慌ただしかった競技開始1、2年目が過ぎ、フットボール競技も徐々に世間に知られるようになり、各チームの選手数も増加してきた。前年、全米学生蹴球団が来日したばかりだったが、関東5大学のリーグ戦開幕の前に、今度は日本チームが米国本土に遠征する計画が発表され、リーグ戦の結果を基に派遣選手を選考するため、白熱した試合が展開された。またこの年、米国NCAAの公式規則書を基に日本で最初の公式規則書が発行された。
1936.01.01
お知らせ
競技人口増加。全日本選抜が米国遠征で2試合。初の公式規則書を発行
日付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 2月5日
・ 2月26日 ・ 7月17日 ・ 7月31日 ・ 8月 ・10月8日 ・11月25日 ・11月25日 ・11月30日 ・ |
・全日本職業野球連盟結成
・二・二六事件発生 ・スペイン内戦勃発 ・IOC、1940年夏季オリンピックの東京開催を決定 ・ベルリン五輪、水泳200m平泳ぎで、葉室鐡夫氏、前畑秀子氏それぞれ金メダル。 ・初のカラーニュース映画公開 ・国会議事堂落成 ・日独防共協定締結 ・ポール・ラッシュ博士、清泉寮建設計画発表 ・AP通信社、フットボール全米大学ランキング発表開始 |
フットボール | ・ 6月
・ 9月 ・ 9月23日 ・10月24日 ・10月29日 ・11月23日 ・11月26日 ・12月3日 ・12月9日 |
・全日本選抜チーム、シーズン終了後の米国遠征計画を発表
・東京学生米式蹴球連盟に名称変更 ・日本で最初の公式規則書発行(米NCAAに準拠) ・東京学生リーグ戦開幕、明大-慶大(芝公園運動競技場) ・早大-新聞記者団(早大東伏見グラウンド) ・東京学生リーグ戦閉幕、明大、早大が3勝1敗で同率優勝 ・明大-YC&AC(YC&ACグラウンド) ・23人の全日本選抜チーム、米国本土で2試合(当時は船旅であり延べ50日間の遠征) ・早大(米遠征留守チーム)-米軍艦ゴールドスター号乗組員(YC&ACグラウンド) |
慌ただしかった競技開始1、2年目が過ぎ、フットボール競技も徐々に世間に知られるようになり、各チームの選手数も増加してきた。前年、全米学生蹴球団が来日したばかりだったが、関東5大学のリーグ戦開幕の前に、今度は日本チームが米国本土に遠征する計画が発表され、リーグ戦の結果を基に派遣選手を選考するため、白熱した試合が展開された。またこの年、米国NCAAの公式規則書を基に日本で最初の公式規則書が発行された。
[1]3年目の活動、米本土派遣の発表
●活動3年目を迎え「東京学生アメリカン・フットボール連盟」が「東京学生米式蹴球連盟」に改称した。積極的な普及と向上活動を続ける日本フットボール界は、ついに誕生3年目にして全日本選抜の米国遠征を実現した。リーグ戦開幕前に、米国派遣は「リーグ戦優勝チームを主体(派遣選手20人中12人を優勝チームから選出)とする」との方針が示されたため、各チームは「オーバーコートはアメリカで買おうぜ」を合言葉に、一段と熱の入ったリーグ戦となった。また東京学生米式蹴球連盟名誉会長に、浅野良三氏から交代した米国大使沢田健司氏が就任した。
[2]日本で最初の公式規則書の発行
●この年、わが国で初めての公式規則書が、「東京学生米式蹴球連盟公式規則」として発行された(注:確認できている現存は3冊、それぞれ国会図書館へ納本、日本アメリカンフットボールの殿堂で展示、日本協会競技規則委員会保管としている)。この公式規則書は、米国NCAAの1935年の公式規則を基本とし、NCAAの36年の公式規則変更を補遺した日米で同期がとられた迅速な発行だった。発行には競技規則制定委員の川島治雄氏、加納克亮氏、金子忠雄氏、有賀太郎氏が担当した。この公式規則書には、公式規則以外に連盟の活動状況、連盟規約なども記載され、当時の活動全体をまとめた「日本フットボールの紹介」の文書にもなっている。また競技規則の前文である「フットボールコード」は選手指導における一大指針となり、現在の公式規則書に引き継がれている。現在と異なり、通信や複写が困難な時代であるにもかかわらず、迅速な発行がなされた。
