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INFORMATION ニュース

1940.01.01

1940年(昭和15年) 活動7年目

お知らせ

東西交流活発になるも、戦時下の影響強く、「鎧球」と改名。慶大初優勝。関西地区2大学に

日 付 主な出来事
社  会 ・ 3月28日

・ 4月8日

・ 4月9日

・ 4月10日

・ 6月

・ 6月14日

・ 9月27日

・敵性語追放の動き

・国民体力法公布

・4新聞のニュース映画部門統合、「日本ニュース映画社」発足

・米穀強制出荷命令発動

・第1回東亜競技大会開催(5日から東京大会、13日から関西大会)

・独軍、パリに無血入城、仏政府がボルドーに移転。7月10日:独空軍、英本土空襲開始

・日独伊三国軍事同盟成立

・岸記念体育会館建設(神田駿河台)

フットボール ・ 4月

・ 6月

・ 6月15,16日

・秋

・ 9月20日

・ 9月26日

・10月20日

・12月8日

・12月22日

・翌年1月1日

・関西で2番目の大学、同志社大創部

・関西初の大学チーム間の試合、関大-同大(関大グラウンド)

・皇紀2600年奉祝第1回6人制鎧球大會(明治神宮外苑競技場)

・日大加盟、東京学生リーグ、6大学に

・連盟、競技名を「鎧球」に変更、「日本鎧球協会」へ。競技で使用される用語を日本語化

・東京学生リーグ戦、6大学参加し後楽園球場で開幕。試合記録の集計、発表を開始

・第1回早大-関大定期戦(西宮球場)

・東京学生リーグ戦閉幕。慶大が初優勝

・第2回4大学対抗戦、関大-明大、慶大-早大(甲子園南運動場)

・第4回東西選抜対抗戦(明治神宮外苑競技場)戦前、最後の東西選抜対抗試合

世界の動きもそうであったが、日本をめぐる状況も日々厳しさを増してきた。特に米国スポーツのフットボールへの世間の目も、やや厳しいものがあるように思われ、日本協会も用語の変更などの対応を行った。ただ、このような状況の中で、関東では6番目の大学として日大が、また関西では大学チームとしては待望の同大が加盟し、当時の関係者の熱意が実を結んだ。そして関東では、リーグ制覇を目指して5年計画を立てて実行してきた慶大が初優勝を遂げた。

[1]日本、そしてフットボールをめぐる状況

●欧州での戦火は広まり、日本国内も戦時色が徐々に日常生活に入ってきた。フットボール出身者の召集も始まり、徴兵検査では甲種合格者で入隊する人が多かった。また日米間の雲行きが怪しくなり始め、ハワイや米本土からの日系二世の留学生が少なくなり、フットボール部員にもその影響が出てきた。

●日本フットボール誕生で大きな功績を残した立大体育主事J.アール・ファウラー立大体育教授が8年間の在日生活を終え、帰国した。同氏は来日後、バスケット、レスリング、そしてアメリカンフットボールと、立大スポーツに限らず日本のスポーツ界の世界進出への功労者であった。日本フットボール誕生後は、日本米式蹴球協会審判委員長として活躍し、新聞社の依頼でいろいろな記事を執筆するなど、日本フットボール育成の恩人の一人だった。

 

[2]協会・連盟の活動

●このように活動が徐々に困難になる状況にもかかわらず、関係者の積極的な競技普及活動は続き、関東では日大が正式に創部し、関西にも待望の2大学目となる同大にフットボール部が誕生した。日本協会ではさらに中等学校(現高校)への普及を目指し、日本独自のルールによる六人制米式蹴球(ライン、バックス各3人)を考案。「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」の名称で6月に明治神宮外苑競技場で大会を開催し、全6大学に大学OBチーム、社会人のビクターも加えて計11チームが参加した。この六人制米式蹴球は翌1941年にも開催されたが、以降は戦時に突入して開催できなかった。

