わが国のアメリカンフットボールの公式な競技開始は1934年(昭和9年)で、この年、立教大、早稲田大、明治大の東京学生アメリカンフットボール連盟の設立と、同年の最初の公式戦である全東京学生-横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)により、日本フットボールは誕生した。
しかし、この1934年以前にも日本および日本人がアメリカンフットボールの活動をしていた。その活動は、日本からの米国留学生によるものおよび日本に寄港した米国海軍の兵士による活動である。以下は現在判明しているその活動記録(年代順)である。
[1]桑田権平氏の米国での活動
日本人で最初にアメリカンフットボール競技をした人は、米国での競技活動ではあるが、現在判明している限りでは、桑田権平氏(1870年(明治3年)~1949年(昭和24年))である。
同氏は、慶應幼稚舎卒業後の1883年、満13歳のときに渡米し、米国で中・高を卒業後、1890年(明治23年)にボストン近郊のウースター工科大学(現Worcester Polytechnic Institute)機械工学科に入学した。同氏は、多種類の運動競技をする米国の仕組みの通り、クロスカントリーの競技参加とともに、アメリカンフットボール競技にも参加した。その記録が同大学図書館のアーカイブ資料および同氏の自伝に残されている。同氏は9年間の留学から帰国した後、紡績会社で使用する紡錘器の製造会社を設立し、わが国の紡績産業の発展に貢献するとともに、学術研究活動の支援を積極的に行うなど活躍。1949年に永眠した。
[2]東京高等師範関係者の活動
日本国内でのアメリカンフットボール競技の活動は、大正初期の1910年前後、東京高等師範(現筑波大、当時の校長は嘉納治五郎氏)は米国の教育状況の把握と制度の研究のために、定期的に米国に留学生を派遣し、大谷武一氏ほか多くの師範が留学した。その留学生のうち何人かが、留学先の大学でフットボールの練習に参加した。
その中で岡部平太氏(1891年~1966年)は1917年に渡米。シカゴ大でバスケットボール、水泳、陸上競技とともにフットボールを経験し、1920年の帰国後は東京高師体育科講師に就任した。同氏は帰国時、フットボールを3個ほど持ち帰り、1927年(昭和2年)に東京高師のラグビー部員や付属中学の学生とともにフットボールの研究と練習を始めた。その成果として、中学五年生対四年生の試合も行っている。
東京高師のグループは留学中およびその後の国内活動の成果をまとめ、その名も『アメリカンフットボール』とした書籍を1927年(昭和2年)6月25日に発行した。「発行所:目黒書店(東京京橋区)、著作者:代表者・安川伊三(東京高等師範學校内・アメリカンフットボール研究會)、定價金:貮圓也、B6判、226Pの単行本」で、冒頭には11枚の写真が掲載されている。
本書の冒頭には発行に関係したと思われる二宮文右衛門、大谷武一、岡部平太、鈴木時太郎、安川伊三、竹内一の各氏による序文と挨拶が掲載され、以下の目次から構成された。
1.本書発刊の目的
2.公認蹴球規則
3.初歩練習上の諸注意
4.シグナルの説明 (補足:審判員が使用する公式シグナルの説明)
5.フォーメーションの解説とその種類
6.攻擊及防禦に於けるプレイヤーの基本的位置
7.全米インターカレヂエートフットボールの概説
「2.公認蹴球規則」は、1925年の米国NCAAの競技規則の全訳で、訳は東京高師のラグビー部員の竹内一、園部暢、監崎、佐々亮、小林等の各氏が担当した。競技活動が日本で開始された以降の正式な公式規則の出版は1936年であるが、この東京高等師範関係者による競技規則の翻訳と出版は日本で初めてであった。
1927年4月30日、鈴木時太郎氏(東京高師フットボール指導者、ハワイ大で3年間フットボール選手)、大谷武一氏(東京高等師範教授)が準備し、東京・吉祥寺の成蹊学園のグラウンドで同高師のラグビー部員を主とした「アメリカンフットボール研究会」が練習試合として紅白試合を開催した。
これらの東京高師のグループのメンバーが教育現場として赴任した水戸高、横浜高等工業高にもフットボール競技開始の動きはあったが、チームを編成しての試合は実現しなかった。
東京高等師範関係者によるアメリカンフットボール普及活動は、この時代の世間の「アメリカンフットボールは危険なスポーツである」との認識と、留学からの帰国時に米国から持ち帰ったボールが摩耗したこと、その代替品の作成が国内でできなかったことにより停滞し、停止した。
[3]当時のその他のフットボールの動き
詳細は不明だが、この当時、ハワイ・ホノルル生まれの日本人・糸賀氏が、米国カンザス大の蹴球選手として活躍した。
