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INFORMATION ニュース

1934.11.29

1934年(昭和9年) 活動1年目

お知らせ

わが国のフットボールの誕生。東京学生連盟発足。最初の公式試合およびリーグ戦を開催

日 付 主な出来事
社  会 (1869年)

(1874年)

(1880年)

(1902年)

(1925年)

(1933年)

・ 8月19日

・11月2日

・12月26日

(米・フットボール誕生の試合、プリンストン大-ラトガース大。サッカー式ルール)

(米・フットボール誕生の試合、ハーバード大-マギル大。ラグビー式ルール)

(米・ウォルター・キャンプ氏の提唱で、スクリメージ、ダウン制を導入。現在の形へ)

(米・第1回ローズボウル、ミシガン大-スタンフォード大)

(ポール・ラッシュ博士、YMCA再建のため初来日。1926年、立大教授に就任)

(米・NFL第1回選手権試合、シカゴ-ニューヨーク)

・ドイツ、国民投票によりヒトラーが総統に

・ベーブ・ルース選手ら17人の米野球大リーグ選抜、来日

・大日本東京野球倶楽部結成(のちの読売巨人軍)

フットボール (1933年12月末)

・10月25日

・10月28日

・10月末

・11月25日

・11月29日

・12月1日

・12月8日

・12月22日

(明大シグマ・ヌ・カッパ-在日ハワイ二世の公開非公式試合・1試合目(立大池袋G))

・明大シグマ・ヌ・カッパ-在日ハワイ二世の公開非公式試合・2試合目(立大池袋G)

・東京学生アメリカン・フットボール連盟設立

・玉澤運動具店(東京牛込)、国産初の防具完成。11月29日の最初の公式戦で使用

・日本で最初の公式戦開催新聞記者発表(丸の内アメリカンクラブ)

・日本で最初の公式戦、東京学生-YC&AC(明治神宮外苑競技場)

・東京学生連盟、シーズン制の採用(公式試合は10~12月)・NCAAルール準拠等決定

・東京学生リーグ戦開幕、わが国最初のリーグ戦・明大-立大開催(立大池袋G)

・東京学生リーグ戦閉幕、明大が記念すべき年の優勝

 

1934年11月29日(木・感謝祭の日)、明治神宮外苑競技場で、日本におけるアメリカンフットボールの最初の公式戦・全東京学生-YC&ACの試合が開催された。日本で競技活動を始める決定から、最初の公式戦まで、わずか半年での試合開催だった。続いて、立教大(以下、「立大」)・明大・早大の3大学によるリーグ戦が開催され、明大が優勝した。防具・装具、グラウンド、対戦相手の組織化と交渉、宣伝とマスコミ対応、集客、競技規則の普及、資金調達等、関係者にはすべて初めての経験で大変な半年だった。

[1]当時の日系二世の状況

1.当時の留学生の状況

●日本フットボール誕生のきっかけは、当時の国際為替相場の円安を利用し、日本で高等教育を履習しようと留学していたハワイ、米国本土の日系二世の存在であった。ハワイ、米国本土へ移民として移住した一世は、慣れない土地や社会、習慣の違いなどで大変な苦労をしたが、その中でも農業などで成功した彼らの生活を支えた夢の一つは、自分達の子供を大学で学ばせることだった。現地米国の大学以外に日本の大学もその対象で、子弟を米国ではなく日本の大学に留学させる理由は、当時の日本円の為替レートの暴落と、自らの故郷・日本の大学で学ばせたいとの希望からだった。そして明治時代に移住した移民の子供たちが、昭和の初期に大学で学ぶ年齢になり、多数の二世が日本の大学に留学した。

一世の家庭内の会話は日本語であり、農業に従事する一世は日本語中心の生活だったが、一世と異なり屋外、学校で英語を話す二世は英語と日本語の両国語が話せた。しかし、日本に留学してきた二世は日本語が話せても、生活習慣の違いや知人・友人の不在、そして周囲の環境の違いから、青春時代を謳歌するにはほど遠い毎日だった。

 

2.日系二世による最初の非公式試合

●米本土、ハワイから日本に留学した学生は、早大、明大を中心としていくつかの大学で学んでいた。その横のつながりはしっかりしていたようで、仲間間の交流の一環として一部学生が、米国で行われていたベア・フットボール((はだし)、転じて「装具なしのフットボール」)チームも編成されていた。

その中で、留学生の間でしっかりとした試合の開催の話が持ち上がり、明大留学中の米国本土からの留学生チーム(シグマ・ヌ・カッパ)とハワイからの留学生チームが対戦することになった。試合は1933年12月25日、13時半から立大グラウンド(池袋、現理学部校舎)で行われた。単なる遊びではなく、本格的な、公式規則に準じた広さとラインがあるグラウンドでの試合であり、非公式の試合ではあったが、世間の関心を集め、観客も多く集まった。