なお、この日本で最初の公式規則書の詳細は、日本協会公式サイトで紹介されている。
https://americanfootball.jp/top_news/37/
[3]この頃の防具・装具
●この頃、美津濃(神田小川町)がフットボール用品の販売をしており、値段は次の通りだった。
用 具 | 価 格 |
ヘルメット | 10円 |
ショルダーパッド | 12円 |
パンツ | Aタイプ:7円、Bタイプ:5円50銭 |
ヒップパッド | Aタイプ:2円50銭、Bタイプ:2円 |
ジャージ | Aタイプ:5円、Bタイプ:2円70銭 |
靴(スパイク) | 8円 |
全部揃えると 1人前40円ほどであった。現在だと8~9万円位の計算になる。
●また当時、玉澤運動具店でもヘルメット、ショルダー、ヒップパットを制作し販売していた。ヘルメットは革製で内側を白のフェルトで覆ったもので、販売当初は大きめに作られていたので外れやすかったが、次第に改良されていった。
[4]秋のリーグ戦
1.東京学生リーグ戦
(1)各チームの編成
●各チームのコーチ、主将、登録選手数は次の通りだった。かっこ内の人数は登録選手数のうちの日系二世の選手数
チーム | コーチ | 主 将 | 選手数 |
明 大 | 武田道郎氏 | 畑稔 | 32人(28人) |
早 大 | 下田正一氏 | 有賀太郎 | 31人(17人) |
立 大 | 太田二男氏 | 太田二男 | 26人(5人) |
法 大 | 保科進氏 | 鈴鹿武 | 24人(7人) |
慶 大 | 船田敬一氏 | 片岡恒一 | 28人(4人) |
選手数合計:141人(61人)※約4割は日系二世の選手だった |
●リーグ戦開始にあたって、連盟はハドル時間の短縮を申し合わせた。フットボール知識の浅い観客のハドルによる試合の中断への不満が多かったことへの対策で、普及に積極的な連盟の姿勢を表すものであった。競技開始3年目となり、各大学は工夫を凝らしたが、経験豊富な明大はハドルを廃止し、スクリメージ・ラインでのオーディブル(暗号によるプレー伝達)を使用して対戦相手と観客を驚かせた。
5大学となって2年目の36年の連盟登録選手は5大学で総数141人。活動開始の34年の3大学合計66人から一挙に2倍以上の増加となった。この年の141人中4割強の61人が日系米国人で、特に明大、早大に二世選手の多く、それがそのまま36年度のリーグ戦順位となっていることで、この新興スポーツにおける経験の重要性が分かる。
(2)東京学生リーグの日程
●3年目のリーグ戦は、次の通りとなった。
日 付 | 対 戦 | 会 場 |
10月24日 | 明大-慶大 | 芝公園運動競技場 |
10月25日 | 早大-法大 | 同 |
10月31日 | 立大-慶大 | 同 |
11月1日 | 明大-法大 | 同 |
11月7日 | 早大-立大 | 同 |
11月9日 | 法大-慶大 | 同 |
11月13日 | 明大-立大 | 同 |
11月14日 | 早大-慶大 | 同 |
11月21日 | 立大-法大 | 同 |
11月23日 | 明大-早大 | 同 |
11月26日 | 優勝校-YC&AC | 横浜YC&AC(15時) |
グラウンドは前年に続き夜間照明のある芝公園運動競技場を使用したが、11月も中旬となると夜の試合は寒さが厳しくなるため、リーグ戦の第6試合、11月9日の法大-慶大戦からは14時半の日中のキックオフとした。また、芝公園運動競技場でのナイター試合は暗く、ボールを白く塗って競技をした。高く蹴り上げたパントキックのボールは見えなくなり、突然落下してきた。
●東京学生連盟を後援した朝日新聞社は、フットボールの報道に積極的だったが、連盟理事も務める加納克亮記者のリーグ展望(1936年10月)によれば、各大学の陣容は