[4]日本で競技が始まる前の日本でのフットボールに関する認識
1934年に日本で競技活動が始まる前の、一般社会におけるアメリカンフットボールの状況、受け止め方は次のようであった。
1.フットボールが登場する米国映画
1920年代後半から日本に映画(活動写真)が徐々に普及し始め、特に映画先進国である米国からの映画が広く公開されるようになった。その映画には、ナショナルスポーツとしての地位を固めつつあったアメリカンフットボールを題材にしたものも多く、これらの映画から日本人がアメリカンフットボールを知る機会が多かった。フットボールを題材にした日本公開の映画には、この当時、次の映画があった。
1930年:「スポーツ王国」
1932年:「蹴球大学」、「タッチダウン」、「ご冗談でしヨ」、「七万人の目撃者」
1933年:「響け応援歌」
1934年:「カレッジリズム」
1936年:「オフサイド」
1938年:「ビッグ・ゲーム」
さらに、当時の映画には主として公開する劇映画の前に、国内外のニュース映画が上映されることが多く、海外ニュース(特に米国で制作されたニュース)では、季節によって米国内の主要ゲームの結果紹介の映像が流れ、それによりフットボール試合に接することも多かった。
2.スポーツ誌によるフットボール紹介
大正・昭和初期には、新聞もスポーツを報道していた。しかし、日刊の一般紙がスポーツを取り上げることは少なく、報道の対象は限られたスポーツであった(スポーツ専門の日刊紙は戦後の発刊で、戦前にはなかった)。
●アサヒスポーツの記事
日刊紙以外で当時、最も充実していたスポーツ関係の出版物は、1923年(大正12年)創刊の『アサヒスポーツ』(月2回発行)だった。この『アサヒスポーツ』で特によく報じられた競技はオリンピック、極東大会、野球、陸上、水泳、テニス、相撲、柔剣道、ラグビーだったが、ときおり海外のスポーツ事情の報道があり、そこで米国のアメリカンフットボールが取り上げられることがあった。アメリカンフットボールの報道は、特に米国内でフットボールが盛んであり、その開催規模や熱狂が主として伝えられた。日本で競技が始まった34年以降は、わが国で開催されたアメリカンフットボールの試合の予想や結果などが写真付きで報道された。また35年の全米学生選抜来日時は、表紙も含めて同選抜チームの特集が報じられた。
3.フットボールに関する当時の新聞報道
●当時の新聞などのメディアのフットボールに関する報道は、次のような観点からの内容が多かった。
・米国では大学を中心にフットボール競技が行われ、大変な人気がある。試合は週一回のみで、各大学には数万人の観客を収容できるスタジアムがあり、そこでは週末に1試合が開催され、観客で埋め尽くされる。(当時の日本の運動施設は、欧米に比べ非常に脆弱だった)
・試合はラグビーに似て、選手はみな大男、一人がボールを持って走るが、プレーは途切れ、ラグビーのようには続かない。すぐに途切れるのでやや退屈。なんで米国人が熱狂するのか、よく分からない。
・ラグビーと異なり、多くの場所で選手がぶつかり合うので、とても危険。毎年米国では、何人かが死亡している。
(注)「危ない」に関しては、米国でも問題になり、時のルーズベルト大統領(大統領在任期間:1933~45年)が「アメリカ魂の養成のためには、これくらいの犠牲は民族の払うべき当然の義務である。フットボールを大いにやるべし」と主張したほどであった。
4.スポーツ移入国・日本でフットボールが遅れた理由
●日本は世界の多くのスポーツを貪欲に取り入れてきたが、アメリカンフットボールの活動は他のスポーツに比べて遅れた(欧州でも普及しなかったので、日本独自の障害ではないと思われるが…)。その理由は、
①英国発祥のスポーツは、英国の植民地政策の下で、英国と英国人が世界へその普及に精力的に取り組んだが、米国は植民地が少なく、また自らのスポーツの他国での普及にそう熱心ではなかった。
②アメリカンフットボールは「危険」との印象が日本国内では多かった。特に日本で報道されるときにはいつも、「米国ではフットボールが大変な人気があり、熱狂的である。しかし、とても危険なスポーツで、毎年10~20人が亡くなり、骨折は日常的である」のように報じられた。
③装具、用具にお金がかかった。特に国産品がなく、海外からの輸入も不自由な時代で、競技の経験もなく、どのように防具を作成したらよいか分からなかった。
また、明治、大正時代は日本のスポーツは個人対個人が主で、「わが国の運動競技界は、未だアメリカンフットボールを輸入して、之を靑年のスポーツとして普及、發達さす程度にまで進歩していない」とも言われていた。