日本アメリカンフットボールの殿堂 顕彰者
日本アメリカンフットボールの殿堂は1996年に山梨・清里の清泉寮ポール・ラッシュ記念館内に設立され、その際に「名誉の殿堂入り」として顕彰された「日本アメリカンフットボールの父」ポール・ラッシュ氏に始まり、これまでに48人が顕彰されています。殿堂顕彰は2018年の第4回を例外として約5年ごとに実施しており、顕彰者は2025年1月で計59人となりました。
殿堂顕彰者一覧(敬称略) | ||||
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1996年 名誉の殿堂入り | ポール・ラッシュ | |||
2004年 第1回殿堂顕彰(8人) |
松本 瀧蔵 | 小川 徳治 | 服部 慎吾 | 安藤 信和 |
羽間 平安 | 米田 満 | 古川 明 | 篠竹 幹夫 | |
2010年 第2回殿堂顕彰(5人) |
松葉徳三郎 | 保科 進 | 井上 素行 | 吉川 太逸 |
金澤 好夫 | ||||
2016年 第3回殿堂顕彰(11人) |
加納 克亮 | 花岡 惇 | 三隅 珠一 | 樋口廣太郎 |
藤村 重美 | 武田 建 | 笹田 英次 | 水田 吉春 | |
水野 彌一 | 阿部 敏彰 | 棚橋寛衛門 | ||
2018年 第4回殿堂顕彰(11人) |
藤本 武 | 井床 由夫 | チャック・ミルズ | 髙橋 治男 |
野村 正憲 | 徳永 義雄 | 鈴木 智之 | 木谷 直行 | |
吉岡 龍一 | 木村 洋 | 横溝 裕利 | ||
2020年 第5回殿堂顕彰(12人) |
中澤 貞夫 | 入沢 敏夫 | 野﨑 和夫 | 倉智 春吉 |
後藤 完夫 | 喜入 博 | 板 哲夫 | 廣瀬慶次郎 | |
東元 春夫 | 川原 貴 | 松岡 秀樹 | 東海 辰弥 | |
2025年 第6回殿堂顕彰(11人) |
浅野 良三 | 葉室 鐵夫 | ドナルド・オークス | 河田 幾造 |
久保田 薫 | 崎 弘明 | 瀧 悠喜夫 | 平井 英嗣 | |
柴田 尚 | 田中 真弓 | 鈴木 隆之 |
名誉の殿堂入り(1996年3月28日)
『日本アメリカンフットボールの父』
Paul Rusch (ポール・ラッシュ)1897~1979
1897年、インディアナ州フェアマウント生まれ、ケンタッキー州ルイビル出身。関東大震災で被災したYMCA復興のため1925年来日。翌26年、立教大学教授に就任し、日本に留まる。米国からの日系二世留学生の生活充実を目的にアメリカンフットボール競技活動を組織化。34年、立教、早稲田、明治の各大学からなる東京學生アメリカンフットボール聯盟を設立し、初代理事長に就任。精力的な行動力で同年11月29日、明治神宮競技場で、全東京學生選抜-横濱カントリイ・アスレチック・クラブの日本最初の公式試合を開催する。その後もリーグ戦の開催、全米選抜チームの招へい、全日本学生選抜軍の訪米など、戦況悪化により42年に米国に帰国するまでフットボールの発展に尽くす。この間、38年に山梨・清里にキリスト教指導者研修施設「清泉寮」を建設。終戦直後の45年9月、連合国軍司令官・総司令部の将校として来日。職務のかたわら、我が国のフットボール活動の再興と発展、清泉寮の再建と清里地区の開拓を推進した。61年12月16日、日本協会は、我が国のアメリカンフットボール競技の誕生への貢献とその後の功績に感謝し、「日本アメリカンフットボールの父」の称号を贈る。
79年、自らが再建に関わった聖路加国際病院で永眠。常に日本の将来を考え、実践した生涯だった。
第1回 殿堂顕彰 8人(2004年7月4日)
松本 瀧蔵 (まつもと・たきぞう)1901~58
1930年にハーバード大学に留学。その後、帰国し明治大学教授。34年、東京学生アメリカンフットボール連盟結成にあたり、理事長のポール・ラッシュ氏を助け、書記長に就任。審判としても活躍し、日本で最初の試合に先立つ同年10月25日、明治大-在日ハワイ二世軍の主審を務める。42年、帰国したポール・ラッシュ氏の後を継ぎ、第2代の関東学生連盟の理事長に就任。46年に衆議院議員になり、国民協同党政調会長、片山内閣の外務政務次官、鳩山内閣の内閣官房副長官、岸内閣の外務政務次官を歴任した。
小川 徳治 (おがわ・とくじ)1905~2001
1934年、立教大学教授として立教大学アメリカンフットボール部の部長に就任。同時にポール・ラッシュ氏とともに明治大学の創部を支援。同年の東京学生連盟結成時に理事に就任。連盟創設期に防具の国産化を推進するとともに、連盟の総務担当として競技場の交渉や手配、連盟の経理を担当し、実務的な連盟活動の推進者として貢献した。同時に立教大学の部を育成。戦後、63年から2年間と69年から2年間の二度にわたり日本協会理事長を務めた。
服部 慎吾 (はっとり・しんご)1913~95
立教大学予科でアメリカンフットボールを始め、センターとして活躍。1939年に立教大学を卒業した後、40年に応召し、札幌の歩兵部隊に従軍した。戦後は関東地区のフットボールの復興に、戦前の仲間とともに貢献。チームの再興やグラウンドの手配、防具の準備など、戦後再来日したポール・ラッシュ氏とともに運営の中心とった。48年、日本協会の再建に努力し、戦後初代の理事長に就任。以降、理事長として5年間、フットボールの復興に貢献した。また、戦前、戦後の日本のアメリカンフットボールの記録を整理した。
安藤 信和 (あんどう・のぶかず)1920~2014
