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INFORMATION ニュース

1971.01.01

1971年(昭和46年) 活動38年目

お知らせ

ユタ州立大の来日で「国際化元年」。社会人が活性化し日本リーグ設立

日 付 主な出来事
社  会 4月10日 米卓球チーム、北京へ(米中ピンポン外交)
6月17日 日米政府間で沖縄返還協定調印式
8月15日 ニクソン・ショック(米国が金とドルの交換停止)
8月28日 円変動相場制移行
フットボール 4月 日本社会人アメリカンフットボール協会設立
4月 東京サンダラース、グアム遠征
8月 関学高、初のハワイ遠征。カウアイ高、ヒロ高と対戦
9月15日 日本社会人アメリカンフットボールリーグ発足
11月9日 シルバースター、ハワイ遠征。ハワイ大と対戦
12月 ユタ州立大来日(関東、関西で試合)
翌年1月30日 日本リーグ第1回東西王座決定戦、サイドワインダーズ、シルバースターを下す

これまで学生主体の活動を続けてきたフットボール界に、OBを主体とした社会人チームが充実し、社会人協会が設立された。また、社会の関心も戦後20数年経過してやっと高まり、ついに本場米国からユタ州立大が来日して関東、関西で試合を開催。1935年の全米米式蹴球団以来36年ぶりに来日した本場の本格的フットボールチームは大きな話題となった。

[1]主な出来事

●米国の強豪・ユタ州立大がシーズン終了後に来日。関東、関西で全日本学生選抜と2試合を行い、日本フットボールの普及や向上に多大な影響を与えた。

戦前から数えて全日本チームの4度目の本場との交流(1935年の全米学生蹴球団来日、36年の東京学生選抜の米西海岸遠征、64年の全日本学生選抜ハワイ遠征)となるが、戦前の全米選抜戦は友好と普及が目的で、戦後のハワイ遠征は準備不足だった。体力や技術が急速に向上した時点での今回の交流は、非常に意義深いものとなった。ユタ州立大は米国でも上位30校(当時)に入る実力を持ち、しかもヘッドコーチのチャック・ミルズ氏の人間教育が徹底した好チームだった。

関西では関西出身選手主体の全日本と合同練習を開催し、技術・戦術面での交流を深めた。これを契機に、米国大学の来日が頻繁となり、日本フットボールの普及や向上に大きな影響を与えた。その後も語り継がれた来日であり、この年は「日本フットボール国際化元年」と言えた。

●米国からの強豪チームの来日とともに、日本チームの海外遠征が盛んに行われるようになった。社会人チームの老舗、東京サンダラースが春にグアム遠征。続いて8月には高校の名門関学高がハワイ遠征して25日にカワアイ高に0-19、29日にヒロ高に14-6と1勝1敗の成績。11月には日大出身者が多いシルバースターがハワイに遠征した。関学高のハワイの高校との国際試合は、以降も続いた。

●5月に社会人チームが、日本フットボールリーグを結成した。前年から準備が進められてきた社会人フットボールの組織的活動が、関係者の努力で4月に「日本社会人アメリカンフットボール協会」を設立し、5月に日本協会で承認された。6月に東京・小石川運動場で結成記念試合を開催(サンダラース18-0東京ヴァンガーズ)。そして9月25日に「日本フットボールリーグ」が開幕した。「日本リーグ」はサッカー、バレーボールなどに続き5番目であった。参加チームは次の通り。

・関東(6チーム) シルバースター、サンダラース、東京ヴァンガーズ、イエローシャークス、アポロ11、バッファローズ 会場:駒沢陸上競技場、駒沢第二球技場、小石川運動場
・関西(4チーム) ホワイト・ベアーズ、サイドワインダーズ、ブラックイーグルス、大阪ヴァンガーズ 会場:西宮球技場

●関東には城西大、日本工業大の2校が新加入し、計32校に。関西の20校と合わせて日本協会加盟校は52校となった。

加盟校や選手人口が急増した影響もあるかもしれないが、悲しい事故が発生した。5月、大学対抗戦で東大の栗崎真次選手(二年)が脳内出血で、8月には練習中の日大HB炭田豪敏選手(四年)が内臓疾患でそれぞれ死亡。安全対策のよりいっそうの徹底を促す契機となった。

●日本協会加盟チームは大学52、社会人10、高校37、中学9となった。

●藤堂太郎氏が日本協会理事長(第10代)に就任。1978年まで8年間務めた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則

◆防具・装具

●ボクシング用品メーカーのウイニングスポーツでショルダー、ブロッキング、ヒップ、ニー、サイの国産各パッド類の販売が、またスキー用品メーカーのエバニューで国産ヘルメットの製造、販売が開始された。輸入防具に比べて安価であり、フットボール普及の一助となったが、採算ベースに乗らず、両社ともに数年後に生産を中止した。

