記事一覧へ

INFORMATION ニュース

1956.01.01

1956年(昭和31年) 活動23年目

お知らせ

関西、西宮・甲子園・ライスの三大ボウル制覇

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月31日

・ 5月3日

・ 5月9日

・ 7月17日

・12月18日

・12月28日

・スキー男子回転の猪谷千春氏、コルティナダンペッツォで冬季五輪日本初のメダル(銀メダル)

・第1回世界柔道選手権大会、蔵前国技館で開催

・日本登山隊、マナスル初登頂

・経済白書、「もはや戦後ではない」と宣言

・日本、80番目の国連加盟国へ

・国立競技場起工式

フットボール ・秋

・11月23日

・翌年1月13日

・関東大学リーグ、学習院大加盟で7校、関西学生リーグ、甲南大加盟で6校へ

・第11回甲子園ボウル、NHKが初のテレビ全国中継

・第10回ライスボウル、初めての後楽園競輪場開催

 

関東、関西両学生リーグは1枚ずつ加盟校が増加した。関東は学習院大で、日大が加盟した1940年以来16年ぶり。戦後初の新加盟となった。関西は53年の立命大に続いて甲南大が加盟。関東は7校、関西は6校でリーグ戦を組むこととなった。学習院大と甲南大は、加盟を記念してこの年に定期戦を開始した。高校東西王座決定戦では、連勝を続ける関学高に聖学院高が挑戦し、0-0の引き分けに持ち込む大健闘を見せた。

[1]主な出来事

●この年、話題を独占したのは関学大。関学中学部創立メンバーが最終学年となり、フットボール史上に残る攻守を見せ、春の関東の大学との交流戦では明大に26-6、立大に31-0、早大に61-0と圧勝。その後も春季西日本大会、秋季関西学生リーグ、甲子園ボウルに優勝。関学大が核となった「西宮ボウル」、「ライスボウル」の二つの選抜戦でも完勝した。主将G木谷直行(四年)、QB鈴木智之(四年)、E西村一朗(四年)ら15人の関学大四年勢のうち関学高からの部員は、公式戦で高校、大学と7年間負け知らずで関西学院を卒業していった。

●前年までシーズンイン直前の9月上旬に行われていた東西交流戦はリーグ戦の日程上、姿を消し、9月上旬からは東西ともにリーグ戦のみに絞られ、白熱した試合が展開された。

●日本協会事務所は東京・銀座(中央区銀座西2-1福神ビル)に置かれた。理事長は4代目として中山晃氏が就任し、1957年まで務めた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

●この年、1936年、52年に続いてわが国で3冊目となる公式規則書「公式フットボール競技規則」が発行され、適用された。

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

特になし

 

[3]春季活動

1.春のボウルゲームなど

●西宮ボウル

当時のわが国の三大ボウルゲームの一つで、学生・OBを交えた東西オールスター戦の「第3回西宮ボウル」は6月5日、ナイター照明の下、夕刻から西宮球場で開催。試合は好ゲームとなり、全関東が前年関東覇者の日大の現役を欠いたこともあって、関学大現役主体の全関西が若さとチームワークで主導権を握った。QB鈴木智之(関学大四年)の巧みなリードとFB芳村昌悦(関学大四年)の果敢な突進、E西村一朗(関学大四年)のリバースプレーなどで18-6と快勝し、対戦成績を関西の2勝1敗とした。

 

[4]関東・秋のリーグ戦

●関東大学リーグは7大学による21試合を、前半戦は明治神宮外苑競技場で、後半戦は後楽園球場で開催。明治神宮外苑競技場が1958年開催のアジア競技大会に向けて国立競技場としての建設に入るためだった。前年、初めて関東を制覇した日大は主力19人が卒業し、マスコミの予想も「日大は最下位」というものだった。

リーグ戦は明治神宮外苑競技場で9月8日に開幕し、第一戦で新加盟の学習院が登場。しかし、ハードな練習を積み重ね、特異なアンバランス体型で関東をリードする日大に0-109と惨敗した。学習院は以後も大差で敗れる試合が続いたが、最後まで健闘した。