試合は明大シグマ・ヌ・カッパが2Qに挙げたTDの得点を守って7-0で勝利し、試合の結果は東京朝日新聞にも報じられた。この試合は日本のフットボール活動の組織的な誕生の約半年前の試合だった。この試合以前にも、日本国内では米海軍や欧米人による試合、東京高師関係者による試合が報告されているが、記録が残っている試合としては、また現在の日本のフットボール組織につながる試合としては、最初のアメリカンフットボールの試合である。

 

3.留学生に対する大学側の対応

●その頃、早大の田中穂積総長、明大の松本瀧蔵教授、立大のポール・ラッシュ(Paul Rusch)博士と小川徳治教授が英語教育に関する会合を開催したが、ややすさんでいる留学生の対策の話となり、各大学横断の日系二世を対象とした交流・親睦組織の「英語会」を設立することになった。

その第1回行事として、軽井沢の田中穂積邸での「連合アウティング(ピクニック)」、第2回として列車を借り切った長瀞へのアメリカンスクールとの「合同ピクニック」を行った。この2回目の合同ピクニックで、参加者の一部学生が、すでに彼らの間で行われていたベア・フットボールで遊んだ。この様子を見て、やがて日本にフットボール活動を立ち上げることに貢献した大学関係者が、「ハワイや米本土などからの留学生を活気づけるためにはフットボールを始めることが効果的」と4氏は考え、フットボール競技の日本での導入を図った。

 

4.フットボール競技活動開始の動き

●中心となったのは、立大の日系留学生の世話役的存在だったポール・ラッシュ博士、米国ペンシルベニア大に留学してフットボール観戦経験がありポール・ラッシュ博士の弟子に当たった小川徳治教授、1925~28年にオハイオ大の名QBでバスケット部主将でもあったジョージ・マーシャル(George H.Marshall)立大体育主事、立大レスリング部・バスケット部コーチのJ.アール・ファウラー(J.Earl Fowler)立大体育教授、明大の日系二世で留学生に信頼の厚かった松本瀧蔵明大教授(1946年に衆議院議員になり、国民協同党政調会長、片山内閣の外務政務次官、鳩山内閣の内閣官房副長官、岸内閣の外務政務次官を歴任)であった。

加えてジョセフ・C・グルー(Joseph C.Grew)駐日米国大使の関心も強く、ともに陸軍士官学校で全米級選手であった米大使館武官のアレキサンダー・ジョージ(Alexander George)大尉とメレット・ブース(Merritt Booth)大尉も協力し、この活動に参加した。ジョージ大尉は1919年に陸軍士官学校でフットボール部主将を務め、オールアメリカンに選ばれた名選手。ブース大尉は陸軍士官学校時代の1917年~18年にガード、タックルで活躍した選手だった。

そこにポール・ラッシュ博士と親しい朝日新聞の加納克亮運動部記者(元立大ラグビー部主将)が広報、競技場、装具の制作担当として参加した。日本フットボール誕生の功績者は、ポール・ラッシュ、小川徳治、ジョージ・マーシャル、アール・ファウラー、松本瀧蔵、アレキサンダー・ジョージ、メレット・ブース、そして加納克亮の8氏だった。また在日外国人の交友組織・YC&ACのハリス兄弟もこの活動に参加。早大では田中穂積総長が後援し、会議は主としてポール・ラッシュ博士の自宅である東京・池袋の立大4号館で行われた。

 

[2]協会の主な活動、動き、組織

1.東京学生連盟の設立

●10月28日、各大学関係者数十名が立大に集まり、「米国アメリカン・フットボールを日本に紹介し、米国秋季シリーズと同様、米国ナショナル・学生・アスレチック・協会(注:NCAAを指す)規定フットボール・ルールに従い、試合を行う目的」の下に「東京学生アメリカン・フットボール連盟」を設立した。

組織として連盟理事長に立大ポール・ラッシュ博士、書記長に松本瀧蔵教授、書記に金子忠雄氏を選出した。また名誉会長に日本鋼管社長の浅野良三氏が就任した。競技を開始するには多くの資金が必要であったため、ポール・ラッシュ博士は日米協会、在日外国人の交流組織であるYC&ACに働き掛け、また各理事も後援者などの協力を得て資金を確保した。資金集めには、ポール・ラッシュ博士の発案で、「パトロン招待券」を発行。浅野良三氏とともに日米産業界のリーダーに協力を要請し、朝日新聞の美土路昌一運動部長らに活動支援の依頼を行った。

