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INFORMATION ニュース

1935.01.01

1935年(昭和10年) 活動2年目

お知らせ

全米蹴球団の来日。関東5大学へ。関西最初のチーム、関大が創部・初試合

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月1日

・ 1月1日

・ 3月16日

・ 6月1日

・ 7月27日

・10月21日

・12月10日

・米・第1回オレンジボウル、バックネル大-マイアミ大

・米・第1回シュガーボウル、チュレーン大-テンプル大

・ドイツ、ベルサイユ条約破棄・再軍備を宣言。10月21日、ドイツ、国際連盟を脱退

・NHK、国際放送開始

・揚子江氾濫、死者20数万人

・ドイツ、国際連盟を脱退

・大阪野球倶楽部結成(のちの阪神タイガース)

・NCAA、第1回ハイズマン賞授与。受賞者、ジェイ・バーワンガー氏(シカゴ大)

フットボール ・ 1月

・ 1月13日

・ 1月29日

・ 3月19日

・10月19日

・11月24日

・11月28日

・12月1日

・法大、慶大創部。東京学生連盟加盟5チームとなる

・関大創部。関西で初の試合、明大-早大開催(甲子園南運動場)

・関大部発会式(大阪YMCA)

・全米蹴球団来日、全国で13試合を実施

・東京学生リーグ戦開幕、立大-慶大(芝公園運動競技場)、日本で最初のナイター試合。以降、全試合ナイターで実施

・東京学生リーグ戦閉幕。明大2連覇

・明大(優勝校)-YC&AC、翌年以降も優勝校の対YC&AC戦開催

・関大初試合、対法大(甲子園南運動場)

 

2年目を迎えた年明け早々、東京学生連盟にかねてから創部の準備をしてきた法大と慶大が加盟、また関西では最初のチーム関大が活動を開始した。わが国における最初の公式戦からわずか4か月後、最初のリーグ戦から3か月後、休む暇もなく日本に全米大学選抜軍が来日し、東京、関西(甲子園)、福岡、名古屋で全米大学選抜内の紅青戦および明大、全日本との試合を開催。競技活動が広く世の中に知られることとなった。5大学で開催した秋の全東京学生リーグ戦は、明大が連続優勝した。

[1]法大、慶大の活動開始

●誕生2年目の1935年、日本フットボールの普及活動は急テンポだった。34年シーズン終了直後の35年1月、連盟結成時から活動準備中であった法大と慶大が創部し、東京学生連盟に正式加盟して秋季リーグ戦は5大学で開催された。また関西で待望の関大が活動を開始した。

 

1.法大、4番目のチームとして創部

●かねてから活動の準備を進めていた法大が創部した。法大は野球部にいた若林忠志氏(日系二世)がやはり二世の西原定雄氏(1937年卒)および34年11月の日本の最初の公式戦にも出場した日系二世の梶谷正明氏(37年卒)と協力して部員を集め、総監督に就任。さらに選手兼監督として同氏の親戚筋の保科進氏(38年卒)を勧誘した。そしてこれら日系二世のメンバーがハワイへ帰国した際には、現地の日系二世に法大への進学と部活動への参加を呼び掛け、計18人の部員で発足した。

法大には加盟時、朝日新聞社から装具15組が贈られた。また若林忠志氏は戦後の50年(当時、同氏はプロ野球大毎オリオンズ軍監督)に2チーム分のジャージをチームに贈った。

 

2.慶大も同時に加盟

●慶大は同じ日系二世の今村得之氏を中心に組織化し、ハワイ大出身の日系二世船田敬一氏(英語教員)を監督に迎え、部員20数人で発足した。中上公平、今村得之、竹村殖利の日系二世3氏が高校時代の経験者であったが、他の部員は運動経験はあっても、フットボールは皆初めてだった。練習は主将の片岡恒一氏が中心となった。三田綱町グラウンドは砂利が多く、当時川崎にあった日本コロムビアの野球場を借りて練習することが多かった。防具類は、慶大野球部出身で他のスポーツの振興にも寄与した実業家・政治家の平沼亮三氏を始めとする慶大卒業生が寄贈した。

