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INFORMATION ニュース

1949.01.01

1949年(昭和24年) 活動16年目

お知らせ

関学大が関西リーグ初優勝と全国制覇、以降33年の連続関西制覇の開始。幻の全日本選手権計画

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 4月4日

・ 4月25日

・ 8月

・ 9月7日

・10月7日

・11月3日

・11月26日

・11月

・米国を中心に北大西洋条約を調印。NATO発足

・1ドル=360円の単一為替レート実施

・水泳、古橋廣之進氏、全米選手権で3種目の世界新記録

・ドイツ連邦共和国(西ドイツ)発足

・ドイツ民主共和国(東ドイツ)発足。ドイツの東西分裂が確定

・湯川秀樹博士、日本人初のノーベル賞受賞

・日本プロ野球、2リーグ分割を決定

・後楽園競輪場開場

・大日本体育会が「日本体育協会」に改称

フットボール ・秋

・11月24日

・12月18日

・翌年1月4日

・関西学生リーグ、関学大優勝。以降33年間のリーグ優勝の始まり

・関学大-米軍キャノニールス戦(福岡平和台球場)

・第4回甲子園ボウル、関学大が慶大を下し初優勝

・第3回ライスボウル、関西選抜初勝利

 

関係者の組織や要員、施設等が徐々に充実していき、戦後の復興と競技再開の基盤が整い、関東・関西の活動の仕組みが再構築されてきた。さまざまな活動が動き出し、観客も増え始めた。当時のスポーツ界で競技活動が入場料で賄えるのは、野球、水泳、ラグビーとアメリカンフットボールくらいであった。一番の問題はグラウンドの確保であり、また協会幹部は米軍が進駐しているこの時期に普及を進めるべきとのことで、いろいろな対策と米軍との協力関係の強化が行われた。

[1]主な出来事

1.力から技術、戦略・戦術の重要性

●関学大が甲子園ボウルで初優勝を飾り、以後33年間に及ぶ関西の王座独占を開始した年となった。

●秋季リーグ戦はこの頃から、米国の情報を基にこれまでの「力」に加えて「采配、技術、戦術」の重要性が認識され始め、各チームのコーチ陣の充実もあって熱のこもったシーズンとなった。米国からの情報はこの年から立大監督に就任したドナルド・オークス氏、ともに日系2世の明大・花岡惇氏と法大・保科進氏らを中心に伝えられた。これらのコーチ陣の持つ情報と知識は自己のチーム内のみならず、オールスター戦の練習などを通じて他校にも伝播していった。米国の最新情報が徐々に日本にも入り始めた頃だった。

 

2.フットボール15周年の記念行事

●この年は日本フットボール誕生以来15年経過の年であり、それを記念してOBチームも含めたトーナメント戦を東西で行い、その勝者が対戦する待望の「全日本選手権」が春季に開催されることとなった。

●関東では卒業生を含めた6大学が、関西では4大学にA.F.Cを加えた5チームが参加。関東は5月上旬から芝パーク競技場で、関西は4月中旬から西宮球技場でトーナメントを開催した。関東地区決勝では全明大が全慶大を19-0で、関西決勝では関学大が同大を14-13で下してそれぞれ優勝を果たしたが、東西優勝校による全日本選手権は中止となった。理由は不明である。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●コーチ、トレーナー、交代選手は、試合中、椅子に座っていなければならなかったが、これが撤廃され、チームエリアを自由に動き回ることができるようになった。
●フリーキックでクリッピングが禁止された。スクリメージ・ダウンでは、攻撃側の中央のラインマンを中心に横4ヤード、縦3ヤードで囲まれる区域(クリッピング・ゾーン)以外でのクリッピングが禁止された(注:クリッピングは1920年に規定されたが、49年までは「プレーから離れたプレーヤーに対してのみ」が禁止されていた。この年から、現在同様「プレー中の相手」に対しても禁止された)。
●従来は、前半(2Q)、後半(4Q)のラスト10分および5分にレフリーから告知がされていたが、それが前後半の「ラスト4分」になった。

 