 

2.東京3大学でのチーム創部

●一方、連盟発足の動きとともに、3大学では部の編成が急ピッチで進められ、立大は29人(部長:小川徳治教授、主将:頴川四郎)、早大は21人(部長:中島太郎教授、主将:竹崎道雄)、明大は16人(部長:松本瀧蔵教授、主将:吉岡武男)でチームが発足した。3大学の選手数は合計66人だった。早大と明大は部員のかなりの選手が日系二世だったが、全学で2,000人程度の学生数の立大は、日系二世も少なく、二世部員は2、3人で、ポール・ラッシュ博士や他の立大関係者が競技開始に大きな役割を果たしていることもあり、学内から部員を積極的に勧誘。ラグビー、柔道、角力(相撲)、水泳など他の運動部から部員を集めてチームを編成した。

そして、競技活動に参加する予定の二世によるベア・フットボールの非公式試合が、日本最初の公式試合に先立って10月25日、明大在学中の「シグマ・ヌ・カッパ(米本土からの日系二世)」と「ハワイからの日系二世」のチームによって池袋の立大グラウンドで行われ、シグマ・ヌ・カッパが7-0で勝利した。この試合は、まだ日本フットボールが組織的活動を開始する前の1933年12月に行われた当時の日系二世による試合に続く試合であった。(1934年のこの試合は「明大在学二世(ハワイ、米本土)」対「明大以外の在京二世」の対戦とする記録もある)。珍しいベア・フットボールの対戦に、この試合も立大グラウンドには多くの観客が集まった。

 

3.日本で最初の公式試合開始までの準備

●日本で最初の試合の開催を決定したが、日本で「最初の試合」のため、するべきことは山ほどあった。対戦相手との交渉や調整、試合会場の決定と会場側との調整、日本にはこれまでまったくかった用具や装具の準備、ユニフォームの制作(YC&AC分も含めて)、ゴールポスト・ダウンボックス・チェーンなどの制作・準備、施設側へのグラウンド上の必要なラインの説明、応援チーム(在日日系二世)と応援バンドの手配、そして何より報道関係者も含めた集客のための広報もあった。日本で初めての競技の初めての試合であり、一部の関係者に米国での競技活動のわずかな知識があるだけで、多くの者にとっては初めての経験であった。そして何より、試合開催までの期間が少なかった。

同じことは、対戦相手のYC&ACも同様だった。米国や英国、オランダなどの主として貿易会社のビジネスマンを中心とした社交クラブのYC&ACは、スポーツの交流も主たる活動であったが、広いグラウンドを使用するスポーツとしてはサッカーやラグビーであり、アメリカンフットボールの活動はしていなかった。

そこにポール・ラッシュ博士から日本の大学生チームとアメリカンフットボールの試合の対戦を依頼され、それも期日がないこの秋の感謝祭の日に開催するとの申し入れだった。YC&ACには米国人のアメリカンフットボールの経験者もおり、特に米国人J.F.Harris氏、F.R.Harris氏の兄弟が中心となってチームを編成し、競技の説明や練習をして試合に臨んだ。Harris兄弟はその後も日本とYC&ACとの継続的な試合開催や、全関西との試合では全東京チームに選手として参加するなどして、日本のフットボールの創成期に貢献した。

 

4.「無」からの用具・装具の制作

●ポール・ラッシュ博士はじめ各理事が集めた資金で入手困難な装具の国産化に着手した。東京・江戸川橋際の玉澤運動具店が当時アイスホッケー装具を制作していたため、そこに制作を依頼することにした。ジョージ・マーシャル氏が約6年前にオハイオ州立大時代に使用していた自分の用具一式があったので、それを玉澤運動具店に持ち込み、それを模範に第一号の防具を製作した。急いで制作した防具は、何とか試合に間に合った。試合の開催日はこの防具の完成予定日を考慮し、11月29日の木曜日となった。平日であったが、米国の感謝祭の日であり、当時土日は各スポーツで使われていた明治神宮外苑競技場を、平日のため利用することができた。

3大学からの選抜選手に加え、創部準備中の慶應義塾大、法政大から各1人を加えて26人になった全東京学生だが、そのほとんどが日系人留学生で、それぞれが故郷ハワイや米本土で普及していたベアフットの経験を持ち、初のアメリカンフットボールにとまどいはなかった。試合の開催が迫り、開催4日前の11月25日には、当時、丸の内にあったアメリカンクラブに新聞記者を招き記者発表を行った。発表では、アメリカンフットボールをまったく知らない各社運動部記者に競技の説明から行った。

