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INFORMATION ニュース

1937.01.01

1937年(昭和12年) 活動4年目

お知らせ

関西、初の関西チーム間の試合開催。関東大学リーグ戦後半を後楽園球場で開催

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月1日

・ 4月15日

・ 5月1日

・ 5月6日

・ 7月7日

・ 7月23日

・ 8月13日

・ 9月11日

・11月6日

・11月20日

・12月13日

・米・第1回コットンボウル、テキサスクリスチャン大-マーケット大

・ヘレン・ケラー氏、一回目の来日

・西宮球場開場

・ニューヨークでヒンデンプルグ号爆発事故

・盧溝橋事件。日中戦争勃発へ

・明大八幡山運動場開設

・第二次上海事変勃発

・後楽園球場開場

・日独伊防共協定成立

・第1回プロ野球オールスター戦開催

・日本軍、南京占領

フットボール ・ 1月24日

・ 2月5日

・ 4月10日

・秋

・10月2日

・11月20日

・11月25日

・12月4日

・第1回関大-立大定期戦(甲子園南運動場)

・米国遠征帰朝報告会(朝日新聞社講堂)

・初の関西チーム間の試合、関大-神戸外人クラブ戦(神戸東遊園地)

・東京学生米式蹴球連盟会長に浅野良三氏就任

・東京学生リーグ戦開幕、明大-慶大(多摩川オリンピア球場)。シーズン後半の11月5日より後楽園球場で開催

・早慶戦、後楽園球場に観客10,000人。明大-神戸外人クラブ戦(甲子園南運動場)

・慶大-YC&AC(YC&ACグラウンド)

・東京学生リーグ戦閉幕、早大が2年連続、初の単独優勝

 

活動4年目、前年末の訪米遠征チームの帰国報告から始まったシーズン、東京学生連盟が整備し、設備充実に貢献した芝公園運動競技場が、各運動競技ができるようになったために土・日に優先使用できなくなり、前半は多摩川河川敷で、後半は後楽園球場でリーグ戦開催。早大が前年の明大との同率優勝に続く優勝、初の単独優勝を飾った。関西では、神戸外人クラブ、続いてOBチームが結成され、孤軍奮闘の関大にとって初めて関西チーム間の対戦ができた。

[1]初代会長、浅野良三氏の就任

●日本をめぐる国際状況は、やや変化を見せ始めていたが、フットボールに関しての日米関係は良好で、1934年の日本で最初の公式戦で祝辞を述べたジョセフ・G・グルー米国大使から、この年9月に東京学生連盟に活動資金として100円の寄付があった(この寄付は明確に判明しているもの。他の年にもあった可能性がある)。

そして9月、空席だった東京学生米式蹴球連盟の初代会長として、前々年まで名誉会長だった浅野セメント(株)社長の浅野良三氏(後の日本鋼管社長、浅野学園理事長)が就任し、積極的な活動をする実務的会長として日本フットボールの発展に貢献した。当時の日本財界の中心で活躍し、留学経験から英語が堪能な同氏は就任後、公私ともにフットボール競技の活動を積極的に支援し、活動困難な時代のフットボールの発展に協力。翌1938年1月の日本アメリカンフットボール協会設立の準備に貢献した。

●東京学生米式蹴球連盟役員は次の通りだった。

役 職 氏 名
会 長 浅野良三
理事長 ポール・ラッシュ博士(立大)
執行理事長 加納克亮(朝日新聞社)
会 計 小川徳治(立大)
書記長 菊地隆吾(立大)
書 記 角野行雄(早大)、堀越文雄(明大)、間宮一郎(法大)、松井利男(慶大)
理 事 前掲8役員、伊集院浩、川島治雄(明大)、松本正一郎(明大)、野内平治郎(早大)、畑弘(明大)、安藤眉男(立大)、我妻(法大)、片岡恒一(慶大)

[2]公式規則の変更・ユニフォームに番号

●公式規則変更で、この年からジャージの前後に番号を付けることが必須となった。これまでは付けても付けなくても自由であったが、すべての選手はジャージの前面に6インチ以上の、背中部分に8インチ以上の番号をつけることとなった。ただし、番号とポジションに関しての規定はなく、どの番号を付けても自由であった。ラインとバックスが区別できる番号が定められたのは、1947年からである。

 

[3]東京学生リーグ、秋のリーグ戦

●東京学生リーグは、前年度末に実施された東京学生選抜の米国本土遠征の結果が、戦術面などにどう反映されるかの興味が持たれる中、シーズン開始を迎えた。これまでの反復練習主体の純日本式練習をしたチームと、米国式のコーチ主義の練習をしたチームの違いの興味があった。

