関東・関西以外で初めてとなる東海地区で愛知学院大、名古屋学院大の活動が始まった。わが国におけるフットボール活動の全国展開の始まりだった。他の地区でも続々、新規チームが活動を始め、その後の1970年代の新規チーム増加の前触れとなった。
1965.01.01
お知らせ
立大、前年最下位から劇的な復活。戦国時代の幕開け。東海地区活動開始、全国展開の始まり
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 2月7日
・ 7月1日 ・ 8月3日 ・ 9月13日 ・11月1日 ・12月10日 |
・米軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始
・名神高速道路全線(小牧-西宮間)開通 ・長野県松代町、約5年間続く松代群発地震の始まり ・1970年万国博覧会、大阪開催決定 ・東海道新幹線「ひかり」、東京-新大阪間を3時間10分で運転開始 ・日本、国連安全保障理事会の非常任理事国に |
フットボール | ・12月26、27日
・12月5日 |
・第12回高校タッチフットボール全国大会、初の関東開催(駒沢公園)
・第20回甲子園ボウル、引き分けで関学大、立大両校優勝 |
関東・関西以外で初めてとなる東海地区で愛知学院大、名古屋学院大の活動が始まった。わが国におけるフットボール活動の全国展開の始まりだった。他の地区でも続々、新規チームが活動を始め、その後の1970年代の新規チーム増加の前触れとなった。
[1]主な出来事
●東京五輪の翌年、加盟校のいくつかでは学園紛争の火がつき出した。また前年関東大学リーグ最下位の立大が驚異的な復活を見せ、日大の連覇を阻止した。関西でも関学大が関大に大苦戦と、新時代の到来を感じさせる年となった。
●公式規則改正で、攻守交代時には自由な交代(交代時の条件はなく、人数の制限もなし)が認められた(米国NCAAもこの年に変更)。この規則変更を活用し、部員30人の立大が、攻撃専門チーム、守備専門チームの2ブラトンを採用した。立大が大躍進した原動力は、この「ツープラトン制」だった。
これまでの試合は、部員数が少ないこともあったが、公式規則で自由な交代が制限されていたことで、各チームとも運動能力に長けた一軍選手が攻守ともに出場するのが当たり前であり、試合の間、常にプレーする領域(フィールド・オブ・プレー)にいた。ときおり交代選手が入ること、ほぼ実力均衡の選手の交代はあったが、「攻撃専門」、「守備専門」の選手の考えはなかった。QBが守備になるとDBとして守備をすることもよくあった。既に1950年代半ばに自由交代制と徐々になってきた頃に、力量がほぼ同じ2人の選手をあるプレー数毎に交代でプレーさせることが行われ始めたが、攻撃・守備専門の選手の交代ではなかった。
立大は、攻撃専門、守備専門のツープラトン制を採用し、それが最も効果的に機能したのは、この年の「第20回甲子園ボウル」で、立大は2Q早々、0-22と差をつけられたが、4Q残り3分で22-22の同点に持ち込み、関学大とともに優勝を飾った。後半、選手の疲労が溜まるころに、2プラトンの効果が発揮された。
●この年から原田嘉兵衛氏が日本協会理事長(第8代)に就任。1969年まで務めた。
[2]競技施設・装具・公式規則
◆防具・装具
●大手運動用具製造、販売の美津濃(大阪)が米国製フットボール防具の販売を始めた。東京店も翌年に販売を始めた。
◆公式規則変更
●1936年のわが国の最初の公式規則書の発行から5冊目となる「アメリカンフットボール規則」が発行された。前回59年の発行から6年ぶりの公式規則書の発行であった。
●攻守交代時、およびAチームがシリーズ更新したとき、自由な交代(人数の制限なし)が認められた。(米国NCAAもこの年に変更)
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●ヘルメットや頭で故意に相手に不必要な打撃を与えることが禁止され、15ヤードの罰則とひどい場合は資格没収(退場)となった。プレーヤーの頭部の保護が徐々に重要視され始めた。
●プレーヤーは、他との連絡手段として電気的、機械的、その他あらゆる装置を使用することが禁止された(社会の技術の革新にどう対応していくかは公式規則の制定、改正の大きなポイント。現在でも同様)。
