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INFORMATION ニュース

1941.01.01

1941年(昭和16年) 活動8年目

お知らせ

第二次世界大戦の影響が強まる中、関学大創部、関西学生リーグ誕生。関大、初のリーグ戦を制す

日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月1日

・ 2月

・ 4月1日

・ 7月1日

・ 7月11日

・12月8日

・12月24日

・映画館でニュース映画の上映義務化。12月27日:米映画の日本国内での上映禁止発表

・瑞穂公園陸上競技場完成

・国民学校令施行

・米、世界初のテレビ放送開始

・文部省、府県間の試合等の禁止(9月に一部緩和)、運動部は「学校報国団組織へ改組」

・真珠湾攻撃、日米開戦。日本、戦争に突入

・文部省主管「大日本学徒体育振興会」発足

フットボール ・ 2月11日

・ 5月31、6月7日

・ 6月7日

・ 9月20日

・10月3日

・10月18日

・11月16日

・11月16日

・12月9日

・翌年1月25日

・関西で3番目、関学創部。5月25日:関学加盟記念試合、関学-同大(関学大G)

・第2回関東6人制鎧球大会開催、一般・学生・中学の3部門(早大東伏見G)

・関西鎧球連盟結成記念試合、関大-同大、関学大-関西地区OB(西宮球場)

・第1回関学大-関大定期戦(関大G)

・関東大学リーグ戦開幕、慶大-立大(後楽園球場)

・初の関西学生リーグ開幕、関大-同大(甲子園南運動場)

・関東大学リーグ戦閉幕、明大5回目の優勝(1回の同率優勝を含む)

・関西学生リーグ閉幕、関大が記念すべき年の優勝

・ポール・ラッシュ博士、敵国人収容所に収容

・第3回4大学対抗戦、明大-関大、慶大-関学大(甲子園球場)

 

国際情勢が風雲急を告げた年だった。制約や制限も多くなりフットボール競技活動も大きな影響を受け、連盟の活動を支える役員、チームのコーチ陣、指導者等には活動に大きな制約を受けた。日本アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士も敵国人収容所に収容された。しかしながら、関西では前年の同志社大に続く3番目の大学チームとして関西学院大が創部。関学大の活動開始で、関西における待望のリーグ戦が開催できた。

[1]日本、そしてフットボールをめぐる状況

1.ポール・ラッシュ理事長の収容

社会情勢が厳しくなる中、夏の全国中学野球大会は中止され、学生スポーツの府県をまたがる合宿や遠征、試合が文部次官通達で禁止された。この通達は9月に緩和され、隣接県への異動は可能となったものの、東西交流を進めてきたフットボール界の競技活動に大きな影響を与えた。

東京学生連盟は「関東学生鎧球競技連盟」と名称を変更したが、ポール・ラッシュ理事長は日本の真珠湾急襲の翌日の12月9日、自宅に警察官が来て連行されたものの、立大チャペルへの立ち寄りはでき、聖壇の前で祈りを捧げた後、田園調布のカトリック系女学校「菫(すみれ)家政女学園」の敵国人収容所に収容され、自由が束縛されることとなった。

また普及や発展の核であった小川徳治理事(立大教授)も関東軍特別大演習要員として満州に召集され、さらに南方へ従軍と、日本フットボール誕生の功労者、選手が次々に戦争による影響を強く受けていった。理事長代行に立大ラグビー部出身(主将)で朝日新聞記者として広く競技活動を報道し、運営面でフットボールの活動に加わってきた加納克亮氏が就任した。

戦時統制が厳しくなり、前年から米の配給制となった12月、ついに日本はハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入した。

 

2.運動競技への制約

●夏の全国中学野球大会が中止とされ、学生スポーツ界は同一県外の対抗試合や合宿、遠征が文部省次官通達で禁止された。(9月に緩和され、隣接府県の対外試合のみ可となった。ただし、アメリカンフットボールに限れば、東西間の試合は1942年10月の東西4大学対抗戦まで東西間の試合を行っており、なぜ開催できたのか、この次官通達との関係は不明である)

10月3日に後楽園球場で6大学のリーグ戦を開始したが、平日の開催がほとんどであった。

 

