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INFORMATION ニュース

1959.01.01

1959年(昭和34年) 活動26年目

お知らせ

日大第一期黄金時代。関東大学リーグが10校、1・2部制へ。社会人クラブチーム活動開始

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月1日

・ 1月6日

・ 1月10日

・ 4月10日

・ 4月20日

・ 5月26日

・ 6月1日

・ 9月26日

・メートル法実施

・秩父宮記念スポーツ博物館開館

・NHK教育テレビ放送開始

・皇太子・美智子妃、結婚の儀

・東海道新幹線起工式

・1964年東京オリンピック開催決定

・第1回アジア・レクリエーション大会、東京で開催

・伊勢湾台風。明治以降、最悪の台風災害

フットボール ・秋

・関東大学リーグ、10チームとなり、1、2部制に

・社会人チーム、日大OB主体の不死倶楽部創部、東京ラムズとともに関東協会加盟

 

1957年11月に設立された東京ラムズに続き、2番目のクラブチームとして日大OB主体の不死倶楽部が発足した。両チームともこの年、関東協会に加盟し関東協会の中で試合を開催するとともに、9月に両者が対戦。不死倶楽部が快勝した。社会人クラブチームの本格的な活動が始まった年だった。

[1]主な出来事

●戦後の復興の一つの証の前年5月の第3回アジア競技大会の東京開催でスポーツ熱が高まる中、関東大学リーグが加盟校の増加でこの年に初めて1、2部制に変更した。1956年から活動を続けていた日体大と東京大が正式加入。春のオープン戦では、日体大は立命大に55-0で勝利し、東大も敗れはしたものの立大に6-13と善戦した。この両校の加入で増加した10大学を、前年度上位6校の1部、下位2校と新加盟校で2部に編成した。この結果、秋の関東大学リーグ戦は日大、立大、慶大、法大、防衛大、早大が1部で、新加盟の日体大、東大に古豪・明大が学習院とともに2部に加わった。

●一方、関西は加盟6校と変わらず、しかもリーグ戦は2位以下の低迷があり、関学大の独走が続いていた。これがリーグの水準低下につながり、ひいては関学大の甲子園ボウルでの勝負弱さにも結び付くと言われた。

●この年から鳥取義雄氏が日本協会理事長(第6代)に就任、1963年まで務めた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆防具・装具

●これまで、手製のフェイス・マスクが利用されてきたが、この頃から商品化されたフェイス・マスクの使用が始まった。

 

◆公式規則変更など

●この年、1936年、52年、56年に続き、わが国で4冊目となる公式規則書「公式フットボール規則」が発行され、適用された。

●公式規則の変更で、秋季リーグ戦からタッチダウン後のTFPはラン、パス、キックすべて1点だったものが、ラン、パスの成功が2点、キックは1点と変更された。米国競技規則の変更に従ったもので、フットボール競技の面白さがさらに増したが、キックによるトライを採用するチームはまだ少なく、ラン・パスによる2点を狙うトライがしばらくの間続いた。なお、この変更はNCAAでは前年1958年に行われた。

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●前年1958年の変更で攻撃側のプレーヤーの片手、片腕で守備側プレーヤーへ接触することが許されたが、両腕に対しても適用された。
●チームタイムアウトが4回から5回になった。
●ゴールポストの横幅が、ポールの内側間で18フィート6インチ(1876年制定)から23フィート4インチに広げられた。
●距離の罰則は、反則したチームのゴールラインの半分を越えないこととなった(ハーフディスタンスの規定)。
●ゲームクロック(全体の試合時間を管理する時計)が停止しているときは、いつでも1人の選手の交代ができるようになった。

 

[3]春季活動

●春季東西交流戦は、関東勢の6勝3敗だった。

 