●攻守交代時、およびAチームがシリーズ更新したとき、自由な交代(人数の制限なし)が認められた。
[3]春季試合
◆春のボウルゲーム
●第11回西日本大会
「第11回西日本大会」は、前年関西学生リーグで2位と躍進した関大が初の決勝進出。関学大に挑戦したが、0-14で敗れた。
●第11回西宮ボウル
前年、球場の都合で開催中止となった「第11回西宮ボウル」は例年通りの西宮球場で5月25日に開催。全関東が接戦を制して6連勝し、対戦成績を7勝4敗とした。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●学園紛争の火がつき始めた中、リーグ戦は前年の東京五輪で整備された駒沢公園内の駒沢陸上競技場、第二球技場、補助競技場を主会場として開催。しばらくの間、駒沢公園が関東大学リーグ戦の主会場となった。
立大は春季に関学大と14-14で引き分けて勢いに乗り、9月に開幕した関東リーグの第1試合で過去4年無敵だった日大を20-18で破った。脚力のあるQB岩本絋(四年)からE入山弘之(四年)へのパス、HB寺前保(四年)、FB佐藤健司(四年、主将)のバックス陣が、まとまりを欠く日大攻守を突いて勝利。日大の4年間公式戦無敗の記録は「25」で止まった。まだ相手の戦力が十分に把握できていないリーグ初戦は現在でも波乱が起きることがあるが、この立大の初戦勝利もそれだった。
立大は、続く慶大戦は22-22の引き分けに終わったが、明大には34-16で勝利を収め、4勝1分で5年ぶりにリーグ優勝を遂げた。立大は前年度リーグ最下位で、最下位から翌年優勝したのはそれまでの31年間の日本フットボール史上唯一の快記録。日大は中核となる選手がおらず、乱戦の辛勝を続けて2位。3位には明大とも引き分けた慶大が食い込んだ。この年に専修大が加盟し、関東学生は14校となった。2部リーグでは東大が優勝し、入れ替え戦でも防衛大を破り、加盟6年目にして初の1部リーグ昇格を果たした。
■関西(学生)
●関西学生リーグは主会場が前年同様の服部緑地公園で、これに加えて関大、京大、関学大の各大学グラウンドを使用した。関東同様、波乱含みの展開となった。
優勝は関学大。関大に12-0と接戦での勝利だったが、京大に76-0、同大に104-0、立命大に116-0と圧勝し、全勝で17連覇を遂げた。沈滞から急上昇した関大は、関学大との最終戦で大健闘した。高校タッチフットボールで全国優勝を遂げた市立西宮高卒のメンバーが大津健造コーチの好指導の下で成長。力強いラインが関学大の攻撃を食い止め、0-12で惜敗したものの、甲南大と16-16で引き分け、甲南大と並んで2位となった。関大は20年ぶりに充実したチームだったと評価された。関学大と関大は翌年1月3日の「第15回神戸ボウル」で、OBを交えた全関大対全関学大として再戦。今度は16-0で全関大が勝利を挙げた。
京大がラインのまとまりで同大を下して4位を維持。3位の甲南大は関学大に8-38と差を縮め、西日本大会決勝でも関学大に0-14と食い下がって準優勝と、健闘したシーズンだった。
■各地区(学生)
●東海地区の愛知学院大と名古屋学院大が創部。両校は独自の活動を続け、1970年に関西学生連盟の近畿学生リーグに参加した。関東、関西以外の地区での活動開始は、関係者の念願だった。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第20回甲子園ボウル
●「第20回甲子園ボウル」は12月5日、立大(中澤貞夫監督)と関学大(米田満監督)の5年ぶりの顔合わせで開催された。関学大はFB丸上昭二主将(四年)の下、バックス陣は充実しているが、飛び抜けた選手はおらず、いずれも小粒。試合はQB梅田一夫(四年)からHB宮本曠敬(四年)へのパスで前進し、FB遠藤秀治(二年)の右オフタックルでTD。立大のミスで得た次の攻撃には梅田から丸上へのパスでTD。2Qにも梅田から宮本へのオプションプレーでTDし、TFPもHB網克己(四年)のオープンで決めて2Q3分にして早くも22-0と大きくリードした。
大差の試合になるかと思われたが、そこから立大の猛反撃が始まった。前半終了4分前にQB岩本絋(四年)がE坂井善郎(三年)に初のTDパスを決めると、4Qには関学大のミスに乗じて岩本からE入山弘之(四年)への3連続パス成功でTD。さらにパスの連投で関学大陣に攻め入り、試合終了3分前にFB佐藤健司(四年、主将)がTD。TFPは岩本が落ち着いて坂井へのパスを決め、同点に持ち込んだ。