1937年、立教大学予科入学後、ただちにアメリカンフットボール部に入部。ラインとして活躍し、42年に卒業。太平洋戦争に従軍し、戦後はシベリアで4年間の抑留生活。52年、関東大学連盟理事を経て、54年から審判活動に従事。60年に関東地区審判組織の部長となり、64年審判協会設立とともに初代の理事長に就任した。この間、ボウルゲームの主審を数多く務めるとともに、審判組織の充実と公式規則の制定に貢献。79年から12年間、日本協会理事長を務めた。
羽間 平安 (はざま・へいあん)1927~2022
関西大学アメリカンフットボール部のQBとして、1948年1月の第2回甲子園ボウルで大学日本一となる。49年1月の甲子園ボウルでも活躍。卒業後、関西地区で審判として活動を開始するとともに、連盟組織の確立ならびに審判の実務を定めたメカニックの確立に貢献。リーグ戦の審判をはじめ、甲子園ボウルの審判を32回担当。うち55年から83年まで、29回主審を務めた。この間、ルールの解釈や審判の指導、競技の普及に貢献。1998年から関西協会会長を務めた。
米田 満 (よねだ・みつる)1928~2020
関西学院大学で1949年から2年間、QBとして甲子園ボウルに出場し、2年連続大学日本一となる。卒業後、関西学院大学のコーチとして4回、監督として11回、総監督として10回の合計25回の甲子園ボウル出場を果たすとともに、中学、高校、大学の10年一貫教育のシステムを確立。大学のリーグ33連覇、高校の214連勝、中学の52回連続甲子園ボウル出場等の業績を挙げた。また、東京大学の創部を支援するなど、他のチームの指導にも貢献した。
古川 明 (ふるかわ・あきら)1931~2023
府立池田中学校時代にフットボールを始める。関西学院大学で1949年から4年間、ガードとして甲子園ボウルに出場。第4、5回甲子園ボウルで2年連続大学日本一となる。卒業後、米国デンバー大学に留学し、本場の知識を吸収。帰国後、56年から関西連盟の活動に携わる。同時にNCAAとの窓口として、技術交流と公式規則の適用を推進。70年から2000年まで関西学生連盟専務理事として関西地区のフットボールの普及に貢献した。94年から4年間、日本協会理事長を務める。95年、関西協会理事長。
篠竹 幹夫 (しのたけ・みきお)1932~2006
高校時代にラグビー選手として活躍後、日本大学アメリカンフットボール部に入部。在学中に負傷し、闘病生活を続けながら、1955年の日本大学初優勝の原動力となる。卒業後はコーチに就任。日本大学助手補佐を皮切りに、77年に教授に就任し、46年間にわたって教育者として貢献した。59年に日本大学の監督に就任し、2003年3月までの44年間の監督在任期間中、通算290勝39敗4分の成績を残した。関東大学リーグ25回、甲子園ボウル20回、日本選手権4回の優勝を果たす。
第2回 殿堂顕彰 5人(2010年1月3日)
松葉 徳三郎 (まつば・とくさぶろう)1903~81
大阪YMCA体育主事として、1932年ロサンゼルス五輪視察時に現地の南カリフォルニア大学とスタンフォード大学の体育施設を見学し、フットボール競技に接する。帰国後、34年夏に母校の関西大学でチーム組織化の活動を開始。翌35年に関西地区初となる部を創部した。37年に日本米式蹴球協会関西支部長、41年に関西鎧球連盟理事長に就任。戦後、関西地区のフットボールの復興に中心メンバーとして参画。46年関西大学米式蹴球連盟を再建し、理事長に就任して、活動再開に貢献した。
保科 進 (ほしな・すすむ)1906~2000
1935年にハワイから来日。法政大学の創部に貢献し、初代監督兼選手として活躍した。38年に関東学生米式蹴球連盟理事に就任し、連盟活動や審判活動に貢献。法政大学監督を20年、成城大学コーチを2年、明治学院大学監督を31年、同総監督を4年の計57年間、各大学で技術指導を行った。この間、米国の理論をいち早く取り入れるとともに、64年度のライスボウル東軍監督をはじめ、多くの選抜チームの監督やコーチを務めた。55年から法政大学体育講師として、一般学生にフットボール実技を教えて競技の普及に努める。91歳までグラウンドで指揮を執った。
井上 素行 (いのうえ・もとゆき)1915~87
ハワイ出身。早稲田大学米式蹴球部の設立に寄与し、1934年の東京学生米式蹴球連盟設立に学生委員として参画した。同年、日本初のフットボール公式試合の東京学生選抜-YC&ACに出場。その後もオールスターの選手として活躍し、36年の初の米国遠征の全日本選抜チームの選手として渡米。卒業後は審判員として貢献。戦後、フットボールの復興に中核メンバーとして参画し、46年に関東連盟会長に就任。52年、日本協会競技規則制定委員として公式規則書の発行に加わる。
吉川 太逸 (よしかわ・たいつ)1920~2011
1940年に滋賀県師範学校卒業後、40年間にわたって小、中、高の教師として貢献。青少年の体力向上や選手の育成、地域における各競技の普及、振興、後進の育成に努める。戦後、タッチフットボールやハンドボールなどのチームの組織化と県、市における協会、連盟を設立した。48年に滋賀県タッチフットボール連盟を設立し、51年の甲子園ボウルでのタッチフットボール競技の実施に貢献。同年、長浜ボウルを創設した。75年、社会人チームの湖北ファイニーズの会長として育成に寄与。アメリカンフットボールのユース、ジュニアの育成の先覚者として貢献した。
金澤 好夫 (かなざわ・よしお)1935~