 

[2]関西地区の最初のチーム、関大の活動開始

1.松葉徳三郎氏のロサンゼルス訪問と関大フットボールの活動開始

●1月29日、関西初のフットボール部が関大で正式に発足した。松葉徳三郎・大阪YMCA体育主事が、1932年のロサンゼルス五輪視察時に、南カリフォルニア大(USC)とスタンフォード大の体育施設を見学、そのときにそこで100人余りで練習しているフットボールチームに遭遇するなど、米国におけるフットボールを初めて目の当たりにした。フットボールの魅力や将来性を知った同氏は帰国後、大阪YMCA体育部の米スプリングフィールド大出身の竹内伝一氏、および神戸のKR&CA(神戸外人クラブ:横浜のYC&ACと同じ在日欧米人の親睦組織)のハワイ二世レイ・上島氏に競技の詳細の教えを受けた。

フットボールの魅力を知った松葉徳三郎氏は母校である関大にその導入を図り、部設立の活動を1934年夏より開始。その結果22~23人が集まり、部長に賀来俊一教授が就任して活動が始まった。松葉徳三郎氏は自費で25人分の防具をそろえた。また、部活動の費用の補完として日米の国旗と部名、年をデザインしたバックル500個を制作。1個3円で販売すると完売し、部活動の資金に充てた。

チームの編成を始めた松葉徳三郎氏は、関大のコーチ陣を竹内伝一氏に加えハワイ出身二世の森本氏、ポール加納氏、そして神戸外人クラブのレイ・上島氏で構成した。

 

このように関大の登場で関西フットボールは始まったが、しばらくの間、対戦相手は東京の大学や神戸外人クラブ、関西在住の大学OBチームだけであり、次の同志社大が加盟する1940年までの5年間、関大は孤高の活動を続けることとなった。

 

[3]全米学生蹴球団の来日

日本フットボール誕生からわずか4か月後に、本格的な日米交流が実現したのも画期的だった。

 

1.全米蹴球団35人の来日

●2月16日の東京朝日新聞に「米国蹴球団招聘」の次の社告が掲載された。

米國蹴球團招聘

-- 諸大学選抜オール・スター軍 --

一行卅五名 来月十日入京

 

アメリカ南加州大学の先輩マロニー君の主唱によって諸大学から選抜糾合されたアメリカン・オール・スター蹴球團三十五名は本社の招聘に応じて来る十九日ロサンジェルスを出發、来月十日横濱着と決定した。昨秋我が國にも米式蹴球聯盟の誕生を見、既にその片鱗を窺ひ得た人士は少ないであらうがアメリカにおける蹴球が學生スポーツの華としてその王座せ占むること年久しくその精神において我が日本人の性格に適合すべきものあるべきは疑いをいれない。本社が今回多数の學生選手を招聘して我が國におれる新興スポーツとしてのアメリカン・フットボールの規範を江湖に紹介せんとする所以もまずその發足點においてこのスポーツの眞の精神萌に技術の誤りなき範を示さんがために他ならぬ。オール・スター軍は約四週間日本に滞在し東京、大阪、名古屋の各地において米選手紅・靑両チームのエキジビジョン及び日米對抗の試合約十回を行ふはずである。

朝日新聞社

この頃、日本には「極東オリンピック大会(現アジア競技大会)」で大人数の海外スポーツ選手が来日することはあったが、欧米からのスポーツ選手団の来日は少なく、米国から野球(1934年11月のベーブ・ルース選手ら一行:ちょうど日本で最初のフットボール試合開催の頃)、カナダからラグビーのチーム(32年1月)の訪日でも、せいぜい20人程度の来日であった。

 

今回の全米学生蹴球団のように一競技で一挙に35人の海外スポーツ選手が来日するのは初めてのことであり、また滞在期間も長く、多額の費用が必要であった。そして、当時は日米間に民間航空便はなく、太平洋を移動するには途中のホノルル寄港も含めて片道2週間ほどをかけて行き来する大変な時代であった。

