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INFORMATION ニュース

1939.01.01

1939年(昭和14年) 活動6年目

お知らせ

戦時態勢の影響が強くなり、一部独自の競技規則へ

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月15日

・ 3月27日

・ 5月12日

・ 6月7日

・ 8月31~9月3日

・ 9月3日

・12月15日

・横綱双葉山が安藝ノ海に敗れ、連勝69で止まる

・NHK、有線によるテレビ実験放送を公開。5月13日:無線によるテレビ実験放送を公開

・満蒙国境で日本・ソ連軍が衝突(ノモンハン事件)

・満蒙開拓青少年義勇軍壮行会挙行(明治神宮外苑競技場)

・日満華交歓競技大会開催(満州国新京)

・英・仏・オーストリアがドイツに宣戦布告、第2次世界大戦勃発

・映画「風と共に去りぬ」米国で封切り

・米リデル社、プラスチック製フットボール用ヘルメット完成

フットボール ・ 5月13日

・ 5月27日

・秋

・10月3日

・10月29日

・12月9日

・12月10日

・翌年1月 1日

・翌年1月21日

・第3回関大-立大定期戦(甲子園南運動場)

・早大、慶大が京城(ソウル)へ遠征。早慶戦を開催

・競技規則、日本化への変更(審判員への抗議禁止等)

・東京学生リーグ戦開幕、慶大-法大。全試合、後楽園球場で開催

・第4回立大-関大定期戦(後楽園球場)

・明大-YC&AC(YC&ACグラウンド)

・東京学生リーグ戦閉幕、早大が3回目の優勝(1回の同率優勝を含む)

・第3回東西選抜対抗戦(花園ラグビー場)

・第1回4大学対抗戦、慶大-関大、明大-早大(甲子園南運動場)

 

この年1月に日独伊三国同盟が結ばれて日本の戦時体制はますます強化され、5月にノモンハン事件、9月には第二次世界大戦が勃発した。しかし、競技活動は例年通りに開催され、関東では依然、早大・明大の2強時代が続いた。秋のリーグ戦では、早大が3勝1分けで3度目の優勝(単独優勝は2回目)。その早大と引き分けたのが慶大だった。慶大は明大に敗れたが、2勝1敗1分けの3位。翌年の躍進の前触れだった。関西地区の興隆は、いつも日本協会の願いであり、その一環として第3回東西選抜対抗戦を初めて関西・甲子園南運動場で開催した。

[1]フットボールをめぐる動き

1.競技の日本化

●1940年に東京で開催される予定だった第15回オリンピックが38年7月に返上されたことに象徴するように、非常時においてスポーツは白眼視される時代に突入した。

そのフットボールへの影響が、「競技規則の日本化」と「学生らしい試合をする」であった。37年頃、一部新聞で「グラウンド中央にバケツを運ばせて飲み水を要求したり、観客の面前で寝転んだりすることは、一日本人にとっては全く無作法」と二世選手を批判する記事が出ていた。敵性スポーツの評価と、規律を重視する時代の流れで、日本のフットボール界も、日本独自の蹴球を目指し、(1)審判への抗議の禁止(2)フィールド内の飲料水の搬入禁止(もし必要な場合は審判員の許可が必要)―などが規則となった。その背景には、ラグビーの試合態度を見習うこともあった。

 

そして「アメリカンフットボール」を「米式蹴球」と呼ぶようになった。さらに翌1940年から「鎧球」となった。

●この頃のある大学の記録によれば、一年生の新入部員は、フットボールのルールや戦術の勉強・理解、技術習得、練習以外に、
(1)先輩の練習着の洗濯
(2)練習の合間での風呂沸かし
(3)トイレ清掃
(4)ボール磨き
(5)ダミー運び
(6)試合・合宿の際の防具・用具運搬
(7)先輩からの人生学の教授
などがあり、大忙しだったという。

 