優勝争いは、前年に引き続き日大と立大となったが、最終節の対決では日大が立大に45-0で完勝。粘り強いラインの押しや、特に今季から威力を発揮したウィークサイドへのHB伊沢健司(三年)のラン、QB須山匡(三年)からE宇田川恵造(三年)へのパスが光り、戦前の予想を覆してリーグ2連覇を果たした。

日大は強固な攻撃力はもちろん、守備もシーズンで許したTDは早大戦の一つだけだった。立大はG本田裕彦(四年)やC山崎嘉寿(四年)らラインを生かし切れなかった。3位には前年6位の法大、4位には前年5位の明大が浮上した。

 

[5]関西・秋のリーグ戦

●甲南大を加えて6校となった関西秋季リーグは、関学大など各校グラウンドで9月23日から開催された。

関大は春季に関学大出身の古川明氏を臨時コーチに迎え、基本技術を習得して好調。HB井上透主将(四年)の下、26人の部員で同志社大戦で19-13と辛勝だった以外は京大、立命大、甲南大を大差で破って最終の関学戦に臨んだ。

一方、関学大も、当時としては大量の部員48人を擁し、関大が対戦した4大学に大差で勝利して最終の関大戦を迎えた。関学大グラウンドでの全勝対決の最終戦は、泥沼の中で行われ、関学大の高度なチームプレーが関大を完全に圧倒。1Qに3TD、2Qから4Qに各2TDを挙げ、62-0で大勝した。

関学大は四年生にG木谷直行(主将)、LE宝来保次郎、E清家智光、C関本正美、RE西村一朗、RH大藤努、FB芳村昌悦、QB鈴木智之ら15人を有した黄金期で、この年は西宮、甲子園、ライスの三大ボウルを制したチームだった。2位は3年連続で関大。以下同大、京大、立命大、甲南大となった。新加盟の甲南大は、敗れはしたものの、4位となった京大に12-13と好試合をした。

 

[6]第11回甲子園ボウル

●11月23日の「第11回甲子園ボウル」は、快晴微風という絶好のコンディションで正午にキックオフ。対戦は2年連続で関学大と日大となった。

前年の引き分けに続く熱戦が期待されたが、関学大は開始直後からQB鈴木智之(四年)の安定した采配で日大陣に攻め込み、8分にFB芳村昌悦(四年)が右エンドランで先制。日大は2Q、QB須山匡(三年)からHB伊沢健司(三年)へのパスで関学大ゴール前まで攻め込んだが、決め手を欠いて前半は6-0と関学大リードで折り返した。

後半に入ると関学大が地力を発揮。3Q7分にHB山田昇(四年)が35ヤードを独走、12分には鈴木が45ヤードを独走して2TDを挙げて勝負を決めた。攻守のバランスがいい関学大は日大を完封し、最終スコアは33-0。「戦後随一のチーム力」と言われた関学大が4年連続6度目の王座に就いた。関学大の洗練されたパスワークと積極的なダッシュ、確実なタックルとブロック、攻守にそつのない総合力が光った。表彰式では1935年、日本でのフットボール競技開始から約半年後に来日した全米学生選抜チームの主将だったアルバート・L・マローニ氏から贈られた優勝杯が関学大に渡された。

関学大の勝利で、15人の関学大四年生は前年の「甲子園ボウル」の引き分け両校優勝はあったものの、4年間公式戦負け知らずで卒業していった。この試合、NHKが初めてテレビ中継を行い、実況は下山アナウンサーが担当した。

 

[7]第10回ライスボウル

●シーズンの最後を飾る「第10回ライスボウル」は1957年1月13日、アジア競技大会で改装中の明治神宮外苑競技場が使用できなかったため、初めて後楽園競輪場で行い、特設グラウンドに6,000人の観客を集めた。

試合は甲子園ボウルで圧勝した関学大勢が25人中18人を占める関西が、HB山田昇(四年)が前半に挙げた2TDを守り切り、追いすがる混成チームの関東を抑えて21-13で7年ぶりに勝利。このシーズンは先の西宮、甲子園に続き、関西が三大ボウルゲームを制した。