◆春のボウルゲームなど

●西宮ボウル

「第6回西宮ボウル」は恒例の夜間試合として、西宮球場で開催された。日大勢を中心とした全関東はラインプレーで押しまくり、試合の七分を支配する力を発揮。29-12で4年ぶり2度目の勝利を飾った。全関西は1Q中盤、QB保坂侑男(日大四年)のパスを叩いてインターセプトし、E西村一朗(関大出)が55ヤードを独走して先制。全関東は直後に保坂が75ヤードのパントリターンTDを決めて同点とすると、HB吉岡龍一(日大四年)の好走からHB織戸保四郎(日大三年)がオフタックルでTDを挙げ、TFPも成功。雨が降り出した2Qにも織戸の中央突破でTDを挙げ、点差を広げて快勝した。

 

[4]関東・秋のリーグ戦

●関東学生リーグは9月19日に開幕。小石川運動場、後楽園競輪場、各大学グラウンドで行われた。

コーチから昇格した日大の篠竹幹夫監督は、基本の習得をさらに徹底して全試合に大勝し、文句なしの5連覇を遂げた。T横山勝治主将(四年)ら鍛え抜かれたラインにQB保坂侑男(四年)、HB織戸保四郎(三年)、吉岡龍一(四年)、FB加藤勝(四年)、E中村博(四年)、片山正知(三年)、宮井良彦(三年)と全日本級がそのまま残り、層の厚さも増した。吉岡は今季、ある試合で8回キャリーして7TDを挙げた快記録を残した。

慶大はG伊藤徳三郎(四年)、佐々木顕考(三年)、江口俊夫(二年)のラインとE木暮英彦(四年)、鳥取譲治(三年)のコンビで日大に対抗する筆頭となり、日大に6-54と一蹴されたものの、5年ぶりに2位となった。3位は立大で、中沢貞夫新監督の下、好QB藤田恒夫(四年)やC国分一成(四年)、T高林尚志(二年)が活躍した。

2部は日本フットボール活動開始のルーツ校である明大が学習院大(1956年加盟)、日体大、東大の新加盟校を寄せ付けずに優勝。入れ替え戦でも法大を6-0で破り、1部復帰を果たした。

 

[5]関西・秋のリーグ戦

●関西は9月27日に開幕。西宮球技場と関学大グラウンドを使用した。例年通り関学大が独走。それも5試合すべて大量得点、無失点の完全優勝で、リーグ11連覇を果たした。関学大は4年連続リーグ戦全試合無失点。他大学が関学大の独走を許してしまうことが、関学大の甲子園ボウルでの勝負強さの低下につながっているのではないかとの意見も多くなった。

2位は関大。関学大に完敗したものの、前年2位の同大に引き分けた。新鋭・甲南大が、長手功監督(関学大出身)の好指導で2年連続3位に入った。T浜崎純也(四年)、E村田公(三年)が先頭に立ち、翌年から4年間、リーグ2位に躍進することになる。京大はこれまで部員不足でしばしばリーグ戦を棄権せざるを得なかったが、立命大に20-14で勝利して5位。最下位は5戦全敗の立命大となった。

 

[6]社会人

●関東社会人は1957年創部の東京ラムズに続き、日大の卒業生を主体とした不死倶楽部が結成され、両チームともこの年に関東アメリカンフットボール連盟に加盟。大学と同じ組織で活動し、大学リーグ戦の日程と同じ管理がなされ、秋は2度対戦した。社会人クラブチームの本格的な活動が始まった年だった。

 

[7]第14回甲子園ボウル

●「第14回甲子園ボウル」は12月6日、14時13分にキックオフされた。5年連続で「赤」の日大と「青」の関学大の対決となり、日大が粘りのある脚力で42-0と圧勝し、3連覇を遂げた。日大はアンバランスTを採用。関学大はこの日に備えてフランカーTから相手を惑わせるマン・イン・モーションを多用したが、攻守に勝る日大にはこの奇襲戦法も通じず、ライン、バックスとも上回る日大に一方的に押しまくられた。