明治大学在学中、1958年の第11回ライスボウルに出場。卒業後、専修大学コーチ、拓殖大学初代監督に就任。この間、関東大学連盟、日本協会の理事を務めるとともに、社会人団体の基盤づくりに貢献。1980年に東日本社会人協会を設立し、理事長に就任して社会人王座決定戦を創設した。85年、日本社会人協会初代理事長に就任後、96年にXリーグを設立。第1、2回のワールドカップで日本代表を連覇に導いた。2003年から05年にかけて日本協会理事長。03年に国際アメリカンフットボール連盟上席副会長に就任。
第3回 殿堂顕彰 11人(2016年1月3日)
加納 克亮 (かのう・かつすけ)1903~71
立教大学在学中はラグビー部で主将を務めた。朝日新聞入社後、運動部記者としてアメリカンフットボールを担当。東京学生米式蹴球連盟設立に理事として参画。記者として、紙面を通じて競技の紹介を幅広く実施し、フットボールがスポーツ界で一定の地位を占めることに貢献した。朝日新聞社の1935年の全米選抜チーム招請と、翌年の全日本選抜チームの米国遠征を推進。46年、リーグ復興のための関東連盟創立委員会委員長に就任。以降3年間、関東連盟理事長を務める。没後の72年、長年の功績により、ライスボウル・東西学生選抜戦に「加納杯」が制定された。
花岡 惇 (はなおか・あつし)1914~94
ハワイ生まれの日系二世で、明治大学入学後、部創設の中心的役割を担った。1934年、我が国最初の公式試合に出場し、その後もオールスター級の活躍。卒業後、連盟役員や監督として継続的に活動。40年代に同志社大学と関西大学を指導。47年から62年まで16年間、監督として明治大学を率いた。同時に、49年からライスボウル・東西学生選抜戦の監督として10数年活動する。米国からの最新情報と戦術を我が国に広く紹介するとともに、ライスボウルで交流した各大学コーチに伝え、フットボールの本質を広めることに貢献した。
三隅 珠一 (みすみ・しゅいち)1924~75
1945年、旧制の府立池田中学校に体育教官として着任。タッチフットボール部顧問としてチーム育成に尽力。同年、日本最初の公式タッチフットボール試合を開催。甲子園ボウルで東西タッチフットボール王座決定戦を実施。54年、全国高校タッチフットボール大会を開始。70年、全国高校アメリカンフットボール選手権開始と、高校フットボールの組織づくり、公式規則書の制定、翻訳等の作業実施に尽力し、日本の高校フットボールの普及・発展に貢献。長年の功績により、全国高校選手権の最優秀バックスに「三隅杯」が制定される。
樋口 廣太郎 (ひぐち・ひろたろう)1926~2012
1986年、アサヒビール株式会社代表取締役社長に就任。翌年87年以降、社会人クラブチーム「シルバースター」を後援し、多年にわたりチームをスポンサード。財界人として、日本フットボール界にさまざまな支援や普及貢献活動を行い、アメリカンフットボールの文化を広く一般社会に発信し、その価値を広報した。その後、日本協会の初代コミッショナーに就任。協会活性化に取り組み、フットボールの普及や振興に大いなる支えとなり、貢献した。2012年、旭日大綬賞受章。
藤村 重美 (ふじむら・しげみ)1931~2007
京都大学在学中は選手として活躍。卒業後、市立西宮高校の教壇に立ち、タッチフットボール部を創部し、指導した。創部5年目の1962年、関西学院高等部の連勝記録(204連勝)を阻み、その後、2年連続全国制覇を果たす。そのかたわら、58年に兵庫県高等学校体育連盟にアメリカンフットボール競技が加盟するとともに、同連盟の初代委員長として組織の礎を築く。高校フットボールがタッチフットボールからアメリカンフットボールへと移行する過程で、日本の高校フットボールの牽引者として普及に貢献。また、65年に京都大学監督に就任し、京大フットボールのバックボーンを築いた。
武田 建 (たけだ・けん)1932~
関西学院高等部でフットボールを始め、1950年から4年間、QBとして甲子園ボウルに出場。優勝2回。卒業後、北米留学で得た最新戦術を日本に紹介し、日本フットボールの近代化と発展に貢献。66年から関西学院大学のヘッドコーチ、監督として11年間指導し、その間に5連覇を含む7回の甲子園ボウル優勝に導く。80年からは関西学院高等部の監督として、6回の全国制覇を果たした。70年代から本場フットボールのテレビ解説や入門書の刊行により、一般への普及や競技者とファンの拡大につなげた。心理学者としてもチーム運営や指導方針を理論的に解き明かし、多数の書籍を出版。日本スポーツ界の健全な発展に寄与した。
笹田 英次 (ささだ・えいじ)1934~
東京都立西高校でタッチフットボールを始め、日本大学で活躍。1956年、日本アメリカンフットボール審判協会関東審判部に加入。60年から運営を担当し、競技規則の制定や審判員の技術力向上に寄与した。米国など海外組織との交流を推進し、99年、国際アメリカンフットボール連盟設立時に初代会長に就任。同年の第1回ワールドカップの開催と、成功した運営に貢献。その後、日本フラッグフットボール連盟理事長を務めるなど、小、中、高、大学、社会人と普及に幅広く活動した。
水田 吉春 (みずた・よしはる)1937~2004
麻布高校でタッチフットボールを始め、立教大学で活躍。1961年に日本アメリカンフットボール審判協会関東審判部に入部。72年に同審判部副部長、76年に同部長に就任。発展する競技活動に対応する審判活動の組織化に貢献。公式規則の制定、公式規則書の発行を推進する。91年、関東大学連盟理事長に就任。大組織の運営を指揮し、円滑な競技運営を推進するとともに、試合会場の確保、各種講習会の実施等、競技活動、運営に活躍。また日本協会常務理事、日本学生協会理事長として、全国レベルでの普及に寄与した。