[3]関東・秋のリーグ戦

●秋季リーグ戦は、「力」に加えた技術、戦術の重要性が認識され、各コーチ陣の充実もあって、熱のこもったシーズンとなった。

●関東では10月3日に芝公園運動競技場で行われた早大-立大を皮切りに開催し、コーチ陣の充実で立大、法大が力を付け、シーズン半ばには全勝チームがない戦国リーグとなった。最終的には慶大がFB藤本武の抜けた穴を藤堂太郎監督、島本忠治コーチを中心に、QB服部太郎(三年)の好采配とラインのまとまりで埋め、4勝1敗で2連覇した。早大は井上素行、鳴海米生両コーチの下、FB渡辺行庸(三年)、HB河西和泉(二年)を生かし、同率の4勝1敗となった。同率となった場合の順位決定方法を協議した結果、リーグ戦最終日から甲子園ボウルまで日がないことから、前年度順位で慶大を1位、早大を2位とし、慶大が甲子園ボウルに出場することとなった。

3位に浮上した立大は、米国聖公会から派遣された新任のドナルド・オークス監督(立大神学部教授)にダートマス大仕込みのツープラトン制など、最新技術を叩き込まれ、明大戦では7-6で1934年の創部以来初めて明大から勝利を挙げた。明大には花岡惇、法大には保科進と、戦前からの”二世”コーチがチームを率いた。

成 績 チーム 勝 敗
優勝 慶 大 4勝1敗
2位 早 大 4勝1敗
3位 立 大 3勝2敗
4位 明 大 2勝3敗
5位 法 大 1勝3敗1分
6位 日 大 4敗1分

[4]関西・秋のリーグ戦

●関学大はQB米田満(三年)、G渡辺年夫(四年)、T鳥内隆一(四年)、E井床由夫(三年)のベテラン陣に、この春、高校フットボール創始高だった府立池田高、府立豊中高、県立奈良高から古川明、徳永義雄、鈴木博久、藤井浩月、高橋治男らの強力選手が入学。練習量に加えてチームワークも完璧で、シングルウイング体型からエンドラン、リバースのプレーを使って新人快足トリオを生かした。

●関西では西宮球技場、京大グラウンドなどで開催。春季に関西初制覇で勢いに乗った関学大が的を絞った雨中の関大戦に一年FB徳永義雄が90ヤードのインターセプトリターンを含む3TDなど大活躍。C堂本武男(二年)の守備力、FB大西博史(三年)の突進に賭ける関大を26-0と完封し、初優勝を果たした。2位には京大が浮上。G稲波一、G湯浅ら海兵出身の旺盛な闘志の持ち主らの活躍で関学大から途中2度もリードを奪い、最終スコアが13-19と肉薄する健闘だった。関学大は府立池田高、府立豊中高のタッチフットボール経験者が多く、その後続く33年連続優勝の開始の年となった。優勝関学大(3勝)、2位京大(2勝1敗)、3位関大(1勝2敗)、4位同志社大(3敗)

 

[5]第4回甲子園ボウル

●12月18日、好天に恵まれた「第4回甲子園ボウル」は、戦前から対関西の大学に無敗の慶大と新興関学大の対戦となった。

1Qから関学大が重量ラインの威力と”百万ドルバックス”と日米親善試合(11月24日、福岡・平和台)で名付けられた米田満(三年)、徳永義雄(一年)、鈴木博久(一年)、竹内昇(四年)、藤井浩月(一年)、高橋治男(一年)の快走などで計4TD。慶大の反撃を服部太郎(三年)のTDと中津川常雄(弟・二年)のTFPの7点に抑えて25-7で勝利し、見事に初優勝を飾った。

重量ラインに支えられた関学大が次々と繰り出すシングルウイングからのランプレーを、慶大は止めることができなかった。また関学大は、米軍から伝授された当時としては珍しいダブルリバースからのパスが効果を上げた。

●この試合、まだ防具が完全ではない時代で攻守フル出場の選手も多く、「戸板に乗る者が続出(失神してフィールド外に出される者が続出)」だったという。関学大はこの年が1956年までの8年間に全国制覇6回のスタートの年で、チーム歌「ファイト・オン・カンセイ」もこの年から使用された。

●一方、慶大はこの試合の敗戦が、戦前・戦後を通して関西地区での試合の初めての敗戦だった。試合終了後、球場内で両校参加の交換会が開かれ、カレーライス、コーヒー、みかんを食べながら互いの健闘をたたえ合った。しかし負けた慶大は、「必勝」を豪語して大会に参加したこともあり、翌日、大阪・心斎橋の理髪店で全員丸刈りにして帰京した。

 

