太平洋戦争が深刻化する中、大学生及び専門学校の学生を早く徴兵するため学制が改革され、繰り上げ卒業などで大学スポーツの活動継続がますます困難となった年だった。文部省の指導により、繰り上げ卒業するため、年に春・秋の2シーズン制がスポーツ界に求められ、フットボールもその対応をした。
1942.01.01
お知らせ
繰り上げ卒業など、活動環境が厳しくなる。春季リーグ開催。秋は戦前最後の公式戦を開催
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 3月21日
・ 4月8日 ・ 4月18日 ・ 7月16日 ・11月22日 ・12月31日 |
・大日本武徳会結成
・大日本体育協会改組、「大日本学徒体育振興会」発足。競技団体は解消し振興会の部会に ・空母発進の米陸軍機、東京・名古屋・神戸などを初空襲 ・ホロコースト。ナチス、占領下の仏でユダヤ人13,000人を一斉検挙 ・ドイツ、スターリングラードでソ連軍に包囲される ・大本営、ガダルカナル島撤退を決定 |
フットボール | ・ 4月
・ 4月18日 ・ 4月~5月 ・ 6月17日 ・10月3日 ・10月10日 ・10月17日 ・10月31日 ・11月27日 |
・関東、関西で社会人(大学OBなど)の鎧球倶楽部連盟設立
・早大-日大戦の試合中に東京空襲(ドーリットル空襲)。グラウンドから一時退避 ・初の春季リーグ戦開催、関東、明大優勝。関西、関大優勝 ・ポール・ラッシュ博士、浅間丸で離日、米国へ ・関東大学秋季リーグ戦開幕、早大-日大(明治神宮外苑競技場) ・関西学生秋季リーグ戦開幕、関大-同大(西宮球技場) ・第4回4大学対抗戦、早大-関大、慶大-同大(西宮球技場) ・関西学生秋季リーグ閉幕、関大2回目の優勝 ・関東大学秋季リーグ閉幕、明大6回目の優勝(1回の同率優勝を含む) |
太平洋戦争が深刻化する中、大学生及び専門学校の学生を早く徴兵するため学制が改革され、繰り上げ卒業などで大学スポーツの活動継続がますます困難となった年だった。文部省の指導により、繰り上げ卒業するため、年に春・秋の2シーズン制がスポーツ界に求められ、フットボールもその対応をした。
[1]日本、そしてフットボールをめぐる状況
1.繰り上げ卒業とその影響
●大学生は1942年秋、43年春と2回に分けて繰り上げ卒業することとなり、それに伴って文部省の指導により、大学スポーツは春季、秋季の2シーズン開催することとなった。「秋のシーズン制」を基本としてきたフットボールも、初めて関東、関西ともに春・秋の公式戦を開催。また、あらゆる学生スポーツが「大日本学徒体育振興会」によって統一指導されることにもなった。
2.ポール・ラッシュ博士の帰国
●拘留されたポール・ラッシュ博士が6月17日、最後の日米抑留者交換船・浅間丸で帰米。日本鎧球協会は一部組織改編と役員改選を行い、「関東学生鎧球競技連盟」の理事長には、1934年の競技開始時から精力的に活動を推進した松本瀧蔵氏(明大教授)が就任した。また関東、関西に社会人を対象とした「鎧球倶楽部連盟」が新設され、新設の関東鎧球倶楽部会長には澤田廉三氏(戦後の国連大使)が就任した。競技活動を継続するために、関係者の努力が続いた年だった。
●早大東伏見で開催された慶大-明大で、澤田美喜氏(戦後に児童養護施設エリザベス・サンダース・ホームを設立。京都大で創部した初代主将沢田久雄氏の母)が看護婦数人を連れ、競技での負傷者の介護をした。
3.装具・競技施設等
●この頃の米国製の装具・防具は次の通りだった。
・ショルダーパッドは、外皮で内側に少し厚い白色のフェルトの裏打ち
・ヘルメットは革製で内側に放射状に薄い剛性の平鉄板が8枚ほどあり、両耳の部分が少し膨らんでいる。フェイスガードはなし
・ヒップパッドは、布製の腰巻状でそう厚手ではない
・パンツは綿ギャバで中に細長い鉄の平板をフェルトで覆ったものが数枚縦に入り、膝頭に椀状のパッド
・ジャージ、スパイクは国産品や国内調達ものが多かった
[2]東京学生リーグ、初の春のリーグ戦
1.早大-日大での空襲避難と春のリーグ戦