2.公式規則に関する状況

●米国ではヘルメットの着用がこの年、どの選手にも必須となったが、日本では国内の運動具店でヘルメットを制作販売していたが、すべての選手に着用の義務にはならず、任意だった。また米国製のフットボール用具や装具の輸入は、まったくできなかった。

 

[2]初の日本チーム間の海外試合の開催

●1935年春に全米学生蹴球団が来日、翌36年冬には東京学生選抜の米西海岸への遠征があったが、この39年春には日本の2チームが、まだフットボール競技を行っていない現在の韓国に遠征し試合をした。5月、早大と慶大の両校が当時韓国併合で日本統治下となっていた京城(ソウル)に遠征し、両チームの対戦による公開試合を行った。朝鮮半島在住の早慶卒業生および現地の日本人会からの要請に応えるとともに、「銃隊日本青年の精神高揚」の意味もあった。試合は朝鮮新聞社の招待によるもので、同社が現地の滞在費と片道分の交通費を負担。現地の早慶の卒業生も支援し、早慶スタッフの1年前からの開催への努力が実を結んだ。

立大体育教授J・アール・ファウラー氏が引率し、福田勝人早大コーチ(選手兼務)、島本忠治コーチ以下早慶各15人の選手を含めた一行35人は、5月24日に東京を離れ、同26日朝に京城入り。東京駅から下関まで特急で13時間、関釜連絡船で8時間、釜山から京城まで10時間の旅程だった。翌27日17時22分、京城運動場で数千の観客を集め、アジア大陸初のフットボール試合を実施。早大が張博(二年)、福田勝人(四年)の2TDで12-2と勝利した。試合は興行的にも大成功で、試合後に主催者から思わぬ謝礼が贈られ、帰国後に玉澤運動具店への借金の返済に充てられた。日本フットボール6年目にして日本チーム同士が行った国外での初試合だった。慶大は帰途大阪に寄り、関大と対戦。14-6と勝利している。

なお早慶両校は、この試合の52年後の1991年6月に渡米し、それぞれハーバード大、イェール大のコーチ陣の指導を受けた後、ハーバード大スタジアムで海外での早慶戦を行っている。

 

[3]東京学生リーグ、秋のリーグ戦

1.リーグ戦開幕前の状況

●各チームのコーチ、主将、登録選手数は次の通り。

チーム コーチ 主 将 選手数
明 大 町田敏三氏 伴政徳 30人
早 大 福田勝人氏 中山晟 38人
立 大 島袋松雄氏 岸高宜 23人
法 大 梶谷正明氏 中島一嘉 28人
慶 大 島本忠治氏 桑原梓 26人
選手数合計:145人(前年比-5人)

東京学生リーグ戦の秋の後楽園球場開催の入場料は、一般50銭、学生30銭だった。

 

●活動6年目の東京学生リーグは、9月17日に丸の内のアメリカンクラブで理事会を開催。秋のシーズンはすべて後楽園球場を使用することとし、以下の日程を決めた。

日 付 対 戦 会 場
10月3日 慶大-法大 後楽園球場
10月10日 明大-立大 後楽園球場
10月19日 慶大-立大 後楽園球場
10月21日 早大-YC&AC 横浜YC&AC
10月26日 明大-慶大 後楽園球場
10月29日 立大-関大 後楽園球場
10月31日 早大-法大 後楽園球場
11月4日 明大-YC&AC 横浜YC&AC
11月16日 早大-立大 後楽園球場
11月18日 立大-YC&AC 横浜YC&AC
11月23日 明大-早大 後楽園球場
11月23日 関東OB-YC&AC 後楽園球場
11月26日 法大-立大 後楽園球場
11月26日 慶大-関大 後楽園球場
12月2日 明大-YC&AC 横浜YC&AC
12月9日 明大-法大 後楽園球場
12月10日 早大-慶大 後楽園球場
12月16日 慶大-YC&AC 横浜YC&AC