いよいよ準備が整い、試合前日の11月28日には東京朝日新聞が「日本で初めて 紹介試合」とタイトルをつけ、アメリカンフットボールの試合の流れと反則を、ラグビーと比較して記事として紹介した。

 

[3]日本最初のフットボール公式戦試合

1.最初の公式戦の日

●11月29日、晴天の明治神宮外苑競技場で、「第一回感謝祭アメリカンフットボール試合」と銘打ち、横濱カントリー・アンド・アスレチック・クラブ(略称YC&AC=Yokohama Country and Athletic Club)対全東京学生選抜チーム(早、明、立選抜)の試合が、東京朝日新聞の後援で開催された。初のフットボールゲームとあって、朝日新聞などの協力広報があり、平日の木曜日にもかかわらず、学生やYC&AC関係者を中心に、当初の計画の6倍となる約20,000人の観客が集まった。

来賓にスポーツに関心の深い秩父宮殿下を迎え、14時45分の開会式には「スポーツを通して日米青年の親善を増進せしめん為にはこの競技に於いて他にない」と考えるジョセフ・C・グルー米国大使(ハーバード大フットボール部出身)が次のような開会の祝詞を述べた。

「フットボール競技は意志強固にしてスピードと忍耐を充分に備えたる者にのみ許され、價値あるものであって、以上の素質薄弱なる者は此の競技にたづさはる事が出来ないのである。私の考へているところでは日本國民の習慣、生活態度及びスポーツに對する態度から見て此の競技は全く日本國民に好適なものであると考へる」

アメリカンフットボールであり、米国の試合と同様に応援として、当時の運動競技では珍しい音楽バンドが参加した。バンドは当時有名な東京・赤坂のクラブ「フロリダ」のジャズバンドであり、いろいろな曲やマーチ演奏と続き、翌日の新聞に「ジャズ張った演奏の華やかなこと、これまでの羽織・袴ではなく白いシャツの応援団も二世が多く、見振り手振りも本場からの輸入、イヤどうもユカイなものでござる」とある派手な雰囲気の中、午後3時7分に全東京学生のキックオフで試合が開始された。選手は全東京学生が26人(立・早・明以外に創部準備中の法大、慶大から各1人が加わった)、YC&ACが21人だった。

 

2.東京学生選抜軍のコーチ

●この試合の全東京学生軍のコーチは、米大使館武官のアレキサンダー・ジョージ大尉とメレット・ブース大尉、ジョージ・マーシャル立大体育主事、アール・ファウラー立大体育教授で、これらのコーチが指導する全東京学生が一方的に押した。YC&ACは米国人だけでなく、ラグビーやサッカーの経験はあるもののアメリカンフットボール未経験のフランス人とベルギー人も含み、また年齢が高いこともあって、開始早々から全東京学生の気力に圧倒されていた。

 

3.最初の公式戦の試合展開

●試合はYC&ACのキックオフで開始。全東京学生は赤と白のジャージで、YC&ACは青と白のジャージだった。1Q、全東京学生は3度目の攻撃シリーズで自陣30ヤードから12プレーで、FB川原行雄(早大)が左スイープの8ヤードランで史上初のTDを挙げた。2Qは川島治雄(早大)からLE梶谷正明(法大)への25ヤードのパスで12点目。トライも川島のキックが成功して13-0と全東京学生のペース。4QにはYC&ACのパント失敗から好機をつかみ、川島がブーツレッグのスイープで5ヤードを走りTDし、川島がトライのキックも決めて20-0。さらに試合終了直前には、50ヤード付近でDHに入った松本正一郎(明大)がYC&ACのパスをインターセプトして、そのまま独走のTDを挙げ、全東京学生が26-0の大差で初の試合を飾った。YC&ACは追い込まれてパーソナル・ファウルや12人出場の交代違反などの反則を犯している。全東京学生チームのチーム内会話は、すべて英語だった。

この試合の獲得シリーズ数は、日本14:YC&AC12、獲得ヤードは日本194:YC&AC105であった。当時から、「データのスポーツ・アメリカンフットボール」の記録が取られていた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
全東京学生 6 7 0 13 26
YC&AC 0 0 0 0 0
全東京学生 YC&AC
井上 素行(早大) RE H.J.Heesch
山田 忠男(明大) RT G.Figgess
野中 平一(早大) RG G.D.Chevalerie
花岡 惇(明大) C H.W.Wason
松本 正一郎(早大) LG H.Schone
畑 稔(明大) LT E.Down
梶谷 正明(法大) LE F.Weiseblatt
太田 二男(立大) QB J.F.Harris
大前 保(明大) RH F.R.Harris
藤田 一郎(早大) LH F.R.Devin
川原 行雄(早大) FB E.Zuber
(梶谷正明氏はプログラムでは立大で紹介)
役 割 氏 名
主審(レフリー) アレキサンダー・ジョージ大尉
副審(アンパイヤ) J.アール・ファウラー氏
線審(ラインズマン) フレッド・濱田氏
計審(フィールドジャッジ) ジョン・アンケニイ氏
助線審(助ラインズマン) 河邊 忠男氏
モーリス・L・ラッセル氏