[2]関西3番目の大学チーム、関学大の創部

●競技開始から8年目にして暗黒時代を迎えた日本フットボール界だが、そのあくなき前進は続いていた。関東では日大を加えた6大学でリーグ戦を開催。関西に3番目の大学として関西学院大が、当時、各大学の運動部で一般的な「報国団」の名称を入れた「関西学院報国団鍛錬部鎧球倶楽部班」、班長松沢兼人氏、監督兼主務川井和男氏、幹事長井床國夫氏、部員20人ほどで正式に発足した。

●関学大創部のきっかけは、前年1940年秋に関大-同大を観戦した川井和男氏、井床國夫氏、布谷武治氏がその後、大学に働き掛け、許可を得て4月に関西鎧球連盟に正式加盟。創部の中心だった川井和男氏が上京し、ポール・ラッシュ博士と会い、その紹介で日本協会会長の浅野良三氏から当時として大金の2,000円の寄付を受け、防具・ユニフォーム22人分を制作。5月25日に橙色のジャージを着用して関学大グラウンドで加盟記念試合を一年先輩の同大と行った。夜来の雨は止んだものの、季節はずれの寒風の中の泥交じりの試合となり、関学大が0-20で敗北している。関学大はこの64年後の2005年5月22日、東京都調布市のアミノバイタルフィールドで開催された関学大-明大定期戦前に、浅野良三氏ご家族を招き感謝式を開催し、当時の支援への御礼を行った。

 

[3]第2回関東六人制大会の開催

●関東では、一般への普及を目指し、5月末から6月上旬にかけ、早大東伏見グラウンドで第2回関東六人制鎧球大会を開催した。前年の第1回大会は全11チームのトーナメントであったが、この年は一般、学生、中学の3部門を設け、学生の部には六大学現役、OBに瑞穂学園(横浜の日系2世の中学)も加わり16チームが参加の盛況。決勝では一般がビクター13-6三洋商会、学生が明大イ26-6日大、中学が瑞穂学園18-0青山学院中等部の結果となった。連盟は翌年も開催する予定であったが、スポーツ活動困難な状況となり、この第2回大会が最後となった。

 

[4]公式規則関連 (変更等)

●東京学生連盟では、フォワードパス(前投球)攻法の普及を計り「従来のスクリメージ・ライン後方5ヤード以上後退した位置から投げる」という制限を撤廃し、「スクリメージ・ライン後方ならばどこからでも投げられる」(現在と同じ)とした。この変更は、米国での改正に先がけて採用したものだった(NCAAは1945年にこの規則に変更)。

 

[5]東京学生リーグ、秋のリーグ戦

●当時は試合開始前、両チームが整列して皇居に向かって宮城遥拝を行っていた。暗雲が垂れ込める国際情勢の下、活動は続けられたが、競技場の自由な使用が困難となり、秋のリーグ戦も平日に開催せざるを得ない状況となった。

●シーズンの天王山となった明大-慶大は、10月22日15時から後楽園球場で開催。前年覇者の慶大は多数の卒業生を出し、予想では互角と思われた。しかし、この年の明大はライン、バックスとも強力で、1Q8分、慶大の反則から敵陣5ヤードまで進み、FB小花弘(三年)の強引な中央突破で先制。続いて12分にLH和田隆太郎(三年)のオフタックルで二つ目のTDを挙げた。以降、守備では慶大の反撃を抑え、24-0で明大が勝利し、リーグ優勝に大きく近付いた。この試合で明大の小花は99ヤードのインターセプトリターンTDを記録した。これまでの独走記録は、前年1940年の早明戦での藤本(早大)の75ヤード独走であった。

明大は、全試合に勝利し、3年ぶり5回目の覇権となった。和田、福永幸夫(一年)、川島信雄(二年)、小花を中核に完璧な攻守と充実した気力で”史上最強”(「アサヒスポーツ」)と評される好チームだった。

●2位には前年の立役者佐藤洋一を帰米で失った慶大が茨木、田沢康正(四年)の駿足を生かしたチームワークを見せ、日大と明大に敗れたものの3勝2敗。健闘したのは加盟2年目の日大。笠原恒彦監督の熱心さと多い部員数が練習の励みとなり、B古谷義雄(三年)、B金榮換の両選手を中心に慶大と立大を破り、早大と引き分け、2勝2敗1分けで4位となった。シーズン最終日の日大-早大は時局の影響で開催中止となり、法大が2勝3敗、早大と日大が2勝2敗無試合で並び、立大が5敗で終わった。

 