 

◆公式規則変更

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●クラックバック・ブロックが定義され、禁止された
●1969年の得点の後に加え、ボールを持っているプレーヤーは、いつでも直ちに審判員にボールを返さなければならなくなった。

 

[3]春季試合

1.春季試合(社会人)

●前年のホワイト・ベアーズに続き、やはり前年結成されたサイドワインダーズが活動を本格化。京大OBが主体だが、学校色をなくし広く門戸を開放する方針とした。さっそく3月28日、西宮球技場に米軍厚木フライヤーズを招いて結成記念試合を開催した。

 

◆春のボウルゲーム

●第17回西日本大会

「第17回西日本大会」は、近年躍進する京大が全京大として決勝に進んで関学大と対戦したが、16-6で関学大が優勝。前半、全京大が健闘したが、守備ラインのチームの関学大がLG竹田邦夫(四年、主将)、RT大橋登(四年)、RG伊角富三(三年)、RE後藤寛(四年)らを中心にまとまり、全京大の攻撃を守り切って15度目の優勝を飾った。

●第17回西宮ボウル

「第17回西宮ボウル」は、5月26日、12,000人の観客を集めて開催。日大出身者が多い関東に比べ、OB・現役一体となった関西が、前半HB志村安男(関学大四年)、FB岩崎豊(関学大四年)のTDで主導権を握った。守ってもE山崎博(関学大三年)、秋田恭司(関学大出)、家門克至(同志社大出)がそれぞれ全関東のパスをインターセプトするなどして全関東の攻撃をシャットアウト。全関西が26-0で初の完封勝ちを収めた。

 

[4]秋季試合

◆秋季試合(学生)

■関東(学生)

●関東秋季リーグは、前年度から採用の5リーグ並列制で実施され、プログラムも前年同様、リーグ別に発行された。会場は駒沢競技場(駒沢第二球技場、補助競技場)を主会場として開催した。

RG湯村文寛(四年、主将)、LE丹羽正憲(四年)、QB佐曽利正良(四年)を中心に圧倒的に勝ち進む日大の関東学生リーグを除き、他の4リーグは混戦となった。関東学生リーグは準加盟の桜美林大を入れて9チームとなったため、前年同様総当たりのリーグ戦ではなく、各チーム5試合を行う変則的なリーグ戦を行った。東京六大学リーグでは明大、関東学生リーグ(「関東大学リーグ」から改称)は防衛大、さつきリーグは明学大、首都六大学リーグでは新鋭・国際商科大がそれぞれ優勝し、関東大学選手権へと駒を進めた。

●第2回関東大学選手権

「第2回関東大学選手権」では旧1部の日大、明大の力が頭抜けていたが、準決勝では近年躍進著しい防衛大が明大に健闘。6-26で敗れたが、話題を集めた。決勝は2年連続で日大-明大となった。明大の洗練された攻守も日大はRG湯村文寛(四年、主将)、T寺内吉次(四年)、楯林義親(四年)を中心とする粘りのあるラインが攻守に圧倒。QB佐曽利正良(四年)のパスなどで前半で勝負を付け、39-19で日大が勝利し、3年連続14回目の関東制覇を遂げた。

 

■関西(学生)

●8校による関西学生リーグは西宮球技場で開催。関学大圧倒的有利の下馬評で、注目されたのは2位争い。その一番手として予想されたのが関大で、その通りQB西川昭(四年)、E橋勉(四年)と中核に好選手を揃えて関学大に26-38と迫る大健闘を見せた。

関学大は監督芳村昌悦氏、攻撃コーチ広瀬慶次郎氏、守備コーチ滝悠紀夫氏がまとめ、関大に4Q押し迫ってから2TD挙げて逆転する苦戦を演じたが、最終戦は前年2位の京大に80-0で完勝。111連勝でリーグ23連覇とした。甲南大がG満田創(三年)を筆頭に安定したチーム力で前年6位から急上昇し、6勝1敗で2位に食い込んだ。以下は激しい星のつぶし合いで、4勝3敗の京大が3位、関学大に26-38と健闘した関大は甲南大と最下位の同大に敗れ、3勝3敗1分で4位。名門同大は入れ替え戦で阪大に敗れて2部降格となり、その後1977年まで1部復帰はかなわなかった。

 

■各地区(学生)

【東北】東北で初めてのチームとして日大工学部(福島県郡山市)が創部し、活動を開始した。

 

◆秋季試合(社会人)

●リーグ戦は、関東地区では日大出身者で固めたシルバースターが事実上の優勝決定戦となったサンダラース戦にQB阿部敏彰の好リードで14-0と勝利し、リーグ優勝を決めた。関西では京大・日大出身者の多いサイドワインダーズとホワイト・ベアーズがリーグ戦で引き分け、優勝決定の再戦を行い、サイドワインダーズが東西王座決定戦に進んだ。