4.最初の試合の新聞報道

●最初の試合の翌11月30日、東京朝日新聞では試合の写真とともに、次のように報じた。

「全學生勝つ アメリカンフットボール」

 日本で最初に行はれた全東京學生對YCACアメリカン・フットボール試合は二十九日午後三時から明治神宮外苑競技場で學生チーム先蹴で開始された、審判ヂョージ、ファウラー两君、好天に恵まれまこと新ゲームの呼ぶ興味から観衆多く、メインスタンドの八分を埋める盛況であった

△學生軍は小粒ながらフオーメイション鮮やかに、初めから押しまくりYCACは二度もフオアワード・パスを横取りされて走られ、十一のメムバーが十二人でゲームしたり、或いはタックルした後乱暴を働いて退場させられるなどの珍風景を展開して大敗した

なお、この記事の隣には、フットボールと同日に行われた埼玉・大宮球場で開催された、当時来日していた米大リーグと日本の野球の試合、米国23-5日本が報じられている。米国チームのベーブ・ルース選手が2本塁打、ルー・ゲーリック選手が1本の本塁打を放った。

 

日本で初めてのアメリカンフットボールの試合を、試合後の当時のアサヒスポーツ(1934年12月15日号)では、次のように伝えた。

多大の興味と期待をかけられたアメリカン・フットボールは長年の懸案を解決して去る十一月二十九日明治神宮競技場にデビューした、試合はYCAC(横濱外人)對全東京學生軍の顔合わせで、何分我國最初の試合であるから經驗に富む外人側に有利な戦況をもたらすものと想像されたが結果は意外にも學生軍大いに振ひフォーメーションよく結局26點を舉げて勝ち幸先良いスタートを切った。

 

この日の見ものは、メーンスタンドの約八分を埋める盛況で、新興スポーツに對する大衆の關心のほどが十分に窺われた様だ、わが國でこの試合の正式に行なわれたのは無論今度が初めであるがしかしこの競技を我が國に植ゑつけん試みられてからもう數年になる、それは蹴球の草分けである東京高師がこの米式蹴球の研究を始めたものであったが、生みの悩みを重ねて今日まで實行するに至らなかった、當時このフットボールを我が國に紹介せんと努力した人々にとって今度の試合は誠に感慨深いものがあつたであらう。

 

未知のアメリカン・フットボールが観衆の心に一體どんなに映じたのであろうか……觀たものは異句同音にプレーヤースの物凄い格恰とそして猛烈なタックルの連發に尠ず驚かされた様である。試合がしばしば中断されるので見づらいらしかったが、しかしゲームを熟知すると次に行われんとする作戦を想像するところに興味もわいてくる、それは恰度野球の持つ興味にも似たもので、例へばベースホールにおいてポール・カウント2-3のとき次に投げられる一球を楽しむのと同様である、本場のアメリカでこの十一月十日各地において行われた競技だけでも大した觀集を集めてゐるが、ニューヨークタイムスに掲載された大きな試合を拾ってみてもコルゲート對チュレーンの試合には四萬五千人、コロンビア對ブラウンのゲームには二萬一千人、ネービー對ノートルダムは六萬人、アーミー對ハーバード大學戰には四萬五千人といった塩梅である、すでに東京では學生連盟の結成を見てをり、今後我國においてどこまで發展するかはいろいろな意味で興味深いものがある。(M生)

 

【参考】

アメリカンフットボールは、戦前に競技を開始したスポーツとしては珍しく最初の公式戦の開催日・対戦が明確で、かつその記録、映像が残っている競技です。

この試合のプログラム、試合のビデオは以下のページをご参照ください。
https://americanfootball.jp/top_news/38/

[4]活動方針・運営方針の決定

1.東京学生連盟が活動方針を決定

●初の試合が大成功に終わると、関係者一同は一息入れる間もなく、連盟会議を12月1日に立大で開催。「東京学生アメリカン・フットボール蹴球連盟」の設立が提案され、満場一致で正式に連盟が発足した。

連盟は、この会議で主に以下の4項目を定めた。

 