[6]関西学生リーグ戦

1.関西鎧球連盟の体制

●関西鎧球連盟の組織は、次の通りであった。

「昭和16年度 関西鎧球連盟役員」

役 職 氏 名
会 長 (空席)
名誉会長 花田正人
理事長 賀来俊一(関大教授)
常任理事 柳瀬兼助(関大部長)、岩井邦治(関大OB)、速水栄助(同大部長)
中川巌(関大OB)、榎本喜一(関大OB)、坪井義男(関大OB)、篠山壽彦(同大OB)
理 事 深井敏雄(関大OB)、斎藤宗光(関西クラブ)、難波行豊(関西クラブ)
幸亭(関大OB)、吉岡常雄(関大OB)、古山茂樹(関大OB)
島崎隆夫(関大OB)、山上鎭彦(関大OB)、轟實太郎(関大OB)、小川貞夫(関大OB)

2.初の関西3大学対抗戦

●関西では、文部省次官通達の県外間試合禁止の令が9月に隣接県間の試合は可と緩和されたことから待望のリーグ戦が可能になった。関西フットボールリーグの開始を記念して、関大、同大、関学大の3大学はこの最初のリーグ戦の前に、「関西3大学対抗戦」を開催。その後に正式な関西学生リーグ戦を、関西在住OBのチームを加えた4チームで開催、とやや変則的な最初のシーズンだった。

10月18日から甲子園南運動場で開催した関西3大学対抗戦では、10月は関大が出場する2試合のみが行われ関大12-0関学大、関大26-0同大と関大が連勝。関学大-同大は11月2日からの関西学生リーグ戦が終了した翌1942年1月11日、やはり甲子園南運動場で開催し、関学大13-12同大となった。

●11月2日から西宮球技場で開催した関西学生リーグ戦は
・関大26-6関学大、関大20-13同大、関大38-0関西OB、関学大20-13同大、関学大12-8関西OB、同大25-0関西OB
で、1位関大、2位関学大、3位同志社大、4位関西OBとなった。

 

関大は、伝統の左翼迂回戦法(左スイープ)で一日の長をみせ優勝、2位には同大に逆転勝ちした関学大が入った。リーグ戦として各種の媒体で記録が残されているのは、10月18日から開催された関西3大学対抗戦ではなく、この4チームで11月2日から開催した関西学生リーグ戦である。

関西学生リーグの最初の試合を記念した記念碑が後年、1997年9月6日に改修工事が終わった関西フットボールの「聖地」西宮球技場に建立された。

 

[7]東西選抜対抗試合の中止と四大学鎧球大会開催

●恒例だった東西選抜対抗試合は、太平洋戦争の開戦直後とあって中止となったが、1942年1月25日に第3回4大学鎧球大会が甲子園南連動場で開催され、東西の交流は継続した。従来、関東から3大学が関西に遠征し、1試合は関東同士の試合であったが、関西リーグの発足により、両リーグ1、2位校の対戦とすることとし、関東からは明大と慶大が遠征した。文部次官通達により対外試合は隣県までとされていたが、なぜかこの4大学戦は開催できた。

東西リーグ2位同士の対戦は、慶大が20-0で関学大に勝利。優勝校同士の対戦は明大が圧倒的な中央突破やQB下垣のパス攻撃で39-0と関大に完勝し、前年度の雪辱を果たした。

 

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●スクリメージキックをキックした側のプレーヤーが相手の10ヤードラインを越えた地点でボールにタッチすれば反則で、タッチバックとなる。

●1938年の変更で、例外だった「第4ダウンの相手のエンドゾーンへのフォワードバスが不成功の場合はタッチバックとなり守備側の攻撃」が、この例外が撤廃され、第1~第3ダウンと同様、単なるダウンの更新となった。

●夜間の試合では、黒の2本の線を入れた白いボールを使用してもよいとなった。

●前・後半のラスト2分では、攻撃側がプレーヤーの交代のためのタイムアウトを、各チームに与えられている3回のタイムアウト以外に取れることになった。

●入ってくる交代選手は、フィールドキャプテンの承認を得てから味方と話すことができた。違反は15ヤードの罰則。

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

ついにこの年12月8日の日本海軍の真珠湾急襲、その後の陸軍のマレー半島の進撃開始により米国と全面交戦状態に入り、武道関係を除く他のスポーツ競技活動が徐々に制約されていった。アメリカンフットボールも同様であった。