日本一を懸けた日本リーグ東西王座決定戦は、翌1972年1月30日駒沢第二球技場で開催。スカウティング充分なサイドワインダーズ(森龍彦監督)がシルバースター(阿部敏彰監督)を攻守に圧倒して29-8で完勝し、初の日本リーグ覇者となった。この年は、以降興隆する社会人フットボールの本格的なスタートの年だった。

 

[5]秋季試合(ボウルゲーム)

◆第26回甲子園ボウル

●「第26回甲子園ボウル」は12月12日に15,000人の観客を集め、日大と関学大が14回目の熱戦を繰り広げた。

両校とも決め手はパス。日大はショートパント体型でバックスを片側に広くスプリットさせたショットガン・ブイ(V)体型、関学大はプロI体型からパスを試みたが、ラインは日大が一枚上だった。G湯村文寛(四年、主将)、T楯林義親(四年)を軸に堅いプロテクションを見せ、QB佐曽利正良(四年)からSE丹羽民憲(四年)、FL大戸孝(四年)へのパスを生かした。

日大が1Q、QB佐曽利正良(四年)からSE丹羽民憲(四年)のパスで先制TD。2Q、関学大が快足HB志村安男(四年)のラン、QB万田博一(二年)からE山崎博(三年)への20ヤードパスでそれぞれTDを挙げ、ともにTFPが成功し関学大が16-8と逆転した。日大も佐曽利からFL大戸孝(四年)への60ヤードパス、佐曽利のランで再逆転。3Q、関学大はエースQB万田が前半終了間際に負傷し、交代してQBに入った志村がFB岩崎豊(四年)にパスを決めて同点とする大激戦となった。

最後は4Q10分、日大がQB佐曽利正良(四年)がRE岡崎信夫(四年)に15ヤードのパスを決め、28-20で勝ち越した。日大は34回パスを投げて23回成功、68%という高い成功率を記録し、以後ショットガンを攻撃の主軸に据える契機となった。日大はこれで甲子園ボウル10勝3敗1分とした。

 

◆第25回ライスボウル

●「第25回ライスボウル」は翌1971年1月16日に国立競技場で開催された。

ここ数年、関西に押され気味の関東が、大学日本一の日大を中心とした編成で1Qから”投・走”で関西を圧倒。4Qの関西の反撃を振り切って30-20で快勝し、3年ぶりの優勝で対戦成績を関東の17勝8敗とした。関東は篠竹幹夫監督、関西は芳村昌悦監督が指揮を執った。

試合は1Q、関東QB佐曽利正良(日大四年)がHB大戸孝(日大四年)へ30ヤードのロングパス、LE丹羽民憲(日大四年)へのパスで優位に進めた。関東は2Q、自陣20ヤードからの攻撃で、佐曽利が右の中村実(立大三年)、左の丹羽と両エンドへの正確なパスを決めて前進。FB川口久(法大三年)の60ヤード独走などで前半4TDを挙げて大きくリードした。

関西は後半に入ってベンチワークが実り、QB西川昭(関大四年)の好判断や重量ラインを誇る守備の健闘で反撃したが、関東が30-20で勝利した。なお、この大会で、日本のアメリカンフットボール誕生時に朝日新聞記者として競技開始に尽力し、また戦後、関東フットボール連盟会長を務めた加納克亮氏の功績をたたえ、加納杯が設けられた。

 

[6]高校フットボールの活動

◆春季大会(高校)

●関西地区の春の「第1回高校選手権大会(アメリカンフットボール)」はトーナメントで開催され、決勝で関学高が92-0で府立豊中高を下し優勝した。

 

◆秋季大会(高校)

■関東地区(高校)

関東地区秋季大会は、神奈川県が独立して開催。春季大会は東京、神奈川は従来通り一緒のトーナメントを開催した。

 

■関西地区(高校)

5月26日の「第17回西宮ボウル」の第1試合として、大阪高校選抜-兵庫高校選抜が行われ、兵庫高校選抜が52-0で勝利した。この両府県の高校選抜戦は、西宮ボウルが最後の開催となる2002年6月の第48回大会まで開催された。

 

◆第2回全国高校選手権

「第2回全国高校アメリカンフットボール選手権」は6校の参加で前年に続き駒沢第二球技場で開催。12月22日に1回戦2試合、23日に準決勝、24日に決勝を行った。1回戦は、関大一高が12-0で早大学院を、日大一高が慶応高を32-8で破って準決勝に進んだ。準決勝は日大櫻丘高が50-6で関大一高を、関学高が60-0で日大一高を破り、決勝は関学高が27-8で日大櫻丘高を破って2連覇を遂げた。

