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1934.11.29

Ⅰ.アメリカにおけるフットボールの始まり

お知らせ

日本でフットボール競技が始まる前までの米国における近代フットボールの確立の状況は、次の通りである。

 

[1]競技としてのサッカーとラグビーの誕生(英国)

「ボールを蹴って敵陣地まで進める」スポーツは、その形態はさまざまであったが、世界各地で約2,000年前から行われてきたと言われている。中にはとても粗暴な方法・手段で行われ、スポーツではなく闘争・紛争と思われるものもあった。そして時代とともにそのやり方は変化していった。

英国でも古くから、「ボールを蹴る」、「ボールを運んで定められた場所に持ち込む」フットボールが行われていた。当初は、集団による無秩序な闘争に近かったが、徐々にそのボールの扱い方や自分の身体の活用方法の変化、試合としての一定の作法と流れを変更しながら発展を遂げ、徐々に「ルール」らしきものが決められていった。1800年頃になるとフットボールは「サッカー」と呼ばれる運動競技として広まってきた。

サッカーが広まり、各学校で授業の一環として取り入れられるようになった1823年11月、英国のラグビー校で、ウィリアムス・ウェブ・エリス少年がボールを抱えて走り出し、ゴールライン突破した。「ボールをただ蹴るだけでなく、持って走ることも面白い」との意見が多く、その結果、「ラグビーの前身」が誕生し、サッカーと2つのスポーツが共存していった。そして英国では、それぞれの競技形態をとるFootball Association(サッカー型、1862年設立)とRugby Football Union(ラグビー型、1871年設立)の2組織が発足した。

 

[2]米国でのスポーツ活動の始まり

米国では、17世紀から18世紀にかけて大学が設立され(主としてアイビーリーグ)、同時に大学スポーツが始まった。ただし、英国からのテニス、ラクロス、ストゥールボウル、ローンボール、ボウリング、競馬などが主で、それにサッカー(現在のサッカーとはだいぶ異なる)も始められた。

1750年代、ハーバード大、プリンストン大で「フットボール」、「ラクロス」が行われ始めた。1780年代のフットボールは、サッカーのように足でボールを蹴ることを基本とし、加えてボールを拳で打つことができた。選手数の制限はなく、交代も自由だった。ただし、ルールは学校やクラスによってさまざまなものがあり、また試合の場で変更されることも多かった。

1840年代になると、フットボールが各大学で盛んに行われるようになり、クラス対抗、学年対抗の競技が開催された。試合は果敢、しかし乱暴なもので、その「乱暴」が一般にも広く知られることとなり、世間からの非難も多くなってきた。この頃のフットボールは、まだサッカーに近く、現在のアメリカンフットボールとはほど遠いスポーツだった。

あまりの激しさと乱暴さ、それに対する社会からの批判の高まりで、1860年代、とうとうハーバード大とイェール大でフットボール(サッカー型)が禁止された。しかし、他の大学での競技は続けられた。(参考:1861年南北戦争勃発。5年間の戦争へ)

1862年、ジェリット・スミス・ミラー氏が最初のフットボールクラブ、「ボストン・オネイダ・フットボールクラブ」を設立した(「オネイダ」はボストンの湖の名前)。ルールは当時英国で使用されていたサッカールールを基本とし、
・1チームは15人
・ボールは、キック、ヘディング、拳で打つ、ドリブルはよいが、持って運んではならない
・ボールがゴールラインを越せば試合終了(そのため数分で終了となった試合も多かった)
とした。ミラー氏は、米国のフットボール・ルールを最初に整備した人だった。

 

[3]アメリカンフットボール(サッカー型)の最初の試合

南北戦争が終結して間もない1869年11月6日、「アメリカンフットボール誕生」(サッカー型)とされる試合が、互いに26キロメートルしか離れていないプリンストン大とラトガース大の間で開催された。まだ米国では大学にフットボール部がない時代で、ともに選ばれた一般学生のチームが3試合を行い、2勝した方が全体の勝利と取り決めた。両校には日常的に競技してきた自校のフットボールのルールがそれぞれあり、調整の結果、以下のルールで行うこととした。サッカー型のルールだった。

