わが国にアメリカンフットボールが誕生して28年目、その誕生に多大な功績のあったポール・ラッシュ博士に、12月16日開催の「第2回菊ボウル」(在日米空軍選抜34-0関東学生選抜、後楽園競輪場、観客10,000人)の開会式で「日本アメリカンフットボールの父」の称号が贈られた。
1961.01.01
お知らせ
関学高、驚異の200連勝。リーグ戦で初のテレビ中継。高校タッチフット王座決定戦、最後の開催
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 3月
・ 4月12日 ・ 6月15日 ・ 8月13日 ・10月2日 ・10月7日 |
・駐日米大使に東京生まれのエドウィン・ライシャワー氏就任。在任中、日本のフットボール活動を支援した(1966年まで大使)
・人類初の有人衛星、ソ連・ガガーリン飛行士による地球一周に成功 ・スポーツ振興法公布 ・東ドイツが東西ベルリンの境界を封鎖。のちに境界線上に壁(ベルリンの壁)を建設 ・柏戸関と大鵬関、横綱昇進 ・第1回「スポーツの日」(国民体育デーを改称。その後、1966年「体育の日」に、2019年再び「スポーツの日」に) |
フットボール | ・ 5月6日
・ 9月22日 ・12月3日 ・12月16日 ・ |
・第1回法大-関大定期戦(西京極競技場)
・リーグ戦、初めてのTV中継。日大-防衛大 ・最後の東西高校タッチフットボール王座決定戦、関学高が日大櫻丘高を下す。関学高公式戦200連勝達成(甲子園球場) ・ポール・ラッシュ博士に「日本アメリカンフットボールの父」の称号 ・実業団チーム、三菱樹脂創部 |
わが国にアメリカンフットボールが誕生して28年目、その誕生に多大な功績のあったポール・ラッシュ博士に、12月16日開催の「第2回菊ボウル」(在日米空軍選抜34-0関東学生選抜、後楽園競輪場、観客10,000人)の開会式で「日本アメリカンフットボールの父」の称号が贈られた。
[1]主な出来事
●「東高西低」がこの年まで4年間続く大学フットボールだが、高校タッチフットボールでは関西の関学高が圧倒的な強さを発揮。1951年の春以来公式戦200連勝(1引き分けを含む)で、その間の全国大会にすべて優勝という未曽有の記録を樹立した。関学高は高校の甲子園ボウルと呼ぶべき「第14回東西王座決定戦」で日大櫻丘高を60-12と下したのが、200連勝目の記念すべき試合となった。関学高は年末の全国大会の決勝でも、同じ兵庫のライバルとして育ってきた市立西宮高を28-0と下し、連勝記録を203に伸ばした。
●関東大学リーグ戦は10月中旬までと11月中旬以降は後楽園競輪場を使用し、その間は小石川運動場を使った。一般の関心が増大することに応えて、リーグ戦が初めてテレビで中継された。放映したのは東京放送(TBS)で、その第1回は9月23日の開幕戦、日大-防衛大で、渡辺謙太郎アナウンサー、解説者は高島孝之連盟理事(慶大監督)。ハーフタイムにバンドドリルが披露された。
●6月、関西フットボールの柱の一つ滋賀県で、三菱樹脂(長浜市)がアメリカンフットボールのチームを結成した。タッチフットボールなどの経験者10人を中心に、26人で同好会を立ち上げた。
●日本協会の名称はこれまで「日本フットボール協会」だったが、「日本アメリカンフットボール協会」に変更した。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●関西地区では、かねてから米国の中古防具を神戸サトーブラザーズK.K.が中心になって販売していたが、滋賀県タッチフットボール連盟の指定運動具店だった彦根市の旭運動具店が用具の取り次ぎ斡旋を開始した。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●サイドラインにいる者(チームエリアにいるコーチ、交代選手ら)とフィールドにいるプレーヤーの間で直接会話することは禁止された。
[3]春季活動
●春季の大学の東西交流戦は、定着してきた定期戦を中心にこの年も盛況だった。「第7回西日本大会」の決勝は関学大が全神戸に56-0で圧勝し、好調な滑り出しと思われたが、関学大は続く東西対抗の定期戦と交流戦では明大に28-30で惜敗し、立大には0-20で完敗。また日大と0-0で引き分けるなど、安定性は今一つだった。
◆春のボウルゲームなど
●第8回西宮ボウル
全関東対全関西の「第8回西宮ボウル」は5月20日に西宮球場で開催。全関西のRE末光淳二(関学大四年)が全関東のファンブルをリカバーしてTDすると、全関東はFB中沢靖武(日大OB)の40ヤード独走TDで追い付いた。全関東は後半、QB園田成和(立大OB)のパスがさえ、HB織戸保四郎(日大OB)やE飯田稔(立大四年)にパスを投げ分けて18-14で逆転勝ちし、対戦成績を4勝4敗の五分とした。
[4]関東・秋のリーグ戦
●立・日・慶の3強の争いだったが、慶大はT江口俊夫(四年)、前田岩夫(四年)、G岡田亨一(四年)、C鈴木健(四年)、E小林俊三郎(四年)と大型ラインをそろえ、同じく大型ラインの立大を雨中の泥濘戦の末に12-8で破って2位となった。その慶大を22-0で破っていた日大が2年ぶり6回目のリーグ王座に復帰した。立大は3位。
結果的に優勝決定の大きな山場となったのは3週目の日大-慶大。互いに無敗で迎えたが、慶大は主力のT江口俊夫(四年、主将)、HB北竹章治(三年)が欠場して苦しい展開。日大は1Q、QB栗原敏郎(三年)からLE米本保彦(三年)へのパスで先制のTDを挙げ、後半も2TDを追加して22-0で勝利した。
