高校タッチフットボールで、1951年から10年余り無敗だった関学高の連勝がついに204(1引き分けを挟む)でストップした。春の兵庫県総合体育大会で市立西宮高に0-12で敗北したものだった。一方、大学は新たに就任した武田建ヘッドコーチの下で関西学生リーグの連勝を続けた。甲子園ボウルは日大が連勝。バトントワラーを先頭にした吹奏楽団が出演するなど、フットボール応援の新しい形態が誕生してきた。
1962.01.01
お知らせ
関学高連勝記録を市立西宮高がストップ。日大、第二期黄金時代に
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日 付 |
主な出来事 |
社 会 | ・ 6月23日
・ 7月3日 ・ 7月11日 ・10月22日 |
・日本体育協会、スポーツ少年団結成
・第15回世界体操競技選手権で日本の男子団体が初優勝 ・米と英仏間の初の大陸間衛星中継成功 ・米、キューバ海上封鎖。11月 1日:ソ連、キューバのミサイル撤収開始 |
フットボール | ・ 6月10日
・秋 ・11月11,18日 ・翌年1月1日 |
・市立西宮高、関学高に勝利、関学高の連勝記録を204で止める
・関東大学リーグ、3部制から1部(6校)、2部(7校)制に ・NHKテレビスポーツ教室「アメリカンフットボール」放映 ・第10回ライスボウル、関東が2回目の6連覇 |
高校タッチフットボールで、1951年から10年余り無敗だった関学高の連勝がついに204(1引き分けを挟む)でストップした。春の兵庫県総合体育大会で市立西宮高に0-12で敗北したものだった。一方、大学は新たに就任した武田建ヘッドコーチの下で関西学生リーグの連勝を続けた。甲子園ボウルは日大が連勝。バトントワラーを先頭にした吹奏楽団が出演するなど、フットボール応援の新しい形態が誕生してきた。
[1]主な出来事
●高校タッチフットボール界で無敵だった関学高が、春の「兵庫県総合体育大会」で市立西宮高の部創設者・藤村重美監督率いる市立西宮高に0-12で敗れ、1951年から11年間続いた連勝記録(56年11月の聖学院高戦での引き分けを含む)が204で止まった。試合は市立西宮高がダブルリバースで先制すると、4Qにも中央突破でTD。守っては関学高の得点を許さず勝利した。市立西宮高は続く「近畿大会」決勝でも関学高を破って優勝した。関学高の連勝ストップは大きなニュースとして取り上げられた。
●10月にベースボール・マガジン社から米SPORTS ILLUSTRATED社発行・中沢貞夫氏訳の『図解・アメリカンフットボール』が発行された。戦前・戦後を通じてわが国初のアメリカンフットボール専門書だった(注:タッチフットボールの専門書は1958年、三隅珠一氏著『タッチ・フットボール』(不昧堂)がある)。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●不正なシフトの反則に対する罰則が15ヤードから5ヤードになった。
●マウスプロテクターの着用が推奨された。
●1941年に制定した「スクリメージキックを蹴った側のプレーヤーが相手の10ヤードラインを越えた地点でボールにタッチすると、反則でタッチバックとなる」は削除され、単なるバイオレーションとなった。
[3]春季試合など
◆春季試合など(学生)
●春季東西交流戦では一、二年生主体の部員25人でスタートした関学大が明大、立大、慶大に勝利。「第8回西日本大会」でも、近年充実してきた甲南大を34-0で下し、7度目の優勝(同率を含む)を果たした。関学大に善戦したのが、0-8と1TD差に肉薄した明大。花岡惇総監督の下に前防衛大監督の野﨑和夫氏が監督に加わり、気力が充実していた。慶大は高島孝之監督の2年目で、HB北竹章治(四年)の脚力を生かすフライT体型を採用していた。
◆春のボウルゲームなど
●西日本大会
「西日本大会」では関学大が同志社大、関大の古豪を連破し、決勝でも躍進中の甲南大を一蹴し7回目の優勝(同率を含む)を遂げた。
