関西優位が続いた大学フットボールだったが、この年、1960年代前半の大学フットボールをリードした日大が復活した。その原動力は得点力を誇るショットガン体型からの攻撃だった。また米国NCAAの公式戦が日本で4試合も開催され、一般の関心が急増したが、日本フットボール界では相次いで事故が発生。成長や普及に応じた安全体制の確立が求められた。
1978.01.01
お知らせ
日大、ショットガンで復活。急激な社会の関心増大と普及への警鐘
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | 5月20日 | 新東京国際空港開港(成田) |
6月28日 | 日本オリンピックアカデミー発足 | |
8月12日 | 日中平和友好条約調印 | |
10月16日 | ゴルフの青木功氏、世界マッチプレー選手権で初優勝 | |
11月21日 | ユネスコ「体育・スポーツに関する国際憲章」採択 | |
フットボール | 4月1日 | ジョージ・ワシントン高(グアム)来日、駒場学園高と試合 |
4月9日 | 横浜スタジアムオープニング記念フェスティバル開催 | |
秋 | 関東大学リーグ、6校による新加盟リーグ創設 | |
9月3日 | NCAA公式戦よみうりボウル、ユタ州立大-アイダホ州立大(西宮球場) | |
11月5日 | 関東大学選手権に北海道から札幌大、初出場 | |
12月2日 | NCAA公式戦横浜ボウル、BYU-ネバダラスベカス大(横浜スタジアム) | |
翌年1月14日 | 愛媛県連盟(後の四国連盟)第1回オレンジボウル、四国選抜-中国選抜(松山市営球場) | |
翌年2月19日 | プライベートリーグ、第1回横浜フェスタボウル(横浜スタジアム) |
関西優位が続いた大学フットボールだったが、この年、1960年代前半の大学フットボールをリードした日大が復活した。その原動力は得点力を誇るショットガン体型からの攻撃だった。また米国NCAAの公式戦が日本で4試合も開催され、一般の関心が急増したが、日本フットボール界では相次いで事故が発生。成長や普及に応じた安全体制の確立が求められた。
[1]主な出来事
●関東3校、関西3校、九州1校の加盟で、大学加盟校は全部で112校となった。一方で、急激な普及で選手人口が増大した日本フットボール界に管理体制確立の警鐘を鳴らす事故が発生した。4月、西日本大会準々決勝で前年の甲子園ボウル優勝の立役者だった関学大QB猿木唯資選手(四年)が右のオプションプレーのボールキープで縦に切れ込んだところでタックルを受け、頸椎骨折で下半身麻痺となった。東西両協会では緊急理事会を開催。その対策を練ったが、その4か月後に都立野津田高の永野光晴選手、岩本隆一選手、関大一高の金勲選手の3人が練習中の熱射病で命を閉じた。
●1月のローズボウル(米カリフォルニア州パサデナ)の観戦ツアー・パッケージ(9日間)が320,000円で販売された。
(参考:1978年大卒初任給105,500円(厚生省調査)、同年対ドル為替平均レート207.64円)
[2]競技施設・装具・公式規則
◆競技施設
●春、人工芝の横浜スタジアムが完成した。野球以外の球技も使用できるよう、移動式の観客席を備えた日本初の多目的競技場だった。開場を記念して、4月8、9日にオープニングフェスティバルが開催された。米NFLの名ランナー、ロサンゼルス・ラムズのジョン・キャパレッティ氏、サンディエゴ・チャージャーズのジョー・ワシントン氏を招き、若手選手へのクリニックを開催し、記念試合として前年の東京七大学優勝の日大と関東八大学優勝の東海大が対戦した。横浜スタジアムではその後、6月18日にナイターで京大-シルバースターの交流戦を開催。4Qに両チームで計7TDを挙げる壮絶な試合となり、34-34で引き分けた。