●秋季リーグ戦を迎えるにあたって、協会は9月20日、同月26日から開催される秋季リーグ戦より競技名称を「米式蹴球」から「鎧球」(がいきゅう)に改めると発表した。”仮想敵国”名を冠するのは、軍当局を刺激するとの判断から協会が自粛し、自ら改称したもので、ヘルメットの連想からの兜(甲)球の案もあったが、加納克亮理事(朝日新聞記者)の創案した防具のイメージを生かす「鎧球」に決定した。またフットボール用語も日本語化され、「ボールキャリア=搬球者」、「フォワードバス=前投球」、「パサー=投手」、「シングルウイングからのオープンプレー=単翼型からの迂回戦法」と表現された。これらはやはり加納克亮氏の命名だった。

【参考】

アメリカンフットボール競技は、この90年間、数多くの競技名が公・私で使用されてきた。以下は、その用語である。特に競技活動開始の30年間では、いろいろな呼び名があった。

・アメリカンフットボール、フットボール、アメリカン、アメリカンラグビー、アメラグ、アメフト、アメフット、米式蹴球、米蹴、米式フットボール、鎧球、兜球

なお、「ア式蹴球」、「ア式フットボール」は「アソシエーション・フットボール」の略で、「サッカー」を指すので注意。また戦前使用されていた「足球」も「サッカー」指す。

 

この頃の(株)玉澤(東京都牛込区山吹町)のフットボール用品の販売価格は以下の通り。

用 具 価 格
ヘルメット 18円
ショルダーパッド 18円
パンツ 15円
ヒップパッド 6円
ジャージ 8円、11円

[3]日大、同志社大の活動開始、加盟

●戦時色の中にも、日本協会の積極的な普及活動は続き、それが実って関東では前年より明大と合同練習をしていた日大が笠原恒彦氏(明大ラグビー部出身、日活俳優)の指導の下、大量32人の選手で正式に創部し、東京学生連盟に加盟した。これにより秋季は6大学によるリーグ戦となった。

●関西にも待望の二番目の大学として同大にフットボール部が誕生した。関大に遅れること5年。すなわち関大は5年間、関西唯一の大学チームとしての活動を続けていた。

同大は1939年秋、篠山寿彦氏(41年卒)が自費で東奔西走し、伊奈健治、三浦利数(ともに42年卒)の両氏に創部を呼び掛けて集まり、国内は既に戦時色が濃くなってきた時代であったが、当時関西で唯一活動をしていた関大関係者の勧めもあり、40年1月に篠山寿彦氏と三浦利数氏が上京。関東学生連盟のポール・ラッシュ理事長、小川徳治理事と面会し、チーム編成の助言とともに激励を受け、ボールやヘルメット、プロテクター一式を22人分玉澤運動具店に発注した。部員募集の結果、15人ほどが集まり、同大英会話教授・ジョージ熊井氏のコーチを受けて3月に同大米式蹴球部が発足した。

●待望の関西の大学2チーム目の同大の創部に対し、関大は京都岡崎公園に出向き同大・篠山寿彦主将らの同大チームを激励。激しい合同練習も何回か開催し、同大のチーム活動を支援した。6月の同大の初試合となった関大戦は、関大が49-0で勝利し、先輩の実力を示した。

 

[4]6人制蹴球大会の開催

●東京学生連盟は6月16、17日に普及、特に中等学校生徒への底辺拡大を目的に日本独自の六人制米式蹴球を考案。その広報を兼ねた「皇紀二千六百年奉祝六人制米蹴大会」を明治神宮外苑競技場で開催した。

これは前年から準備してきた企画で、1月16日には朝日新聞に次の記事が掲載された。

 

「東京学生蹴球連盟は斯技の発達普及を図り特に中等学校生徒に呼びかけるために4月の新シーズンから「六人制米式蹴球」を案出採用することに決定。委員会を設置して競技規則・用具などの研究を進めていたが成果を得たので近く試験的に試合を行うとともに規則などの大要を発表することになった。六人制チームは前衛三人、後衛三人で編成されフィールドの規格も小さく競技規則も簡略にされ防具なども綿入れ程度の肩当て、ヘッドギアーもラグビー用のもの、ズボンは野球用という工合に簡便され米式蹴球の大衆化をはかるためなるべく入りやすく工夫されているはずである」