日大は前年、三年生部員が全員退部という非常事態が起きたが、三年生主将木村洋の下、闘志とチームワークで苦境を乗り切った。QB栗原敏朗(三年)からE米本保彦(三年)へのパスを切り札に、HB山口考二郎(二年)、鈴木諭(二年)、FB阿部敏彰(二年)の二年生トリオが粘りのあるランを見せた。4位は明大、5位は日体大。最下位の防衛大は2部で優勝した早大に入れ替え戦で敗れ、2部降格となった。
[5]関西・秋のリーグ戦
●関西秋季リーグ戦は西宮球技場と関学大グラウンドで行い、関学大が独走した。関学大は大量得点で勝ち続け、優勝決定戦となった関学大グラウンドでの甲南大戦も46-8で完勝。1Qに先制のTDを挙げると、2Qに5年間続けていた全試合無失点記録が途切れることになる失点を喫したが、後半に突き放した。
無失点記録が途切れた関学大は、その後の同大戦も82-6と圧勝したもののTDを許し、2試合で失点した。しかし関学大は、相手が得点したことがニュースとして取り上げられるほど、圧倒的な実力を誇っていた。例年通り、2位争いに興味が絞られたが、近年力を付けてきた甲南大が同大を22-8で破り2位。以下は前年と同じく同大、関大、京大、立命大の順だった。
[6]第16回甲子園ボウル
●日大と関学大の6度目の対戦となった12月3日の「第16回甲子園ボウル」は、両校ブラスバンドが交歓する中で開催され、戦前はパスの対決と見られていた。四年生不在で最上級生が三年の日大は開始直後、ショートパント体型からスクリーンパスを成功させたが、続くパスはインターセプトされた。関学大はこの機にFB倉智春吉(四年)、LH山本恵一(三年)、RH石本純一(四年)のバック陣を生かしたラン攻撃に出て、先に主導権を握った。
しかし、日大は1Q終了間際にHB山口考二郎(二年)が中央突破から60ヤードを独走してTD。関学大はエースQB勝田鐐二(三年)が膝を負傷して不調で、11回のパスがすべて不成功と苦しい展開だった。それでも4Q、LH山本恵一(三年)が3プレー連続で中央を突破して待望のTDを挙げ、6-6の同点とした。その後、粘りに定評のある日大はFB阿部敏彰(二年)、QB栗原敏朗(三年)の活躍で関学大陣に入り、再度中央を突破して決勝点を挙げ、2年ぶり5度目の王座に就いた。優勝杯は三年主将のLG木村洋に手渡された。三年が5人、2年が8人と若い日大は十分な練習量に裏打ちされ、精神的、肉体的に耐久力があった。
[7]第15回ライスボウル
●1962年元日の「第15回ライスボウル」は後楽園競輪場に13,000人の観客を集めて開催。先発メンバーは関東(篠竹幹夫監督)が各大学からの混成チームで、関西(米田満監督)は関学大主体の編成となった。
前半、関西は呼吸の合ったラインプレーでしばしば関東を脅かし、シリーズ更新を重ねた。しかし関東は、重量のある慶大ラインに快足の日大バックスを組み合わせ、1Q12分にHB山口考二郎(日大二年)がゴール前から左オフガードで先制TDを挙げた。さらに2Q13分、敵陣20ヤードからQB栗原敏朗(日大三年)が山口にTDパスを決めて前半を14-0で折り返した。この2TDはいずれも関西のファンブルをリカバーして攻撃権を得たもので、関西にとっては手痛い失点となった。
後半、開始から関西は各大学の混成チームで臨んだが、攻守にまとまりを欠き、思うように進むことができず、関学大主体のチームに交代。関西は4Q、一年生HBの美田和茂(関学大)が60ヤード、30ヤードと2つの独走TDを挙げたが、関東はC鈴木健(慶大四年)のインターセプト、QB栗原敏朗(日大三年)の独走などで2TDを追加。関東が42-16で5連勝を飾り、通算成績を13勝2敗とした。
[8]高校タッチフットボールの活動
◆東西王座決定戦・全国高校大会
●甲子園ボウルでの高校タッチフットボール王座決定戦は、関学高が日大櫻丘高を60-12で下し、ついに前人未到の200連勝(1引き分けを含む)を達成。年末の全国大会でも市立西宮高を28-0で下し、その記録を更新した。
なお、「高校の全国大会は一つ」との全国高校体育連盟の方針により、「高校王座決定戦」は関学高が11連覇したこの年が最後となり、「全国タッチフットボール大会」に一本化された。
[9]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●在日米軍と関東の大学の試合はこの頃、最も盛んに開催され、立川、厚木、座間、横田、横須賀の各基地チームと日大、立大、慶大、防衛大、日体大、早大の各校が対戦。175ポンド(約80キロ)の体重制限を米軍側に設けて戦ったが、やはり日本側が体力負けした。
しかし、日大第一期黄金時代の卒業生が主体の社会人チーム、不死倶楽部(1959年創部)だけは互角以上の戦いを展開。「第1回富士ボウル」で米陸軍座間ラングラーズを26-23で破るなど、3勝1分の好成績を残した。
「第5回ターキーボウル」は後楽園競輪場で開催。在日米海軍が1Qに2TDで先行したが、関東学生選抜は4Qに阿部敏彰(日大二年)のTDで逆転。しかしその後、在日米海軍が3TDを連取して34-16で関東学生選抜を破って2連勝。通算成績を4勝1敗とした。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「予想では圧倒的に関学大で、惨敗覚悟で試合に臨んだ。ただしゲーム開始直後脳震とうのため、気がついたら旅館の布団の中でゲームの記憶はまったくなし。今でも残念」 (日大1963年卒、G・62、63年度主将 木村洋)