●第9回西宮ボウル
「第9回西宮ボウル」は6月10日、西宮球場でナイターで開催。日大、慶大、立大の混成軍となった全関東と関学大一色の全関西の戦い。前半は五分五分だったが、後半は全関東も日大の選手で固めたメンバーで戦い、QB栗原敏朗(日大四年)がパスを連投して52-14と全関西に圧勝。西宮ボウル4連勝で、通算5勝4敗と勝ち越した。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●日大独走との前評判だったが、気鋭の各校コーチ陣の努力で好試合が展開されたシーズンとなった。
2部と3部が合併して1・2部制に戻し(1部:日大、慶大、立大、明大、日体大、早大)、9月8日に開幕した関東学生秋季リーグは、ほとんどの試合を後楽園競輪場で行った。
日大は前年度のメンバーがそっくり残り、「全試合100点」を合言葉に圧倒的な強さで全勝。5試合の総得点が342、失点は慶大と明大に許した計12点だけだった。特に日体大戦は144-0の圧勝だった。
慶、立の2位争いに復活した明大が奔放なプレーで割り込み、慶大から10年ぶりの勝利を収めて3位に浮上。立大は中澤貞夫監督の好指揮と主将C青木克夫(四年)を中心としたランプレーの威力で2位となり、慶大はBクラスに転落した。連覇した日大の原動力は篠竹幹夫監督の指揮によりチーム一体となった”鉄の意志”に加え、特異のアンバランスT体型からのスピードあふれるランプレー、さらにショートパント体型からのパスプレーと、精神的にも技術的にも他校を圧倒した総合力だった。
1960年から3年間2部だったベテラン・保科進監督の法大が2部の優勝決定戦で防衛大を下し、入れ替え戦でも日体大を破って1部昇格を決めた。
■関西(学生)
●関西秋季リーグは10月中旬に開幕。西宮球技場、関学大グラウンド、京大グラウンドを使用して行われた。
春のシーズンを一、二年生主体の部員25人でスタートした関学大が、6年余りの米国留学から帰国した武田建氏をヘッドコーチに迎えた。武田ヘッドコーチは、当時常識だったバックス3人が並ぶT体型を崩し、HBをもう1人のHBと同じサイド、しかもタイトエンドの外側に配する新しいシングルT体型を採用。G大津健造(三年)、HB橋本雅行(四年)が引っ張る関大に28-6と迫られた以外は完勝し、14年連続のリーグ制覇を遂げた。
1956年創部の関西一若い甲南大が、関学大出身の長手功監督指導の下、4勝1敗で3年連続の2位。低迷を続けていた京大は復活し、2勝2敗1分ながら関大と同率3位に。この頃から関西学生リーグの2位争いは混戦となってきた。京大は50年代後半は部員不足などで活動が苦しい時代があったが、この頃から安定した部活動となってきた。
[5]秋季試合 (ボウルゲーム)
◆第17回甲子園ボウル
●12月2日の「第17回甲子園ボウル」は日大と関学大の7度目の顔合わせとなった。この春卒業生がおらず前年度と同じメンバーで圧倒的な力を誇る日大に、レシーバーを広げたシングルウイングTの新戦法で挑戦する関学大という構図だった。
先手は関学大が取り、試合は大接戦となった。レシーバーを警戒する日大の逆を突き、ランを重ねてHB美田和茂(二年)がTDし、TFPも一年生QB梅田一夫がE俣野富美雄(四年)にパスを成功。日大は2Q、QB栗原俊朗(四年)からFB阿部敏彰(三年)へのTDパスの後、ラインが押してHB鈴木諭(三年)のオフタックルで逆転。すると関学大はショートパスの連続で梅田が俣野に決めて再逆転。16-12と関学大リードで前半を終了した。
関学大は後半早々、日大の栗原が負傷して交代したQB横溝裕利(二年)のパスを美田がインターセプトし、24-12とリードを広げた。しかし、精力的な日大ラインが連続してランを成功させ、ショートパント体型からの横溝のランも効果的。そして日大は4Q3分、FB阿部がオフタックルでTDを挙げて4点差に迫った。さらに10分、HB鈴木がこの年の日大の武器だった左エンドランでTDし、28-24と逆転に成功して勝利した。日大の力、関学大の技という両校の特徴が存分に出た好試合だった。
