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INFORMATION ニュース

1954.01.01

1954年(昭和29年) 活動21年目

お知らせ

活動20周年記念で協会旗制定、西宮ボウル誕生。全国高校タッチフットボール大会の開始

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月23日

・ 2月

・ 4月14日

・ 8月5日

・ 9月26日

・米NBCが世界初となるカラーテレビの本放送開始

・日本航空、サンフランシスコに第1便

・世界卓球選手権で荻村伊知朗氏、男子シングルスで優勝

・日本女子体育連盟結成

・台風15号による洞爺丸事故

フットボール ・ 5月28日

・ 9月15日

・11月25日

・12月27日

・翌年1月1日

・日本フットボール20周年記念、日本協会旗制定(青地に11の星)。記念東西対抗-現役戦、OB戦開催(後楽園球場)

・日本フットボール20周年記念、西宮ボウル創設(西宮球場)

・日本フットボール20周年記念、日本選抜-極東米軍(明治神宮外苑競技場)

・第1回全国高校タッチフットボール選手権、関学高が日吉ケ丘高を下す(藤井寺球場)

・日本アメリカンフットボール審判協会設立

・第8回ライスボウル、米軍第9回ライスボウルと共同開催で観客4万人

 

「日本フットボール10年」は戦時中だったため記念行事はまったく開催できなかったが、この年、活動開始20年を祝って協会各組織は各地で記念行事を開催した。この20周年を記念して、初夏のナイターでその後約半世紀開催されることになる西宮ボウルが創設された。

[1]主な出来事

●5月28日に「20周年記念ナイター」と銘打って、関東6大学選抜と関西5大学選抜のOB戦と現役戦の2試合を後楽園球場で開催した。

現役戦の監督は関東が花岡惇氏、関西は浜本正吉氏が務めた。第1試合のOB戦は関西が7-0で勝利。第2試合の現役戦は、1951年の早大-関大定期戦に続く戦後2試合目の夜間試合となり、慣れない照明に前半は両軍戸惑ったが、関東はQB加藤友俊(四年)からRE加藤丈雄(二年)、HB山村侑伺(二年)へのパスと立大コンビの活躍、瀬田六郎(立大四年)、原田円一(慶大四年)、中津川浩三(慶大二年)、清水正男(日大三年)、小島秀一(日大三年)、高橋俊夫(明大三年)、丸山哲也(明大三年)といった豊富なバック陣の活躍もあって20-7で勝利した。

秋季シーズンイン直前の9月16日にもう一つの20周年記念試合として、関西初の夜間試合である「第1回西宮ボウル」が西宮球場で開催された。学生と社会人から選抜した全関東と全関西の対決で、関西は関学大勢でスタートし、前半は五分の戦いだったが、後半に3TDを重ねて27-6と快勝した。ライスボウルを含むオールスター戦で久々に関西が凱歌を揚げた。この「西宮ボウル」は翌年以降も継続的に初夏に開催され、梅雨とも戦いながら、2002年まで開催された。

さらに、関東では20周年事業の締めくくりとして、秋季リーグ戦終了後の11月25日に明治神宮外苑競技場で記念試合の全日本(関東選抜)対極東空軍を開催。甲子園ボウルを控えた立大勢が欠場したこともあって全日本が13-32で敗北したが、関東学生も体格のハンディキャップを克服して善戦した。

●日本協会の理事長新たに桑原梓氏が就任(第3代)。1955年まで務めた。

●日本アメリカンフットボール審判協会が服部慎吾氏、安藤信和氏、羽間平安氏、古川明氏を中心に設立され、初代理事長に服部慎吾氏が就任した。競技規則の制定や解釈の統一、審判員のグラウンド上での審判実務・動作(メカニック)などの標準化と統一化が図られていく仕組みができた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

特になし

 

[3]関東・秋のリーグ戦

●関東大学秋季リーグは9月18日に開幕。1日のみ後楽園競輪場を使用し、それ以外は明治神宮外苑競技場で開催し、6大学が覇権争いを展開した。多くのスポーツがある中で、スポーツの秋の貴重な休日を当時の国内最高級競技施設で開催した。開幕前の予想では、優勝の呼び声が高いのは立大。これを追って、上げ潮に乗る日大と伝統ある巧者慶大がどこまで迫るかであった。