関東は監督に小畑重雄夫氏(日大監督)、関西は伊藤荘造氏(同志社大監督)と、ともに初めて指揮を執った。18年前の無降水記録(37日間)にあと3日と迫る中、雨は降らずに7メートルの強風が吹き続く下で開催。2Q、風下の関西がLH山田昇(関学大四年)の右エンドランによるTDで先制すると、さらに山田が左オフタックルから13ヤードを走って二つ目のTD。関西が前半を14-0とリードして折り返した。

関東は3Q、中沢昌二(立大二年)がランでTDを挙げたが、関西は4Q、鈴木智之(関学大四年)が関東のパスをインターセプトし、その後、タックルされる寸前に大藤努(関学大四年)にラテラルパスしてゲイン。そこから得たチャンスに、鈴木がTDして駄目押し点を挙げた。

関東はパスで攻撃する作戦だったが、強風にさえぎられて思うようにはいかなかった。戦後最高の選手をそろえたと言われた関西の勝利には、守備陣のLE宝来保次郎(四年)、RE西村一朗(四年)の活躍があった。

 

[8]高校タッチフットボールの活動

●「高校東西王座決定戦」では小杉望監督の下、関東では常勝となった聖学院高が関学高に挑戦し、QB石田弘毅(二年)らの活躍で0-0の引き分けに持ち込む大健闘を見せた。翌1957年1月の「第3回全国大会決勝」には、47年から滋賀県を挙げて高校(当時旧制中学)の活動を開始した奥川正助氏、吉川太逸氏らの指導で、同県から出場した八幡商高が関学高に挑戦したが、0-15と惜敗。関学高の3連覇となった。

 

[9]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●戦後の日本のフットボールの再建、復興には終戦直後からの米軍の支援が大きかった。終戦直後の競技活動の再開の支援や乏しかった用具・装具の供与、チーム再建へのコーチ派遣などでの活動支援、さらには頻繁に開催されてきた在日米軍間のボウルゲームがもたらした影響も大きかった。

米軍は軍務活動の一環のレクリエーションとして積極的に部隊や基地単位でフットボール部を設け、韓国も含めた極東軍全体として、また日本駐留の基地単位としてチームを持ち、盛んに活動していた。

国内では三沢、立川、横須賀、厚木、座間、京都、奈良、神戸、岩国、佐世保、沖縄などの大規模基地以外に、巣鴨刑務所、横浜モータープール、瀬谷通信基地、岸根米軍病院などの小規模な駐留地、さらには米国大使館、日比谷の進駐軍総司令部もそれぞれチームを持ち、活動していた。これらのチームもときおり、日本の大学チームと交流試合をしていた。

米軍内の部隊・基地対抗の試合はボウルゲームとして開催され、基地内フィールド以外に明治神宮外苑競技場や後楽園競輪場などで盛んに行われた。極東米軍のボウルゲームの中心となった「米軍RICE BOWL」は、1946年に在日米軍-在韓米軍の対戦で明治神宮外苑競技場で開始され、49年から在日米軍同士の対戦となり、同年は陸軍対空軍が対戦。朝鮮戦争の影響で51年は中止されたが、52年に「TORII BOWL」が海軍対空軍で誕生し、「RICE BOWL」も再開。53年には海兵隊対陸軍で「SUKIYAKI BOWL」も誕生している。54、55年は日本の「ライスボウル」と「米軍RICE BOWL」が明治神宮外苑競技場で一緒に開催している。米軍チーム間のボウルゲームは日本人も観戦することができ、試合会場の売店では、当時の日常では珍しかったポップコーンやコーラ、サンドウィッチ、ハンバーカーが人気を集めた。

●11月24日に秩父宮ラグビー場で、全日本学生(関東地区)と米空軍トルネードスとの試合が開催された。試合は当時、深刻な病気であった結核患者への支援を目的に、結核予防基金へのチャリティーゲームとして開催された。

●定期的に開催される日米対抗のボウルゲームの皮切りは、翌1957年の「ターキーボウル(関東学生選抜-米海軍横須賀)」で、以降「富士ボウル」、「菊ボウル」、「シルクボウル」などの定期戦がスタート。その時、その場所はアメリカ文化となった。当時徴兵制の米軍は、NFL経験者やその予備軍なども多く、強くて話題を集めた。