東アジアで紛争が勃発し、社会の雲行きが怪しくなり始めた。しかし、徐々にではあるが選手数や観客数も増え始め、社会的にも認知されてきた競技活動だった。社会人チームではあったが関西地区にも関大に次ぐチームが前年誕生し、関西の活動も本格化することから、念願の日本米式蹴球協会(会長:浅野良三氏、理事長:ポール・ラッシュ氏)を設立した。日本協会の設立により東西選抜対抗戦を創設した。その後の日本フットボールの活動をみると、戦前では、最も活動活発な年だった。
1938.01.01
お知らせ
念願の日本協会設立。初の東西選抜試合、観客2.5万人で開催。早くもラジオ中継放送
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 1月1日
・ 3月 ・ 4月1日 ・ 7月5日 ・ 7月15日 ・ 7月24日 ・10月10日 |
・厚生省設置、スポーツを管轄。2月29日:厚生省「体育国策の具体案」発表
・1940年冬季オリンピック、札幌開催が決定 ・国家総動員法公布 ・阪神大水害 ・1940年東京夏季、札幌冬季オリンピック開催返上 ・山梨・清泉寮落成 ・米国女子野球団51人が来日 |
フットボール | ・ 1月
・ 1月22日 ・ 3月21日 ・10月10日 ・11月19日 ・11月24日 ・12月11日 ・翌年1月1日 |
・日本米式蹴球協会設立(会長、浅野良三氏)
・第2回関大-立大定期戦(甲子園南運動場) ・第1回東西選抜対抗戦(明治神宮外苑競技場) ・東京学生リーグ戦開幕、早大-法大(明治神宮外苑競技場) ・明大-立大、初めてのラジオ中継(NHK)。続いて12月11日、明大-早大も ・立大-YC&AC(YC&ACグラウンド) ・東京学生リーグ戦閉幕、明大4回目の優勝(1回の同率優勝を含む) ・第2回東西選抜対抗戦(明治神宮外苑競技場) |
東アジアで紛争が勃発し、社会の雲行きが怪しくなり始めた。しかし、徐々にではあるが選手数や観客数も増え始め、社会的にも認知されてきた競技活動だった。社会人チームではあったが関西地区にも関大に次ぐチームが前年誕生し、関西の活動も本格化することから、念願の日本米式蹴球協会(会長:浅野良三氏、理事長:ポール・ラッシュ氏)を設立した。日本協会の設立により東西選抜対抗戦を創設した。その後の日本フットボールの活動をみると、戦前では、最も活動活発な年だった。
[1]フットボールをめぐる状況
1.世の中の状況とフットボール界
●1937年の盧溝橋事件を発端に、日本は中国軍との本格的な戦闘を開始。38年4月には国家総動員法が公布され、日本は緊迫した戦時体制に向かっていった。そして日本のフットボール界も、創生時の中核であった日系二世選手のほとんどが卒業し、米国(ハワイ、米本土)に帰国した者も多かった。フットボール界は厳しい制約の中で、日本人主体の新たな展開を迫られた。しかしながら、関係者の努力で新興競技であるフットボールの普及は着実に前進し、選手数も東京学生リーグ5大学計137人と戦争が近づく余波はなく、観客も順調に増加し、秋季リーグの早慶戦は後楽園球場に10,000人余を集めるまでとなった。
この頃、東京学生連盟は、連盟理事で朝日新聞記者の加納克亮氏の協力で連盟事務所を朝日新聞本社4階に設けていた。また普及のために運送会社に依頼し、早明戦と早慶戦のポスターを運送車両に掲示したり、大試合前に新聞数社の記者を招いてチームや見どころなどの説明などを行ったりして普及に努めた。
2.初めてのリーグ戦ラジオ中継
●一般の関心増大に応えて、初の試合中継のラジオ放送が行われた。JOAK(NHK)が11月10日の明大-立大、12月11日の明大-早大を全国中継し、東京六大学野球、全国中学野球、相撲といった数少ないスポーツ中継にフットボールが加わったことは、関係者の普及活動の熱意とともに、一般の関心が強くなってきたことを物語るものだった。