 

わが国でのフットボール活動開始で、1934年後半は大忙しだったポール・ラッシュ博士を中心とした東京学生連盟の役員は、日本でのフットボール発展には本場米国の試合を日本で開催することが効果的と考え、その話の中にいた連盟発足時の理事、加納克亮氏が自身が勤務する朝日新聞社に話を持ち込み、成就した招聘だった。

 

2.全米蹴球団の編成

●全米学生蹴球団の来日選手は、USCが11人で最も多く、次いでオレゴン大5人、ワシントン大4人、スタンフォード大、カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)が各3人、オレゴン州立大、シカゴ大が各2人、タルサ、サンタクララ、サンノゼの各大学からも1人ずつ参加していた。この中には全米オールスターのメンバーが14人も入っていた。

戦術的にはノートルダム・ボックス、シングルウイングの攻撃体型に7-1-2-1のダイヤモンド守備体型で、日米に差はなく、USCの名将ハワード・ジョーンズ氏指導のオフタックル・プレーが全米選抜の主力攻撃であった。明治神宮外苑競技場での入場料は指定席が3円と2円、自由席が1円と50銭。3円の席は前売りで完売した。

 

3.全米蹴球団の試合

●そして社告通り3月10日、USC勢を主力とする「全米学生選抜蹴球団」(選手33人、役員2人)がアルバート・L・マローニ監督(USC、QB、26歳)に引率されて来日。東京では帝国ホテルに宿泊するなど約4週間日本に滞在し、東京、兵庫、福岡、名古屋で試合を開催した。

試合は、
・日本チームとの対戦が3試合(明大戦1試合、全日本戦2試合)
・全米チームを「靑」・「紅」に分けた試合、7試合
・日本チームとの対戦日に、全米学生の靑紅戦の前半のみ、または1Qのみの模範試合を3試合
の合計13試合で、また
・全米チームの最後の靑紅戦の前に、国内の明大-早・立・慶・法の国内戦
を開催した。

 

「全米学生蹴球団」関連の日本滞在中の試合は次の通りである。

日 付 スコア 会 場
3月14日(木) 青 軍 17-12 紅 軍 明治神宮外苑競技場
3月17日(日) 紅 軍 19-12 青 軍 甲子園南運動場
3月21日(木) 紅 軍 21-12 青 軍 甲子園南運動場
3月23日(土) 南加大 71-7 明 大 甲子園南運動場
紅 軍 12-7 青 軍 同(1、2Qのみ)
3月25日(月) 全米軍 73-6 全日本 甲子園南運動場
青 軍 7-6 紅 軍 同(1、2Qのみ)
3月28日(木) 青 軍 7-0 紅 軍 福岡春日原競技場
3月30日(土) 青 軍 7-0 紅 軍 明治神宮外苑競技場
3月31日(日) 全米軍 46-0 全日本 明治神宮外苑競技場
紅 軍 0-0 青 軍 同(1Qのみ)
4月3日(水) 紅 軍 20-13 青 軍 名古屋鶴舞公園運動場
4月6日(土) 青 軍 22-0 紅 軍 明治神宮外苑競技場
明 大 0-0 早・立・慶・法

4.試合の報道

●この全米学生蹴球団を招聘した東京朝日新聞は、3月14日の第1戦の青紅戦を翌15日朝刊で次のように報じた。

「待望の米式蹴球 絶好の競技日和 豪華戦開始! 巨體登場に観衆 熱狂」

 

