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INFORMATION ニュース

1970.01.01

1970年(昭和45年) 活動37年目

お知らせ

関東並列リーグへ。社会人リーグ始動。専門誌『TOUCHDOWN』創刊

日 付 主な出来事
社  会 2月11日 日本初の人工衛星「おおすみ」打上げ成功
3月15日 万国博覧会(大阪万博)開幕
4月11日 米・アポロ13号打上げ。酸素タンク爆発するも地球に帰還
12月10日 スポーツ安全協会設立
米プロフットボール、NFLとAFLが統合
フットボール 5月28日~ 米軍コーチクリニック開催(米軍横須賀基地)
関西社会人、ホワイト・ベアーズ設立。関西社会人アメリカンフットボール連盟設立
8月30日 アメリカンフットボール専門誌「TOUCHDOWN」創刊
9月15日 東西クラブチーム王座決定戦開催(西宮球技場)
10月22日 関東社会人サンダラース、グアム遠征
12月25~27日 第1回高校アメリカンフットボール選手権開催。関学高、日大櫻丘高を下す(駒沢第二)
翌年1月31日 全日本社会人王座決定戦。シルバースター、ホワイト・ベアーズを下す(駒沢第二)

これまで1・2部制だった関東大学リーグが、5リーグによる並列リーグ制を採用した。加盟校全体に関東大学リーグ優勝の機会を与えるとともに、各リーグの興隆の努力を期待する趣旨で創設した。関東優勝校の決定のために、各リーグの1位校5チームからなる「関東大学選手権トーナメント」を新たに設けた。この並列リーグ制は1980年まで11年間実施した。

[1]主な出来事

●関東学生リーグが従来の2部制から、並列5リーグ制に移行した。5つのリーグの編成は32校の加盟、準加盟校間の調整を経て結成された。各リーグは総当たりのリーグ戦を行うが、加盟校が8校と多い関東大学リーグは、リーグ内で各校5試合を対戦する(2校とは対戦しない)リーグ戦となった。

この並列リーグは、加盟各校に平等に大学王座決定戦への出場機会を与えるのが目的で、各リーグ戦終了後、各リーグの優勝校5校が出場するトーナメントの関東大学選手権を開催し、その優勝校に甲子園ボウル出場権を与える方式となった。関東大学選手権への出場校は、1972年に推薦3校を加えて8校のトーナメントとなり、この並列制は2部制に戻る81年まで11年間実施された。

 

[2]競技施設・装具・公式規則

◆公式規則変更

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●スピアリングが新たに定義され、「動きの止まった相手ランナーに頭やヘルメットを使って故意に強打(頭突き)を与える行為」となった。
●守備側のパス・インターフェランスの行為の禁止の行為の始まりは、「ポールが投げられた後」からだったが、「ボールがスナップされてから」になった。

 

[3]春季試合

1.春季試合(社会人)

●関西で、京大OBを主としたサイドワインダーズ、関学OBを主としたホワイト・ベアーズが活動を開始した。ホワイト・ベアーズは、既に関東で活動を開始していたサンダラースと6月7日に西宮球技場で対戦し、6-0で勝利した。関西の社会人フットボール、クラブチームの活動開始の年だった。

 

◆春のボウルゲーム

●第16回西日本大会

春季恒例の「第16回西日本大会」は大学18チームが参加(うち12チームはOBを含めた「全学」チーム)し、3月29日に開幕。準々決勝までは関学大グラウンドで開催し、準決勝から西宮球技場を使用した。準決勝は関学大が全京大を35-0で下し、全関大が全同大に16-6で勝利した。決勝は関学大と全関大の対決となり、関学大が22-6で勝利し、4連勝13回目の優勝となった。3位は全京大、4位は全同大となった。

●第16回西宮ボウル

「第16回西宮ボウル」は、全関東のチーム編成は、この年も数年来続いた「前年度関東大学リーグ優勝校主体のチーム編成」の通りで、この回は日大の現役と卒業生が主体となった。関西は関学大が主力ながら混成の編成で、5月30日に開催された。

前半は0-0。後半、佐曽利正良(日大三年)からベテランQB阿部敏彰(日大OB)に代えた全関東が、阿部の中央突破で先制。4Q、全関西がQB広瀬慶次郎(四年)からE野木伸二(四年)の関学大コンビのロングパスで追い付けば、全関東は板哲夫(日大OB)の50ヤード独走TDで突き放す展開。全関西は終了直前に広瀬からHB松村敬(四年)の関学大コンビがTDパスを通したが、TFPは不成功。全関東が14-12で5年ぶり8回目の優勝を遂げた。