「明大はスタートメンバー中9人が経験者で、ノートルダム攻法を駆使し優勝候補、早大は平均一八貫(注:68キロ)の体重を利してライン攻撃に力を集中、立大はほとんど無経験者から叩き上げたが、走投蹴をこなすハーフバック中村が健在で明早に肉薄、法大は重量級ラインで南加大ジョーンズ戦法、西原定雄(三年)、梶谷正明(三年)もいて台風の目。慶大は頑強な体格のラインの経験次第」
と紹介された。
(3)3年目のシーズンの試合
●10月24日18時からリーグ戦開会式が芝公園運動競技場で行われた。連盟加盟5大学は校旗を先頭に入場し、メインスタンド前に整列。ポール・ラッシュ理事長の開会の挨拶、選手宣誓と型の如く開会式を終わり、引き続いて第1戦の明大-慶大の試合がラッシュ理事長の始球式によって開始された。
試合は過去2年連続優勝の明大が、トリックプレーなど変化のある攻撃を展開し、1Q、2QにそれぞれTDを挙げ、前半を13-0とリード。3Qには慶大の重量ラインが中央を開き、しばしば慶大が押したが、明大は得点を許さず20-0で勝利し、順調なスタートを切った。
このシーズンは法大が健闘。開幕試合の明大-慶大戦に続く翌週開催の法大-早大は、明大-慶大に次ぐ3,000人の観客を集めて開催。法大の梶谷正明(三年)、西原定雄(三年)、三枝洋二(二年)の快足トリオが早大陣を突破し、13-7で法大が勝利した。しかし、法大は続く明大、慶大に敗れて優勝戦線から脱落。優勝争いは、リーグ戦最終日に全勝を続ける明大と、法大に敗れただけの早大の対決で決まることとなった。
●優勝を決める明大-早大は、前年同様リーグ最終戦として11月23日に満員の芝公園運動競技場で開催。優勝チームはシーズン終了後の米国本土への遠征に12人の選手を送れることから、より緊張感のある試合となった。1Qは早・明ともに自重したプレーを展開して互いに譲らず、2Qに早大は永井義人(一年)から野村武雄(一年)へのTDで先制。TFPも成功して7点を挙げ、前半を終了。後半、明大は大前保、胡子次郎が活躍するが、早大の重量ラインを突破することができず、早大が7-0で勝利し、ともに3勝1敗で両者優勝となった。明大は3年連続3回目の優勝、早大は初優勝。3位は2勝2敗の法大、4位はともに1勝3敗の立大、慶大となった。
この結果、注目の米国本土派遣の全日本チームの人員は、優勝を分け合った明大と早大から各7人、法大、立大、慶大から各2人の計20人となった。
●日本で最初の公式戦を行った縁から、恒例となった東京学生リーグ優勝チームとYC&ACとの定期戦には明大が出場。結果は13-0で明大が勝利を飾り、これで国内の全試合・行事が終了し、待ちに待った米国遠征に舞台が受けつがれた。
●まだシーズン半ばであったが、10月29日に早大は東伏見のグラウンドで新聞記者団と試合をして 32-0(14-0、12-0、0-0、6-0)で勝った。各紙の担当記者も新しいスポーツに非常に興味を持っており、記事を書くだけでは物足りず試合をやろうとなったもので、記者チームはほとんどがラグビー出身者であった。
また早大は、これもシーズン半ばの11月1日、横浜のYC&ACのグラウンドでYC&ACと対戦、13-7で勝利した。これは毎年、東京学生リーグの優勝校とYC&ACが対戦することになっていたが、YC&ACから試合数が物足りないとの要望があり、シーズン中ではあったが早大が対戦したものである。公式戦のシーズン半ばでの新聞記者チームやYC&ACとの対戦と、おおらかな時代だった。
2.関西での活動