水野 彌一 (みずの・やいち)1940~
1959年、防衛大学校に入学し、アメリカンフットボール部に入部。61年に京都大学入学し、ガードとして活躍。卒業後にコーチに就任した。80年の監督就任後、関西学生リーグ優勝10回、甲子園ボウル優勝6回(出場8回)、ライスボウル優勝4回(出場6回)を成し遂げた。関西学院大学と数々の名勝負を繰り広げたことにより、「関京戦」はアマチュアスポーツのビッグイベントとなり、また国立大学の全国制覇で全国的な注目を集め、普及と発展に貢献した。2001年に京都市教育委員に就任。その後、教育委員長となり、教育行政にも寄与した。14年の第1回世界大学選手権で日本代表監督を務めた(準優勝)。
阿部 敏彰 (あべ・としあき)1941~
日本大学在学中は選手として活躍し、四年生時は主将として甲子園ボウル3連覇に導く。1970年、社会人クラブチーム「シルバースター」を創部し、監督に就任。87年、アサヒビール株式会社とスポンサード契約締結後、89年にクラブチームとして初の社会人王座を獲得。その後、ライスボウル優勝3回と、社会人を代表するチームに発展させた。98年に日本代表監督として、ジャパン・ユーロボウルに快勝(対フィンランド)。翌年始まったワールドカップでも、第1回から2007年の第3回川崎大会まで、日本代表監督として指導・育成に貢献した(第1、2回優勝、第3回準優勝)。1978年に地域のフットボール普及を目的に横浜協会を創設した。
棚橋 寛衛門 (たなはし・かんえもん)1947~2005
1966年に東海大学に入学し、創部メンバーの一人として活躍。75年、社会人クラブチーム「シルバーオックス」を創部。東日本社会人協会に所属し、東日本実業団連盟との統一および西日本社会人連盟と統一するための東西社会人の取りまとめ役として尽力し、85年に日本社会人協会創設。社会人協会初代メンバー(東日本支部長・専務理事)として、トップリーグ「Xリーグ」の設立に邁進した。2003年、日本社会人協会第二代理事長就任後、活性化のために、国際化や競技レベル向上に尽力し、社会人フットボールの普及や発展に貢献した。
第4回 殿堂顕彰 11人(2018年1月3日)
藤本 武 (ふじもと・たけし)1922~2005
9歳から10年間、米国で育つ。日米関係の悪化により19歳で帰国。慶應予科で柔道部に入部したが召集。復員後、慶應義塾大学に復学し、フットボール部に入部した。米国育ちのフットボールの知識と体格で、入学後ただちにレギュラー選手となり、1947年の第1回甲子園ボウルにフルバックとして出場。強烈な中央突破を武器に、先制のタッチダウンパスを投げるなど活躍し、勝利の立役者となった。48、49年と主将を務め、49年の第3回甲子園ボウルでは、2Qにスパイクされて鼻骨を損傷しながら、手当て後にプレーを続行し、2度目の甲子園ボウル勝利に貢献した。卒業後は審判員となり、甲子園ボウル、ライスボウルも担当。審判組織の充実、後継者育成に寄与した。
井床 由夫 (いとこ・よしお)1927~2008
関西学院大学が甲子園ボウルに初出場した1949年第4回大会にエンドとして出場。身長180センチ、体重80キロの大型ラインとして活躍。ブロック、パスキャッチ、ランニングに加えてパス力と、フットボールのすべての動きに長けた選手だった。同大会では1Q3分、ダブルリバースからボ-ルを受け、先制のタッチダウンを挙げた。翌50年に副将となり、第5回甲子園ボウルでは、守備ではライン中央を守って相手の攻撃を抑えるとともに、4Qにダブルリバースを受けてから、勝利を決定付けるタッチダウンパスを成功させ、関西学院大学の連覇に貢献した。
Chuck Mills (チャック・ミルズ)1928~2021
イリノイ州立大学でガードとして活躍。NFLのコーチを歴任後、1967年にユタ州立大学(NCAAディビジョンⅠ)のヘッドコーチに就任。71年に同チームを率いて単独チームとして初めて来日し、関東と関西で全日本と2試合を行った。74年にはウェイクフォレスト大学(同)を率いて2度目の来日を果たし、関東と関西で全日本と2試合を行う。来日中の日本チームとの合同練習で戦略や戦術面でのアドバイスを行うなど、我が国フットボールチームの技術力向上に寄与した。その後も訪米した日本の関係者にさまざまな支援を行い、我が国のフットボールの発展に寄与。74年、同氏の提案と寄付により、日本の学生の年間最優秀選手賞(ミルズ杯)を設けた。
髙橋 治男 (たかはし・はるお)1930~2020
戦後始まった我が国における旧制中学タッチフットボールの1期生(県立奈良中学校)。関西学院高等部から1949年に関西学院大学に進み、180センチ、80キロの俊足、大型のフルバックとして、その突進力を生かして4年間レギュラーとして活躍。甲子園ボウルに4回出場した。ランだけでなくパスとキックも兼ね備えた活躍で、関西学院大学のシングルウイングフォーメーションではランやブロックを生かしてチームの原動力となって攻守に出場し、勝利に貢献した。卒業後は関西学院高等部の教員や関西学院大学教授として関西学院フットボールの推進に寄与した。
野村 正憲 (のむら・まさのり)1930~