(1)連盟の定期試合の季節を毎年10、11、12の三カ月と決め、試合はすべて連盟主催の下に行う。春季練習は4週間とする

(2)他の大学を勧誘し、少なくとも6大学のリーグ戦を行う

(3)競技規則は全米大学体育協会(NCAA)の規則を適用する

(4)今年度(1934年度)の3大学によるリーグ戦日程を決定

 

定期試合の期間を秋から冬の3ヵ月と定めたのは、当時の米国NCAAの方針(個人が特定の競技に専念することによる成長のバランスの偏りを避ける)に準じたもので、当時の日本のスポーツ界では画期的なことであった。

連盟役員はポール・ラッシュ理事長、松本書記長、ジョージ・マーシャル氏、中島太郎早稲田大教授の4人、学生委員として竹崎道雄、藤田一郎、井上素行、吉岡武男(以上早大)、山田忠雄、半田明(以上明大)、穎川四郎、太田二男、相原徹夫(以上立大)の9人と合計13人の構成で、連盟事務所は東京都豊島区池袋の立大学五号館に置かれた。当時の会議はすべて英語で行われ、日本語のみを話す出席者は大変だった。

 

2.東京学生連盟が運営方針を策定

●東京学生連盟は、競技開始とともにリーグ戦の入場料収入をプールし、当時、チーム結成を準備していた慶大、法大、日本大および関西のチーム新設の費用に充てるとともに、当時として画期的な次の3大運営方針を定めた。

 

(1)防具特にヘルメットの国産化

(2)シーズン制を確立し、競技期間を毎年9月~翌年1月とし、この期間以外は練習も禁止(この方針は5年ほど実行された)

(3)独立したフットボール場の建設(芝公園運動競技場(現・芝公園野球場兼競技場)の払下げ、あるいは埼玉・所沢での新設が計画されたが、戦争に向かう時勢の中で計画が消滅した)

 

[5]最初の東京学生リーグ戦の開催

●11月29日のわが国での最初のアメリカンフットボール公式試合「全東京学生-YC&AC」からわずか9日後、3大学による初めての東京学生リーグが開催された。

 

1.第一回東京学生リーグの開催

●第一回東京学生リーグ戦は、12月8日から3週間にわたり、開催された。

・明大 (コーチ:吉岡武男氏、部員16人)

・早大 (コーチ:なし、部員21人)

・立大 (コーチ:ジョージ・マーシャル氏、部員29人)

 

3大学によるリーグ戦(3試合)は、明大が畑稔(二年)・進(二年)・弘(一年)の畑3兄弟、FB大前保(一年)を核に日系米国人で固め、経験の豊かな選手が多く全勝優勝。各チームとも活動を開始して間もないため、部員の募集とともにラグビー部、柔道部、角力(相撲)部などからの応援者も加えて練習を重ねた。

初の大学対抗戦となったのは、12月8日の立大グラウンド(現立大理学部校舎)での立大-明大で、明大が全員未経験の日本人選手だった立大に24-0と完勝している。試合は明大のキックオフで始まり、その後の立大の第1プレー、わが国最初の国内戦の初めてのスクリメージ・プレーは「左オフタックル」だった。1Q、明大はLH吉岡武男が、2QにはFB二階堂貞雄がそれぞれTDを挙げ、前半を12-0でリード。後半も3Qに二階堂貞雄とRH仁井豊のTDで点差を広げて勝利した。明大の主将は吉岡、立大の主将は頴田四郎。明大のジャージは紺色、パンツはカーキ色で、立大はそれぞれオレンジにカーキ色であった。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 大 6 6 12 0 24
立 大 0 0 0 0 0
明 大 立 大
花岡 惇 RE 亀井 勇
加藤 二郎 RT
山田 忠男 RG 海津
畑 進 C 安藤 眉男
三浦 清 LG 村上(兄)
黒川 廣人 LT 黒沢 寛
畑 稔 LE 井上 和雄
杉本 正一郎 QB 田中 軍男
仁井 豊 RH 関口
吉岡 武男 LH 村上(弟)
大前 保 FB

●2試合目は12月15日、リーグ戦では初めて使用する明治神宮外苑競技場で有料試合として開催された。早大の主将は竹崎道夫。両チームは最初から接戦を演じ、1Qに早大がセーフティーで先制。2Qに明大がラインが開いた路をFB大前保が走り抜けて貴重なTDを挙げ、これが決勝点になった。3校によるリーグ戦で明大は1、2戦に連勝し、早くも記念すべきわが国でのフットボール誕生年の優勝を決めた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 大 0 6 0 0 6
早 大 2 0 0 0 2
明 大 早 大
花岡 惇 RE 竹崎 道雄
畑 進 RT 井上 素行
黒川 廣人 RG 風間 敏雄
唐木 智武 C 島袋 松雄
山田 忠男 LG 横野 武
塚平 俊男 LT 永井 義人
河邊 忠夫 LE 陶 勇治
杉本 正一郎 QB 藤田 一郎
仁井 豊 RH 蔵力 義夫
吉岡 武男 LH 野中 平一
大前 保 FB 川島 治雄