4連覇を目指す立大は、これまでのランニングプレーに加え、このシーズンからQB加藤友俊(四年)からE加藤丈雄(三年)、瀬尾博治(三年)、HB山村侑伺(二年)、阿部重一(三年)へのパスを主体とした。厚い選手層で、交代要員にも実力のある選手が多く、開幕戦で明大に39-14と苦戦したが、その後調子を上げ、最終の慶大戦は33-0と完封勝ちし、4年連続の甲子園ボウル出場を実現した。

2位の慶大は春に大量の卒業生を出しながら健闘。第1節は法大と0-0の引き分けで、続く3試合はすべて1TD差で勝利を収めた。福神也太郎(三年)、鈴木宏政(四年)のラインの粘りで立大に続いた。

毎年下位に低迷していた日大はこの年、シングルウイングのアンバランスドラインを採用。浅い位置にT体型のバックスを配置したアンバランスT体型を初めて使用し、T小沢茂(三年)、HB小島秀一(三年)、筒井真澄(三年)を中心として3勝2敗と勝ち越し、3位と健闘。以降数年、旋風を巻き起こして勝ち進む日大の立ち上がりだった。

 

[4]関西・秋のリーグ戦

●関西リーグの開幕前の予想は、やはり関学大の呼び声が高かったが、春のオープン戦で関学大に鋭く迫った関大の存在も決して軽視できないというものだった。

その関大が重量ラインに駿足の福地章(四年)と井上透(二年)のバックスが好調で、スピード豊かなランを武器に復活。関学大に挑戦したリーグ最終戦でも、1Qに福地の独走で先制し、期待を持たせた。しかし、関学大はQB鈴木智之(二年)の好リードで芳村昌悦(二年)、長手功(四年)のランなどを生かし、48-13で勝って6連覇を達成した。健闘の関大が3勝1敗で2位。以下同大、立命大、京大だった。京大は立命大戦に8-13と迫ったが敗戦。関学大戦には不戦敗となり、最下位となった。

 

[5]第9回甲子園ボウル

●4年連続で立大と関学大の顔合わせとなった「第9回甲子園ボウル」は12月5日、大会史上初の雨中戦となり、観客は3,000人。事前の新聞紙上の予想は「立大7分、関学大3分で立大が前年の雪辱を果たす」というものだった。

関学大は大会直前に大石兵太郎学長が永眠し、腕に喪章を着けて試合に臨んだ。泥濘戦から2Q終盤にLE/K清家智光(二年)が甲子園ボウル史上初のFGを決め、前半は3-0で関学大がリード(甲子園ボウルで次のFGの成功は、この19年後の第28回大会の関学大K村田安弘(一年)となる)。前半、関学大は何度も立大陣に迫りながらTDは挙げられず、得点差はわずか3点だったが、関学大が7分の攻勢だった。

後半、立大はQB加藤友俊(四年)がRE加藤丈雄(二年)へのロングパスで関学大ゴール前に迫った後、FB田原秀山(二年)の中央突破でTDを挙げて逆転。しかし、関学大はQB鈴木智之(二年)の冷静な戦術選択でE西村一朗(二年)への30ヤードTDパスを通して再逆転。さらに4Q、関学大は相手のファンブルからチャンスをつかみ、鈴木のショートパス、RH長手功(四年)のオフガードランに続いて、HB大藤努(一年)が中央を突破して決定的なTDを挙げて15-7。2年に主力選手が多い関学大が2連覇し、通算4度目の王座に就いた。

関学大はバックス陣の華やかな活躍とともにRT米田豊(四年、主将)以下E福村圭司(四年)、LT小島貞夫(四年)、RG木谷直行(二年)らのラインの健闘も光った。立大はこの4年間で前年の甲子園ボウルに続く公式戦2敗目となった。

 

[6]第8回ライスボウル

●1955年元日の「第8回ライスボウル」は前年同様、「在日米軍RICE BOWL」と共同開催となった。特に米軍が集客に力を入れ、明治神宮外苑競技場の収容人員いっぱいとなる40,000人が観戦し、米軍のバンドなどアトラクションも豊富で、大きな話題となった。