 

[4]秋季試合

◆秋季試合(学生)

■関東(学生)

●新たに並列リーグ制に編成を変えた関東秋季リーグは、次のリーグ編成となった。

・東京六大学リーグ:明大、法大、慶大、早大、立大、東大
・さつきリーグ:明学大、成城大、青学大、獨協大、成蹊大、学習院大
・首都六大学リーグ:国際商科大、関東学院大、明星大、一橋大、上智大、和光大
・関東六大学リーグ:防大、中央大、専修大、東海大、東洋大、拓殖大
・関東大学リーグ:日大、日体大、東経大、国学院大、大東大、亜細亜大、城西大、日本工業大

関東大学リーグは8大学が参加のため、総当たりではなく各大学5試合を行う方式とし、その他のリーグは総当たりリーグ戦を行い、全部で88試合を開催した。

それぞれのリーグが秋のリーグ戦のプログラムを作成し、5冊のリーグ戦プログラムが発行された。試合会場は、駒沢競技場の各グラウンドをそれぞれのリーグが使用し、不足分は大学グラウンドを使用した。

この頃、駒沢競技場(第二球技場、補助競技場)を使用して1日3試合を開催する場合、第1試合の開始予定時間は9時30分、第2試合は12時、第3試合は14時30分だった。公営施設のため、開門は9時、閉門は17時と決められており、朝は開門と同時にライン引きを開始し、また1974年からはゴールポストを使用するようになりゴールポストを組み立てた。3試合目の終了後は、グラウンドのフットボールで使用した設備を撤去し、ラインを消し、選手はシャワーを浴び、更衣室をきれいにして退出と、とても慌ただしかった。土日と2日間続けて利用する場合は、ゴールポスト(74年以降)はそのまま利用し、日曜日のライン引きは短時間で済んだため、試合開始前の準備は少し楽だった。

リーグ戦は、関東大学リーグでは日大が桁違いの力で勝ち進んだ。実力でリーグでは抜きんでていた日大は、リーグの試合に「ランプレー、パスプレー各5パターンのみで、100点以上の得点を挙げて勝利する」を目標で臨んだ。そのこともあり、亜細亜大戦では114-0、第4戦の国学院大戦では1967年の明学大-東海大の144-0を塗り替える162-0の史上最多得点を記録した。

東京六大学リーグでは、慶大に1敗しただけの明大が優勝。慶大は立大、法大に敗れ3位、2位は立大となった。

関東六大学リーグでは防衛大が専大と引き分けともに1位となり、首都六大学リーグは一橋大、さつきリーグは明学大の各校が優勝。

実力差がかなりある対戦が多くなり、試合展開の興味以外に選手の安全性の問題があり、有料会場もある程度各リーグが公平に使用することから全体の有料観客数の減少が見られた。また、試合結果の新聞報道も、並列リーグのため多くの試合の結果が掲載される利点があったが、逆に旧1部相当の試合も対戦結果のスコアが新聞に1行載るだけとなって深みのある記事が減少し、並列リーグ制の課題が早くも出てきた。この並列リーグ制がまた以前の1、2部制に戻ったのは1981年シーズン。11年間、この並列リーグ制は続いた。

●第1回関東大学選手権

「第1回関東大学選手権」は各リーグ1位の明大(東京六大学リーグ)、日大(関東大学リーグ)、防衛大(関東六大学リーグ)、明学大(さつきリーグ)、一橋大(首都六大学リーグ)で行われ、防衛大と一橋大が一回戦を行い、その勝者が残り3リーグの優勝校と準決勝を戦う形式となった。

日大と明大が圧倒的な点差で勝ち進み、決勝で対戦した。気力充実の日大は、QB佐曽利正良(三年)を中心とした攻撃でFB進藤徹(四年)のTDで先制。3Qにも3TDを挙げ、守備陣も明大を完封して42-0で快勝。2年連続13回目の関東優勝を果たした。

 

■関西(学生)

●関西学生リーグには、東海地方で独自の活動を続けてきた名古屋学院大と愛知学院大が加盟し、20校に増加した。そのため、1部相当の関西学生リーグを7校から8校に増加させ、2部相当のリーグの名称を「近畿学生リーグ」とし、「京阪ブロック」、「阪神ブロック」の2ブロックに分け、9月6日に開幕した。

関西学生リーグは関学大、京大、関大、桃山学院大、近大、甲南大、同大、立命大で編成。西宮球技場、西京極球技場で開催し、9月6日の西宮球技場での関大-近大で開幕。1、2部全体で57試合を開催した。

