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INFORMATION ニュース

1967.01.01

1967年(昭和42年) 活動34年目

お知らせ

関学大、11年ぶりの甲子園ボウル単独優勝。加盟校の急増時代を迎える

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月15日

・ 1月28日

・ 3月6日

・ 8月3日

・ 8月8日

・ 8月27日

・米国プロフットボール、NFLとAFLの優勝チームによる最初の試合。のちに第1回スーパーボウルと呼ぶ

・KDDが日米間の通信衛星中継業務を開始

・日本航空、世界一周線の運航開始

・公害対策基本法公布

・東南アジア諸国連合(ASEAN)結成

・ユニバシアード東京大会開催(9月4日まで)

・日本、国民総生産(GNP)世界3位に

フットボール ・ 5月14日

・12月10日

・12月24日

・翌年1月15日

・第1回日大-関学大定期戦(西宮球技場)

・第22回甲子園ボウル、関学大11年ぶりの優勝、対日大(甲子園球場)

・第1回シルクボウル、在日米軍厚木-関東学生(駒沢陸上)

・ライスボウルの高校招待試合がアメリカンフットボールへ。関学高が日大櫻丘高を下す

 

前年からの大学紛争は深刻化し、競技活動へも大きな影響を与え始めた。その中でも関東大学リーグに3校、関西学生リーグに近畿大が新たに加盟し、日本協会加盟大学は関東21校、関西7校となった。その後、各地区で加盟校が急増する前触れだった。そして長らく甲子園ボウル制覇から遠去かっていた関学大が11年ぶりに単独優勝を飾った。

[1]主な出来事

●本場米国の技術の導入に積極的に取り組んでいた関学大が攻撃体型を充実させ、甲子園ボウルで11年ぶりの単独優勝(同率優勝からは2年ぶり)を遂げた。徳永義雄監督の下、武田建へッドコーチの卓越した指導力が実を結び、力の時代から戦術の時代へと日本フットボールが歩を進める契機となった年だった。戦略・戦術の重視で10年ほど前から日本でも徐々に行われてきた「準備のスポーツ、アメリカンフットボール」が本格的に始まってきた時期だった。

●日大のショートパント体型、クイックパント攻撃が、この頃から「ショットガン体型」と呼ばれるようになった。しかし、日大の主な攻撃はアンバランスT体型で、ショットガンは攻撃に変化を付ける特別な体型だった。

 

[2]競技施設・装具・公式規則

◆公式規則変更

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●チームエリアからフィールドのプレーヤーへの直接の会話・指示の禁止の規定が撤廃され、自由になった
●チームタイムアウトの間、1人のプレーヤーはサイドライン際で1人のコーチと会話することが可能になった
●キック側のラインのエンドの位置にいるプレーヤーとバックスだけが、キック前にダウンフィールドに進むことができるようになった。ただし、従来通り、それ以外のインテリアラインマンはキックされるまで進めなかった

 

[3]春季試合

◆春季試合(学生)

●不定期に開催されてきた日大と関学大の春の交流戦が、この年から定期戦となった。関学大としては1948年1月に第1回を開催した明大との定期戦に次ぐものだった。5月14日に西宮球技場で開催された第1回定期戦は22-20で関学大が勝利。ここ10年、甲子園ボウルで勝利のない関学大は56年の「第11回甲子園ボウル」以来の日大戦勝利だった。

●加盟校のいくつかで大学紛争が深刻化していく中で開幕した春季オープン戦・交流戦で、関学大は出足から好調だった。関学大、関大、同大、甲南大と各OBチーム、全立命大、西日本大会でも圧倒的だった。

関学大は1回戦で前年苦しめられた関大を54-0で下し、決勝では就任3年目の水野彌一コーチの指導で勝ち上った全京大を36-6で破って11回目の優勝を遂げた。関学大は明大、立大と関東の強豪を破り、5月14日に春の対戦としては実に11年ぶりに日大を破って気力を充実させた。

 

◆春のボウルゲーム

●第13回西日本大会

「第13回西日本選手権」は大学チームに加えて全京大、全立命、実業団の三菱樹脂(長浜工場)など12チームが参加。関学大が11回目の優勝を遂げた。

●第13回西宮ボウル

春のシーズンの最後を飾る「第13回西宮ボウル」は、6月5日、西宮球場で開催。全関西の主力となった関学大は、QB奥井捷弘(四年)からTE滝悠紀夫(四年)へのパスが光り、日大勢一色の全関東に26-12で快勝した。