●3月末、1937年に建設された西宮球場の改装工事が完了。西日本初の人工芝グラウンドで、整備された記者席、ロッカールーム、綺麗なバスやシャワー室を持つ球場となった。さっそく関学-明大定期戦や西宮ボウルが行われ、9月3日にはNCAA公式戦のユタ州立大-アイダホ州立大が開催された。
◆公式規則変更
【この年の日本の主な規則変更】
●失敗したフィールド・ゴールはタッチバックで20ヤード地点からの守備側の攻撃であったが、プレビアス・スポットが20ヤード以上の場合は、その地点から守備側の攻撃となった。
●インテンショナル・グラウンディングは、Aチームの有資格レシーバーがいない区域に投げた場合のみが反則となった。従来は、投げた区域に守備側のプレーヤーや攻撃側のラインマンがいれば反則とはならなかった。
[3]春季試合
◆春季試合(学生)
●乱戦の大学フットボールで、春季の注目を独占したのは、近藤昭雄監督が指導する日体大だった。G浦島昌二(四年)、T三門治(四年)を軸とする90キロの大型ライン、QB池野邦彦(四年)、RB吉田岳(四年)、RB島貫隆広(四年)、草野光広(四年)とバック陣も充実。日大を13-12で破り、さらにQB猿木唯資(四年)を負傷で欠いてラインも小型化した関学大にも33-28で勝利した。
●1967年に第1回を開催した日大-関学大定期戦は、前年の甲子園ボウル時の応援垂れ幕の問題から開催が中止された。
◆春季試合(社会人)
●6月18日、この春新装開場した横浜スタジアムで、「TVK招待ボウル」が開催された。第1試合の日大高41-13横浜商工高、第2試合の日体大90-6社会人選抜(6チームからの選抜)に続き、第3試合で横浜スタジアムのフットボール初ナイターのシルバースターと京大の対戦が行われた。
開始早々、シルバースターのパントを京大DB搭下辰彦(四年)がブロックし、それをLB小西俊一(四年)がシルバースターのエンドゾーンでリカバーして京大が先取点を挙げた。2Q、シルバースターは、QB佐曽利正良からRE平野裕之への7ヤードTDパスで追い付くと、3Qには京大のパスをシルバースターDB角杉昌幸がインターセプトし、29ヤードのリターンTDでリードを奪った。
その後も両チームは得点を重ね、最後は4Q残り15秒で京大がQB辰巳久雄(三年)からTE岡本勝夫(四年)への61ヤードTDパスで同点に追い付き、34-34で試合終了。歴史に残る勝負だった。
◆春のボウルゲーム
●第24回西日本大会
5月14日の「第24回西日本大会」決勝は西宮球技場で開催。関西唯一の実業団チーム、松下電工が接戦で関学大を破り創部4年目で初優勝した。その後、長く続く強豪・松下電工の活躍の始まりだった。
先制は関学大。1Q、QB久保篤嗣(三年)がパスで相手ゴールラインに迫り、開始6プレー目でFB越中啓至(四年)の10ヤードのTDランで先制。さらに松下電工を突き放して17-7で前半を折り返した。しかし、松下電工は4Q、QB西村英男(関学大OB)から前谷尚男(関学大OB)へのTDパス、さらに関学大のパントをブロックすると前谷尚男がリカバーしてTDを挙げて逆転。松下電工が20-17の接戦を制した。
●第24回西宮ボウル
6月3日の「第24回西宮ボウル」は関西で初めて人工芝となった西宮球場で開催。全関学大とも言える全関西と、佐曽利正良(日大OB)、藤野雅博(日体大OB)の社会人QBに現役に補強した全関東が対戦した。各選手が個性を生かした好試合となったが、全関東はこの日好調の佐曽利のスクリーンパスを受けたWR大用和宏(日大二年)が76ヤードの快走、そして川部勇治(日大二年)の決勝TDに結び付けた。全関東は21-17で3連勝とし、通算成績を11勝12敗1分とした。
●第3回パールボウル
