ユタ州立大、ハワイ大と日米交流が続いたが、1973年度にはさらに活発化した。春季に関学大が韓国遠征し、米国グアム大とJ・F・ケネディ高が来日。8月に関学高がハワイ遠征し、秋季には関西社会人サイドワインダーズの米国遠征や関東実業団の東京ヴァンガーズのハワイ遠征と相次いだ。翌1974年1月にはウェイクフォレスト大が、再来日のチャック・ミルズ・コーチに率いられて来日。東西の学生選抜と対戦し、日本のフットボール技術の向上に貢献した。
日本フットボールの水準向上は急テンポとなり、各チームはそれぞれ戦略的チーム作りの研究に取り組み出した。
[1]主な出来事
●12月29日から翌1974年1月6日(9日間)にかけて「アメリカ西部とローズボウル観戦」ツアーが旅行会社によって催行された。
・サンフランシスコでシュライン東西学生オールスター戦
・ロサンゼルスでローズボウル
を観戦するツアーで、費用は257,000円だった。
(参考:1973年大卒初任給62,300円(厚生省調査)、同年対米ドル為替平均レート271.17円)
[2]競技施設・装具・公式規則
◆防具・装具
●マウスピースの着用が必須となったが、日本のグラウンド状況(土のグラウンドが多く、衛生面を考慮)から、このルールの適用は柔軟に行われた。
●関学大がヘルメットに「KG」のステッカー(デキャル)を貼った。以降、各チームでヘルメットにデキャルが貼られるようになった。
●2月、それまで1ドル360円の固定相場制がスミソニアンレート(1ドル308円)という時代を経て、完全な変動相場制に移行した。これにより、円高に推移し、米国産防具の購入などでは、国内購入価格が下がり、フットボール活動に好影響を与えた。
●この頃、米国製ヘルメット、ショルダーが1組30,000円程度だった。
●ウイニングスポーツ社から、待望の国産防具が製造・販売された。価格は以下の通り。
※日本には安全基準評価制度がなくヘルメットは製造の対象外
◆公式規則変更
●従来、プレーヤーの交代には人数、ダウンの状況に応じて制限があったが、完全に自由交代制となった。
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●ヘルメットには、しっかりとしたチンストラップが必要になった。
[3]春季試合
◆春のボウルゲーム
●第19回西日本大会
関西春季の「第19回西日本大会」は藪本憲靖主将、QB西川昭、HB仲本幸市ら関大出身選手を核としたブラックイーグルスと、QB金氏眞、HB大岡泰二、FB平井英嗣、G湯村文寛と大型選手を揃えたサイドワインダーズとの2年連続社会人による決勝となった。試合は、サイドワインダーズが22-14で2連覇。近年、社会人チームが徐々に力を付けてきたこともあるが、卒業生を送り出す大学チームは春はチーム再構築の時期でチームが未完成とあって、以後、”春は社会人”の時代となった。
●第19回西宮ボウル
「第19回西宮ボウル」は6月6日に開催。1Q、全関西RB大岡泰二(サイドワインダーズ)が中央を突き先制のTDを挙げると、3QにRB平井英嗣(サイドワインダーズ)も中央突破し追加点を挙げた。全関東は続くキックオフでWR高田洋一(法大四年)が90ヤードのリターンTDを挙げて迫るが、全関西は再び平井が右オープン走って3つ目のTD。サイドワインダーズ主体の全関西が、大学と社会人混成の全関東を18-6で破り、対戦成績を10勝8敗1分とした。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●関東大学秋季リーグは、4年目の並列リーグ制で9月上旬から開催。駒沢第二球技場、駒沢補助競技場を主会場としたが、近年の加盟校増大による試合数増加で、各大学グラウンドで行う試合も多くなった。