試合相手がいないYC&ACは、これまで同クラブの競技はラグビー、サッカーが主であったが、1934年に急きょ、全東京学生との対戦を行うこととなりアメリカンフットボールのチームを編成。その後、フットボール活動も盛んになり、日本の大学チームとの対戦を多くすることを要望した。それを受けて秋のリーグ戦の合間を縫って、5大学がそれぞれ試合した。また関西唯一の活動チーム、関大が関東のリーグ戦中の10月29日に関東に遠征し、立大と対戦。7-7の引き分けとなった。

 

2.シーズン前の予想

●シーズン前、アサヒスポーツ11月第2号には、次のように報道された。

「立大チームの意気込みは凄い。法大にはバックスに優秀な選手が大勢入った。慶大のラインは強い。早大チームは各ポジションに善い選手が澤山ゐて、第一チームの編成に困難な程だが、誰を出しても得點力の大きなチームができるといひ、さらに昨年度優勝チーム明大には、今年のチームは去年のよりスピードがあって、バックなど完璧に近い」

そして一般紙の予想は、早大はラインが勝り、明大はバックスに強みがあり、おおよその形勢は早大がやや有利とのことだった。この早・明に続くのが「黒馬(当時の新聞報道。ダークホース)」が慶大、法大だった。

 

3.リーグ戦の状況

●後楽園球場を主会場に、10月4日に開幕した第6回東京学生リーグで注目を浴びたのは、強化5年計画の最終年度を迎えた慶大だった。HB藤堂太郎(四年)、田村新(四年)、QB桑原梓(四年)、T福田粲(四年)、山片厚(三年)ら、前年度のメンバー10人が残り、早明二強に割り込む実力は十分だった。また法大も部員50人を擁し、リーグ初制覇の可能性もあった。リーグ戦は開幕戦から後楽園球場を使用することができ、10月4日に加盟5校の校旗を先頭にした入場行進に続き、宮城遥拝、明治神宮遥拝、戦没兵士の英霊に対する黙祷、皇軍兵士の武運長久の祈りなど、時局柄の行事を行って慶大-法大で開幕。慶大が13-6で勝利した。

●第4戦に全勝の慶大と明大が対戦したが、予想に反して大前保(三年)、畑弘(二年)を復活させ補強した明大が26-0と完封勝利を挙げた。

●優勝争いは例年通り、第7戦の早明戦に懸かることになった。両チーム五分の展開で3Qまで0-0。4Qに力が身上の早大がパント体型から福田勝人(三年)が張博(二年)へのショートパスを成功させ、張が70ヤードの独走TDに結び付けた。タイムアップ寸前、明大にゴール前3ヤードまで攻め込まれた危機も、相手のファンブルに救われ、6-0と勝利をつかんだ。この試合の反則は、オフサイドとホールディングが各1回のみで、この頃の試合としては極めて少なく、「日本に米蹴が紹介されてわずか6年で実に立派」と新聞で称賛された。

●最終節の早慶戦では、両チームが得意のプレーを展開し、息詰まる接戦となった。慶大はHB藤堂太郎(四年)の「翼迂回」と「翼迂回に見せて斜後方に大きく走り出し、早大の前衛を引き付けてからの短前投のプレー」などで前半のほとんどを早大陣でプレーするなど健闘した。一方、早大は「前投とみせる構えから、その球を他の者が奪い翼迂回に出る「自由の女神」攻法、キックとみせて短前投によりバックを走らせ、続いてライン・メンを加えたラグビー式パスに移る攻法などの秘術で応酬する展開」で両者譲らず、0-0の引き分けとなった。この結果、早大が3勝1分で1936年(同率)、37年に続く3度目の優勝を飾った。なお、この年、日布時事通信社の後援を得て慶大がハワイ遠征することとなり、新聞発表までされたが、日米関係が微妙な折とあって文部省体育局が難色を示し、実現には至らなかった。

 