「第3回パールボウル」は5月25日、2回目の出場となる日大と初出場レナウンの対戦で行われた。日大はQB金井義明(四年)からWR秋山克未(三年)へのパス、主将LB浜田栄二(四年)、T都井伸治(四年)のラインの健闘で3Qまでに大きくリード。レナウンも4Qに攻守フル出場の猿木雅文の活躍、LG飯島秀男の好ブロックからFB平方文彦が2TDを挙げるなど反撃したが、62-14で日大が圧勝した。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●並列5リーグ制9年目の関東大学リーグ戦は例年通り、駒沢第二球技場と駒沢補助競技場、各大学グラウンドを使用して開催された。試合数の増加と、駒沢での開催可能試合数の限度により、これまで各大学グラウンドの試合は一日2試合だったが、3試合の日が多くなってきた。また、並列リーグ内でチーム力の格差が拡大し、実力不均衡による事故の懸念も生じてきた。
日大は春の不振から立ち直り、前年から採用したショットガン体型をさらに進化させ、ハドルの中で動きを変化させていった。QB金井義明(四年)、鈴木隆之(二年)、レシーバーには秋山克己(三年)、平信司(四年)、大用和宏(二年)のショットガン要員を配し、LB浜田栄二(四年、主将)、MG成田完(四年)と守備陣も強力で破竹の快進撃。東京七大学リーグで総得点407、総失点10と圧倒的な強さを誇った。2位は日大に3-29で敗れた法大。3位に明大、東大が3勝3敗で並んだ。
●この年から関東大学選手権のトーナメントの予選として北海道学生リーグ優勝校が関東新加盟リーグ1位校と対戦することとなり、札幌大が宇都宮大に27-26で勝利した。東日本で地区大学にも甲子園ボウルへの道が開かれた年だった。なお、関西では、東海学生リーグが1976年から関西の2部リーグ扱いとなっており、入れ替え戦トーナメントに出場していた。その道は甲子園ボウルにもつながっていた。
●第9回関東大学選手権
「第9回関東大学選手権」準決勝の日大-防衛大は日大が総獲得距離1,002ヤードで111-6で勝利。法大-日体大は接戦となったが、28-21で法大が勝利した。
日大は、大型ラインを擁して対抗馬と見られていた法大との決勝も80-0で完勝した。QB金井義明(四年)の4TDラン、金井WR秋山克未(三年)への3TDパス、HB島功一(三年)への1TDパス、E平信司(四年)への1TDパス。さらにQB鈴木隆之(二年)から島功一への2TDパス、K柿本富寛(三年)の1FGの猛攻で、ラン獲得103ヤードに対しパス獲得556ヤード、総獲得659ヤードだった。一方の法大は総獲得138ヤードで、日大が圧倒した。日大はLB浜田栄二(四年、主将)、DT仁科明弘(三年)、DE小川得茂(三年)の守備陣が完璧に法大攻撃を止めた。
■関西(学生)
●関西学生リーグは例年の西宮球技場、神戸中央球技場に加え、新たに長居陸上競技場を使用した。
関学大と、ここ数年実力をつけてきた京大の覇権争いが注目された。関学大は、第1戦で前年大勝した関大に前半21点をリードしたが、後半3TDを許して35-21と迫られての勝利と、やや不安を感じさせた。
水野彌一総監督、笹原明雄監督の新体制となった京大は、QB宅田裕彦や大型ラインの核だった選手が抜けたが、難関だった近大戦を8-0と乗り切り、全勝で関学大と対戦した。
関学大-京大は会場を収容能力充分な長居陸上競技場に移し、18,000人の大観衆を集めて11月23日に開催。関学大は久保篤嗣(三年)、京大は植木功(二年)とともに新QB、また両軍とも堅守とあって、しのぎ合いとなった。関学大が久保からTE細田泰三(三年)へのパス、さらにFB越中啓至(四年)のランをK浜中則昭(四年)の20ヤードFGに結び付けて先制。