関西学生リーグでは、今季より武田建監督の下、新体制となった関学大が、関大には2TDを許したものの、他の対戦では完封勝利を収めて圧倒。水野彌一監督が指導する京大が21年ぶりの単独2位に浮上したが、関学大との差は大きく0-63の完敗。以下関大、桃山学院大、近大、甲南大、同大、立命大と新興大学の台頭が目立った。特に前年、近畿学生リーグから関西学生リーグに昇格したばかりの桃山学院大が近大、甲南大、同大、立大に勝利し、4勝3敗で4位になった。

入れ替え戦では、近畿学生リーグで優勝した追手門学院大が、1部最下位の立命大を14-12で破り、初の関西学生リーグ昇格を決めた。立命大はその後9シーズン、2部での活動となった。

 

■各地区(学生)

【北陸】5月、北陸地方最初のチームとなる福井大が誕生した。

 

[5]秋季試合(ボウルゲーム)

◆第25回甲子園ボウル

●12月13日の「第25回甲子園ボウル」は、晴天だが強風の下で15,000人の観客を集めて開催。リーグ編成の変更により強豪チームとの対戦が少ないというハンディキャップを乗り越えた日大(篠竹幹夫監督)と関学大(芳村昌悦監督)との13回目の対決となった。

日大は関東大学選手権からわずか1週間後の甲子園ボウルだった。五分と予想されたが、やや日大に対して劣ると言われた関学大ラインが、C長谷川公一(四年)、RT加藤良治(四年)らの完璧なブロックと素早いラッシュを見せて大型ラインの日大を圧倒し、34-6と完勝した。

関学大はQB広瀬慶次郎(四年)がE野木伸二(四年)、伊藤和男(三年)、FL松村敬(四年)、HB三重野大輔(四年、主将)、岩崎豊(三年)に多彩なパスを投げ分け、”パスの関学大”を確立した。1Q、三重野のTDランで先制すると、2Q開始早々に日大のパントが折からの強風で戻されてセーフティー。関学大はさらに三重野の20ヤードラン、広瀬から松村へのパスと、前半で22-0と大きくリードした。

さらに3Q、日大が無理やり投じたパスをLB岩崎豊(三年)がインターセプトリターンTDし、勝負が決まった。HB三重野大輔(四年、主将)の再三にわたる活躍とRT竹田邦夫(三年)、LE後藤寛(三年)、G岡本昭二(四年)の鉄壁な守備ラインが光った。日大は4Q、FB進藤徹(四年)のTDで完封を逃れるのが精いっぱい。最終スコアは34-6で関学大は10回目の優勝を飾った。

 

◆第1回社会人東西王座決定戦、全日本社会人王座決定戦

●この頃から活発化してきた社会人クラブチームの「第1回東西王座決定戦」を9月と翌1971年1月に2回開催した。9月15日、西宮球技場で行われた「東西クラブチーム王座決定戦」では、倉智春吉氏を中心に設立されたホワイト・ベアーズが18-12シルバースターを破った。翌年1月31日には駒沢第二球技場で「全日本社会人王座決定戦」として開催。今度はシルバースターが18-8でホワイト・ベアーズを破り、この年は1勝1敗となった。

 

◆第24回ライスボウル

●翌1971年1月15日開催の「第24回ライスボウル」は国立競技場で12,000人の観衆を集めて開催された。関東大学リーグは並列リーグ制となり、全関東のチーム編成も日大が所属する関東大学リーグから日大、日体大、大東大、東経大などの選手が選ばれた。一方、関西は関学大を主体に京大4人、関大、甲南大、近大各1人のチームだった。13時半にキックオフされた試合は、1Qで関西が3TDを挙げて22-0とリードし、2Q、3Qは両軍無得点。4Qに両軍とも1TDを挙げ、終始リードを保った関西が28-6で勝利した。

1Q開始早々、関西はQB広瀬慶次郎(関学大四年)からRB三重野大輔(関学大四年)に渡ったボールをHB松村敬(関学大四年)が受けるダブルリバースで松村が26ヤード走りTD。さらに6分、広瀬が三重野にハンドオフすると、三重野は40ヤード走り関東陣19ヤードまで進んだ。そこから松村が右を走って二つ目のTD、9分には三重野が左オフタックルで35ヤードの独走TDと、試合開始9分で関西が関学大のバックストリオの活躍で大きくリードした。

関東は試合終了直前、QB佐曽利正良(日大三年)からE岡本則夫(日大四年)への45ヤードロングパスでTDを挙げ、完封負けを逃れたが、その得点だけの完敗だった。関西の勝利はラインでの主導権、スピードの差、パスプレーでのレシーブ力によるものだった。これで両チームの対戦成績は関西の8勝16敗。関西勢優位となってきた第16回大会以降では関西の5勝1敗となった。

