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INFORMATION ニュース

1966.01.01

1966年(昭和41年) 活動33年目

お知らせ

甲子園ボウル・ライスボウルとも観衆一万を超す。関西の関学大天下に陰り

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月1日

・ 1月10日

・ 1月24日

・ 2月4日

・ 4月1日

・ 4月10日

・ 4月26日

・ 6月29日

・ 6月

・日本人の海外観光渡航回数制限撤廃、持出し外貨も1回500米ドルまでとなる

・オリンピック記念青少年総合センター開設

・早大紛争泥沼化。以降、全国的な大学紛争へ

・全日空機が東京湾に墜落。続けて羽田空港、富士山上空で連続の航空機事故

・日本でメートル法完全施行。尺貫法、ヤード・ポンド法などの公的使用が禁止

・国立競技場トレーニングセンター開設

・1972年札幌冬季オリンピック開催決定

・ビートルズ来日、3日間日本武道館で公演

・米プロフットボール、NFLとAFLの合併決定

フットボール ・ 1月

・ 4月24日

・ 9月

・翌年1月21日

・実業団チーム、ヴァン・ヂャケット活動開始

・西日本大会、関大が初優勝

・関東大学リーグ、4校の新加盟で3部制を採用。以降、新加盟校急増

・九州初のフットボール試合・平和台ボウル開催。全日本学生-米軍グリーンウェーブ

 

フットボールの人気が徐々に高まり、平和台、甲子園、ライスのボウルゲームの観客数がすべて10,000人を超え、「関係者・一部愛好者のスポーツ」から「社会のスポーツ」として展開し始めたシーズンだった。関西はこれまで18年、関学の独壇場だったが、この年の西日本大会で関大と引き分けた。しかし、関大は関学の牙城を崩すまでには至らなかった。社会人では実業団のヴァンヂャケットが活動を開始した。

[1]主な出来事

●4月、メートル法完全施行でヤード・ポンドの公的使用が禁止され、スポーツ界でもラグビー、ゴルフは「メートル制」に移行した。しかし、日本協会は競技規則委員会を中心にフットボールでは「ヤードの使用」が競技規則の基本であることを関係当局に説明し、そのままヤードを使用してもよいこととなった。国際化が徐々に進むフットボール、日本協会の対応も慎重かつ丁寧に行われ、「ヤード」が存続した。

●関東連盟には関東学院大、国学院大、獨協大、成蹊大が加盟。合計18校となり、3部制に再編成し、1部8校、2部6校、3部4校とし、駒沢競技場を主会場としてリーグ戦を開催した。

●1967年1月、滋賀県彦根陸上競技場で地元チームを中心に関西学生、関西社会人チームを招待して対戦する「第1回びわこボウル」が開催された。

●この年、法大マネジャーに岡田千鶴子氏が加わった。同氏は記録で残る最初の女子マネジャーで、これまで男性ばかりであったチームエリアの風景が少し変化し始めた。同氏は卒業後も関東連盟の運営で活躍、貢献した。なお、1960年代前半に同大、京大で女子マネジャーが活動していたとのことだが、詳細は不明となっている。

 

[2]競技施設・装具・公式規則

◆公式規則変更

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●センター、ガード、タックルの攻撃側プレーヤーの番号は50~79となった。バックスに対して推奨する番号は、10~49が1~49になった。
●ゴールライン際の交点に設置するフラッグはパイロンとなった。
●守備側のプレーヤーが同一チームのプレーヤーの肩に乗ることが禁止された(フィールド・ゴールのキックをブロックするために、このようなプレーが行われたために禁止となった)。

 

[3]春季試合

◆春のボウルゲーム

●第12回西日本大会

これまで関西学生リーグ17連覇と独走の関学大だったが、関西の公式戦で6年ぶりに勝ちを逃した。「第12回西日本大会」の2回戦、対戦した関大は合田幹彦監督、大津健造コーチの下、前年もラインの活躍で関学大を苦しめたが、この試合は守り抜いて0-0の引き分け。抽選で関大が3回戦に進出した。ちなみに、関学大の関西での最後の敗戦は、同じ関大との1948年12月のリーグ優勝決定戦。