[2]第1回東西選抜対抗試合の開催
1.東西のチーム編成
●1月末の日本米式蹴球協会の創立時に開催を決めた「第1回東西選抜対抗試合」を、明治神宮外苑競技場で3月24日の春季皇霊祭(春分の日)に開催した。当時の日本のスポーツ界では、「オールスター戦」や「選抜戦」がどのスポーツでも人気を集めており、フットボールにもかねてからその開催への期待があった。関西でも大学のチームは関大のみであったが、神戸外人クラブ、関西フットボールクラブ(KFC:関大OB、関西在住の関東の大学OB)の活動が盛んになり、「全関西」チームを編成できるようになり、日本米式蹴球協会の設立記念ということもあって開催した。
第1回東西選抜対抗試合の編成は、関東は創部準備をしていた日大を含めた6大学と、YC&ACから同チームの主力選手で日本のフットボールの発展に貢献したバッキー・ハリス他2人、関西は関大10人、神戸外人クラブ9人、関西フットボールクラブからのいずれも大学生以外を加えた選抜選手で構成した。ちょうど戦後の1954年に日本フットボール20年を記念して創設された「西宮ボウル」と同じ編成であった
2.第1回東西選抜対抗試合、試合の状況
●当日、「第1回東西選抜対抗試合」の前の第1試合として、関東OB-予科選抜の試合が開催された。関東OBはアメリカンフットボールの大学卒業生に限らず、学生時代ラグビーをしていた新聞記者(当時はラグビー出身の新聞記者が、フットボール競技も担当することが多かった)や一般のラグビー経験者も含まれていた。後者には後に日大の監督になる明大ラグビー部出身、日活の映画俳優の笠原恒彦氏も参加していた。試合は関東OBが予科選抜を下した。社会は大変な時代に向かっていたが、フットボール界に関しては、やはりまだおおらかな時代だった。
東西選抜対抗戦は、関東のバック、関西のラインで五分の予想だった。快晴の明治神宮外苑競技場に25,000人の大観客を集め、関東は四谷側スタンド、関西は青山側スタンドについた。関東の攻撃はシングルウイング体型が主で、守備は三段構えのマイナー・ディフェンスを取り入れるなど、複雑なプレーをこなすようになっていた。
関東は、関西のラインが強力になってきたことを意識し、ラインへの突撃を避け、前パスやラインの左右を大きく迂回するエンドランで攻めた。一方、関西はLHのV・ゾロタエフ、関大コーチのFBレイ・上島(ともに神戸外人クラブ:KR&AC)に関大勢が加わったチーム編成だった。
関東は胡子次郎(明大二年)から内藤幸男(早大三年)へのパス、中村健一(立大三年)のランなどで21-0と圧勝したが、予想以上の観客数を集め、これが日本フットボール普及の大きな第一歩となった。中村は自ら挙げた2QのTDの後のTFPをドロップゴールで決めるなど活躍した(ドロップゴールによる得点は、戦前、戦後を通じてボウルゲームのような大試合での記録はない)。
他校からも注目されていた日系二世の中村健一はこの後、家庭の都合によりハワイへ帰国し、日本でのプレーは見られなくなった。関西では旺盛な闘志でプレーを盛り立てた主将レイ・上島の活躍が光り、関西チーム全体としては技術力の向上が感じられた試合だった。シーズン前の春に開催された東西選抜対抗試合は、本来の時期であるシーズン終了後に開催する方針に基づき、この1938年度は翌39年1月に第2回大会を開催した。(後述)
そして3月、関東の大学はフットボール創成期に活躍した多くの卒業生を送り出した。
[3]春の東西交流戦、関大の対関東初勝利
●関西では1月22日、甲子園南運動場で立大と対戦した関大が6-6で引き分けたのに続き、ついに春の5月15日に関大が部創立以来初の勝利を挙げた。試合は南甲子園運動場で開催された法大戦で、関大の初試合で0-43と大敗した法大に、今度は58-8の完勝を収めた。