[6]第3回ライスボウル

●1949年1月4日の「第3回ライスボウル」は、主催を日本フットボール協会としてナイルキニック競技場で5,000人の観客の下で開催された。始球式は元オールアメリカンのジム・ターレー中尉(GHQヘッドコーチ)が行って話題となった。この試合は、全関西が戦前を含めての初勝利となり、関西のレベルアップを実証する好試合となった。

試合は2Q、関東がQB河西和泉(早大二年)のスイープで先制すれば、関西はFB高橋治男(関学大一年)からQB米田満(関学大三年)へのパスが成功して追い付く。3Qに関西のLH徳永義雄(関学大一年)がTDを挙げれば、関東はQB佐々木太郎(早大・旧二年)が中央突破で返し、3Q終了で13-13。試合終了間際、関西は高橋がLE井床由夫(関学大三年)へ40ヤードのパスを通し、井床からラテラルを受けた米田が残り20ヤードを走り切る劇的なプレーで19-13。戦前の試合も含めて7戦目で東西選抜対抗の初勝利を挙げた。勝因は重量ラインと強力バックスの威力を十二分に発揮し、お家芸の俊足による左右のエンドランプレーが効果的だったことであった。新聞報道では、「昭和13年(注:第1回東西選抜対抗戦)以来の初の勝ち星」と記事になった。

 

[7]高校タッチフットボールの活動

1.山口東高の活動開始

●関東・関西以外にこの年(または1948年後半?)に中国地方の山口東高(注:50年に山口西高と統合し、現在の山口高となる)がアメリカンフットボールの活動を開始した。日本の高校で初めての「タックルフットボール(=アメリカンフットボール)」の部であった。初代監督は43年日大卒の松山一也氏で、同氏の精力的な活動で49年12月16日に広島県総合グラウンドで米軍成増ハイスクールと最初の試合を行い、7-15で敗れた。山口東高は53年まで活動を続けた。

 

2.史上初の国内高校アメリカンフットボール試合

●山口東高-米軍成増ハイスクールの試合の少し前、10月22日に都立十中(現都立西高)の第3回学園祭で、都立十中(監督:平山清太郎氏)-早大学院(監督:渡邊行康氏)がアメリカンフットボールで対戦。「史上初の日本の高校間のアメリカンフットボールの試合」で、都立十中が27-7で勝利した。防具は十中が日大から、早大学院は早大から借用した。同試合の審判員は早大米蹴部審判団の佐々木太郎、田谷武、丸山譲、西田茂八郎の各氏が務めた。

 

3.第3回高校タッチフットボール王座決定戦

●第2回を迎えた高校の甲子園ボウルでもある東西タッチフットボール王座決定戦は、大学と同時出場した慶応高が県立奈良高を6-0で破り、初優勝を遂げた。この年4月、関学中(現関学高)に陸上、野球に続く3番目の運動部としてタッチフットボール部が設立された。初試合は11月3日、大阪・北陵中と対戦し、19-6で関学中の勝利。関学中はユニフォームを大学チームから借りて出場した。

 

[8]国際試合

●甲子園ボウル前の11月24日、関学大は福岡に遠征し、平和台陸上競技場返還記念・感謝祭記念として米軍福岡砲兵隊「キャノニールス」と戦後日本チーム初の日米親善試合に出場した。試合は7-27で関学大が敗れたが善戦、健闘した。関学大はこの試合で多くのことを学び、以降新戦法の研究と重量チームに対する経験を兼ねて在日米軍との試合を重ねるが、その始まりとなる試合だった。

 

★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)

●1949年シーズンの想い出
「前に関大に負け2位に甘んじていたが、昭和24年に新進気鋭の新一年が大量入部、精神面技術面を再検討、練習量の増大を繰り返し、関西初優勝、感無量だった。甲子園では開始直後に13点をとり、甲子園初優勝の記録もつけ加えようと無我夢中で全力傾注した」(関学大1950年卒・RG・主将渡辺年夫)

 

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4大学でリーグ戦を開催する関西学生リーグで、関学大が初優勝。甲子園ボウルでも慶大に圧勝し、関西学生リーグ33連覇の最初の年となった。関学大は試合相手を求め、積極的に関東の大学や米軍との対戦を組み、そこから得るものを吸収する方針と仕組みを確立。「準備のスポーツ・アメリカンフットボール」の活動スタイルが始まった年だった。