●リーグ戦3試合目(最終戦)は、12月22日14時、早大-立大の対戦が池袋の立大グラウンドで行われた。第1戦で明大に敗れた立大は、日系二世は1人とほとんど日本人選手でフットボールの経験もない選手が多かったが、明大戦での試合慣れもあり、チームとしての形がかなりできてきた。試合は引き分けになるかと思われたが、倒れている早大選手を立大選手がレフリーに知らせに行っている間に早大のプレーが始まると、倒れていた選手が立ち上がり、パスをノーマークでキャッチして、エンドゾーンに走りTDを挙げ、これが決勝点になった。記録に残る日本フットボール最初のフェイクプレーだった。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早 大 0 0 0 6 6
立 大 0 0 0 0 0
早 大 立 大
陶 勇治 RE 上村 陽一
井上 素行 RT 黒沢 寛
風間 敏雄 RG 安部 博
久保田 C 安藤 眉男
永井 義人 LG 沢田
宮田 LT 鈴江 弘
島袋 松雄 LE 亀井 勇
田畑 猛 QB 太田 二男
野内 平地 RH 田中 軍雄
蔵力 義夫 LH 相京 徹夫
藤田 一郎 FB 西島 威

なお、12月25日には明大が優勝校としてYC&ACとYC&ACグラウンド(「横濱根岸球場」と呼ぶ場合もあり)で対戦し、18-6で快勝した。この試合の開催から、この年の11月29日の日本で最初の公式戦である全東京学生-YC&AC戦を記念して、原則として東京学生リーグの秋の優勝校が、毎年シーズン後にYC&ACと試合をすることが恒例になった。

 

●当時の主流の戦術は、攻撃はシングルウイング、ダブルウイング、ノートルダム・ボックスの各体型からのランプレー、守備は7-1-2-1のダイヤモンド体型であった。明大はチームワークが良く、バックスの畑進と大前保がパワーとスピードに優れ、ランとパスのバランスが良いチームだった。また3チームの中では最も二世が多く、フットボールを良く知っていた。ジャージは紺地で、肩と番号が黄色だった。

早大は横野武を中心としたラインが強く、ランプレーが得意のチーム、またトリックプレーも上手くこなし、当時からその後も早大のお家芸であるスタチュー・オブ・リバティ(自由の女神)を得意とした。ジャージは白地に肩と番号がエンジだった。

立大は二世がバックの太田二男だけでフットボール経験者が少なかったが、マーシャル、ファウラーの両コーチの指導で基本に徹したプレーが多かった。オレンジ色のジャージで番号は紺。二世の多い明大、早大と異なり、日系二世の少ない立大の攻撃プレーは数種類であった。パンツは各チームともカーキ色のキャンパス地、ヘルメットは皮革の茶色だった。

 

こうして、慌ただしかった日本フットボール誕生の年は終わったかに見えたが、全米大学選抜チームが来日し、チームを2分した紅青戦(紅白戦)とともに日本チームとも対戦する計画がシーズン終了後に発表され、慌ただしい2年目を迎えることとなった。

 

[6] 関西地区での活動

1.関西での活動開始の推進

●当時のフットボール関係者の強い願いは、この競技を日本全国に広めることだった。関東では早大、明大、立大の3大学で競技を開始したが、日本全国で普及させるには、まず関西地区でアメリカンフットボールに馴染んでもらうことが必要と考えた。ちょうど関西大でチーム設立の動きもあり、1935年1月13日に関西で初のアメリカンフットボールの紹介試合(「招待試合」でもあるが、関西でアメリカンフットボール競技を知ってもらうための「紹介試合」の意味合い)、明大-早大を甲子園南運動場で開催した。

当日、甲子園南運動場に15,000人の観客を集めた関西初のフットボール紹介試合(大阪毎日新聞社主催)の主審は関東から同行した米大使館付武官メレット・ブース大尉で、試合は19-0で明大が勝利した。

この試合を招聘した大阪毎日新聞社は試合の前、同紙の2ページ(広告なしの全面使用)で競技の説明や両チームを紹介し、読者に馴染みのないこのスポーツを説明した。また、当日は開会式で祝賀飛行からの試合球投下や、百貨店の松坂屋バンドの演奏と同バンドを先頭とした入場式、ジョセフ・G・グルー米国大使の祝辞があり、試合終了後には同運動場内のクラブハウスでパーティーが開催されるなど、一大イベントとなった。