 

[4]秋季試合

◆秋季試合(学生)

■関東(学生)

●関東学生リーグは東海大、拓殖大、明治学院大が加盟し、合計21校に増えた。近畿大が加盟して7校となった関西と合わせると、日本協会加盟は28校となった。

日、立、慶、法、明、東、防、早の8校が参加した関東大学1部リーグは、駒沢競技場を主会場として開催された。日大は佐藤利雄監督の下に大躍進した法大にラスト4分で2TDを挙げて逆転勝ち。26-20と苦戦したが、日大の力が一歩抜け出ていた。日大は10人の卒業生を出してスケールが小さくなったが、あふれる闘志は相変わらずで、明大、慶大にも苦戦しながら連勝。QB平野孝雄(四年、主将)のパスワーク、FB板哲夫(二年)の突進力を活かし、全勝優勝を遂げた。HB幸田孝之(四年、主将)の光った法大、若手QB桜田良平(二年)が引っ張った明大、水上徳弘(四年、主将)、清水晴夫(四年)といったラインが引っ張った立大が5勝2敗で2位に並んだ。

 

■関西(学生)

●関西学生リーグは、西宮球技場、関学大グラウンド、京大グラウンドで開催、関西リーグ10年ぶりに近大が新加盟し、7校でリーグ戦開催、これまで最多の21試合を行った。

19連覇を目指す関学大は、京大、関大に大苦戦した。京大はE津尾佳典(四年)、T中川、矢内銀次郎(四年)、HB乾信一、HB大岡泰二(三年)が、関大はQB西口哲久(四年)、G島中光博(三年)と全関西級の好選手がそろっていたが、京大は22-42、関大は16-30とそれぞれ持ち味は出したが関学大戦は敗戦した。関大-京大の2位争いは34-18で関大が勝利、新加盟の近大は全敗の最下位に終わった。なお、1966年11月から、名神高速道路建設工事の影響で中断していた西宮球技場での開催が復活している。

 

◆秋季試合(社会人)

■秋季試合 関東(社会人)

●12月3日、近年充実してきた関東の社会人は選抜チームを編成し、駒沢第二球技場で関東学生と対戦、14-12で勝利した。

 

[5]秋季試合(ボウルゲーム)

◆第22回甲子園ボウル

●12月第2日曜開催が固定化された「甲子園ボウル」、第22回は15,000人の観客を集めて11回目の”赤”と”青”の対戦となった。

日大は、QB平野孝雄(四年、主将)、FB板哲夫(二年)、HB法師人進(二年)とバックス陣が核で、RT原田任(四年)、LT山本良一(二年)を始めとする旺盛な闘志と忠実なブロックのラインがこれを助けて1Q10分、先制TDを挙げた。しかし、関学大は直後のキックオフをFB棚田九州男(二年)が好走、HB遠藤秀治(四年)の同点TDに結びつけた。2QにはQB奥井捷弘(四年)からE瀧悠喜夫(四年、主将)へのパスでついに逆転。さらに交代したQB広瀬慶次郎(一年)が芦田俊之(四年)にパスを成功させ18-6と主導権をつかんだ。

日大もQB平野孝雄(四年、主将)が中央突破の62ヤードのTDランで12点目を挙げたが、後半は勢いに乗った関学大の堅陣の前に無得点。関学大は4Qにも2TDを追加。日大の欠点を的確に突いた関学大の戦術と気力は”魔の4Q”と呼ばれた後半のもろさを克服した。

関学大の優勝は、立大と引き分けて両校優勝だった第20回大会以来2年ぶり8回目、単独優勝は第11回大会以来11年ぶり6回目であった。徳永義雄監督は、試合後「18年前、プレーヤーとして優勝したときよりもうれしい。作戦面をよく見てくれたコーチを誉めてください」と語った。

 

◆第21回ライスボウル

●翌1968年1月15日の「第21回ライスボウル」は、13,000人の観客を集めて国立競技場で開催。試合はパスプレーの優劣が明暗を分け、関西が3連覇を遂げた。

試合は立ち上がり、両軍パスインターセプトの荒れ模様の展開で始まった。しかし関西はQB奥井捷弘(関学大四年)からLE安部井湧助(関学大三年)への30ヤードロングパスで関東陣15ヤードまで前進、次に奥井がエンドゾーンのTE瀧悠喜夫(関学大四年)への関学大コンビのパスで先制TD。14分にも、再び奥井から瀧への20ヤードパスで二つ目のTDを挙げ、前半を12-0とリードした。前半、関東のパスは多くが不成功、その差がスコアの差となった。