東京七大学リーグでは、日大が伝統のアンバランスTからバランスドTに移行。またこの年初めて完全な攻守別チームのツープラトン制を敷いた。日大はHB岩沢正人(一年)、桐野達也(二年)のランとS御園生茂(四年)を中心にリーグ戦無失点の4-4守備で優勝。HB高田洋一(四年)、FB太田原亘(四年)をスロットT体型から走らせた法大が2位となった。
関東七大学リーグは日体大、さつきリーグは青学大、首都七大学リーグは千葉商大、ローズリーグ(「関東学生リーグ」から改称)は東経大が優勝した。
●第4回関東大学選手権
「第4回関東大学選手権」は、各リーグの優勝校と推薦で法大、中大、国際商科大が出場。1回戦で法大と日体大が対戦し、日体大が善戦したが法大が8-6の接戦を制した。また東経大と千葉商大は18-18の同点で、抽選で東経大が準決勝へ進み、日大は国際商科大を、中大は青学大をそれぞれ破った。準決勝は法大が東経大を、日大が中大をそれぞれ大差で下した。
決勝の日大-法大は20-20の引き分け。法大は日大ゴール前からの日大のパントをブロックしてセーフティーを奪い、日大のTFPも防ぎながら、自らのTFPの失敗が痛かった。4Q、ランプレーに力のある日大一年生RB岩沢正人のランで同点に持ち込まれ、法大は勝てる試合を失った。抽選で日大の甲子園ボウル出場が決定した。
■関西(学生)
●関西リーグには北陸初の福井大と金沢工業大に加え、京都工芸繊維大、岐阜歯科大の4校が加盟し、計24校となり、2部リーグは3ブロックへと移行した。会場は西宮球技場と西京極球技場を使用した。
関西学生リーグは、監督2年目の武田建体制が確立した関学大がQB万田博一(四年)、FB柴田尚(三年)、FL小川良一(二年)とバックスが充実した。加えて、主将LG豊島良夫(四年)の下に”四天王”と異名を取るRG前川比呂郎(二年)、RT小寺道嗣(三年)、DT松田成利(二年)、LT神木孝(二年)の強力ラインで不安のない布陣でリーグ戦に臨んだ。
しかし、1年半の米国留学から復帰した水野彌一コーチが指揮する京大も、QB刀根規久男(四年)を中心に打倒関学大を目指して好調な試合ぶり。両者全勝で迎えた最終節は、西宮競技場にリーグ史上最高となる約5,000人の観客を集めた。試合は関学大が京大の力を封じる巧みな戦術で17-0で快勝し、25連覇を達成した。
3位以下は前年に続き混戦だったが、古豪・関大(3位、4勝3敗)、新鋭・阪大(4位、3勝3敗1分)の健闘が光った。以下、5位桃山学院大(3勝4敗)、甲南大(2勝4敗1分)、近大(2勝5敗)、追手門学院大(7敗)。
■各地区(学生)
【北海道】前年の札幌大に続き、北海学園大と旭川大がチームを創設した。
【北陸】1970年から独自の活動を続けてきた福井大と金沢工業大が関西学生連盟に参加し、近畿学生リーグに所属して公式戦に出場した。
【九州】福岡大と西南学院大が創部し、九州地区で最初の活動を開始した。秋には両大学間で結成記念試合を両軍の混成チーム間で開催(後のプレジャーボウル)。「九州アメリカンフットボール連盟」の設立は、翌1974年だった。
◆秋季試合(社会人)
●関東で三井物産、トヨタ自販、パリス東京、レナウンが加盟して11チームとなった社会人の運営を組織的に行うために、「関東社会人アメリカンフットボール協会」(初代理事長は館本徳重氏=慶応OB=)が設立された。社会人チームの活動が徐々に増え始め、リーグ戦はクラブチーム主体に実施してシルバースターが優勝。第7回を迎えた「シルクボウル」は、この年から関東社会人選抜-在日米軍となり、初対戦は6-14で関東社会人選抜が惜敗。関西社会人は、甲南大出身選手が中核の初参加チーム、オールゼンケンがサイドワインダーズと同率優勝を遂げた。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第28回甲子園ボウル
●15回目の日大と関学大の対戦となった「第28回甲子園ボウル」は12月9日、17,000人の観客の下で開催された。