●学制変更による繰り上げ卒業の関係で、秋をシーズンとする競技は春季も開催することとなり、他の競技と同様、アメリカンフットボールも関東、関西の両地区で、この年初めて春季にリーグ戦を開催した。
4月18日に明治神宮外苑競技場で初の春季リーグが開幕した関東鎧球リーグだが、開幕日にえび茶のユニフォームの早大と、当時既に赤のユニフォームとなっていた日大の試合中に、米軍による初空襲(ドーリットル空襲)を受け、選手が観客席下に避難。明治神宮外苑競技場には当時の日本軍の高射砲があり、空襲に対応して日本軍が反撃の砲撃を行う状況となった。この試合の結果記録は残っておらず、おそらく中止となったと思われる。
春の公式戦の山場となった早明戦は、快足・小花弘(四年)を擁する花岡監督率いる明大が圧倒的有利の予想であったが、両者は6月1日に後楽園球場で対戦。早大が前半終了間際に自陣30ヤードから鳴海米生が投じたパスを吉野譲が敵陣20ヤードでキャッチし、先制のTDを挙げる。しかし、明大は経験豊富なラインが早大を押しまくり、19-6で逆転勝利した。負傷交代者は明大が7人で早大が5人。早大の鳴海米生は3回も失神するという壮絶な戦いだった。困難な状況で、試合環境は日増しに悪化。ついにシーズン最終の2試合は中止となり、リーグ戦の結果も不明な点が多い。
現在、記録として残っている試合結果は、実施予定全15試合中12試合。その結果では明大4勝、慶大3勝1敗、早大2勝2敗、立大1勝1敗1分、法大1勝4敗、日大1分3敗であり、明大-立大、日大-早大、明大-立大の試合結果は不明である。明大-慶大は明大が25-0で勝利しており、明大が秋のリーグ戦を含めれば、6回目の優勝を遂げた。
[3]関西も初の春のリーグ戦
●関西初の春季リーグは関大、同大、関学大の3大学で、5月18、25、30日に西宮球技場で開催。関大20-7同大、関学大38-6同大、関大36-7関学大となり、関大が2勝して2連覇。関学大が2位の座を守った。
●公式戦として春季リーグを開催したのは関東はこの年だけ。関西はこの年と戦後1946年の2回のみである。
[4]東京学生リーグ、秋のリーグ戦
●関東の秋季リーグは10月3日に開幕。11月27日の最終節まで明治神宮外苑球技場、早大東伏見グラウンドなどで開催された。
優勝は明大。開幕戦で立大と0-0で引き分けたが、以降勝ち続け、最終戦でそれまで全勝の慶大に6-0の僅差で勝利し、4勝1分で無敗優勝を果たした。2位は慶大が4勝1敗で続き、以下は早大が3勝2敗、立大が1勝2敗2分、法大が1勝4敗、最下位は日大で4敗1分。立大-日大は0-0の引き分けとなり、フットボールでは珍しい両チーム無得点の試合が、このシーズンは全15試合中2試合もあった。
[5]関西リーグ、秋のリーグ戦
●関西では10月10日から31日にかけて西宮球技場で秋季リーグ戦が開催され、関大18-15同大、関大12-0関学大、同大12-0関学大で、関大が3連覇。そして、これが関東・関西を通じて、戦前最後の公式リーグ戦となった。
●なお、このシーズン中の10月17日に慶大と早大が関西に出向き、関大、同大との第4回東西4大学対抗戦を西宮球技場で開催。慶大59-0同大、早大45-0関大と関東勢が完勝した。前年から続き、依然として隣県を越える対外試合は禁止されていたが、この年も東西間の4大学戦は開催された。明日をも知れぬ時代でのフットボールへの情熱がしのばれる。しかし、この年のこの2試合が、東西交流が密だった競技活動の戦時下最後の東西交流戦となった。
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戦争状態での活動は徐々に大変となり、また国の方針もあって、困難を極めた。普及および存続を図るために2年前の春に開始した六人制鎧球大会はこの年は開催できず、在学生の早期兵役を目的とした繰り上げ卒業に対応した春季公式戦が初めて関東、関西で開催された。競技活動や部の存続を懸けて関係者の努力が続いた年だった。6月に日本アメリカンフットボールの父・ポール・ラッシュ博士が敵国人交換として離日し、関係者と惜別した。そのときは同博士と3年後に再会し、フットボール活動の再開にともに尽力するとは、誰一人思わなかったのではないだろうか。