◆第16回ライスボウル
●1963年元日、「第16回ライスボウル」は例年通りこの年のスポーツ界のトップを飾って後楽園競輪場で開催された。前日降った雨でグラウンドはやや軟弱だったが、雲一つない快晴のフットボール日和となった。観客は10,000人。例年の通りスタンドには日本髪や桃割れの女性ファンもちらほら見られ、いかにも正月らしい雰囲気で試合は始まった。
関東はエースの日大QB栗原敏朗(四年)をはじめラインの半分が負傷欠場という苦しいチーム編成。ラインの右半分を混成チームで、左半分を日大勢で組み立てた。
試合は1Q、関西が押し気味に進め、QB梅田一夫(関学大一年)がコントロールのいいパスを投げ分けて先制のTD。その後、関東もTDを返して2Qへ。ここで関東は初めてパスプレーを見せ、QB下坂典正(明大二年)がLH山口考二郎(日大三年)に鮮やかにミドルパスを決めると、山口はサイドライン際を50ヤード走ってTD。その5分後にもQB渡辺彰吾(立大三年)からRE黒田徹(慶大四年)へのミドルパスから黒田が快足を飛ばして40ヤードを走り、敵陣10ヤードに進んだ。そしてRH柴田茂(立大四年)が左エンドランでTDを挙げ、20-8で前半を終了した。
関東は後半も3TDを挙げ、守ってもG木村洋(日大四年)らが関西のポイントゲッターLE美田和茂(関学大二年)、RE俣野富美雄(関学大四年)を完全にマークし、得点を許さなかった。層の厚い関東が関学大一色の関西を40-8で下し、対戦成績を14勝2敗とした。
[6]高校タッチフットボールの活動
●この年の話題は、高校タッチフットボール界で無敵だった関学高が藤村重美監督率いる市立西宮高に0-12で敗れ、連勝記録を204(1引き分けを含む)で止められたことだった。6月10日の兵庫県総合体育大会決勝で、市立西宮高は多久和正男主将の下、ダブルリバースで先制し、4Qにも中央突破でとどめを刺した。
藤村監督は京大時代に関学大に大敗し、打倒関学大の思いを胸に1952年に滋賀・愛知川商高に赴任。5年経過後の翌年に勤務先の市立西宮高にフットボール部を創部し、1960年秋の甲子園ボウル出場決定戦でも関学高と6-6の引き分けを演じていた。独自の人間教育を加味した猛練習で、念願を達成した。
●市立西宮高初代主将の魚座が同高出身選手としてただ一人1962年の西宮ボウルに出場を果たしたほか、同高から多くのプレーヤーが関大に進み、中核となった。
◆全国高校大会
●高校タッチフットボールは「全国大会は年1回」とする高体連の指導に従い、甲子園ボウルでの「東西王座決定戦」を中止し、「全国大会」に一本化した。このため、甲子園ボウルの高校戦は招待試合となり、この年は関学高と市立西宮高が対戦して関学高が18-14の接戦を制し、春の連勝記録ストップの雪辱を遂げた。
一本化された「全国大会」では、関学高は春の連勝記録ストップに続いてこの大会でも1回戦で八幡高に0-8で敗れ、決勝は市立西宮高が日大櫻丘高を38-0で下して初の王座に就いた。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●シーズン後の日米交流戦はこの年も行われ、「第6回ターキーボウル」は米海軍が関東学生に40-22で、「第3回菊ボウル」は在日米空軍が関東学生に51-24で、後楽園競輪場で行われた「第2回富士ボウル」は在日米陸軍が不死倶楽部(全日大)に42-20で勝利と、すべて在日米軍チームに凱歌が上がった。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「前チームと同一メンバーのため、周囲より勝って当たり前と思われ、精神的プレッシャーがきつかった。先取点をとられ、追う立場での試合展開で、とにかく苦しかった。逆転に成功した後、終了までの4分がとにかく長く感じた」 (日大1963年卒 G・主将 木村洋)