西日本大会決勝は、関大と関学大OBの対戦となり、関大はT梶義弘(四年)、T藪本憲靖(一年)、C小椋憲三(四年)らライン陣の忠実な動きで関学大OBを完封。押されながらも14-0で初優勝をもぎ取った。

●第12回西宮ボウル

5月14日に西宮球場で開催された「第12回西宮ボウル」は立大、日大勢の全関東が先制したが、関学大、関大、京大、甲南大の混成チームで臨んだ全関西が4Qに逆転し、18-12と7年ぶりに勝利。通算成績を関西の5勝7敗とした。

 

[4]秋季試合

◆秋季試合(学生)

■関東(学生)

●関東秋季リーグは巻き返しを狙う日大、QB富塚国興(二年)がHB須田治雄(四年)、FB高林勝志(三年)を走らせる立大、T広川真人(四年)、E藤堂義人(三年)、バックに浅野雄一(四年)、神山照弘(四年)、本位田望(三年)と粒の揃った慶大の争いとなった。

日大と慶大は、ともに東大、法大、防衛大、成城大を下して、第5節、日大下高井戸グラウンドで全勝対決を迎えた。前半は互いに譲らず22-22で折り返したが、日大櫻丘高の創部時のメンバーが四年生となった日大が、主将G山田一宣(四年)、RE末永順(四年)、T小田島宏(四年)の奮起で4Qに一方的に攻め、慶大は本位田望(三年)の負傷退場もあり、日大が48-20で勝利した。日大は前年優勝の立大にも40-0で圧勝し、2年ぶり10回目の優勝を遂げた。立大と慶大がともに5勝2敗で2位となった。

 

■関西(学生)

●関西学生リーグは10月下旬に開幕。関学大、同大、京大のグラウンドを使用した。

春の西日本大会で0-0の引き分けとなり、関学大が抽選負けとなった関学大-関大が注目された。関大は立命大に8-2と危なかったものの勝利すると、以降も勝利を重ねて最終節を迎えた。関学大は11年間監督を務めた米田満監督が総監督となり、監督は徳永義雄氏に交代。武田建コーチとともに近代トレーニングを導入して復調した。徹底的なスカウティングと分析で、リーグ戦は安定した戦いぶりを見せ、同大、立命大、甲南大、京大を危なげなく破り、最終節で関大との全勝対決に臨んだ。この試合、関学大は関大のパス攻撃を完封し、45-0で18年連続の優勝を果たした。京大がラインの押しで3位に浮上。関大には12-18で敗れたが、あと一歩のところまでこぎ着けた。

 

◆秋季試合(社会人)

■秋季試合 関東(社会人)

●関東で数年後に実業団の中心となるヴァン・ヂャケットが活動を開始し、ヴァンガーズを編成した。かつて1948年に立大OBを中心に企業チームとしてアンドリウス商会が創部したが、チームとしてのまとまった活動はできなかった。チームとして試合ができたのは、50年に創部した大阪警視庁、59年結成の不死倶楽部などのOBチームだったが、1民間企業として継続的なチーム活動をしたのは、このヴァンガーズが初めてだった。

ヴァンガーズは、前年カリフォルニア大サンタバーバラ校から留学帰国し、入社していた長谷川元氏が創部を呼び掛け、1月22日に太田正雄(明大OB)、伊勢(成城大OB)の両氏を中心に部員24人で創部。春季に早大学院高、学習院大と対戦し、ともに快勝した。11月27日には駒沢第二球技場でチャリティー試合として明大と対戦し、6-52と大敗したが、周囲に大きな刺激を与えた。

 

[5]秋季試合(ボウルゲーム)

◆第21回甲子園ボウル

●日大と関学大との2年ぶり10回目の対戦となった12月4日快晴の「第21回甲子園ボウル」は、日大が軽量で不利と見られていたラインが、粘り強い押しと機動力を発揮して40-12で完勝した。