●この年も関西で唯一活動を続ける関大は、依然関西では試合の相手がいない状態が続いていたが、5月に東京に遠征し、芝公園運動競技場で法大に0-39で完敗。そして関東学生の米国遠征団の帰国後の1937年1月24日、当時関西では最大級の競技施設だった甲子園南運動場に遠征した立大(23日9時東京駅発で移動、夕方大阪着)と「第1回定期戦」として対戦して0-32で敗れた。関大のこのシーズンの活動は、この2試合だけだった。関大-立大では、それまで日本のチームの守備ライン数は通常、スクリメージ・ライン上に7人を配置することが普通だったが、立大は米国本土遠征で学んだ6人の守備ラインを採用し、効果的だった。シーズン後に関東のチームが関西で唯一のチームの関大と対戦し、関西地区の活動を支援するのはこの頃の慣例だった。
[5]日本チーム、初の海外遠征
1.遠征チームの編成
●日本フットボール3年目の秋のシーズンを前にした6月、東京学生選抜を米国本土に派遣し、現地チームと対戦をする計画が発表された。この1年半前の1935年3月に来日した全米学生オールスターの監督・主将のアルバート・L・マローニ氏が中心となり、現地の友愛結社・シュライナーの後援を得て招聘準備を進め、日本から監督・コーチを含めて23人の選抜チームを招いたものであった。マローニ氏が住む西海岸は日本からの移民も多く、日系人社会がつくられていたが、日本のスポーツ選手が訪米することは当時珍しく、現地でも大きな関心を集めた。
日本チームの編成は優勝チームを主体とする予定であったが、明大と早大がともに3勝1敗でシーズンを終了。両校優勝のため、同率優勝の早大、明大の各7人を中心に選手20人、武田道郎氏(明大)をコーチに、役員に加納克亮(朝日新聞)、川島治雄(早大)の両氏を加えた合計23人の遠征軍を結成した。なお、川島氏の派遣費用はポール・ラッシュ博士が負担し、特に「米国蹴球界の状況、組織の調査、および競技(練習、試合、戦略など)の研究」の特命が課せられた。参加選手のうち日本人は、ガードの安藤眉男(立大三年)ただ一人で、残りは日系米国人留学生だった。
選手団は次の通りであった。
役 員 | 選 手(20人) |
〔コーチ〕武田道郎(明大コーチ) | 早 大:中山晟、有賀太郎、下田正一、野村武雄、末武廣士、井上素行、永井登人 |
〔マネジャー〕加納克亮(朝日新聞) | 明 大:畑弘、畑進、畑稔、保田進、黒川博人、阿部武人、町田整治 |
(秘書)川島治雄(早大) | 法 大:梶谷正明、梅野一夫 |
立 大:中村健一、安藤眉男 | |
慶 大:福田栄、今村徳之 |
米本土では、最初の寄港地サンフランシスコで1試合(出発時、対戦相手未定)、その後移動したロサンゼルスで12月27日に南カリフォルニア高校選抜と2戦目、翌1937年1月3日に現地の在留邦人選抜軍と3戦目を行う予定であった。
2.米国遠征の旅立ち
●日本学生選抜は、東京・浜松町にあった朝日新聞社のグラウンドで1週間の練習後、そろいのブレザー、ネクタイで当時の海外渡航のスポーツ選手の常であった明治神宮参拝と宮城遥拝の後、12月3日に秩父丸で横浜港を出発。航海中は船長の計らいで船内で最も広いスペースの後部甲板で練習を重ね、12月10日にホノルルに到着した。
●ホノルルではハワイ大のグラウンドで練習し、ちょうど開催されたNCAA公式戦のハワイ大-サンノゼ大の試合を観戦した。ハワイで2泊後、12月17日に米本土のサンフランシスコに到着。現地ではオリンピック役員でもある明大の松本瀧蔵教授が日本チームの到着を迎えた。現地では早朝の到着予定とのことで、現地の日本人小学生300人が港に迎えに来ていたが、選手団の入国手続きに手間取り、13時半まで待った小学生は授業のために戻り、会えなかった。また当初予定していたサンフランシスコの試合は準備できず、試合は行われなかった。一行は入国後、サンフランシスコ市内を見学して再び乗船、同月19日にロサンゼルスに到着した。
3.ロサンゼルスでの試合
●ロサンゼルスでの最初の試合日の12月27日は前日来の雨が10時には止んだが、既にラジオを通じて試合中止と報道されたため、空は晴れたが試合は延期された。その後、現地での調整や天候不良の影響で、結局翌1937年1月3日にギルモア・フィールドで南カリフォルニア高校選抜との1試合のみを行った。