日大は、QB中川雅昭、HB岩沢正人の一年生コンビ(ともに日大櫻丘高出身)をS御園生茂(四年)、C福島龍一(四年、主将)、E平野祐之(三年)といったベテランが盛り上げるチーム。関学大は1Q3分、FB柴田尚(三年)が54ヤードのTDランで先制。日大も2Q13分、QB中川雅昭からRE平野祐之(三年)への長短のパスを織り交ぜて前進し、最後は5ヤードのTDパスで追い付き、前半を7-7で折り返した。
後半開始早々、関学大はインターセプトで攻撃権を奪い、QB万田博(四年)からRH小川良一(二年)への35ヤードパスで敵陣1ヤードまで迫り、最後はLH谷口義弘(二年)が中央突破してTDを挙げてリード。その後は関学大守備ラインが日大の反撃を許さず、24-7で完勝し、3年ぶり11回目の全国優勝を遂げた。関学大はラインのLG豊島良夫(四年、主将)、RT小寺通嗣(三年)、RG前川比呂郎(二年)、DT松田成俊(二年)、DE神木孝(三年)の活躍が光った。
◆第27回ライスボウル
●「第27回ライスボウル」は翌1974年1月13日国立競技場で、前年に続き来日米大学との日米交流戦と同時開催だった。試合は11時から「ライスボウル」、13時半から「日米大学対抗戦(関東学生選抜-ウェイクフォレスト大)」が開催された。前年は「日米大学対抗戦」に東京七大学リーグ所属校が出場し、「ライスボウル」はその他のリーグの選抜チームが関東学生代表としてチーム編成をしたが、この年は学校やリーグに関係なく2つの試合のチームを編成した。そのため、日大、明大、慶大、立大などの選手が、ライスボウルに出場する選手もいれば、日米交流戦に出場する選手もいた。
また、関西での日米対抗戦は前週に開催したため、その試合に出場した選手がライスボウルに関西代表として参加することができた。
「ライスボウル」の監督は関東が金井明彦氏(法大監督)、関西は武田建氏(関学大監督)が務めた。試合は前半各QにTDを挙げた関西が、後半も攻撃の手を緩めずQB刀根規久男(京大四年)、玉野正樹(関学大二年)、西村英雄(関学大一年)のパスで関東を47-0で破り、通算成績を10勝17敗とした。
[6]高校フットボールの活動
●高校のフットボール競技は関西・関東とも全面的にアメリカンフットボールとなった。
◆春季大会(高校)
●「春季第3回関西高校選手権大会」はトーナメントで開催され、決勝は前年に続き関大一高と関学高の対戦となり、関大一高が27-8で勝利。関学高の3連覇を阻み、初優勝を遂げた。
◆秋季大会(高校)
■関東地区(高校)
●「関東地区秋季大会」は前年同様、東京地区は13校のトーナメント、神奈川地区は4校のリーグ戦で開催。東京の決勝は準決勝で駒場学園高を52-0で下した日大櫻丘高と、立教高を66-6で下した東海大付高が対戦。日大櫻丘高が16-8の接戦を制して優勝した。神奈川は法政二高が慶応高を36-8で破り、優勝した。
■関西地区(高校)
●「関西地区秋季大会」はアメリカンフットボールに一本化された。大阪府大会は10校が参加し、決勝は清風高が6-0で関西大倉高を破り、優勝した。兵庫県大会は3校のリーグ戦を実施。関学高が市立西宮高と県立星陵高を破り優勝した。滋賀県大会は9校が参加し、決勝は県立八日市高が県立長浜北高を26-0で破って優勝した。
◆第4回全国高校選手権
●「第4回全国高校選手権」は初めて関西地区での開催となり、12月21日~23日に西宮球技場で8チーム参加のトーナメントが行われた。参加は日大櫻丘高、東海大付高、都立西高、法政二高、県立八日市高、清風高、関学高、崇徳高。決勝は、準決勝で県立八日市高を破った関学高と、清風高を破った日大櫻丘高の対戦となり、攻守にラインが活躍した関学高が51-6で勝って4連覇を遂げた。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●春の日米交流の「第4回サクラボウル」は、全法大が在日米海軍横須賀と対戦し、全法大が22-21で接戦を制した。