・ボールは持って運べない。キックするか、頭で受けて進めるだけ
・1チーム25人
・ゴールポストは25フィート(7メートル62センチ)の間隔で、キックしたボールがゴールポストのバーを越えれば1点。6点挙げれば勝者となる(ただし、第2試合は8-0の記録が残っている)
・フリーキック(ボールをキャッチすれば、その地点から自由に蹴る権利のルール)は、交互の試合で採用(まだサッカー型のルールがいろいろとあったため)

そして、試合の結果は、
第1試合:ラトガース大  6-4 プリンストン大 (ラトガース大キャンパスで開催)
第2試合:プリンストン大 8-0 ラトガース大 (プリンストン大キャンパスで開催)
第3試合:観客の生徒が興奮し、負傷者・死傷者の発生を恐れ中止
このフットボールの大学対抗試合は、英国を含めて世界初だった。

以降、プリンストン大とラトガース大の対戦は、現代のアメリカンフットボールのルールに基づいた試合となってからも両校の定期戦として開催され、この年から111年後の1980年まで続いた。この間の対戦成績はプリンストン大の53勝17敗1分けだった。

この試合の後の1871年、プリンストン大にフットボール部が創部され、米国初の大学フットボール部となった。

 

[4]ラグビー型アメリカンフットボールの競技開始

1750年代にプリンストン大とともに初めてフットボールを開始した米国で最初の大学であるハーバード大は、1860年にフットボールが禁止となったが、12年を経た1873年、イェール大とともに競技活動を復活させた。競技の規則は、プリンストン大-ラトガース大の対戦(サッカー型)と試合形式は同様だったが、

・「相手選手に追いかけられたときには、ボールを持って走る」

ことができた。英国でウィリアム・ウェブ・エリス少年がやがてラグビー誕生となるきっかけの試合から約50年後、その奇策が米国のフットボールで復活し、「ラグビー型フットボール」が誕生した。

しかしながら、従来から活動を続けていたコロンビア大、ラトガース大、プリンストン大、イェール大の4大学は、依然としてボールを持って走ることができないサッカー型フットボールの活動であり、ラグビー型はハーバード大での単独の活動が続いたが、1874年にカナダのマギル大がハーバード大と同じラグビー型の競技を始めた。

1874年春、ハーバード大とマギル大はジャービス・フィールドでラグビー形式のフットボールの対戦を行った。ラグビー型フットボールでも、両校のルールは少々違っており、そのため2試合をぞれぞれの大学のルールで対戦した。

基本的な試合のルールは、
・試合は30分の3ピリオド制
・蹴ったボールがゴールポストのクロスバーを越えればゴール。持って走り込めば、(それだけでは得点とならず)フリーキックの権利が与えられる(相変わらず、「得点」はキックによる場合だけだった)

第1試合はハーバード大が3-0で勝利し、第2試合は0-0の引き分けだった。こうして、米国での「ラグビー型フットボールの誕生」といわれる試合、初の国際試合、そして初の有料試合は終わった。

 

[5]ラグビー型とサッカー型の共存と対戦、そしてラグビー型への集中

一方、4大学を中心とするサッカー型も、その後コーネル大、ミシガン大などのチームを加え、1870年代半ばには10大学で活動していた。1873年、現在でも続く最古の対戦であるプリンストン大とイェール大が対戦。イェール大は英国人で編成するエトン・クラブとも対戦した。この試合の特徴は、両チームの出場選手数をそれまでの20人以上(年により変動)から11人とし、その結果、少人数による迅速な試合展開や作戦に基づくプレーが可能となったことで、以降のフットボールの選手数の決定につながった。

1875年、各スポーツで対抗戦を開催しているハーバード大(ラグビー型)とイェール大(サッカー型)が、他の運動競技の対抗戦の一環としてフットボールの試合を行うことになった。互いのルールが違う中で試合ルールの調整が行われ、両者の折衷のルールとして、