 

6人制蹴球は、競技人口のある程度を占めていた日系米国人留学生の減少に備える意味もあり、1月から準備された大会だった。ライン3人(C、E、E)、バック3人(QB、HB、FB)のチーム編成で、フィールドも小さく、防具も綿入れ程度の肩当てに野球ズボンとし、規則も簡略化した競技だった。

●第1回大会には、慶大3チーム、早大2チーム、明大、法大、立大、日大から各1チーム、それにOBクラブ、ビクターと一般からの参加もあり、計11チームのトーナメント戦を開催した。その結果、明大が慶大を7-0で破り優勝。ビクターは早大Bを7-0で破って準決勝に進出したが、優勝した明大に0-25で敗れた。この大会は翌年、第2回大会が開催されたが、以降は時局不安定となり開催中止となった。

東京学生連盟は浅野良三会長名で、競技普及のため各中学に対してこの6人制大会の観戦を呼び掛ける文書を送付した。

 

[5]東京学生リーグ、秋のリーグ戦

1.東京学生リーグの開幕

●9月の東京学生リーグ開幕にあたり、日本協会の浅野良三協会長は開会式で次のような挨拶を述べた。

現下、皇紀二千六百年ノ祝フ可キ又、最モ緊張ス可キ非常時ノ秋ニ際シ、本日、此慮ニ次代ノ日本ヲ双肩ニ擔フ可キ靑年諸子ト共ニ、今季聯盟戦ヲ開キマス事ハ、誠ニ意義アル事ト、御同慶ノ至リニ存ジマス。

度々、申シマス様ニ、當競技ハ、全員一致、忍耐ト努力、及ビ協力ニ依リ、初メテ、其ノ眞價ヲ發揮スルモノデアリマス。

勝敗ノ如キハ、末ノ末ノ事デアリ、其ノ眞價ヲ把握セズシテハ、譬ヘ、勝者トナルトモ、何等賞サル可キモノハ無イノデアリマス。

今更ラ申ス迄モ無ク、我ガ、陸、海、空の将兵ノ方々ハ、滅私ヲ以ツテ、東亜永遠ノ平和ノ為ニ、日夜、努力セラレ、多数ノ護國ノ神トナラレ、又、尠ナカラザル傷痍ノ軍人トナラレテ居ルノデアリマス。

此ノ秋ニ當リ、將來、其ノ偉業ヲ績グ可キ諸君ハ、聊カタリトモ、後指ヲ指サル、如キ行胃爲ノ無キ様、心懸ク可キデアルト信ジマス。

願ワクバ、選手諸君ハ勿論ノ事、御後援下サル諸賢ニ於カセセラレテモ、充分、其ノ精神ヲ認識セラレ、自粛自戒、以ツテ有終ノ美ヲ収メラレン事ヲ切望シ、開会ノ辦ニ代ヘル次第デアノマス。

昭和拾五年九月貮拾六日

日本鎧球競技協會 會長 浅野 良三

2.慶大、初優勝

●東京鎧球リーグは、日大の参加で6大学、選手総数189人の大世帯となり、後楽園球場を舞台に9月26日に開幕した。後楽園球場は本塁からレフトに向けてフィールドを取った。野球のピッチャーマウンドはそのままで使用し、そこで転倒したり、足がもつれたりするプレーヤーが多かった。

7度目の早明の覇権争いと予想されたが、慶大が島本忠治コーチ(米南加大フットボール出身(ガード))の好指導と走・投・蹴そろった日系米国人留学生佐藤洋一(四年)を生かすチームワークを見せ、全勝で初優勝を飾った。創部時に策定した5ヵ年計画が見事に実を結んだ。

●慶大の特徴は守りを重視したことにあり、覇権への山場となった早大戦では、自陣からの攻撃を放棄し、佐藤洋一(四年)のキックで常に早大陣で戦う戦法を披露。要所で佐藤が山片厚(四年、主将)への長いパスを成功させたが、選手兼任が多い中にあって唯一コーチ専任の島本忠治の戦術に負うところが大きかった。前年優勝の早大はT福島勇(四年)、G風早毅一(三年)、HB土佐谷敏夫(三年)ら好選手をそろえながら気力負けし、明大は主力の数人が国際事情により来日できずに戦力低下となった。