後半3Q6分、関東はLH幸田孝之(法大四年)が右オフタックルから抜け出し、32ヤードのTDランを挙げるが、関西は関東陣8ヤードからQB広瀬慶次郎(関学大一年)が TE瀧悠喜夫(関学大四年)にTDパスを通し、ダメ押しの18-8とした。瀧この日、三つ目のTDレシーブ。関西のフォーメーションはダブルT、I、タイトT、関東はアンバランスT、タイトT、ショートパントだったが、関東の得意のショートパント体型は関西に手の内を読まれ、堅いディフェンスの前に潰された。先制TDを挙げた関西がそのまま18-8で勝利し、3連勝。対戦成績を6勝15敗とし、西宮、甲子園、ライスと三大ボウルゲームの勝利を関西が独占した。

 

[6]高校タッチフットボールの活動

◆第14回全国高校大会

「第19回ライスボウル」まで「ライスボウル」の第1試合として開催されてきた「タッチフットボール東西高校選抜戦」は、この年の「第21回ライスボウル」から東西のアメリカンフットボールの優勝校の対戦となった。この年は、「第1回全日本王座決定戦」として関学高と日大櫻丘高が対戦し、関学高が32-22で第1回の王座に就いた。ライスボウルでの高校招待試合がアメリカンフットボールとなったのも「アメリカン」の普及を物語る。

●第14回高校タッチフットボールの全国大会は、2年連続7度目の関学高と市立西宮高の対戦となったが、大接戦の末26-20で市立西宮高が4年ぶり3度目の全国征覇を遂げた。

 

[7]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●関東では12月、在日米海軍との試合を2試合開催した。

最初の試合は、12月9日の駒沢陸上競技場での「日米親善チャリティーゲーム、全関東学生-在日米海軍シーホークス(横須賀基地)」の試合だった。関東学生は、甲子園ボウル出場の日大を除く立大、法大、明大の3大学からの編成で、監督は立大監督の中澤貞夫氏が務めた。試合は在日米海軍が1Qに先制TDを挙げると、4Qにも二つ目のTDでリード。関東も試合終了5秒前にLE伊藤宗弘(四年)のTDで迫ったが及ばず、10-12で敗れた。

●もう1試合は、甲子園ボウル後の12月24日、在日米海軍フライヤーズ(厚木基地)との交流試合として誕生した「第1回東京シルクボウル」の関東学生対米海軍厚木との対戦で、駒沢陸上競技場で開催。関東学生は日大を主力に法大、明大、立大から編成された。

2Q半ばまで米海軍がリードしたが、HB森健(日大四年)の40ヤード独走のTDなどで逆転、30-14と関東学生が快勝した。このシルクボウルは1977年まで10回開催され、本場米国のフットボールの雰囲気が味わえる対戦で人気を集めた。この頃から日本の学生チームが在日米軍と互角に戦うようになった。

●関東の明星、亜細亜、国際商科の3大学が、関東連盟とは別の東都リーグを結成。10月15日に「メープルボウル」として在日米空軍立川マローダーズと立川基地で対戦し、マローダーズが48-20で勝利した。この3大学は翌1968年、そろって関東大学連盟に加盟(準加盟)した。

 

★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)

●甲子園ボウルの想い出

「春に勝っていたので負けられないというプレッシャーで前半は固くなっていたが後半は勝負にこだわらずにエースQB平野君めがけてラッシュする様に心がけました。結果として11年ぶりの王座でした」 (関学大1969年卒 E・主将・瀧悠喜夫)

「法大戦でラスト4分で2TD差を逆転、立大戦で5-3-3守備を破って大差で勝ったことがリーグ戦の想い出。甲子園では11年ぶりの日大の敗戦のキャプテンであったこと」 (日大1968年卒 QB・主将 平野孝雄)

 

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11年ぶりの甲子園ボウル、ライスボウルともに関西勢勝利の年は終わった。しかし、学園紛争が徐々に高まりを見せ、大学主体のフットボール界の活動に影響を与え始めた。