東京都立九段中学(現・都立九段高校)でタッチフットボールに出会う。立教大学に入学し、ドナルド・T・オークス監督の下でノートルダム大学のシステムに基づく米陸軍士官学校コーチ団の指導も受け、日本人の体に合ったTフォーメーションを作り上げ、1951年に甲子園ボウルに出場。QBとして巧妙なボールハンドリングで、初優勝に導いた。52年に甲子園ボウルに連続出場し、精巧な試合展開の司令塔として連覇に貢献。その後の2年間も含め、立教大学が甲子園ボウル4年連続出場となるTフォーメーションを完成させた。立教大学が確立したTフォーメーションはその後、各大学に採用され、Tフォーメーションの初代QBとして我が国の近代フットボール化に貢献した。
徳永 義雄 (とくなが・よしお)1930~2001
戦後始まった我が国における旧制中学タッチフットボールの1期生(府立豊中中学校)。関西学院高等部から関西学院大学に進み、パス、ラン、パントとすべてに卓越した能力を発揮して活躍。リーグ初優勝に貢献した。1949年の第4回甲子園ボウルでは一年生ながらハーフバックとして攻守に出場。攻撃ではダブルリバースのプレーで先制点を挙げ、守備では自陣5ヤードでパスをインターセプトして95ヤードのリターンタッチダウンをあげた。66、1967年と関西学院大学の監督を務め、両年ともリーグ優勝に導くとともに、67年には甲子園ボウル優勝を果たした。関西協会理事としてもフットボールの発展に寄与した。
鈴木 智之 (すずき・ともゆき)1934~2016
中学からフットボールを開始。関西学院大学では二年生からレギュラーのQBとして活躍。米国のフットボールの書籍などからフォーメーションを研究し、確実なフォワードパスとともに走れるQBとして活躍。三年生で出場した1955年の第10回甲子園ボウルでは、劣勢で迎えた4Q残り10数秒で同点のタッチダウンパスを成功させ、引き分け両校優勝の原動力となった。この試合を含め、レギュラーとして出場した甲子園ボウルで3度優勝。守備でもラインバッカーとして活躍した。卒業後も、経済人としてフットボール活動を支援し、特に社会人フットボールの支援と大学チームとの連携に寄与した。
木谷 直行 (きたに・なおゆき)1935~
関西学院中学タッチフットボール部創部メンバーの一員で、その後、関西学院高等部、関西学院大学で10年間、ガードとして活躍。高校王座2連覇、そして大学4年間は全試合無敗のチームのラインとしての功労者となった。特に1956年、四年生で主将として出場した第11回甲子園ボウルでは、自身の鉄壁な守備とチームの統率で相手の攻撃を完封し、甲子園ボウル4連覇を達成。同シーズンの第10回ライスボウルでも主将として全関西をまとめ、7年ぶりの勝利の原動力となった。西宮ボウルに10年連続出場。関西学院大学のコーチに就任し、指導者としても活躍。後楽園球場の人工芝化の記念で開催された76年のグリーンボウルでは、監督として西日本選抜チームを率いた。
吉岡 龍一 (よしおか・りゅういち)1937~2008
聖学院高校時代、タッチフットボールで活躍。1950年代半ば、ラン攻撃で第一期黄金時代を築いた日本大学のフルバックとしてバックス陣の中核となる。守備ではラインバッカーとして活躍。試合を通してすべてのプレーに参加し、疲れを知らない、かつ力強いバックスだった。56年から4年間の在学中、毎年関東大学リーグを制し、甲子園ボウルに連続出場。二年生となった57年からはレギュラーとしてフル出場。それからの3年間の甲子園ボウルでは、パスのレシーブとランで毎年タッチダウンを挙げ、日本大学の3連覇に貢献した。卒業後もOBチームの副将を務め、在日米軍とのボウルゲームで果敢なランニングを展開した。
木村 洋 (きむら・ひろし)1940~2020
高校時代は野球部で活躍。1959年に日本大学に入学し、素早い動きと強力なブロックの攻守フル出場のガードとして活躍。61年は四年生部員が不在のため、三年生で主将に就任。翌年も含め、2年連続で主将を務めた。三年時には、経験のある二、三年生の部員が少ない中、毎週のOBとの練習試合で実力をつけ、関東大学リーグを制覇。同年の甲子園ボウル、および四年生で出場した62年の甲子園ボウルと連続制覇した。日本大学第二期黄金時代の始まりの中核選手として貢献。卒業後、審判活動に参加し、ボウルゲームなど多くの試合を担当。その後、警視庁のコーチ、日産自動車の監督として指導。また社会人協会の役員として普及に貢献した。
横溝 裕利 (よこみぞ・ひろとし)1942~2008
1961年、日本大学入学とともにアメリカンフットボール部に入部。走り、投げるQBとして同大学第二期黄金時代を築く。4年間、関東大学リーグを制し、レギュラーとして出場した1963年の第18回甲子園ボウルでは、4Qに約50ヤードのロングパスで逆転勝利。翌64年はアンバランスT、クイックパント体型からラン、パスを織り交ぜた多彩な攻撃で、的確な判断で4連覇を果たした。同年12月、戦後初の全日本チームの米国遠征にQBとして選抜され、2試合を戦った(1分1敗)。卒業後もOBチームに参加し、多くの試合で活躍した。
第5回 殿堂顕彰 12人(2020年1月3日)
中澤 貞夫 (なかざわ・さだお)1930~2000
東京都立九段中学(現・都立九段高校)でタッチフットボール部を創部。1949年に立教大学に進学後はハーフバックとして活躍。立教大学が確立した近代Tフォーメーションのバックスとして、鋭い判断と機敏な走力で活躍した。51、52年の関東大学リーグ優勝に貢献するとともに、両年の同リーグMVPを受賞。甲子園ボウルでも51年に初出場で優勝し、翌52年も優勝。卒業後6年間の立教大学でのコーチの後、59年から72年の14年間、監督としてチームを指揮した。組織のまとまりを重視し、60、65年には甲子園ボウル優勝に導く。監督時代、全関東学生などの指導にも当たった。学生時代とその後の指導者としても立教の黄金時代を築いた。