京大が攻守に活躍のSB小杉真(四年)からパスを受けた植木功が51ヤードの独走TDで逆転すると、関学大は3Qに小刻みな前進からFB越中啓至がTDして再逆転。関学大が10-8の辛勝で、リーグ30連覇を飾った。3位は5勝2敗の近大、4位は4勝3敗の関大となった。
■各地区(学生)
【北海道】 コーチングスタッフに恵まれた札幌大が4戦全勝で4年連続優勝。札幌大は関東大学選手権予選に出場し、11月5日に学習院大グラウンドで、新加盟リーグ優勝の宇都宮大と対戦。27-26の大接戦で輝かしい1勝を挙げたが、1回戦では防衛大に0-72で敗れた。
【東海】 愛知学院大と名古屋学院大が優勝を争い、愛知学院大が優勝した。愛知学院大は関西学生リーグ入れ替え戦出場校決定トーナメントに出場したが、大体大に7-21で敗れた。
【九州】 5チームで開催し、福岡大が4戦全勝で優勝した。
◆秋季試合(社会人)
●東日本実業団リーグはレナウン、社会人リーグはシルバースター、関西1部リーグはブラックイーグルスが優勝。なお、1966年の創立から実業団チームとして社会人フットボールを引っ張ってきた東京ヴァンカーズが企業の都合で活動中止となった。一般社会にフットボールへの関心をもたらし、社会人の強豪チームとして活躍した同チームの貢献は大きかった。九州でも3チームと数は少ないものの社会人リーグが誕生し、活動を始めた。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第33回甲子園ボウル
●日大と関学大の2年連続18回目の顔合わせとなった「第33回甲子園ボウル」は12月16日、30年連続出場の関学大の6連覇を期待して35,000人の観客が集まった。
関学大はエースのFB越中啓至(四年)を生かすスプレッドT体型で臨んだが、日大のLB浜田栄二(四年、主将)を核とする守備陣に押えられて完敗。日大の攻撃は、前半はパスを警戒する相手の裏をかき、QB金井義明(四年)が走り回って4TD。後半は鈴木隆之(二年)を入れて2人QBの「ドラゴンフライ体型」も披露。関学大もときには8人がパスカバーに入るなどの守備体型を取ったが、日大はパスの連投で5TDとショットガン攻撃を完成させる猛攻だった。RT都井伸治(四年)、LG成田完(四年)、LT安村幸雄(二年)の攻撃ライン、守備陣も浜田、LT仁科明弘(三年)を中心によくまとまり、関学大を圧倒して63-7の大差で勝利した。特に守備陣は前半、関学大を日大陣に入れたのは2回だけという完璧な守りだった。日大は7年ぶり12度目の全国制覇で、ミルズ杯は日大QB金井義明(四年)が受賞した。
◆第32回ライスボウル
●翌1979年1月4日、国立競技場に8,000人の観客を集めた「第32回ライスボウル」は、関東の主力・日大のショットガンと関西オールスターの守備の試合となった。関東は「甲子園ボウル」を制した日大ユニットと、法大と日体大の混成ユニットで編成。関西は関学大に京大、近大の重量級を加えた編成となった。
1Qはランプレーが多く、両軍守備陣が健闘してパントキックの応酬でともに無得点。2Qからパスプレーが多用され始めた。関東は自陣43ヤードからの日大勢のショットガン体型の攻撃で、TE平信司(四年)、WR大用和宏(二年)へのパスで前進、最後は8分、QB金井義明(四年)からのパスを、関西守備陣を抜き去ってエンドゾーンにいた大用がキャッチし、先制点を挙げた。
関東は3Q、QB金井義明(日大四年)からTE平信司(日大四年)へのストレートのパスが成功してTD。さらに4Qにも駄目押しのTDをWR大用和宏(日大二年)が8ヤードのパスレシーブで決めて関東が21-0で勝利。2年連続20回目の優勝を飾った。関西はRB越中啓至(関学大四年)のランやキックのリターンのカットバック走法が光った。