戦前のこの頃の関東と関西の移動は、東京~大阪間の汽車旅だった。当時の東阪間の汽車は最短で8時間半を要することもあり、夜行列車を使用しても3~4日の日程が必要な遠征だった。なお、東阪間の列車の所要時間は戦後もほぼ同様で、1958年で7時間弱。4時間になったのは東京オリンピックに間に合わせた新幹線開業の64年であった。なお、戦前、戦後を通じて、その時の最速列車を利用できるのは一軍選手のみで、他の選手は各駅停車の列車を利用することが多かった。

 

2.関西地区の運動競技のメッカ、甲子園南運動場

●甲子園南運動場(「南甲子園運動場」、「阪神南甲子園」として紹介される場合もある)は、明治神宮外苑競技場設立の5年後の1929年5月に開設された総合競技場であり、当時、関西地区では最大級の競技場であった。一周500メートルで、移動式観客席2,500席を合わせると全体で20,000人収容。現在の甲子園球場から南に約1キロの場所にあり、戦前の関西地区のフットボール試合のメッカだった。

【参考】

日本のアメリカンフットボールの活動開始から戦前まで、服部慎吾氏(立教大卒、戦後、日本協会理事長を務める)がまとめた記録を以下のページで公開しています。

https://americanfootball.jp/top_news/34/

 

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●同一の攻撃シリーズで2度目のフォワードバスの失敗は、従来5ヤードの罰則だったが、この規則が撤廃された。

●初めて審判員の10のシグナルが規定された。

●ラインマンに対するボールのスナップは反則となり、バックスに対してのスナップのみとなった。

 

このようにして、日本にフットボールを紹介し、準備、活動を開始した「フットボール元年」は終わった。連絡手段が現在とは比較にならないほど困難な時代に、多くのするべきことがある「準備のスポーツ・アメリカンフットボール」の公式試合を短期間で開催したことは驚くばかりであり、諸先輩の熱意と労力に改めて敬意を表したい。

 

連盟ではこのスタートの年の無事の船出を祝し、翌1935年2月24日、東京市内の内幸町大阪ビル(現・日比谷ダイビルの場所)で関係者が集まり、晩さん会を開催した。また、日本での競技開始に多大な協力をされたYC&ACに連盟から記念額を贈呈した。盛大に活動開始を祝ったが、このとき、これまでに来日した海外スポーツチームで最大規模となる全米学生米式蹴球団は、太平洋航路を着々と日本に向かって進んでいた。

【参考】

日本で最初の公式戦が開催された1934年当時の公式規則は、現在とかなり異なっていました。以下は現在の規則との大きな違いの項目を簡単にまとめたものです。かっこ内は現在の規則です。

 

【フィールド】

●インバウンズ・ラインは、サイドラインから45フィート(60フィート)

●トライ・フォー・ポイントの開始は2ヤード(3ヤード)

【計時関係】

●レフリーのシグナル後、30秒以内にスナップ(25/40秒ルール)

【交 代】

●プレーヤーの交代はいつでも可。しかし一度、退出した選手はそのQの再出場は不可(自由交代制)

【番 号】

●ユニフォームに番号を付ける規定はない(付けなければならず、ラインマンは50~79等の規定)

【防 具】

●ヘルメットの着用が必要だが、必須ではない。着用が必要な他の用具、装具はない(ヘルメット他、多くの装具の着用必要)

【パ ス】

●フォワードパスを投げるパサーは、ニュートラル・ゾーンから自陣方向に5ヤード以上下がった地点からパスしなければならない(ニュートラル・ゾーンの自陣側ならば、どこからでも可)

●フォワードパスが、相手のエンドゾーンで不成功になればタッチバック。自己のエンドゾーンで不成功になれば、セーフティー(ダウンの終了だけ)

●無資格レシーバーがフォワードパスに最初にタッチすれば、攻撃権は守備側に移る(罰則はあるが攻撃権は移らない)

【得 点】

●トライ・フォー・ポイントの得点はいずれの方法(ラン、パス、キック)でも1点(ラン・パスは2点。キックは1点)

【ブロック】

●ブロック時の手、腕は、自分の体につけていること(当該規定なし)

【相手への接触等】

●現在は禁止されている次の項目の禁止の規定はない

腰より下のブロック、チョップ・ブロック、スピアリング、ターゲティング、ブラインドサイド・ブロック、ホースカラー・タックル、ラフィング・ザ・パサー、センターの保護、レイトヒット、リーピング

【その他】

●タイ・ブレイクシステム、インスタント・リプレーはない