野﨑 和夫 (のざき・かずお)1932~2021
明治大学でQBとして活躍し、1955年に卒業。その後は防衛大学校のコーチを経て61年、下位に低迷していた明治大学のコーチとなり、翌62年に監督に就任。チームに対する犠牲的精神と選手の意欲の向上を重視した理論派かつ戦略派の指導者。68年にはストロングTと切れのよいオプションプレーで、自身の監督生活で初の、明治大学にとっては20年ぶりの関東大学リーグ制覇を果たす。97年までの35年の監督時代で、甲子園ボウルに4回出場。監督をするかたわら、全日本や全関東チームの監督、コーチを数多く歴任するとともに約50年間、十指に余る大学や社会人チームの発足にかかわり、指導やコーチ派遣などを行い、幅広く普及に貢献した。
入澤 敏夫 (いりさわ・としお)1932~
日本体育大学の器械体操で活躍後、1963年に東京都立西高校に赴任。65年にタッチフットボール部の顧問に就任した。同時に全国高等学校アメリカンフットボール連盟の活動に参加し、関東地区の高校での競技活動の理事や部長、理事長などとして全体組織の運営に約35年間携わった。この間、神奈川地区や埼玉・茨城・千葉地区の組織化に貢献するとともに、高校フットボールの組織活動の強化や安全対策の推進、全国高校選手権クリスマスボウルの創設を行う。93年に日本協会常任理事を務め、同年、永年の功績により東京都高等学校体育連盟より特別表彰を受ける。
倉智 春吉 (くらち・はるきち)1940~2023
関西学院中学部のタッチフットボール部で競技活動を開始。関西学院の中学、高校、大学と10年連続で甲子園ボウルに出場。大学時代は大型フルバックおよびキッカーとして活躍し、ライスボウルと西宮ボウルともに4年連続で出場した。1961年、関西学院大学の主将を務め、卒業後は社会人チームのホワイト・ベアーズを創部。84年に関西社会人連盟理事長に就任し、社会人チームの草分け的存在として組織化に尽力した。85年に設立された日本社会人協会では、初代副理事長に就任するとともに、その後の96年のXリーグ発足に寄与。03年に日本協会常務理事、05年に日本社会人協会理事長に就任。07年に日本社会人協会の初代会長に就任した。
後藤 完夫 (ごとう・さだお)1943~2018
慶應義塾高校で競技活動を開始。慶應義塾大学でランニングバックとして活躍、1964年のハワイ遠征全日本学生チームの一員に選ばれる。「スポーツは文化」と考え、普及のため、70年にアメリカンフットボール専門誌『TOUCHDOWN』を発行人として創刊。76年に月刊誌化し、2016年10月号(568号)まで毎月発行した。同誌の編集とともに、自らフットボールの技術や戦術面の記事を執筆し、日本や米国のフットボールの活動を報道。74年からテレビ放送の解説者として活躍するとともに、87年には春季の恒例となった「ヨコハマボウル」を創設。また女子タッチ、フラッグフットボールの普及等、広くアメリカンフットボール競技の発展に尽くした。
喜入 博 (きいれ・ひろし)1945~
東京都立烏山工業高校でタッチフットボールを経験。1965年に審判活動を開始し、70年に関東審判部の運営に参加。フットボール興隆期で急速に増加する試合数に対し、関東審判部の組織化と拡大に貢献し、多くの施策を実行。教育を重視し、ルールの知識や適用力の向上を図った。74年から36年間、競技規則委員会で活動し、計16回の公式規則書の編集と発行の実務責任者を務める。92年から14年間、競技規則委員長を務め、89年から15回、NCAAルール委員会に出席。91年から4年間、審判協会の理事長を務める。審判員としてライスボウル14試合など約1,500試合の審判を担当。99年の第1回ワールドカップでは3位決定戦の主審を務めた。
板 哲夫 (いた・あきお)1948~2018
日本大学櫻丘高校で競技活動を開始し、強豪校のQBとしてチームを導く。日本大学で一年時はQB、二年生からは巧みな走法を生かしてフルバックに転向し、レギュラーとして活躍した。一、二、四年生で甲子園ボウルに出場。二年生で出場した1967年の第22回甲子園ボウルでは、先制タッチダウンを挙げた。また四年時の第24回甲子園ボウルではキックオフリターンタッチダウンを挙げるなど、快足かつリズミカルな動きと的確な判断で活躍し、副将として3年ぶりの優勝の原動力となった。ライスボウルには68年から3年連続出場。卒業後は母校の日本大学櫻丘高校および日大のコーチに就任し、後進を育てた。
廣瀬 慶次郎 (ひろせ・けいじろう)1948~
関西学院高等部でQBとして活躍し、全国3連覇。関西学院大に入学後、一年生から四年生まで甲子園ボウルに出場し、優勝3回。二年生から正QBとして出場し、四年時の第25回甲子園ボウルでは、自らのパス攻撃で大差の勝利を収め、2年ぶりの王座奪還に寄与した。卒業後は1971年に関西学院大学のコーチに就任。73年に渡米し、ウェイクフォレスト大のチャック・ミルズ氏の下でコーチに就任し、本場・米国の技術、理論とコーチングを修得した。帰国後は母校の関西学院大学でQBを中心に技術的な指導に貢献。83年にヘッドコーチに就任。関西学院高等部の監督などを歴任するとともに、全高校選抜のヘッドコーチを務めるなど、多くの選手を指導した。
東元 春夫 (ひがしもと・はるお)1951~