1Q、日大はアンバランスT攻撃の特徴であるプルアウトガードを生かした左右のオープン攻撃を展開し、10分にQB平野孝雄(三年)がHB末永順(四年)にミドルパスを決めて先制のTD。関学大が2QにFB遠藤秀治(三年)からE 瀧悠喜夫(三年)へのロングパスで好機をつくると、遠藤がTDして2点差に迫った。

しかし、日大はこの後ショットガン攻撃も併用して5連続TDを挙げ、関学大を突き放した。2QにQB平野孝雄(三年)からE樋口俊明(三年)へのパス、FB水野敏男(四年)のラン、3Qには平野と水野がランでTDを挙げるなどして40-6。すべて援護選手の好ブロックを生かしたものだった。関学大は4Q、FB遠藤秀治(三年)からE滝悠喜夫(三年)へのパスで1TDを返しただけで、日大は2年ぶり9回目の全国制覇。一方、関学大は前年の立大戦の引き分けを含めて10年間、勝利(単独優勝)なしとなった。観客は史上初の12,000人だった。

 

◆第20回ライスボウル

●「第20回ライスボウル」は史上最多の16,000人の観客(日米の「ライスボウル」を同時開催した1955年第8回大会の40,000人を除く)を国立競技場に集め、67年1月15日に開催された。スタンドにはこれまでの和服姿に加え、流行のミニスカートの女性の姿も見られた。

監督は関東が篠竹幹夫氏(日大監督)、関西は武田建氏(関学大監督)で、また例年のライスボウルでは珍しい一年生選手が関東・関西各3人おり、関東はE鈴木清孝、G吉田二三夫、C渡辺富雄(いずれも日大)、関西はE安部井湧助(関学大)、G平井英嗣(立命大)、FB棚田九州男(関学大)が出場した。

試合は、ライスボウルの魅力を十分に見せた好試合となった。先手は関西で、関東の攻撃を一枚岩のような力強さでしっかり受け止めたライン陣の健闘から、攻撃になるとダブルウイングからのパスを多用して攻勢を強めた。1Q12分、QB奥井捷弘(関学大三年)からFB遠藤秀治(関学大三年)へのスクリーンパスで関東陣10ヤードまで攻め込むと、HB川瀬三郎(関学大四年)の中央突破で先制のTD。さらに2Q1分、奥井からE相馬正道(関学大三年)へのTDパスで14-0とリード。その後も関東はパスディフェンスが甘く、関西が追加点を挙げて前半は関西が28-8と大きく関東を引き離した。後半、関東は日大勢中心のユニットに変え、関西の攻撃を1TDに抑え、攻めては3TDを挙げて追いかけるが届かず、関西が34-30で接戦を制した。関西は初の2連勝で、通算成績は関西の5勝15敗となった。

 

[6]高校タッチフットボールの活動

◆第13回全国高校大会

●高校タッチフットボールは依然として西高東低が続き、12月下旬の「第13回全国大会」決勝は、宿敵となった兵庫勢同士の関学高と市立西宮高の6度目の決勝対決となり、関学高が24-0で快勝し、3年連続14回目の優勝を遂げた。

 

[7]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●ライスボウルの一週間後の1967年1月21日、49年の関学大-米軍福岡砲兵隊「キャノニールス」以来となる九州でのフットボール試合として「第1回平和台ボウル」が、福岡・平和台球場に11,000人の観客を集めて開催された。日大、関学大を主体とする東西大学から選抜された41人の全日本が在日米軍グリーンウェーブと対戦。大接戦の末、全日本学生が38-28で勝利した。試合はテレビで全国に放映され、九州地区にフットボール活動の普及を促進した。

 

◆国際試合・その他

●1967年1月15日、米プロフットボールのAFLとNFLの優勝者同士の試合である「First World Championship Game」が開催された。結果はグリーンベイ・パッカーズ 35-10 カンザスシティー・チーフス。この試合は後に「第1回スーパーボウル」として扱われた。

 

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甲子園、ライス、平和台のビッグゲーム3試合の観客数がすべて10,000人を超え、フットボールの一般への浸透が感じられた年だった。