晴の第一戦の日は来た。日本ではまだほんの揺籃時代のアメリカン・フットボール。しかもその本場の試合が、けふこそは我等の前に展開されるのだ。あの物々しい革兜は、紅、青に彩られて、小楕円球は快音をたてゝ、たくましい毛氈は風を切って、キック・オフの午後三時三十分、それは我国スポーツ史上記念すべき瞬間、選ばれて来た三十五の精鋭、それは使命を帯びた我国スポーツ界の大恩人選手達はもうすっかり船旅の疲労も癒えて今や両チーム共闘志にはち切れん許りだ。そのうえ天気は晴朗、明治神宮競技場のコンディションは絶好、駘蕩たる清風にゆられて芝生スタンド中央には、日米両国国旗が微笑んでいる。そしてこの日を喝望してゐたファンは午前から続々詰めかけた。南加システム勝つか? ノートルダム・システム押さヘるか? 緻密な正攻法と奔放な戦術とそして人間戦車軍の驀進、巨體の衝突、羚羊のやうな俊敏さ、余りにも日本人の性格にピッタリするこのスポーツの精神は「東洋に移植されたこの日」からファンの心を捉え、喧高な熱病人にしてしまった。刻刻増してゆくファン、次第に高まっていく興奮……。正三時、場内に嵐のやうな拍手が炸裂した。選手の入場だ。戸山學校軍楽隊の行進曲に乗って、紅のヘルメット、紅白縫い合わせのスウェーターをつけた紅軍、靑のヘルメットに靑と黄の靑軍がスタンド南方入口から姿を現した。どれもこれもデカイ體の持ち主、満場歓声拍手で遠来軍を迎へれば、アメリカ學生らしく手を差し上げてこれに答ふる気安さ。日本學生加盟チーム、早、慶、明、法、立の各大學各五名宛二十五名の代表選手から成る日本チームは北口から登場、かくて日本チームを中にしてフヰールド中央前に整列、空には折から上空に飛来した本社プラモス機、貴賓席に向かつて敬意を表せば、両国国歌が吹奏されて芝生スタンド上にひらひらと日章旗と星条旗が掲揚された。いよいよ華やかなウォーミング・アップ、観衆狂喜の中に三時三十分は近づいて来る。

【中略】

◆第一クオーター  
靑軍ウ-リンのキックはゴール・ラインを越え、廿ヤードのスクリメーヂとなつた後、紅軍クレメンズのキックは約四十ヤードを飛び、紅軍モース追走しこれをタックルし四十ヤード前進。五分靑軍はクレメンズの長蹴で紅軍を廿ヤード線に攻め、ライン突破、フオアワードパス或はエンド・ランに發に攻撃を続け漸進したがバークのファンブルで十ヤードを盛り返された後、バークのキックはタッチ・バック(ラグビーのドロップ・アウトに相當するもの)となり両軍無得点に終わる。

◆第二クオーター 

【後略】

5.全米学生蹴球団と日本チームとの対戦

●全米学生蹴球団は朝日新聞に「半数は横綱男女川級、平均重量二十二貫(82キロ)」と紹介される体格と桁違いの実力で明大を71-7、全日本を73-6、46-0で下している。吉岡武男明大主将は「20キロある体力差と、スピードが全然違い、試合は問題にならなかった。日本人は日本人独特の戦法を開発すべき」、ジョージ・マーシャル全日本監督も「ラグビー式ラテラルパスを工夫していきたい」と、交流後の感想を述べている。3試合で日本が記録した2TDは、いずれもラグビーでも全日本のTBを務めた鳥羽善次郎(明大)の独走で挙げた。

一つ目のTDは明大-USCで、4Qに明大の主将でコーチでもあった吉岡武男がキックオフを自陣10ヤードから敵陣25ヤードまで返し、タックルを受ける寸前に、フォローした鳥羽善次郎にラテラルで渡し、そのままゴールポスト直下に走り込んだもの。

二つ目のTDは、3月23日の同じ甲子園南運動場での全米選抜-全日本だったが、鳥羽善次郎がフルバック大前保のブロックを生かし、55ヤードのタッチダウンを挙げたものだった。

 

6.全米学生蹴球団のその他の活動

●全米学生蹴球団は、日本滞在中に試合だけでなく、さまざまな活動を行った。最終日の靑紅戦の前の第1試合に予定された明大-早・立・慶・法に備えた両チームの練習に、2人の選手が名古屋での米国の靑紅戦への参加を取りやめ、それぞれ明大、早・立・慶・法の練習にコーチとして参加し、最新の技術を日本のチームに教えた。