14時のキックオフ。日本人選手の平均体重は140ポンド(約64キロ)に対し米国チームは180ポンド(約82キロ)。中には200ポンド(約91キロ)を超す選手もいた。また現地の高校連盟の規則により、シーズン以外の試合に出場した選手は翌年には参加できない規則があることから、米国チームは全員卒業前の三年生で、中には大学でプレーをする者もおり、力量のあるチームだった。
前半は18キロの体重差と緊張から、相手にランで一つ、パスで二つのTDで合計19点の先行を許したが、3Qに日本の主力であり走・投・蹴揃った名選手と米国でも人気のHB中村健一(立大)が活躍し、自陣29ヤードからの攻撃の12プレー目に、彼自身の2ヤードのランで唯一のタッチダウンを挙げた。6対19の敗北だったが、ファンブルが多く自滅した感が強かった。
当初は1月3日に在留邦人選抜軍との試合を予定していたが、南カリフォルニア高校選抜の試合を行うことになり、対戦することができなかった。しかし、現地では珍しい日本からのチームが話題を集め、多くの日系人が集まり観客は9,000人だった(12,000人との記録もある)。
4.帰路、ホノルルでの試合
●一行は1937年1月5日、帰国のために竜田丸で米国を出港。試合数が当初の計画とは異なったため、日本への帰路で急きょ、竜田丸のホノルル停泊時間を利用し、ハワイの高校と試合をすることが決まった。ホノルルに向かう航海中は往路と同様に後部甲板で練習し、1月12日にハワイでの高校チャンピオンであるルーズベルト高校と試合を行った。
●結果は、練習不足もあり、この試合のために用意したラグビー式ラテラルパスによる数回の好機も得点に至らず、0-0の引き分けとなった。選手たちはユニフォーム姿で下船し、試合後はそのまま船に戻り、直ちに出航するという慌ただしいスケジュールであった。選手の帰船を待っていた竜田丸の出航は1時間遅れた。
遠征チームは、試合以外にも、本土でNFLとローズボウル(ワシントン大-ピッツバーグ大)を観戦し、本場のフットボールを目の当たりにした。
●その後、日本学生選抜は1月21日に横浜港に帰港し、太平洋航路の片道2週間余りをかけた約50日間の遠征を終えた。そして2月5日夜、朝日新聞社講堂で約100人を集めて帰朝報告会を開催。ジョセフ・C・グルー米国大使は挨拶の後、自らの米国での経験を参加者に紹介した。また思わぬことに4月には、ハワイ・ルーズベルト高との対戦の収益金がハワイから送金されてきた。連盟は各校に60円を分配し、各部活動に貢献した。当時としては大変助かる金額だった。
5.早大留守部隊の国際試合(対米軍、初の試合)
●この米国遠征の間に、国内でもう一つの国際試合(対米国戦)が行われている。12月9日、横浜のYC&ACグラウンドで、早大の米国遠征の留守チームが、米海軍軍艦ゴールドスター号の乗組員チームとの試合を行った。グアムを基地とする同艦はこの頃毎年、物資補給で来日しており、その折の親善試合であった。試合は7-6で早大留守チームが勝利を挙げた。戦後、日本のフットボールの復興を支援した米軍だが、最初の「日本チームと米軍との試合」は、日米関係に影が差してきたこの1936年の試合であった。このゴールドスター号は翌37年11月にも来日し立大と対戦した。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
活動開始3年目も慌ただしく終わった。初の米国遠征のチーム編成に影響するリーグ戦も、明大と早大の両校優勝の結果になり、予定通り米国遠征が行われた。天候や現地の体制の関係で、当初の計画通りの試合はできなかったが、これも当時としては大イベントの米国遠征を実現し、現地のフットボール状況の把握が一行全員でできたことは大きな収穫だった。通信事情が現在とは比較にならないほどの悪い時代に、また片道2週間余りかけ渡航する米国遠征やNCAA規則に同期をとったわが国初の公式規則書の発行など、関係者の大変な努力が推察される年だった。