守備戦となったこの試合の立役者は、両軍の守備ラインマン。関東の守備陣、DE本多恵一(法大三年)、DT斎藤悟(法大三年)、DT松本博(法大二年)、DT浦島昌二(日体大四年)、DE小川得茂(日大三年)が関西の攻撃を止め、ライスボウル5年ぶりの完封勝利となった。また敗れはしたが、関西の左のT山本純也(京大四年)、T斎藤茂(京大四年)、右のDE和田雄二(近大四年)、T中西伸治(近大四年)、中央NGの佐藤哲二(関学大二年)の守備陣の健闘も見事だった。
◆その他のボウルゲーム
●「第28回神戸ボウル」は翌1979年1月7日、神戸中央球技場に約2,000人の観客を集め、関西社会人選抜-関西学生選抜の3年連続の対戦で開催された。G西田進を中心とする社会人選抜の大型ラインが学生選抜の攻撃を守り切り、18-7で勝利した。2年連続で社会人の勝利となった。
[6]高校フットボールの活動
●この年の高校フットボールの活動は東京29校、神奈川13校、埼玉2校、千葉1校、愛知3校、京都3校、滋賀10校、大阪15校、兵庫6校、広島3校の85校だった。
◆春季大会(高校)
●「春季第4回関東高校選手権大会」は、駒場学園高が都立戸山高を16-12で破り優勝、神奈川は慶応高が28-0で新鋭・県立港南台高を破り優勝した。
●「春季第8回関西高校選手権大会」は、関学高が26-0で府立豊中高を下して7度目の優勝を遂げた。関東、関西とも公立校の健闘が目立った。
◆秋季大会(高校)
■関東地区(高校)
●春の都立戸山高の優勝に続いて、秋の東京都大会は都立西高が立教高を18-0で破り優勝。続く関東大会では、その都立西高を38-0で破った慶応高が決勝で法政二高を27-0で破って優勝した。
◆第9回全国高校選手権
●「第9回全国高校選手権」は出場16校を4校ずつ4ブロックに分け、関東、関西で2ブロックずつを行い、各ブロック1位の計4校が、関東-関西で準決勝を行う方式で開催した。前年、関東代表として初めて全国制覇した駒場学園高は関東の1回戦で法政二高に12-14で敗れ、早くも姿を消した。
関東2校、関西2校による準決勝、決勝は12月22、23日に駒沢第二球技場で開催された。準決勝の関東はいずれも神奈川県勢で、関西は大阪、兵庫の高校となった。準決勝は関学高が27-14で法政二高を、慶応高が45-12で関西大倉高をそれぞれ破った。
決勝は寒風と時雨の中での対戦となったが、慶応高がQB柴田善信(二年)、FB山澤真樹(三年)の活躍で19-14の鮮やかな逆転勝ち。タッチフットボール時代から創部30年での初優勝だった。関学高は前年に続き決勝で敗れた。
[7]フットボール・ファミリーの活動
◆プライベートチームの活動
●かねてから独自に活動してきたプライベートリーグの各リーグが集まり、10月2日に日本プライベートフットボール協会を発足させた。協会には次のプライベートリーグが参加した。
◆関東地区
地 区 | リーグ名 | 発足年 | チーム数 |
関 東 | パイオニア・リーグ | 1968 | 7 |
リバーサイドフットボール・リーグ | 1973 | 10 | |
関東フットボール協会 | 1975 | 7 | |
東京フットボール・リーグ | 1975 | 6 | |
北関東フットボール・リーグ | 1975 | 6 | |
パシフィック・フットボール協会 | 1975 | 8 | |
リバティ・リーグ | 1977 | 6 | |
関 西 | 京都グラス・リーグ | 1975 | 5 |
関西リバティー・リーグ | 1977 | 6 |
●プライベートリーグの充実を裏付けるかのように、11月5日に米軍横須賀Berkey Fieldで、プライベートリーグのパシフィックリーグ・オールスターが、米軍横須賀基地シーホークスと対戦。シーホークスにとっては、初めてのプライベートリーグ所属チームとの対戦となった。ペナント交換や両国国歌吹奏、国旗掲揚などの公式セレモニーの後、試合開始。シーホークスが得点を重ねたが、パシフィックオールスターも4Qに一矢を報い、50-8でシーホークスが勝利した。
