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INFORMATION ニュース

1943.01.01

1943年(昭和18年) 活動10年目

お知らせ

戦争激化、活動10年目で競技活動中断

日 付 主な出来事
社  会 ・ 2月2日

・ 3月2日

・ 3月29日

・ 9月23日

・ 9月24日

・10月16日

・10月21日

・10月31日

・12月10日

・スターリングラード攻防戦でドイツ軍がソ連軍に降伏

・敵性語追放により、スポーツに限らず全面的日本語化

・文部省「戦時学徒体育訓練実施要項」通達

・女子による勤労挺身隊の動員開始

・学徒の体育大会を全面禁止

・野球、出陣学徒壮行早慶戦開催(戸塚球場)

・学徒出陣壮行式(明治神宮外苑競技場)

・後楽園球場、場内鉄製椅子18,000脚供出

・文部省、学童の疎開を促進

フットボール ・ 5月23日

・ 7月

・日本協会「フットボール活動の休止、海軍闘球の採用」を決定。アメリカンフットボールの存続を図る

・軍部命令により各競技の運動部は解散。日本フットボール、10年目にして活動休止

 

競技活動10年目を迎えた。本来はその10年目を祝う年であった。しかしながら戦時下では、依然として敵性スポーツのアメリカンフットボールの活動は困難な状況であり、関係者は競技の存続を図る施策の実施が精一杯で、10周年記念行事は何一つできなかった。またスポーツ界全体の活動も困難となり、柔剣道、相撲、野球および雪上総合戦技、障害物競走・土のう運搬競争などの戦技や国防競技などが行われるのみだった。

[1]日本、そしてフットボールをめぐる状況

●この年、すべてのスポーツは日本名に変えられた。スキーは「雪艇」、スケートは「氷滑」、陸上ホッケーは「杖球」、ラグビーは「闘球」、ハンドボールは「送球」となった。3月29日、文部省は「戦時学徒体育訓練要綱」で柔道、剣道、弓道など戦技以外の運動をすべて禁止した。突然の発表だった。

●鎧球の存続を図る「日本鎧球協会」は5月25日、東京に役員と各校主将を集め、緊急事態への対応を協議した。その結果、以下のことを決定し、フットボール競技の将来への継続を図った。

(1) アメリカンフットボールと各大学米蹴部を存続させるため、戦況好転までフットボールを一時休止して海軍闘球に転向すること。ただし、全面的に中止すると自然消滅する恐れがあるため、年に二、三回の試合をすること
(2) 現役学生のみで東西統一の海軍闘球連盟を設立
(3) 海軍闘球研究会の設立(顧問および幹部に海軍航空隊の佐官級を置く)
(4) 大学海軍闘球部員により海軍闘球を中学校と実業団に普及
(5) 海軍側の依頼により各校でルール改正を研究する
(6) 試合を軍隊式で行う

 

[2]存続の手段、海軍闘球の競技参加

●海軍闘球は、1942年に海軍航空隊教官の堺和明大尉が創案した。旺盛な闘争心を養うために、ラグビー、鎧球(アメリカンフットボール)、蹴球(サッカー)の要素を混合した集団競技で、飛行予科練習生の訓練に用いられた。東西各大学フットボール部はそろって土浦航空隊を訪問。土浦航空隊からは海軍闘球の実技紹介があり、米式蹴球(鎧球)側からは明大-慶大のアメリカンフットボールの対戦で紹介した。土浦航空隊の関係者は、フットボールの激しさに驚いたという。

関西3大学は6月20日に三重の津航空隊に遠征。関学大-関大・同大連合軍による鎧球の紹介試合を行った(連合軍12-0関学大)後、初の闘球試合を行った。闘球には不慣れだったが、3-3の引き分けだった。

●しかし、1943年3月に文部省は「戦時下学徒体育訓練要綱」で柔道、剣道、弓道などの戦技以外のすべての運動を禁止、さらに7月10日、軍部命令により、各大学運動部は解散させられ、以後終戦を迎えるまでの2年間、すべてのスポーツ、そしてスポーツ紙・誌は日本国内から姿を消した。

●翌1944年2月の卒業予定の四年生は、この年9月に繰り上げ卒業し、在学生は全員、学徒動員令で軍隊に招集された。これらの状況を受け、互いにキャンパスが隣接する慶大と法大は6月に多摩川河川敷で長年愛好してきたアメリカンフットボールの解散式を兼ねた最後の親善試合を開催し、活動に幕を降ろした。

 

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アメリカンフットボールも1934年の誕生以来10年目にして活動中断となり、多くの卒業生や学生が戦場に向かった。卒業生に限らず、現役部員も軍の予備学生や幹部候補生に志願していった。そして多くのフットボール関係者が海外の戦闘で、あるいは国内の空襲で命を落とした。