関大は、創部以来コーチを引き受けてきた神戸外人クラブのレイ・上島氏の指導が実り、C秋本寅太郎(1939年卒)を中心としたラインが小粒ながら法大ラインを押し、QB岡村重俊(40年卒)、HB佐伯らのラテラルパスや山内正邦(41年卒)、坪井義男(42年卒)らの快足が生きた結果であった。
[4]東京学生リーグ、秋のリーグ戦
1.使用グラウンドとシーズンの前評判
●5シーズン目を迎えた東京学生リーグ。前年、土日に使用できなかった明治神宮外苑競技場は、この年も土日は他の競技団体が使用するため使用できず、やむを得ず平日に使用。後半は前年通りプロ野球のシーズンが終了した後楽園球場で開催することにした(プロ野球シーズン中の秋の前半は、使用できなかった)。
シーズン開幕日の10月10日に全チームによる開会式を開催。日本軍の武運長久を祈って一分間の黙祷をした後、早法戦で開幕した。
優勝争いは依然として早明二校に絞られ、選手数もこの二校が各33、34人と飛び抜けて多かった。このシーズンから全5大学が「片舷強化」(アンバランスドライン)体型を採用したが、早大がT中楯徹(二年)、島村利雄(二年)を中心とする平均19貫(71キロ)の強力ラインを生かしてバック内藤幸男(四年)の突進、福田勝人(三年)、野口久司(四年)のパスを主とした攻撃を展開した。一方、明大はダブルウイングからのB吉本照(一年)の脚力、FB大前保(二年)の突進力が主で、力対技、ライン対バックと対照的な両校だった。
2.関東学生リーグ戦の試合
●開幕の早大-法大は、法大が健闘したが早大のラインが強く、19-0で早大が勝利した。また翌週の明大-慶大は、慶大のパス守備が機能せず、明大が27-0で勝利した。
毎年優勝争いをする明大と早大がこの年も最終戦に互いの優勝を懸け、後楽園球場に5,000人の観客を集めて全勝対決を迎えた。優勝決定戦ということで、フットボール用としてスタンド2階席まで用意した座席は満員であった(一塁側、ライト側外野席は不使用)。
やや劣勢とみられた明大がFB大前保(二年)の中央突破とB吉本照(一年)のキックで7点を先制すると、早大が混乱した。続く2Qには、明大がQB広川良雄(一年)のライン突破、3Qには広川からE町田整治(一年)へのロングパス、そして広川の二つ目の中央突破と連続してTDを挙げ、明大が26-0で完勝。5戦全勝で2年ぶり4度目の優勝を果たした。明大は特にラインの気力でつかんだ勝利だった。終了後、連盟結成の推進役であった明大の松本滝蔵部長は「フットボールの実力は三つの要素がある。第一に意気、第二に意気、第三に団結である。諸君に愛校心はあるか。あるならば行って勝ってこい、と試合前に元気づけた」と番狂わせの裏幕を後に語っている。
2位は早大(4勝1敗)、3位慶大(2勝2敗)、4位法大(1勝3敗、)、最下位は初めて立大(4敗)となった。前年の4位から一つ順位を上げた慶大は藤堂太郎(三年)、田村新(三年)のバックスの脚力を生かす戦法とシーズンを通じての旺盛な闘志が注目を集め、徐々にこれまでの2強の明大・早大に迫り始めた年だった。4位の法大は、体型こそ違えど現在と変わらないダブルリバースを披露し、新聞でも図解付きで報じられるなど話題を集めた。「知恵のスポーツ、フットボール」がプレーに現れた頃だった。
1936年度から毎年、シーズン終了後に東京学生連盟審判委員長の立大体育教授J・アール・ファウラー氏が関東学生のオールスターを発表しているが、早明両大学の選手が占める場合が多く、この年も例外ではなかった。
[5]第2回東西選抜対抗試合の開催
1.東西両チームの編成
