阪間の移動は夜行列車の利用で片道11時間だった。合宿も米を部員各人が1日3合の計算で2升から3升を持参するという時代だった。米を各自持参せずに合宿できるようになったのは、戦後10年が経過した1955年頃だった。
●この年の関東、関西の各チームの監督、選手登録者数は次の通りであった。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●この頃、防具やスパイク、ボールなどが東京・神田神保町の進駐軍の中古スポーツ用品払い下げ店で販売されていた(店名不詳)。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●フェアキャッチの規定が削除され、フェアキャッチはなくなった(翌1951年に復活する)。
●ショルダーブロックをする場合は、手を身体に付けているだけでなく、手と腕は相手の肩より下でなければならなくなった。
●チームタイムアウトは、前・後半、各チームこれまでの4回から5回取れることになった。
●チームタイムアウトの後の計時開始はレディフォープレーからとなった。
●キック時のボールのホルダーも、キッカーと同様の保護を受けることとなった。
●フライングブロック、フライングタックルの禁止が解除され、可能になった。
[3]関東・秋のリーグ戦
●関東大学リーグは試合会場を後楽園競輪場内フィールドに移して、9月30日の慶大-日大で開幕した。競輪場は自転車走路のバンクがあり、スタンドの位置がその分遠くなるが、バンクが傾斜しているため、すべての観客席が高い位置にあり、見やすかった。
●優勝候補の呼び声が高かったのが、1948年からT体型に取り組んでいた早大だった。中山晃監督、福神愛夫助監督の下、QB佐々木太郎(旧三年)とHB河西和泉(三年)のコンビは絶妙で、ラインは全員チャージに秀でていた。
続くのは立大。2年目のドナルド・オークス監督の下、QB大竹幸雄(旧三年)にHB杉原克昆(四年)、B杉原佳男(二年)兄弟、FB中沢貞夫(二年)のバック陣で、この年からT体型導入を開始した。3連覇を狙う慶大は、T体型に対しA体型と総称されたシングル、ダブルウイング体型が主体で、前年までのQB服部太郎(旧三年)をFBに下げ、E中津川、B飯田繁治(三年)、B永田正夫(三年)へのパスが中心だった。
A体型対T体型の初めての対戦である慶立戦は、立大に押されながらも耐えた慶大が、QB服部太郎(旧三年)の27回投15回成功というパス攻撃で12-0と勝利した。
●4戦全勝で対決した早慶戦は雨で緩んだグラウンドでの対決となった。1Q、早大はT体型からC遠藤裕臣(四年)、QB河西和泉(三年)がTDを挙げたが、その後はチャンスに得点できず、逆に慶大が2QにQB服部太郎(旧三年)からE中津川常雄(弟・旧三年)へのパスで攻め込み、服部の中央突破、3Qにも服部から中津川泰三(兄・旧三年)へのパスで2TDを挙げ、TFPで菅原甫(三年)の挙げた1点を守り切り13-12で勝利。5戦全勝で3連覇を遂げた。
早大は、T体型からのラン攻撃では獲得ヤードが全チーム中1位で、個人別でも河西和泉と遠藤裕臣が1、2位を占めたが、パス攻撃が最下位で、成功数は慶大の3分の1だった。
[4]関西・秋のリーグ戦
●関西学生リーグは例年通り、西宮球技場で10月中旬から4校によるリーグ戦を展開した。
関西では依然シングル、ダブルウイング体型だった。同大はT体型を採用。関学大は春季に早大のT体型に6-54で完敗したが、ウイング体型の完成と、打倒Tの研究に重点を置き、この頃からしばしば敵情視察のために上京して研究。相手の試合を分析して準備する近代フットボールを始めていた。
前年初制覇した関学大がこのシーズンもQB米田満(四年)からE井床由夫(四年)へのパス、鈴木博久(二年)、段中貞三(高商3)らバックスのパワープレーで、関大、同大、京大を寄せ付けず3戦全勝で優勝した。
関大は堂本武男(三年)をQBとし、黄金時の切り札・羽間平安(四年)をHBにしてこのコンビを復活させたが、関学大との対戦では7-40で大敗した。この関大と、関大に13-13で引き分けた同大がともに1勝1敗1分けで同率2位、4位は同大に7-16で惜敗した京大(3敗)となった。
[5]関西・社会人 大阪警視庁の活動開始
●社会人では、関西の初の実業団チームとして大阪警視庁(現大阪府警)が誕生。従来、警察官の訓練には柔剣道が行われてきたが、スポーツ的な要素を取り入れることが重要と考えた鈴木警視総監の後押しで、渡辺(関学大卒)を中心に50人で発足。1951年1月24日には花園ラグビー場で同部の「誕生一周年記念試合・大阪ボウル」を大阪在住の関西・関東の大学フットボール卒業生からなる全大阪と対戦した。大阪警視庁はラインプレーで確実に前進したが、ファンブルやパス失敗も多く、4Qには同点目前の敵陣数ヤードまで進んだが得点には至らず、0-8で敗れた。