結局、後半16点を追う立大が4Qに2TDし、TFPでいずれも2点を挙げて追い付き22-22とし、春季に続いての引き分け。1955年の日大-関学大以来10年ぶりの両校優勝となった。立大は、この年のNCAAのルール改正(これまでの交代選手の人数制限を攻守交代時には自由とした)で日本でも適用された自由交代制を、この甲子園ボウルで十分に活用。後半も息切れしないプレー展開と部員30人の総力戦で、2Q早々の0-22から見事に追い付いた。
◆第19回ライスボウル
●年の明けた1966年1月15日、これまでの元日から成人の日に開催を移した「第19回ライスボウル」が国立競技場に9,000人の観客を集めて開催された。関東は中澤貞夫・立大監督、関西は米田満・関学大監督が率いた。この秋、関東の2部で優勝し、入れ替え戦で防衛大を破って昇格した東大からG山田一宣(三年)をはじめ成人を迎えた7人の選手が開会式で成人の日の祝福を受け、話題を呼んだ。
平均体重で約4キロ上回る関西ラインが重厚かつ闘志あふれる動きを示せば、関東前列7人のラインも機敏な動きで軽量をカバー。試合開始から火花を散らす互角のライン戦を展開した。
試合は1Q3分、QB梅田一夫(四年)からE瀧悠喜夫(二年)への関学大コンビのロングパスが鮮やかに決まり、関西が先制。2Qに関東もFB村瀬幹雄(明大四年)の中央突破でTDし、TFPもQB岩本絋(四年)のパスと立大勢の活躍で逆転したが、関西は再度梅田と瀧の関学大コンビでTDを挙げ、前半は関西が14-8とリードして折り返した。
3Qは互いの守備陣が健闘して無得点。4Qに入り、T梶義弘(三年)、G有田敏(三年)の関大勢の好守備もあって、TDの応酬の末、関西が20-14で2年ぶり4度目の勝利を挙げた。勝因はライン戦で先手を取ったことと、攻撃時のパスプレーでラインが壁をつくりパサーに余裕を与えたことが挙げられた。
[6]高校タッチフットボールの活動
●関東の慶応高、早大学院、正則高、法政二高の4校で独自にアメリカンフットボールのリーグ戦(関東ビッグ4カンファレンス)が開催された。
◆第12回全国高校大会
●「全国高校タッチフットボール大会」は、第12回にして初めて東京に会場を移し、駒沢球技場で12月26、27日の2日間にわたって行われた。
出場校は日大櫻丘高、都立烏山工高、足立高、目黒高、都立西高(以上東京)、法政二高(神奈川)、愛知高、彦根工高、長浜北高(以上滋賀)、浪速高、関大一高(以上大阪)、市立西宮高、関学高(以上兵庫)、崇徳高(広島)の14校。12月26日に1、2回戦、27日に準決勝と決勝を開催し、27日の決勝進出チームは2日間で4試合(シードされれば3試合)を戦うハードスケジュールだった。決勝は3年連続で同じ顔合わせとなったが、関学高が市立西宮高を12-0で破り、2年連続10回目の優勝を遂げた。
●1951年の「第4回ライスボウル」から毎年、ライスボウルの第1試合として開催されてきた「タッチフットボール東西高校選抜戦」は、この年の「第19回ライスボウル」での開催が最後となり、0-0の引き分けで関東選抜・関西選抜両チーム仲良く有終の美を飾った。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●11月20日、国立競技場で全日本高校選抜(5校:関東・早大学院、慶応高、正則高、関西・長浜北高、伊香)-米軍横須賀ハイスクール(YO-HI)の日米親善ボウルゲーム、「第3回高校ターキーボウル」が開催された。これまでの関東の高校に加え、関西から滋賀の長浜北高、伊香高も参加。日本高校選抜が26-18で勝利したこの試合には観衆20,000人が集まり、主催は米国太平洋軍第一地区太平洋艦隊と関東ビッグ4カンファレンスだった。米軍ブラスバンドやアメリカンスクールの生徒によるデモンストレーションなど、高校生の試合だったが、大学生のボウルゲーム以上の盛り上がりを見せた。
◆日本チームの活動(海外開催)
●慶大がOBも含めた全慶大としてハワイへ遠征。OBを含めたとはいえ、戦前戦後を通じて外国チームと対戦する「初めての単独大学チームの海外遠征」だった。試合は、ハワイ大二軍に26-0で勝利し、陸軍チームのハワイ・ブロンコスには0-28で敗れた。