 

◆その他のボウルゲーム

●1971年1月3日、「第20回神戸ボウル」が神戸市の王子陸上競技場で約4,000人の観客を集め、全関西学生選抜とホワイト・ベアーズの対戦で開催された。2Q、関西学生選抜はQB金氏眞(京大四年)がラインを突破し先制のTD。ホワイト・ベアーズはFB遠藤秀治(関学大OB)、RH棚田九州男(関学大OB)らのランで反撃するが得点できす、関西学生選抜が6-0で勝利した。

 

[6]高校フットボールの活動

●高校にとっては画期的な年になった。

●1954年に「第1回全国高校タッチフットボール大会」が開催されてから17年目。高校は、「第17回全国高校タッチフットボール大会」を開催すると同時に、記念すべき「第1回全国高校アメリカンフットボール選手権」を開催した。

この時期、アメリカンフットボール競技の実施校は、関東地区で日大櫻丘高、日大一高、法政二高、都立西高、慶応高、早大学院、東海大付高、明学東村山高、鎌倉学園高、都立烏山工高、足立高、電大高、聖学院高、正則高の14校、関西地区は関大一高、追手門高、浪速高、箕面自由学園高、関学高、府立池田高の6校であった。

関東地区の秋季大会はアメリカンフットボールに一本化された。関西地区では従来のタッチフットボールに加え、アメリカンフットボールの公式戦が始まった。

●「第1回全国高校アメリカンフットボール選手権」、および「第17回全国高校タッチフットボール大会」は12月25~27日に、駒沢公園(第二球技場、補助競技場)でアメリカンフットボール6校、タッチフットボール4校が参加して開催された。

「第1回全国高校アメリカンフットボール選手権」は次の通りとなった。
・1回戦:都立西高(東京)18-14浪速高(大阪)、法政二高(神奈川)18-14日大一高(東京)
・2回戦(準決勝):日大櫻丘高(東京)44-0都立西高、関学高(兵庫)34-16法政二高
・決勝は、関学高が終始押し気味に進め、35-0で日大櫻丘高を下し栄えある初代王者となった。

「第17回全国高校タッチフットボール大会」は4校の参加で開催。1回戦では、崇徳高(広島)が26-6で東海大付高(東京)を、県立八日市高(滋賀)が18-6で府立豊中高高(大阪)をそれぞれ破り、決勝に進んだ。決勝では、2Qから県立八日市高がTDを重ねて20-0で初優勝を飾った。

1968年の「第21回ライスボウル」から、その第1試合として開催されてきた「アメリカンフットボール東西高校王座決定戦」は、この翌71年1月15日は関学高が日大櫻丘高を19-6で破り、3年ぶり2度目の王座に就いた。この「東西高校王座決定戦」は、「全国高校アメリカンフットボール選手権」が開始したことから、この大会が最後になった。

 

[7]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●「第4回シルクボウル」は、12月20日に駒沢陸上競技場で開催。在日米海軍厚木フライヤーズが接戦の末に36-34で関東学生選抜を下した。従来は関東学生選抜として1部リーグから選抜されたが、この年から並列リーグとなったため、この試合の関東学生選抜は、関東大学選手権の2位校が所属するリーグから編成することとし、東京六大学リーグから選抜された。この試合の開始前、日米少年親善試合「ミルクボウル」(立川ジェッツ-米軍座間トロ―ジャンズ)が行われ、場内の声援を集めた。

またこの試合に先立つ11月29日、在日米軍厚木フライヤーズは、「第5回京都ボウル」で全関西選抜と対戦し、30-14で勝利した。

●国内のアメリカンスクールとの対戦も1970年代に盛んに行われ、米軍基地のフットボール場での対戦や、日本チーム-米軍チームのボウルゲームの第1試合として開催されることも多かった。

 

◆日本チームの活動(海外開催)

●10月22~27日にクラブチームの東京サンダラースがグアムへ遠征し、同地の駐留米軍と試合を行った。20-27で敗戦したが、日本の単独社会人チームでの初の海外遠征だった。

 

★★★★★★★★★★★

9月、日本初のアメリカンフットボール専門誌『TOUCHDOWN』(発行人・後藤完夫氏=慶大OB=)が創刊された。当初は年3回(春・秋・冬)でスタート。隔月刊を経て1976年8月号から月刊誌となり、2016年10月号(vol.568)で休刊するまで、フットボール活動とその魅力を伝えた。