また全米学生チームは滞日中、なんとラグビーの試合をラグビーの日本チームと2試合行っている。関西滞在中の3月19日に甲子園南運動場で、ラグビー関西OBチーム(関東、関西の大学のラグビー部OBで関西地区在住者)と対戦し、26-5で日本の関西OBチームが勝利。4月7日に明治神宮外苑競技場で関東倶楽部(関東の大学ラグビーOBチーム)と対戦し、関東倶楽部が勝利している。試合は、関東、関西のそれぞれのラグビー協会が主催した有料試合で、試合結果は新聞にも大きく報道された本格的な対戦であった。また、3人の選手が滞在中に依頼に応じ、明大レスリング道場に行きコーチをするなど、各界との交流を深めた。

 

7.全米学生蹴球団の置き土産

●全米学生蹴球団は、当時の米国の最新のフットボール用具と装具で来日し、帰国時に日本にその一式を残してくれた(このヘルメットは、現在、山梨県清里の清泉寮内の「日本フットボールの殿堂」で展示されている)。連盟はさっそく、東京・牛込の玉澤運動具店に持ち込み、同様のものを制作した。まずヘルメットは、これまで皮製で内部にフェルトを貼ったものから、ベークライトのような合成樹脂製になり、キャンパス地でできたごわごわのパンツは伸縮性のサテン地となり、見違えるように華やかで真新しいユニフォームで秋のリーグ戦に臨むことができた。

このように全米学生蹴球団は、フットボールの日本での普及や技術の向上だけでなく、用具の面でも日本のフットボール界に大きな足跡を残していった。一行は4月9日、横浜港から日枝丸で10日余りの船旅で帰国した。同船には来日していたカナダのアイスホッケーチーム、米国のプロゴルフの試合に参加する安田卓吉、中村寅吉、陳清波、戸田藤一郎の各氏も乗船していた。横浜港で見送った東京学生連盟関係者も、この約1年半後に今度は日本のチームが米本土に遠征し、試合をするとは誰も思わなかったのではないか。

この全米学生蹴球団を率いたアルバート・L・マローニ氏は1952年に来日し、最優秀チームにトロフィーを寄贈。甲子園ボウルの優勝チームにマローニ杯として渡されることになった。また、全米学生蹴球団の出場選手7人が50年後の1985年11月に行われたミラージュボウル(USC-オレゴン大)に合わせて再来日し、日本協会の歓迎セレブションで、当時対戦した日本人選手との再会を果たした。

 

[4]2シーズン目の活動

1.東京学生連盟の組織

●2年目を迎えたシーズン。最初の1年目は日本人選手がほとんどいない立大はもとより、日系二世が多かった明大、早大にも日本生まれの日本人の選手が多くなり、チーム全体の選手数も増えてきた。

●1935年度の東京学生アメリカン・フットボール連盟は、5大学で発足した。

項 目 内 容
加盟校 明治大学、早稲田大学、立教大学、法政大学、慶応義塾大学
仮事務所 立教大学構内5号館
委員長 ポール・ラッシュ博士(立大)
連盟書記 松本瀧蔵教授(明大)
委員長書記 金子忠雄氏(立大)
連盟顧問 ジョージ・マーシャル教授(立大)、小川徳治教授(立大)、南博教授(法大)、中島太郎教授(早大)
チーム 登録選手数 ※かっこ内は出身
明 大 32人(日本3人、ハワイ16人、米本土11人、青島1人、未記載1人)
早 大 31人(日本14人、ハワイ14人、米本土3人)
立 大 26人(日本21人、ハワイ4人、米本土1人)
法 大 24人(日本16人、ハワイ7人、未記載1人)
慶 大 28人(日本23人、ハワイ3人、米本土1人、未記載1人)
選手数合計:141人

これによると、日本のフットボールは、「ハワイからの日系二世によって始められた」と言われるが、「日本のフットボールは、ハワイおよび米本土からの日系二世によって始められた」と言う方が適切である。

 