●当初の計画で開催時期とされた冬季を迎え、1939年元日に「第2回東西選抜対抗試合」が明治神宮外苑競技場で開催された。関東からは5大学からまんべんなく選手を選出し、またチームが組織化されていなかった東京文理科大(現・筑波大)からFB千輪を加え、それに好選手ハリスら4人のYC&ACの選手が参加した。一方、関西は大学チームの活動はまだ関大のみだったため、前回同様、関大現役選手に関大OB、関西在住の明大OBの畑弘、清水義争、慶大OBの今村得之、神戸外人クラブのゾロタレフら3人を補強したチーム編成とした。
●徐々に人気が高まってきたこともあり、入場券は銀座プレイガイド本店、銀座三越、上野松坂屋、東横デパート、神田三省堂、銀座地下鉄駅前の各プレイガイドおよび神田美津濃運動具店の各所と朝日新聞社本社受付で販売した。入場券は1円(指定席)、50銭(一般席)、30銭(軍人・学生)の3種類だった。
東西両チームともこの試合に対する意気込みは強く、関東は芝公園運動競技場で、関西は関大グラウンドで一か月の合同練習、また朝日新聞は「米式蹴球の見方」を掲載するなど、大いに盛り上がった。第1回大会で3TD差で敗戦した関西は、雪辱に燃えて猛練習を積んでの参加だった。関西は12月31日に東京に入り、日本青年館に宿泊した。
2.第2回東西選抜対抗試合、試合の状況
●キックオフ前には、この頃の常であった皇居・明治神宮遥拝、国旗掲揚の式が行われた。当日は曇天であったが、風もなく天候はまずまず。しかし、グラウンドは霜解けで関東特有の泥濘状態とあって、選手は思うように走れない状況だった。特に霜解けに慣れていない関西チームにとっては、スピードとスタミナの面で大きな障害となった。冬季の関東のグラウンドの天候による泥濘状態は、戦後も1976年に日本で初めて使用された後楽園球場の人工芝が、各グラウンドで普及するまで続いた。
試合は14時、主審(レフリー)松本瀧蔵氏、副審(アンパイヤ)J・R・ファウラー氏、線審(ラインズマン)原氏、計審(バックジャッジ)名護氏の4氏審判の下で開始。試合開始の四谷側の関東のキックオフを、泥濘状態のグラウンドに不慣れな関西がファンブルし、リカバーした関東が第1プレーで福田勝人(早大三年)が中央突破から30ヤード駆け抜け、先制のTDを挙げた。
福田勝人はこの日3TDを挙げ、田村新(慶大三年)の60ヤードの独走TD、ロス(YC&AC)の2TD、笠原恒彦(明大出)の3TDなど豊富なバックが快走して63-0の大差で勝利した。前半まったく前パス(前投球)をしなかった関西側は、後半戦法を変えて前パスを使用し、関東側ゴールラインまで迫るが、TDには至らなかった。試合が進むにつれ、悪コンディションに慣れない関西側は苦しんだが、慣れている関東側には大きな影響はなかった。
この試合で、戦前に日本フットボールが最も華やかだったシーズンは終了した。
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●相手のエンドゾーンへのフォワードバスが不成功になれば、タッチバックとなり守備側の攻撃となったが、この規則が撤廃され、単なるダウンの更新となった。ただし、第4ダウンの場合は従来通り、タッチバックのまま。
●インバウンズラインはサイドラインから10ヤードだったが、15ヤードになった。
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前年1937年7月に勃発した盧溝橋事件を発端として中国軍との本格的な戦闘が始まり、この年には国家総動員法が公布され、以降終戦まで続く戦時状況下・戦時下でのフットボール活動の始まりの年だった。そしてわが国のフットボールの誕生に貢献した日系二世の卒業、およびハワイからの留学生の減少で、各大学とも日本人選手主体のチームとなっていった。日本での競技開始5年目の38年は、戦前で最もフットボール競技活動が盛んな年だったが、また以降の各種の制約下での活動の始まりの年だった。