同時に開催された「第18回全国高校タッチフットボール大会」は東海大付高、県立長浜北高、県立星陵高、崇徳高の4校が出場、決勝は東海大付高が県立長浜北高を20-6で破り、初優勝を遂げた。

 

[7]海外・国際関連の活動

●この年からの米大学と関東・関西の選抜チームとの対戦以外に、この頃から日本の単独チームが米国の大学に挑戦し始めた。日本の単独チームの国際試合(米軍戦を除く)は、戦前は日本フットボール2年目の全米学生来日時の1935年3月23日開催の明大-USCだが、戦後は65年9月にハワイのホノルルスタジアムで開催された全慶応大-ハワイ大(2軍)戦だった。続いて71年10月のシルバースターのハワイ大戦(ホノルルスタジアム)、そして72年8月に全関大がグアム大とグアム大スタジアムで、73年11月に東京ヴァンガーズがハワイでハワイ大と対戦した。

また米本土における試合としては、1973年9月に社会人チームのサイドワインダーズがロサンゼルスで現地のロヨラ大と対戦した。またこの頃、いくつかの社会人チームはグアムやフィリピンの現地米軍チームと試合を行っている。

 

◆日本チームの活動(国内開催)

●1935年の全米学生選抜チームの来日以来、本場米国チームの2番目の来日となったユタ州立大は12月16日、選手40人、コーチ6人、その他関係者や応援団を含め、総勢125人で来日した。

2日間の練習後、12月19日に国立競技場に史上最高となる30,000人の観客を集めて、関東地区選抜の全日本(篠竹幹夫監督)と第一戦を行った。平均体重差17キロ、身長差18センチと圧倒的体格差から全日本は完全ツープラトン制で、QB佐曽利正良(日大四年)を生かすショットガン攻撃で臨んだ。しかし、サイズのみならず個々のスピード、センス、基本技術といずれも格段に上のユタ州立大はTDを積み重ね、後半は控え選手が出場しながら50-6と圧勝した。

全日本も実力差があった中で、52回試み29回成功、成功率56%という絶妙なパスを見せたQB佐曽利正良(日大四年)、E丹羽民憲(日大四年)、HB真杉健(明大四年)、沢山和孝(早大三年)のレシーバー陣の健闘でカバーし、21回の第1ダウンを獲得して大量失点を防いだ。唯一のTDはDB山岡雄二(早大OB)がインターセプトリターンで挙げたものだった。

ユタ州立大は関西に移動後、全関西(武田建監督)と甲子園球場で合同練習を2日間行い、12月26日に甲子園球場で関西地区選抜の全日本と第2戦を行った。QB広瀬慶次郎(関学大OB)を中心とする全日本は健闘し、2Qにはプロ体型からショットガン体型に切り替えて得点を狙った。しかし、堅いユタ州立大の5-2守備を破ったのは4Qになってから。広瀬からFL松村敬(関学大OB)、池戸秀行(関学大四年)へのフラットへのパスで20ヤードまで攻め込み、最後は広瀬からFL志村安男(四年)へのスプリントパスで待望の初TDを挙げた。最終スコアは45-6。ユタ州立大は、プロ入りしたトニー・アダムスの正確かつスピードあるパスが観客を楽しませた。一行は、12月27日に離日。関学大・武田建ヘッドコーチの努力で実現したこの交流を契機に、以降は米国大学の来日が頻繁となった。

●この年の桜の季節にも「サクラボウル」が第2回として開催され、在日米海軍厚木が28-22で全日大を下した。

 

◆日本チームの活動(海外開催)

●前年のサンダラースのグアム遠征に続き、社会人チームとして2番目の海外遠征としてシルバースターが10月にハワイへ遠征。ハワイ大と対戦し、6-40で敗れた。

●高校チームの遠征国際試合の相手もハワイが始まりだった。8月に関学高がハワイに遠征し、カワアイ高とヒロ高と対戦し好試合を展開し、カワアイ高には敗れたものの、ヒロ高に勝利した。この試合がきっかけとなり、翌1972年春にはカワアイ高が来日して関学高、慶応高と対戦。同年夏にはヒロ高が日本で関学高、日大櫻丘高と対戦した。

 

★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)

●甲子園ボウルの想い出

「敗れはしたが、日大の主将湯村文寛とライン戦で激突したことは、生涯忘れることはないだろう」(関学大1972年卒 G・主将竹田邦夫)

 

★★★★★★★★★★★

本格的な日米国際交流が始まり、また社会人フットボールの体系化された活動が開始されるなど、日本フットボールにとって道標となる年だった。日本のフットボールの国際化の始まり、競技者年齢の拡大の年だった。