大阪府立豊中高校で競技活動を始め、関西学院大学でラインとして活躍し、甲子園ボウルとライスボウルに出場。卒業後、1980年から4年間、米国に留学し、帰国後は競技規則委員に就任。我が国における競技規則の制定と普及に努める。競技規則委員会では副委員長を務め、2006年から4年間は委員長として競技規則委員会を主導。米国NCAAとのコミュニケーションを図り、85年に日本人として初めてNCAAルール委員会に参加して以来、2005年まで16回出席した。NCAAルール委員ら関係者の我が国への招へいにも貢献。この間、関西学生連盟審判部の運営および審判員として活動し、甲子園ボウル、ライスボウルなど多くのビッグゲームを担当した。
川原 貴 (かわはら・たかし)1951~
東京大学で4年間の競技活動の後、コーチや助監督を務める。スポーツドクターとして、1990年に日本協会で初めての重大事故調査を実施。以後、重症頭頸部外傷や熱中症の予防に積極的に取り組む。また、オリンピック、アジア大会、ユニバーシアードの日本代表選手団本部ドクターとして活躍するとともに、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)スポーツ診療所長、スポーツ医・科学委員会委員長、日本オリンピック委員会理事、国立スポーツ科学センター長などを歴任。2004年にはアメリカンフットボールにドーピング検査を導入し、アンチ・ドーピング活動を推進。13年から日本協会理事、同安全対策委員会委員長として安全対策の推進に貢献。
松岡 秀樹 (まつおか・ひでき)1961~
高校時代は野球部。1981年に日本大学入学すると、QBとしてアメリカンフットボールを始め、入部3か月後のパールボウルでチームを勝利に導く。パスとランの能力を兼ね備え、大試合にも動じないプレーでショットガン体形を主導する。4年連続甲子園ボウル出場。一年生からレギュラーとして活躍し、82、84年の優勝に貢献。84年にはチャック・ミルズ杯を受賞。84年度のライスボウルではQBとして7TDを導き、日本大学は初優勝を遂げて自らはポール・ラッシュ杯に輝いた。卒業後はレナウンに所属し、85年度から4年間、ライスボウルに出場。85年度にレナウンを日本一に導き、2度目のポール・ラッシュ杯受賞となった。
東海 辰弥 (とうかい・たつや)1964~
高校時代は野球部。1984年に京都大学に入学後、QBとして86、87年と2年連続で関西学生リーグを制するとともに、甲子園ボウルで優勝した。チャック・ミルズ杯も連続受賞。ライスボウルも勝利して2年連続日本一となり、ポール・ラッシュ杯も連続で受賞した。強肩からのパスと、豪快かつしなやかなスクランブルランで活躍。卒業後、アサヒビール・シルバースターに所属し、89年に東京スーパーボウルを制して社会人王者となり、同チーム初のライスボウル出場に貢献。92、93年度も社会人王者となり、ライスボウルではQBとして両年ともチームを勝利に導き、自身3、4度目の日本一となった。
第6回 殿堂顕彰 11人(2025年1月3日)
浅野 良三 (あさの・りょうぞう)1889~1965
浅野財閥創始者浅野總一郎氏の次男として生まれ、ハーバード大学留学後、日本鋼管(株)社長など実業界で活躍のかたわら、1937年に東京学生米式蹴球連盟の初代会長、38年に日本米式蹴球協会初代会長に就任。ポール・ラッシュ氏との親交深く、卓越した英語力と交友関係でフットボール界と財界との懸け橋となる。実務を行う会長として協会全体の取りまとめとともに、各チームに対する援助も行い、戦前の活動困難な時代にフットボールの発展に貢献する。悪化する日米関係に米国滞在時代の交友・経験を生かし、相互理解を推進。戦後は萱場工業(株)社長、父・總一郎氏が創立した浅野学園理事長を務め、人材育成に貢献した。
葉室 鐵夫 (はむろ・てつお)1917~2005
日本大学時代に1936年ベルリンオリンピックに出場、競泳男子二百メートル平泳ぎで五輪記録を達成し、金メダリストとなる。その後も世界の水泳界の頂点として君臨。46年に毎日新聞社に入社し、運動担当記者として活躍。同社主催で東西大学選手権「甲子園ボウル」を開催することとなり、入社早々、甲子園ボウルの創設にかかわる。時間的制約、未知の事業開始など、多くの困難の中で47年第1回甲子園ボウルを滞りなく開催。以降、フットボールの定期的開催となった甲子園ボウル主催の活動を中心にフットボール界に報道で貢献、73年米国視察でその神髄を取材したフットボールを愛し、第一線記者を退いた後も日本フットボールを支援した。
Donald T. Oakes (ドナルド・オークス)1923~2005
1948年春、米国聖公会から米国史と神学の教師として立教大学に赴任。同大学アメリカンフットボール部の練習の見学をきっかけに、同年秋、コーチに就任。50年に監督として、当時米国で主流のTフォーメーションを採用、51年に関東大学リーグ戦で立教大学を創部18年目の初優勝に導き、第16回甲子園ボウルで関西学院大学を破って初出場で優勝した。続く52年も関西学院大学を破り2連覇、立教大学の黄金時代を築く。以降の日本フットボール界のTフォーメーション採用のきっかけを作る。戦略、戦術を立案しそれに基づいた練習と試合で本格的な監督、コーチとして活躍、他チームにも大きな影響を与えた。53年に帰米。
河田 幾造 (かわだ・いくぞう)1937~2023
1956年に法政大学に入学し、バックで活躍した。66年に法政大学の監督に就任し、その後当時の関東協会の理事を経て、78年から91年まで関東協会理事長を務める。81年、それまで11年続いた関東大学リーグの並列リーグ制から多くの課題を解決する直列1~3部制に変更。また加盟校急増に伴う試合数増やグラウンド確保など多くの課題に対応。理事長職後期は、全国の大学が参加できる全日本学生選手権が必要と考え、90年に全国の大学組織をまとめた日本学生協会を設立。初代理事長に就任し、運営の礎をつくり、全国大学選手権実現の道を切り開いた。またアイビーボウルなど海外交流の拡大に精力的に活動した。