[4]関西の活動

1.関大の関東チームとの対戦

●関西で唯一の大学チームである関大は、5月13日に甲子園南運動場で立大と第3回定期戦を開催。1Qに先制した関大は2Qにも2TDを加え、守っても立大の攻撃を完璧に食い止め27-0で完封勝ちし、前年の法大戦に続く部創設2勝目。定期戦成績を1勝1敗1分の五分とした。

また関大は秋季初の関東遠征を実施。東京学生リーグ戦と同時開催で立大、慶大と対戦し、それぞれ7-7、0-19と1敗1引分。さらに3戦目としてYC&ACとも対戦するなど、着実に実力をつけていった。

 

2.関西開催の4大学対抗戦の始まり

●この年、関西でのフットボールの普及を図るため、これまで個別に開催されてきた東西交流戦を定期的な開催とし、東西の「4大学対抗戦」を新たに開催することにした。4大学は、関西が関大のみの活動であるため、関東から3大学が参加、その第1回がシーズン後の絶好の運動日和となった1940年1月21日に甲子園南運動場で行われた。関東から早大、慶大、明大が遠征し、これに関大を加え、慶大・濃紺、関大・漆黒、明大・黒、早大・紅白のユニフォームで4校が行進曲により入場。開会式の後、慶大-関大、明大-早大の2試合が行われた。

慶大-関大は前半両チーム無得点だったが、14-6で慶大が勝利。明大-早大は12-12の引き分けとなった。関大は慶大に4Qに14点を奪われ逆転負けはしたものの、先制TDを挙げるなど着実な成長を示した。この4大学対抗戦は、1942年10月17日に西宮球技場で開催された第4回まで続き、人気を集めた。

●この頃、関東では明大ラグビー部OBの笠原恒彦氏を中心に日大が、関西では、待望の2番目の大学、同大がチーム結成の準備を進めていた。

 

[5]第3回東西選抜対抗試合の開催

●第3回の東西選抜対抗試合は、関西のフットボール普及を目指し、初めて関西で開催した。1940年元日にラグビーのメッカだった花園ラグビー運動場(現花園ラグビー場)で行われ、東西オールスター戦の初の関西開催で大いに話題を集めた。

関東は島本忠治氏(慶大コーチ)を監督に、選手は各大学からの選抜と笠原恒彦氏(明大ラグビー部OB)が加わり、関西は島盛夫氏(神戸外人クラブ)を監督に、関大、関大OB、関東の大学出身で関西在住OB、それに神戸外人クラブから編成した。

前回の第2回大会は霜解けの明治神宮外苑競技場で開催され、泥濘状態のグラウンドに慣れない関西が大敗したが、この大会はグラウンドコンディションも良く、好試合が期待された。

試合は1Qは互角であったが 2Qから関東が得点を重ね、3Qには関東の強力ラインが力を発揮。名桑司(早大二年)、福田勝人(早大三年)、張博(早大二年)の活躍で、32-0で関西を下した。また、ラグビーで人気の慶大-京大が、元日に明治神宮外苑競技場と花園ラグビー運動場で毎年開催場所を交互に開催することから、フットボールの東西選抜対抗試合はその逆の会場で東西隔年開催することを申し合わせた。

 

【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●ヘルメットの使用が必須となった。
●パスの無資格レシーバーは、パスが投げられるまでニュートラル・ゾーンを越えてはならなくなった。従来は越えてもよかった。

 

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この年8月に日本・満州軍とソビエト軍の間で第2次ノモンハン衝突が起き、いよいよ深刻な事態となってきた。ヨーロッパでも9月にヒトラーのナチスドイツがポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発。日本国内でも徐々に食糧事情が悪化し、フットボール活動にも暗い影が忍び寄ってきた。日本陸軍は広大な中国大陸に大軍を送り込み、国内の軍国調はますます拡大され、毎日のように街には出征兵士を送る歌が流れていた。それぞれのフットボールOBもほとんど軍隊に駆り出され、兵役の義務に就いていった。