大阪警視庁のチーム設立には、関西、関東の大学経験者が何人も参加し、本格的な活動を行った。11人制の実業団チームの発足は1948年のアンドリウス商会が初であったが、本格的かつ継続的な活動をした実業団は、大阪警視庁が初めてだった。大阪警視庁では警察官の正課体育としてアメリカンフットボールを取り入れ、一時は延べ200人の警察官が勤務のかたわらフットボールの練習に取り組んだ。大阪警視庁は以後関東遠征で米軍と交流を重ね、学生チームと対等以上の力を付けたが、大阪警視庁幹部の去就問題の波及を受け、53年に活動を打ち切った。
[6]第5回甲子園ボウル
●2年連続で関学大-慶大の対戦となった12月10日の「第5回甲子園ボウル」は、強風が吹く低温の中、慶大(中野庸監督)の経験対関学大(井床國夫監督)の若さの勝負と見られた。試合は慶大が、関学大が春の試合で早大に大敗した結果から、T体型攻法を展開したが、LE井床由夫(四年)を中央に配置した守備体型など、T体系の研究を十分にした関学大には通用しなかった。
2Qに入り、関学大は前年に有効だったダブルリバースと見せかけて、そこからHB鈴木博久(二年)がRE中村泰幸(四年)にパスを成功させて先制TD。TFPもFB高橋治男(二年)の中央突破で成功、7点(当時はTFPのランによるTDも、キックの成功と同様に1点だった)を先行した。
3Q、慶大は菅原甫(三年)の好キックオフリターンでつかんだ好機にQB服部太郎(旧三年)がE原田稔(三年)へのTDパスを成功。1点差の4Q、関学大は再びダブルリバースパスでRE中村泰幸(四年)がTDし、TFPも同じプレーを成功させて大勢を決めた。慶大は当時としては珍しくディフェンスにサインを取り入れて対抗したが、最終スコアは関学大が20-6で甲子園ボウル連覇を達成。シングル・ダブルウイング体型の完成と、打倒T体型の研究が実を結んだ。この試合、NHKのラジオ第二放送が甲子園ボウルで初めてラジオ放送で中継した(アナウンサーは北出清五郎氏)。
[7]第4回ライスボウル
●当初1951年1月上旬に開催予定だった「第4回ライスボウル」は、元日に開催予定だった米軍間の「ライスボウル」がこの6月に勃発した朝鮮戦争の影響で中止となったため、空いた元日に日本の東西間の「第4回ライスボウル」を開催することになった。
雲一つない元日、ナイルキニック競技場で開催された「第4回ライスボウル」は先の甲子園ボウルと同様、関東のT体型対関西のウイングバックの対決となった。関東はリーグ最優秀選手の服部太郎(慶大・旧三年)を二軍に下げ、T体型の立・早勢を一軍とした。関東のキックオフで試合が開始され、そのキックを関東が関西陣30ヤード地点でリカバー。第一プレーでT体型から関西の警戒の逆を突いてQB大竹幸雄(立大・旧三年)、FB服部太郎、LE石森昭四郎(早大・旧三年)、中津川常雄(弟・慶大旧三年)と渡る近年のライスボウルで関西が得意としていたダブルリバースパスを成功。ゴール前3ヤードまで進むと、最後はRH山下進(明大・旧一年)のオフタックルで先制した。
当時としては重量級の70キロ台のラインを並べた関東は、2QにもQB服部太郎のパスやB杉原克昆(立大四年)のオフタックルを重ねて前半で勝負を決めた。関西はT攻撃を使う同大チームを出場させたが、逆に押し込まれ、結局は関東が27-6で勝利。変化とスピードに富むT攻撃の威力を見せ付けた一戦となった。
[8]高校タッチフットボールの活動
●中国地方では広島の崇徳高が創部。崇徳高は前年(またはその前年?)に活動開始した山口東高と、中国地方の高校の最初の試合をアメリカンフットボールとして山口東高グラウンドで開催し、山口東高が33-13で勝利した。以降、この対戦は定期戦として1953年まで行われた。
●「第4回ライスボウル」の第1試合として、第1回の「高校タッチフットボール東西選抜戦」が開催され、東軍が47-0で記念すべき勝利を挙げた。このタッチフットボールの高校オールスター戦は、1966年1月15日の「第19回ライスボウル」まで行われた。
●「高校タッチフットボール王座決定戦」は府立池田高がQB井上、E長手功の活躍で、QB中津川浩三を核とする2年連続出場の慶応高を15-6で下し、2度目の覇権を握った。なお、1950年3月に初めての「中学生選手権試合」が西宮球技場で長浜南中-関学中の対戦で行われ、12-12で両校優勝となった。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「試合終了後、球場食堂で両チームがカレーライスを頂くのが当時の習い。慶大主将の大きな渡辺光章君が、一番小さな僕に”米田さんには負けました”と素直に握手を求められたこと、いつまでも忘れない」(関学大1951年卒、QB、主将、米田満)
「小生は極めて恵まれており、第1回、3回、5回はレギュラーとして、第4回は怪我で一年間休場だったが高校監督として出場、奈良高に勝てて関東初優勝。大いに面目を保つことができた」(慶応大1951年卒、T、主将、渡辺光章)