2.喫緊の課題、グラウンドの確保

●発足時の規則に則って9月に練習を開始するシーズン制で開催された第2回東京学生リーグだが、一番の問題は競技場の確保だった。日本の競技場施設は欧米から大きく後れを取り、明治時代半ばになってようやく建設されてきた。さらに、フットボール競技が開催できる観客席のある公共会場は、東京では極東大会で使用された明治神宮外苑競技場くらいで、あとは大学グラウンドとなり、質・量ともに不足していた(民間野球場はそこそこあった)。その明治神宮外苑競技場もスポーツシーズンの秋の土日は先発の陸上、ラグビー、サッカー(当時は一般的に「蹴球」の名称)、ホッケーが使用しており、日本体育協会未加盟の競技団体は、使用割当委員会に入ることができず、休日の使用は無理で平日しか空いていなかった。

また、大学グラウンドでの公式試合はなるべく避けたいということで、交通が便利な施設を探したところ、東京市営芝公園グラウンドが候補に挙がった。このグラウンドは、芝生ではなく小砂利の混ざった土のグラウンドで、夜間照明もなかった。一周300メートルのトラックがあったが、フットボールの競技フィールドサイズは、なんとか確保できる広さだった。グラウンド状態が悪かったため、当時は陸上競技連盟も利用対象外としていた。しかし、公営競技場であることから、土日の昼間は一般に開放するため競技大会の開催はできず、平日の昼間にしか利用できないとのことだった。

連盟としては、平日の開催は避けたく、一般開放されていない土日の夜間に試合を行うことにし、新たに夜間照明装置を設置することができないかと東京市に交渉した。当時の日本では、屋外スポーツは太陽の下で行うのが常識の時代で、夜間の屋外スポーツは他の競技でも、1933年秋に早大の戸塚球場で一度だけラグビーが開催された例があるだけの時代であったが、交渉の結果、夜間照明を設置することが決まった。もっとも、現在とは異なり、大きなライトを1個つけた照明塔が5基あるだけで、上空に飛んだパントのボールは、とても見づらいものだった。しかし、利用可能となったことで、連盟はフィールドの整備を自らの手で行うことにした。役員と各大学の部員を動員し、砂利の除去や草むしり、整地などの作業を行い、なんとかフットボール競技を行うことが可能なグラウンドに仕上げた。

 

このような関係者の努力で、二年目にして有料入場者を収容(メインスタンドに500人の座席、バックスタンドと左右の土手を入れて5,000人収容)でき、しかも夜間照明をつけた専用競技場を確保することができた。

完成してみれば、有料観客収容可能かつ夜間競技が可能な競技場でもあり、東京では明治神宮外苑競技場に次ぐ運動施設となった。交通至便な立地で、東京学生連盟の努力で立派になった競技施設だが、かえってそのために2年後の1937年にはフットボール競技の使用ができなくなることは、関係者は夢にも思っていなかった(後述)。

連盟ではナイターの試合に慣れるため、開幕前日の10月1日の夜間に全チームと記者を招いて、公開練習を行い、リーグ戦に臨んだ。このシーズンは、試合はすべて19時開始のナイターで行ったが、さすがに11月にもなると寒くなり、翌1936年はナイターは11月上旬までとし、11月中旬からは14時半の試合開始とした。ヘルメットもこの年の春に来日した全米学生選抜が残したヘルメットを基に玉澤運動具店が制作。全チーム・全選手ではないが、それを使用することができた。

 

3.秋季リーグ戦

●リーグ戦は10月19日に開幕。役員、選手ら連盟関係者の努力でフットボール試合が開催できるグラウンドとなった芝公園運動場で19時開始の夜間試合として行われた。前年はリーグ戦3試合だったが、法大、慶大の新加盟で試合数は一挙に10試合となった。

リーグ戦初日の立大-慶大には、フットボールへの関心と、屋外での夜間試合はこれまで日本ではなかったこともあり(早大安部球場には夜間照明の設備はあったが試合では未使用)、5,000人近い観客で超満員となり、立大が24-0で勝利、フットボール関係者の努力が実って、順調な幕開けのフットボール2年目だった。以下の試合が開催された。