スピードとラインのブロック力で勝る日大は、最初の関学大の攻撃シリーズを止めると、FB加藤勝(四年)が先制のTD。その後も攻勢を強め、LH織戸保四郎(三年)とQB保坂侑男(四年)のラン、C東宮博(四年)のパントブロックTD、QB山本敏夫(三年)とRH吉岡龍一(四年)のランと計6TDで42-0。第1回甲子園ボウル(慶大45-0同志社大)に次ぐ得点を挙げた。関学大は日大バックス陣の豪快な走力に対してタックルが甘かったが、再三粘りの走りで着実に前進したRH平野薫(四年)の奮闘が目立った。この年設けられた米国大使杯が、ポール・C・ドムケ米大阪地区主席領事から、夏合宿での負傷を押して出場した日大・横山勝治主将の手に渡された。甲子園ボウル出場5度目の日大は、これで3連勝。通算成績を3勝1敗1分とした。

 

[8]第13回ライスボウル

●シーズン最後を飾る1960年元日の「第13回ライスボウル」は、雨上がりの国立競技場に10,000人の観客を集めて行われた。

関東は1チームを全員日大で、もう1チームを各大学からの選手で編成。関西は関学大の選手が多いものの、混成チームで臨んだ。関東はこの年から篠竹幹夫氏(日大監督)が、関西は山内正邦氏(関大OB)が監督を務めた。

試合開始のキックオフを保坂侑男(日大四年)が85ヤードのリターンTDとし、わずか17秒で関東が先制した。さらに、次の関西の攻撃で関東の織戸保四郎(日大三年)がインターセプトリターンTD。これで関西の気力が失われると、関東はQB藤田恒夫(立大四年)からE木暮英彦(慶大四年)、鳥取譲治(慶大三年)へのTDパスもあり、1Qに大量7TDで46-0と一方的な展開とした。

関東はさらに2Q、3QにもTDを挙げ、68-0で勝利した。ライスボウルでは第2回大会の慶大全盛時代に関東が52-0と大勝したが、その記録を早くも2Qで破った。この得点差はライスボウルが東西学生選抜戦として開催された第36回大会(1983年1月)までの最大の得点差となった。この試合のハーフタイムに、秋季の関東、関西の優秀選手などの表彰が次の通り行われた。

関 東 関 西
最優秀選手 B吉岡龍一(日大4年) T梶要介(関学大4年)
敢闘選手 QB藤田恒夫(立大4年) B合田幹彦(同大4年)
模範選手 E小暮英彦(慶大4年) T浜崎純也(甲南大4年)

[9]高校タッチフットボールの活動

●この頃、大学と同様、高校も盛んに米軍のハイスクールとの試合を行った。会場は米軍基地内のグラウンドを使用。その米軍ハイスクールとの多くの試合は、米軍のバスでの送迎と食事付きだった。試合は絨毯のような芝生でのナイターで行われ、初めて見る「チェアガール(当時の呼び名)」や試合後の勢いよくあふれ出る温かいシャワー、初めて口にするコーラ、交換会での分厚いローストビーフやバーべキューパーティーとまさに別世界。試合の結果や点差に関わらず、そして英会話の少々の不都合はまったく障害にはならず、日本の高校生が日常と異なる体験をした時代だった。

 

◆東西王座決定戦・全国高校大会

●「高校タッチフットボール東西王座決定戦」は関学高が都立戸山高に51-0で大勝。開催が年末に移った「第6回全国大会決勝」も関学高が聖学院高を8-0で破り、無敗記録を160に伸ばした。

 

[10]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●シーズン終了後の日米交流戦としてすっかり定着した「ターキーボウル」は、11月26日に第3回を開催。関東学生が米海兵隊を44-13で破り、初勝利を挙げた。

 

★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)

●甲子園ボウルの想い出
「夏合宿で右足靭帯を切りリーグ戦中も入院治療、副将の吉岡がリーダーとなってくれた。甲子園ボウルには、右足が利かないままベンチ入り。後半、監督の”おい大丈夫、やれるか”の思いやりで出場。チームメートが協力して自分の穴で連続して第1ダウンをとり、そのまま同じ穴でTDをとった。そのときの感謝感激は一生忘れることが出来ない」 (日大1960年卒 T・主将 横山勝治)