第1試合は東西高校タッチフットボール戦が行われ、関東は近藤昭雄監督(麻布高監督)の下で麻布、慶応高、早大学院、都立西高の選抜チームが、関西は米田満監督(関学高監督)の下で選手は全員関学高から選ばれ、関西が6-0と接戦を制した。この試合、ある新聞は関学高-関東選抜の試合で「関学高が75連勝を達成」と報じた。

第2試合の大学の「第8回ライスボウル」は1Q、関東の攻撃を平均体重で「2貫(約7.5キロ)重い」関西ラインが止める一進一退の展開。2Q、関東のQB加藤友俊(立大四年)が17回連続でパスに出る徹底したパス攻撃を展開し、関西のファンブルを福神也太郎(慶大三年)がリカバーすると、そこからの攻撃でRE加藤丈雄(立大二年)へのTDパスが決まって先制。さらに山村侑伺(立大二年)が右サイドライン際を30ヤード快走してTDを挙げ、13-0とリードした。そして後半の関西の反撃を抑え、20-0で勝利した。

この日の第3試合で13時半から開催された「米軍RICE BOWL」は、在日空軍選抜が21-14で在日米海兵隊を破り、2回目の優勝を遂げた。なお、米軍RICE BOWLとの共同開催は、前年とこの年だけで、翌年からは日本の単独開催となった。

 

[7]高校タッチフットボールの活動

●早大学院は米軍高校との対戦を開始し、成増ハイスクールと対戦。以降の年に成増、立川、横浜、ジョンソンの各ハイスクールとの試合をアメリカンフットボールで行った。早大学院の米軍高校との対戦は1972年まで続けられた。

●早大学院と慶応高は、この年の早慶定期戦から試合をアメリカンフットボールで行うことにした。タッチフットボールからアメリカンフットボールへの活動の転換が始まった。

●(甲子園ボウルの高校王座決定戦とは別にトーナメント方式の)「第1回全国高等学校タッチフットボール大会」が開催された。12月27、28日の両日に大阪・藤井寺球技場で、東京2校(聖学院高、日大一高)、滋賀5校(愛知、長浜西、彦根東高、八幡商、伊香)、京都1校(日吉ケ丘高)、大阪3校(浪速高、豊中高、池田高)、兵庫2校(星陵高、関学高)の13校が出場した。決勝で関学高が日吉ケ丘高を50-0で破り、記念すべき第1回の栄冠に輝いた。この「全国高等学校タッチフットボール大会」は、高校フットボールがアメリカンフットボールに切り替わる1972年まで開催され、高校の「甲子園ボウル」とも言えた。

●「甲子園ボウル」と同時に開催された「第7回東西高校タッチフットボール王座決定戦」では、関学高が関東優勝の麻布高に26-0で勝利した。関学高は連勝記録を74と伸ばし、この年は全試合無失点の快挙を遂げた。

 

[8]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●11月25日に明治神宮外苑競技場で、日本フットボール20周年記念試合として「極東空軍-関東学生選抜」が対戦し、極東空軍が32-13で勝利した。関東学生選抜は監督が花岡惇氏、コーチが中沢貞夫氏で、選手は関東各大学から40人と関学大OBの4人が加わった。

 

◆外国チーム間(日本で開催)

●米軍は1946年に日本と韓国に駐留する米軍のオールスター戦「(米軍)RICE BOWL」を開始し、このRICE BOWLを49年から極東に駐留する陸、海、空、後に海兵隊を加えた4軍のオールスター戦の決勝戦に変更。明治神宮外苑競技場を接収して改称した「ナイルキニック競技場」で開催した。この試合は一般にも公開され、多くの日本人が観戦した。54、55年は米軍に遅れて48年に第1回を開催した関東・関西の学生選抜戦ライスボウルと米軍のRICE BOWLを、日本に返還されて名称が復帰した明治神宮外苑競技場で共催した。

 

★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)

●シーズンの想い出
「準備運動30分、ブロック練習30~60分、スクリメージ練習30~60分、それに隔日でタックルか、キックリターンの練習を30分、合計150分位の練習だった。甲子園ボウルで4年出場、すべて関学大と対戦、2勝2敗に終わったことは忘れない」(立大1955年卒・G・主将・佐藤孝)