・丸形のサッカーボールを使用(サッカー型を採用)
・得点はゴールのみ(同)
・ボールを持って走れる(ラグビー型を採用)
・スクラメージの採用(同、注:現在の「スクリメージ」とは異なる)
・胴から上のタックルは可(同)
・選手は各チーム15人(同)

が合意された。

約2,000人の観客の下で開催された試合は、4-0でハーバード大が勝利した。試合は大成功で、観客は情熱的な展開に酔いしれ、サッカー型にはなかった「タックルあり」の初試合で傷だらけになったイェール大の選手たちも、この試合に満足した。この試合でラグビー型のフットボールの優位性が明らかになり、イェール大を皮切りに、それまでのサッカー型フットボールの大学が、次々にラグビー型フットボールへと転換していった。

 

[6]近代フットボール、基盤の確立

ラグビー型フットボールが各大学に浸透した1870年代後半から、大学フットボールはラグビー型フットボールとなり、参加校も増加していった。1876年にはハーバード大、イェール大、プリンストン大、コロンビア大の4大学で米国初のフットボール組織である米国大学対抗フットボール協会(AIAF:American Intercollegiate Football Association)が設立され、組織的な活動を行うようになった。ここでもルールの検討がなされ、従来タッチダウンでは付与される得点はなく、次の得点がもらえるゴールへの権利だけだったものが、タッチダウンにも1点を与えるなどの変更がなされていった。

イェール大には1875年、後に「フットボールの父」と呼ばれたウォルター・キャンプ氏(Walter Camp:1859-1925)が入学し、その後卒業した1880年から83年までエール医学校に在籍した。もとは野球とラグビーの選手だった同氏は、大学でフットボールを始めてHBとして活躍し、卒業後の88年にはイェール大フットボールのヘッドコーチに就任した。

同氏は卒業後、積極的にラグビー型のフットボールのルールの改善を提案し、近代フットボールの基本を作り上げた。同氏の提案による主なルールは次の通りである。

(1)1880年以降ルール変更の提案、実現
・1チームの選手は11人
・スクリメージの採用(ラグビーのスクラムから対面のスクリメージに←攻撃・守備の明確化)
・ラインとバックスの分離

(2)1882年の提案、実現
・攻守交代を決めるダウン制の採用(3回のダウンで5ヤード以上進めなければ攻守交代=現在は4回で10ヤード=)

(3)得点を大幅に変更
それまで、得点はフィールドゴール(FG)の1点のみだったものを、次のように変更していった。
●1883年
タッチダウン(TD) 3点
TD後のトライフォーポイント(TFP)のキック成功 4点(TDの3点とは別に)
FG 1点
●1898年
TD、FGの成功 5点
TD後のTFPの成功(プレーでもキック成功でも) 1点
●1909年
TD 5点 (1912年に6点に)
FG 3点
TD後のTFPの成功(プレーでもキック成功でも) 1点 (参考:1958年にプレー2点、キック1点に)

 

同氏の提案により、これまでサッカー型からラグビー型として競技されてきた米国のフットボールが、第3世代の米国型フットボール、「アメリカンフットボール」となった。

特に、近代フットボールの特徴である
・スクリメージ制の採用 (プレー開始前に攻守が明確に分かれている)
・ダウン制の採用 (スナップからデッドまでが1ダウン)
・攻守交代の明確化 (3回の攻撃で5ヤード以上進められなければ攻守交替)
を定め、「ラグビー型フットボール」との明確な「別れ」が重要なポイントだった。

 

●英国を中心としたサッカーを起源として、現在のアメリカンフットボールの競技形態となる大まかな流れは、以上の通りである。20世紀初頭までの米国のフットボールは、まだ発展途上にあり、現在のフットボールファンが観戦すると、「これがアメリカンフットボールか?」と思われるような競技だった。

 

★NFLについては、「NFL history」をご参照ください。
https://nfljapan.com/guide/about/history