久保田 薫 (くぼた・かおる)1942~
大阪府立池田高校でフットボールを始め、1960年に早稲田大学に入学後、ランニングバックとQBとして活躍。72年、関西社会人のサイドワインダーズを結成。第1、2回の東西王座決定戦で監督として王座に就く。73年に西宮ボウルで全関西の監督を務め、大阪市立大学監督として創部4年目で1部リーグに昇格したほか、マイカル・ベアーズなどの監督を歴任した。毎年、選手やコーチを米国に派遣して先進的な技術等を学ばせ、日本の競技力向上に寄与。フットボール用品専門店経営のかたわら、88年に関西地区を対象とした少年リーグ「チェスナットリーグ」を創設。フットボールを通して青少年に健全な心身の育成を目的に多くの選手を輩出した。
崎 弘明 (さき・ひろあき)1943~2022
1967年に関西学院高等部に数学科教師として赴任。翌68年、同高タッチフットボール部の顧問に就任し、併せて兵庫県高等学校体育連盟タッチフットボール部委員長に就任。関西学院高等部、兵庫県、関西高校タッチフットボール連盟の運営、競技活動推進に貢献した。同時にタッチフットボールからアメリカンフットボールへの転換に、同校のみならず関西高校界を指導、支援する。関西高校連盟理事、理事長を合計17年間務めた。この間、米国アシュランド高校とのパシフィックリムボウルの開催や高校地区大会、全国大会、高校選手権の開催、新型コロナ禍での活動継続などで、関西および全国の高校フットボールの運営、開催に貢献した。
瀧 悠喜夫 (たき・ゆきお)1946~2022
関西学院高等部でフットボールを始め、関西学院大進学後は二年生からタイトエンド、守備エンドの攻守出場のレギュラー選手を3年間務め、いずれも関西学院大学のリーグ制覇に貢献。1967年の四年時に主将となり、チームを主導して同年の第22回甲子園ボウルで日大を下し、11年ぶりの単独優勝をもたらした。卒業後、ただちに関西学院大学コーチに就任し、特に守備の専門家として戦略や指導の中心となるとともに、82、83年には監督を務めた。選手としても大学卒業後、OBチームや全関西選抜チームで活躍。69年の第15回西宮ボウルでは、日本で初めての4メンフロントディフェンスを導入し、全関西の圧勝に貢献した。
平井 英嗣 (ひらい・ひでつぐ)1948~
1966年に立命館大学に入学後、フットボール部に入部し、ラインバッカーとランニングバックで活躍。卒業後はサイドワインダーズに参加し、ランニングバックとして活躍後、84年に立命館大学のヘッドコーチに、93年に監督に就任した。監督就任2年目、創部42年目の94年に関西学生リーグを制覇し、第49回甲子園ボウルに勝利。96年の関西学生リーグで同率優勝、98年に3回目の関西学生リーグ優勝と2回目の甲子園ボウル優勝に導き、立命館大学を強豪チームに育てる。2001年まで監督を務め、2003年に発足した関西アメリカンフットボールコーチ協会の初代会長に就任。その後日本学生協会理事長に就任し、甲子園ボウルの全日本学生選手権化に貢献した。
柴田 尚 (しばた・ひさし)1953~2024
大阪府立豊中高校でフットボールを始め、1971年に関西学院大に入学。73、74年に関西学院大学のフルバックとして関西学生リーグ制覇に貢献。両年の甲子園ボウルに先発出場し、73年は54ヤード、74年は47ヤードのそれぞれ先制タッチダウンランを挙げ、勝利の道を切り開いた。74年の第29回甲子園ボウルでは、この年に設けられたチャック・ミルズ杯を受賞。卒業後、90年に女子フットボールの第一生命レディコングを設立し、監督に就任。2015年に女子協会を設立し、初代理事長に就任。タッチフットボール、フラッグフットボールを含めた女子フットボール界の指導、普及、振興に35年間貢献した。
田中 真弓 (たなか・まゆみ)1954~
学生時代はバスケットボール選手として活躍。観戦したフットボールの試合でその魅力を知り、1977年に電通キャタピラーズ創部とともに、マネジャーに就任。初めてのフットボールチームとして、組織活動を「無」から開始する活動に参加。対応すべき多くの課題や日常活動、グラウンドでの活動に貢献するとともに、練習、試合などの活動、業務や運営の定型化、日常化を確立し、安定したチーム活動を実現。社会人協会の活動にもチームを代表して参加。選手、スタッフの入れ替わりが多い中、情熱と勤勉さで長期間、一貫してマネジメント活動を継続し、「組織のスポーツ・フットボール」のチームにおけるマネジメント業務に47年間継続して貢献。
鈴木 隆之 (すずき・たかゆき)1958~
東海大学付属高校でフットボールを始め、日本大学に入学後、三年生からショットガン体型の正QBとして、関東大学リーグで2年連続でパスで2,000ヤードを獲得し、リーグ連覇に導く。続いて出場した1979、80年の甲子園ボウルも圧勝で制し、連続大学日本一に貢献した。チャック・ミルズ杯を初めて2年連続で受賞。卒業後はレナウンに入社し、正QBとして活躍。日本選手権・ライスボウルを第1回から6年連続出場し、中核としてプレーした。86年のライスボウルでは、チームを社会人初の日本一に導く。生涯でタッチダウン率8.33%、被インターセプト率2.65%の好成績を誇り、パッシングQBとして長期の競技活動で貢献した。