[8]海外・国際関連の活動
◆外国チーム間の試合(日本国内開催)
●NCAAの公式戦が、日本で4試合開催された。主催者のキャッチコピーには、「アメリカに行くか、アメリカを呼ぶか」というものがあった。
●4試合のトップは9月3日、関西初の本場の対戦となった「よみうりボウル」。好天が続いていたが、当日は練習開始から雨となり、試合は豪雨の中で始まった。熱心な25,000人の観客が西宮球場に集ま、ユタ州立大がアイダホ州立大を10-0で破った一戦に歓声を送った。
●2戦目は強風が吹く12月2日、BYUとネバダラスベガス大が「ニッカン横浜ボウル」として横浜スタジアムに27,000人の観客を集めて開催された。BYUは前年の全日本戦に続く日本での試合。試合は、両チームともシーズン最終戦で、二転三転の展開となったが、全米20位に入るBYUが後にNFLで活躍することになるQBマーク・ウィルソンが3TDを決め、28-24で接戦を制した。
●3戦目は12月10日、「第2回ミラージュボウル」が後楽園球場で開催された。東部の独立校同士の対戦で、テンプル大が28-24でボストンカレッジを破った。前年と同じく、甲子園ボウルと同日の開催だった。
●4戦目は翌1979年1月14日、「公式東西大学オールスター対抗戦第4回ジャパンボウル」が国立競技場に55,000人の観客を集めて開催された。後にNFLの大スターとなったQBジョー・モンタナ(ノートルダム大)、裸足のキッカー、トニー・フランクリン(テキサスA&M大)に大声援が送られた。
●4試合のNCAA公式戦が無事、滞りなく終わった。NCAAのチーム同士の日本での対戦、特に単独校同士の対戦はほぼどの試合も、その1試合のために両チームの学校関係者や選手団(コーチ、選手、マネジャー、ドクター、トレーナー、用具担当ら)とともにチアリーダー、場合によってはマーチングバンドなど、2チームで総勢700~800人の大所帯が来日。加えて、装具や用具の多いスポーツ・フットボールとマーチングバンドの楽器などの大荷物で、大規模な移動となった。
また、米国と日本の時差があるため、選手の安全を考え、なるべく早く日本に移動して時差調整を行った。さらに、体調を整えるため、前週の土曜日の米本土での試合後、翌々日の月曜には米国を出発して同じ月曜に日本に到着し、その週末に日本で試合するスケジュールが一般的だった。そして試合後には、翌週の米本国での試合に備え、なるべく早く離日した。チームによっては、日本での試合当日朝にホテルをチェックアウトし、試合後にスタジアムでシャワーを浴びて、そのまま成田、伊丹に直行する場合もあった。
それぞれのチームは日本滞在中、異なるホテルを使用することが多いが、それでも関係者やバンドを入れて1チーム300~400人がほぼ1週間滞在。それも大男、大食漢が多い選手団、マーチングバントを受け入れるホテル側も、他のスポーツとは少し異なる受け入れで、大変な仕事だったという。4、5日間使用する芝生のある練習用グラウンドの確保や雨天時の対応の準備なども大変だった。
★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)
●シーズンの想い出
「猿木唯資君を負傷させてしまったこと。現役選手は、負傷のないように、基礎を確実にしてほしい。」 (関学大1981年卒LB、副将 岡本浩治)
★★★★★★★★★★★
西宮、甲子園、ライスの三大ボウルゲームと高校選手権すべて東が勝利し、数年間続いた西高東低に終止符が打たれた。米国チームの来日はこの頃がピークだった。