 

1.芝公園運動競技場使用不可とグラウンド探し

●1935年に役員・選手ら連盟が荒れたグラウンドを整備して夜間照明まで設置し、2シーズン使用してきた芝公園運動競技場が、その整備の結果、陸上競技連盟公認競技場となり、陸上競技の開催が優先的に扱われるようになった。また空いた休日も、管理している東京市の公園課が一般に広く開放することにしたため、新興競技であり、一競技団体であるフットボールの東京学生連盟の休日の専用使用は許可されなくなった。そのため、連盟は急きょ、試合を開催できるグラウンドを八方探したが、土日に使用できる競技場はなく、やむを得ず東横電鉄(現東急電鉄)が経営している多摩川オリンピア球場(多摩川の河川敷の南面にある野球場)の一面を使用するしかなかった(現在の東急東横線多摩川鉄橋の西側右岸・川崎市側)。

 

2.前半:オリンピア球場、後半:後楽園球場での公式戦

●このシーズンの試合日程は以下の通り。

日 付 対 戦 会 場
10月2日 明大-慶大 多摩川オリンピア球場
10月9日 早大-立大
10月16日 法大-慶大
10月23日 明大-立大
10月30日 早大-法大
11月5日 立大-慶大 明治神宮外苑競技場

(後楽園球場に変更)

11月12日 明大-法大
11月19日 早大-慶大
11月26日 立大-法大
12月1日 明大-早大

当初決定した後半の明治神宮外苑競技場は、その後、使用が困難となり、ちょうどプロ野球シーズンが終了していた後楽園球場を使用することになった。後楽園球場を野球以外のスポーツが使用することは当時、大変珍しいことだった。

10月2日、多摩川オリンピア球場で4シーズン目のリーグ戦が開幕。シーズンの後半はプロ野球のシーズンが終了した後楽園球場で開催することができ、11月5日に後楽園球場に場所を移して後半戦を開催した。後楽園球場では三塁線に沿ってサイドラインを設け、野球の三塁側スタンドがフットボールの観客席となった。またピッチャーマウンドは盛り上がったままで使用され、エンドゾーンの一部も欠けたが、都心に近く、観客席のある競技場でのリーグ戦は、連盟や選手にとって、この上のない日頃の成果の見せ場だった。

最初の後楽園球場の使用日となった11月5日は、シーズン途中であったが、多摩川オリンピア球場では開催できなかった開会式を全校がユニフォーム姿で参加して開催。この年会長に就任した浅野良三氏が挨拶し、後半戦に入った。

 

●米国遠征による本場技術の吸収後のリーグ戦とあって、競技水準のアップはあったが、リーグ結成以来の二強である前年同率優勝の早大と明大の力が頭抜けていた。明大はダブルウイング体型か畑弘主将(四年、部創立時に活躍した畑三兄弟の三男)、カリフォルニア州の角力(相撲)チャンピオンで百メートル障害競走の記録保持者の国重竹雄の脚力を生かす技術のチーム。一方の早大は新入部員が20人となり上野遺司(一年)、西岡敏夫(二年)らの強力ラインにシングルウイングから野内平内(三年)のパス、内藤幸男(三年)の突進を生かす力のチームだった。

●開幕戦の10月2日、多摩川オリンピア球場での初試合となった明大-慶大は、明大が20-0で順当に勝利し、翌週の早大-立大も早大が13-0で勝利した。オリンピア球場は更衣室などの施設に乏しく、立大選手は新丸子の浴場と契約し、そこでユニフォームに着替えてグラウンドに向かい、試合後は泥だらけのユニフォームで戻り、ひと風呂浴びて帰路に就いた。

11月5日の後楽園球場での初試合となった立大-慶大は、観客席として用意した三塁側内野席と外野席の一部がほぼ満員に。試合開始後に雨となり、それも徐々に激しくなったためボールは滑り、スパイクには泥が重なりポイントは効かず、防具は水を吸って重くなる状況で、結局両チームともに得点を挙げられずに0-0の引き分けとなった。

11月20日に後楽園球場で開催された早慶戦は、リーグ戦としては初めて観客数が10,000人を超えた。試合は早大が43-0で圧勝した。

●優勝決定の試合は例年通り明大-早大の試合となり、12月1日のリーグ戦最終日に開催。両大学ともに無失点の全勝で対戦した最終戦は、10,000人を越える観客が後楽園球場に集まった。

明大はラインがやや弱いと自認し、バックスのオープンを突くロングランに期待する戦法でキーマンの国重竹雄を走らせた。試合は2Qに両チームがTDを挙げるほぼ互角の展開。後半は強力ラインを生かした早大が、下田正一(四年)と福田勝人(二年)のインターセプトからの独走TDなどで26-6と圧勝し、初の単独優勝を飾った。