また慶大-明大は前半息詰まる攻防の守備戦となり、後半に明大がパス攻撃を展開したが8回中成功は1回のみで、慶大が6-0で勝利した。

●新加盟の日大の初試合は10月31日に後楽園球場で行われた早大戦。日大は4Q、村本敏(三年)が30ヤードの独走TDランで部としての初得点を挙げたが、6-62で敗戦。しかし、その後は加速度的に実力を上げ、法大と13-13で、立大と7-7で2引き分けとし、3敗2分けで5位に食い込んで最初のシーズンを終えた。

●なお、このシーズンより試合記録の集計と発表を開始し、逐一新聞紙上にも掲載された。「記録のスポーツ、フットボール」の最初の試合である早大-立大の記録は、次の通りである。

早 大 立 大
ダウン更新 23 9
突進距離(碼) 431 177
前投完成(試) 5(9) 7(17)
前投距離(碼) 92 96
失落球(※) 2 2
反 則 4 0
※ファンブルによる攻撃権喪失回数

[6]待望の関西の秋の試合

●関西では秋季シーズン中の9月20日に早慶両校を西宮球場に迎え、関大、同大との東西大学定期戦を実施。雨天とあって関大は早大重量ラインに0-29、同大は慶大に0-55と一方的に押し切られた。

しかし、東京学生リーグ終了後の12月22日に甲子園南運動場で開催された第2回東西4大学対抗戦では、関大が明大に12-7と関東の強豪校を破る宿願を達成した。1Q、関大はHB山内正邦(四年)の中央突破で先制すると、明大は和田陸太郎(二年)のオフタックル・プレーで同点。和田から浜崎近男(二年)へのパスのトライで7-6と逆転すると、3Qにオープンから中央攻撃に戦術を変え、HB山内がE幸亨の好援護を受けて40ヤードの独走TD。これが決勝点となった。このときの関大の監督は、戦前戦後を通じて明大フットボールを率いた大阪転勤中の花岡惇氏だった。同時に開催された早慶戦は、慶大が19-0で勝利した。

●この年創部した同大の活動を支援するため、秋季に各大学が積極的に同大と対戦した。いずれも西宮球技場で、9月25日に関大と0-69、10月20日に慶大と0-55、早大と0-29と同志社大は3敗したが、貴重な支援となった。

 

[7]最後の第4回東西選抜対抗試合の開催

●シーズン最後を飾る「第4回東西選抜対抗試合」は翌1941年元日、明治神宮外苑競技場で開催。関西からは新たに同大の選手も加わり、4Qに山内正邦(関大四年)が東西選抜対抗試合の関西チーム初得点を挙げる粘りを見せた。関東は先制TDを記録した佐藤洋一(慶大四年)がE富田善臣(慶大三年)、山片厚(慶大四年)へもTDパスを投げて1Qに20点、2Qに19点を挙げて前半で39-0と大量リード。後半関西が健闘したが、46-12で4連勝を遂げた。

1937年度から東西の選抜戦として開催されてきた「東西選抜対抗試合」は、東西のフットボール興隆と発展に寄与し、多くの話題と観客を集めたが、41年の第5回大会は戦争に突入したため中止となり、この第4回が最後の大会となった。オールスター戦は戦後の48年1月18日の「第1回ライスボウル」まで、8年間の空白となった。

 

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日大の関東6番目、同大の関西2番目の加盟で、リーグ拡大の念願がかなった年であり、また関東では慶大の初優勝と新しい時代を感じさせる年となった。しかし、日本フットボール6年目のこの年は、徐々に盛んになってきた競技活動がやや下向きになりかけたときでもあった。創成期に活躍した米国人指導者の帰米やハワイからの日系二世の来日急減もあり、国内関係者によるリーグ活動を厳しい環境の中で行わなければならない最初の年だった。