●この頃は日本チームが米国に遠征することが主だったが、日本国内での開催の国際試合としては5月にグアム大が来日し、関西地区では全関大と西宮球技場で対戦し34-14で、関東地区では東京七大学リーグを除く関東学生選抜と駒沢陸上競技場で対戦し15-14で、いずれもグアム大が勝利した。
グアム大に帯同してグアムのJ・F・ケネディ高も来日。関大一高と対戦し、J・F・ケネディ高が48-40で辛勝した。なお、グアム大は1981年12月にも来日し、日体大と駒沢第二球技場で対戦して22-19で勝利した。
●翌1974年1月には、71年12月にユタ州立大を率いて来日した親日家のチャック・ミルズ・ヘッドコーチが新たに指導するアトランティックコーストカンファレンス所属のウェイクフォレスト大を率いてノースカロライナ州からチャーター機で来日。同大学にフットボール留学中の広瀬慶次郎アシスタントコーチ(関学大OB)も同行し、日本の指導者や選手にとってフットボールそのものへの理解を深める交流となった。ウェイクフォレスト大の選手たちは、これまで来日したユタ州立大やハワイ大の選手に比べて体格はやや小さかったが、それでも日本選手に比べると体重は約20キロの差があった。また100キロの選手が100メートルを11秒台で走り、QBには遠投力75ヤードの選手と、やはり本場のチームだった。日本チームはこの試合、日本は学生に社会人クラブチームの選手を含めたチームを編成した。
1月5日の第1戦、「第23回神戸ボウル」のウェイクフォレスト大-全日本(関西)は3-28で、1月13日の第2戦、全日本(関東)戦は0-35でともに全日本は敗れ、日米格差の深さを思い知らされた。関西での試合の全日本の3点は、K村田安弘(関学大一年)の33ヤードFG。2年前の日本を知るチャック・ミルズ監督は、「日本は見違えるほど基本ができ上がっている。残っているのは体格の差だけだ」と、この間の日本の成長についてコメントを残した。
●「第7回シルクボウル」は12月23日に国立競技場で開催され、在日米軍横田レイダーズが関東社会人を14-6で破った。関東社会人にとっては、初めての国内開催の国際試合のボウルゲームだった。
◆日本チームの活動(海外開催)
●関学大は6月15日から22日にかけて韓国へ遠征し、韓国内で活動している5大学のうち高麗大、成均館大といずれもソウルグラウンドで対戦した。関学大は高麗大に76-20、成均館大に76-0でともに勝利した。第1戦は韓国全土にテレビ中継された。戦前、早慶両校がソウルで対戦したが、単独校が韓国で韓国チームと対戦したのは初めてだった。
●1971年からの米大学と関東・関西の選抜軍との対戦以外に、この頃から日本の単独チームが米国の大学に挑戦し始めた。
日本の単独チームの国際試合(米軍戦を除く)は、戦前は日本フットボール2年目の全米学生来日時の1935年3月23日の明大-USC戦であるが、戦後は65年9月にハワイのホノルルスタジアムで開催された全慶応大-ハワイ大(2軍)、続いて71年10月のシルバースターのハワイ大戦(ホノルルスタジアム)、そして72年8月に全関大がグアム大とグアム大スタジアムで、73年11月に東京ヴァンガーズがハワイでハワイ大と対戦している。
また米本土における試合としては、73年9月に社会人チームのサイドワインダーズがロサンゼルスで現地のロヨラ大と対戦した。またこの頃、いくつかの社会人チームは、グアムやフィリピンの現地米軍チームと対戦している。
★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)
●シーズンの想い出
「対京大戦、(昭和)47年の大勝から48年には17-0と点差が縮まった。京大QB刀根規久男君のランが一番恐かった。甲子園ボウルでは、3人のQBの特性がフルに活用出来た」 (関学大1971年卒 G・主将 豊島良夫)