早大優勝の最大の貢献者は、エンド兼任でもある下田正一コーチで、相手チームの分析や状況判断力は当時としては頭抜けていた。下田コーチは先の米国本土遠征チームの一員で、特に滞米中の相手チーム、カレッジ、NFLの試合観戦と米国チームのチームマネジメントから多くのことを学び、どうしたら試合で勝利を得られるのかを考えた選手だった。戦前の日本フットボールでは、最もコーチらしいコーチだった。

 

[4]関西地区の活動

1.実力をつけてきた関大

●春に関西に待望の二番目のチームが誕生した。孤軍奮闘する関大に続いたのは、神戸外人クラブ(KR&AC)で、関東のYC&ACと同様、関西で活動する外国人の社交組織だった。当時の日本の二大貿易港だった横浜と神戸にこのようなクラブがあった。

●春に結成された神戸外人クラブと関大との関西勢同士の初の試合は4月10日に神戸東遊園地で実現。神戸外人クラブが34-0で関大を下した。2チームの競争により水準も向上し、6月6日に甲子園南運動場に慶大を迎えた関大は、2Qにチーム結成以来初のTDを記録したが、6-29で敗れた。

さらに10月、再度慶大を迎えた対戦で7-21と健闘。東京のシーズン終了後、翌1938年1月22日、甲子園南運動場に東京3位の立大を迎えた試合では、立大がパントをキャッチミスした関大陣前からの攻撃でHB安藤眉男(三年)が中央突破し先制。しかし、関大もLE吉田(三年)のダブルリバースで得たTDで6-6と引き分けに持ちこみ、結成3年、8試合目にして連敗に終止符を打った。C秋本寅太郎(四年)、G浜本正吉(三年)のブロック、HB山内正邦(一年)やLH藤井(二年)の脚力が光った。関西で孤軍奮闘を続けてきた関大は、着実に実力をつけ、部活動も軌道に乗ってきた。

 

2.神戸外人クラブの活動と3番目のチームKFCの誕生

●神戸外人クラブの水準も高く、11月20日に甲子園南運動場に強豪明大を迎え、前半0-12の劣勢から、後半関大コーチでもあるHBレイ・上島の活躍で逆転。19-12と関東の王者に初の対関西戦敗戦を味わわせた。年末には関西・関東の大学卒選手による関西フットボールクラブ(KFC:Kansai Football Club)も誕生。この関西の向上が、翌1938年の東西選抜対抗試合創設に結びついた。

 

[5]日本米式蹴球協会の設立

●リーグ戦終了後の翌1938年1月末、全国的普及を目的に、かねてから念願の「日本米式蹴球協会」が創立。初代会長に浅野良三氏が選出され、初代理事長にはポール・ラッシュ博士が東京学生連盟役員と兼任。関西支部長には松葉徳三郎氏が就任した。本部を東京に、支部を関西に置くこととした。浅野良三氏は42年まで5年間会長を務め、理事長のポール・ラッシュ博士は敵国人収容所に収容される41年まで務めた。

日本協会は設立記念行事として、関東・関西の両地区交流を目的として毎年正月に東西選抜対抗試合を開催することを発表した。第1回に限り、日本米式蹴球協会設立の時期との関係から1938年3月24日の春季皇霊祭(春分の日)に開催することとした。

日本米式蹴球協会は、次の項目の規約(項目のみ紹介)を制定した。

 

「日本米式蹴球協会規約」

第一條  名称
第二條  目的
第三條  役員
第四條  役員ノ構成
第五條  役員ノ任期
第六條  役員ノ職質
第七條  理事會
第八條  財政
第九條  本則變更
第十條  協會主催ノ試合規定
第十一條  審判委員會
第十二條  競技規則

 

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順調に競技活動を開始した日本のフットボール界だったが、グラウンド探しの初めての困難に直面した。まだ不十分なわが国の運動施設の中で、芝公園運動競技場を連盟役員と学生でグラウンドを整備し、ナイター設備設置を推進。夜間も使用できる競技施設にしたことが、逆に他の運動競技組織も利用したい状況となり、フットボールの休日の独占使用ができなくなった。急にグラウンド使用不能の状態となり、このピンチを連盟役員の努力で、何とかリーグ戦前半を多摩川オリンピア球場、後半を後楽園球場で開催することとなった。一方、関西地区で関大に続く2、3番目のチームが発足したことは、フットボールの全国展開を願う関係者にとっての吉報だった。ただ、関西の大学間の試合の開催までには、もう少し待たなければならなかった。