日 付 対 戦 会 場
10月19日 立大-慶大 芝公園運動場
10月20日 明大-法大
10月26日 早大-法大
10月27日 明大-慶大
11月9日 法大-慶大
11月10日 立大-早大
11月16日 明大-立大
11月17日 早大-慶大
11月23日 法大-立大
11月24日 明大-早大

 

●リーグ戦最終日の11月24日、19時から2勝1分けの明大と3戦全勝の早大が対戦。アレキサンダー・ジョージ大尉が主審で試合開始し、1Qに明大は早大のファンブルをリカバーし攻撃権を得て、敵陣1ヤードからHB畑弘が左サイドを突き、TDで先制した。さらに3Q、再びHB畑弘が左サイドライン際を60ヤード走って追加のTD。試合前の予想は体力で勝る早大が有利というものだったが、明大は畑稔、弘、進の3兄弟の活躍もあって、12-0で勝利、部員32人中28人が日系二世である明大が経験を生かして3勝1分けで2連覇を遂げた。

2位は早大(3勝1敗)、3位はジョージ・マーシャルコーチの指導が功を奏した立大(1勝1敗2分)。初参加の法大は明大には0-6で敗れたものの、保科進コーチの指導で立大と引き分け、1勝2敗1分の4位。5位は4敗の慶大だった。初の芝公園運動競技場での夜間試合のシーズンは、各試合とも相当の観衆を集めて大成功で終了した。

 

4.優勝チーム明大とYC&AC戦

●優勝校対YC&ACの試合は、米国感謝祭の日である11月28日に明治神宮外苑競技場で明大が出場。前年の日本の最初の公式試合に続いて、第2回感謝祭記念試合として位置付けられた。YC&ACには日本フットボール誕生で大きな役割を担ったオハイオ大の名QBジョージ・マーシャル立大体育主事、陸軍士官学校で全米級選手であった米大使館付武官アレキサンダー・ジョージ大尉が選手として加わり、0-0の引き分けとなった。

 

このように着実に前進した2年目だったが、12月には、「東京市の芝公園運動競技場が、この度、日本陸上競技連盟から陸上競技場として公認されることとなり、東京市は50メートル拡張することとなった」との報道がなされた。東京学生連盟が芝公園運動競技場を自らの努力で整備して充実させたことが、逆に同競技場を連盟が使用できなくなるという前触れの報道だった。

 

5.関西における活動

●関西地区のチームの初試合は、最初の紹介試合である1月の明大-早大の試合から9ヶ月後の10月9日、甲子園南運動場で開催された関大のチームを二分した「大学祭模範青白試合」だった。この試合は前年、東京学生連盟の発足時に、「関東では朝日新聞社に、関西では毎日新聞社に活動の協力を仰ぐ」と方針を示したことに基づいたもので、関西で初めてのフットボール競技に毎日新聞社は再び競技紹介などを大きく紙面を割いて報道した。戦前のこの関西での毎日新聞との関係が、戦後の甲子園ボウルの発足に結び付いた。

●東京学生リーグ終了後の12月1日、関大が甲子園南運動場に法大を迎え、「関大としての初試合」を行った。関大の経験を積むため、関大の選手がときおり法大のチームに加わる変則的な試合だったが、0-43で関大が敗戦。同月15日、関大は慶大を迎えた一戦も0-23と完敗したが、関西にとっては貴重な礎となった。

 

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前年の競技活動開始から休む間もなく全米学生蹴球団の来日、しかも東京以外に兵庫、福岡、名古屋の各地での試合を開催し、そしてリーグ戦と多忙な2年目が終わった。当時の日本の他のスポーツと異なり、NCAAの規定に準じて活動期間を毎年9月から翌年1月と定めたが、全米学生蹴球団の思わぬ来日で一部の選手が春も活動したことは嬉しい誤算だった。また関東で法大と慶大が、念願の関西には初のチームの関大が活動を始め、着実に前進した日本フットボール2年目だった。