ついに立大T攻撃が全国制覇を成し遂げた。オークス監督の下、導入2年目にしての快挙で、各チームが立大に習い、T体型は急速に普及。近代フットボール時代の幕開けとなった。また戦後初めて全日本チームが編成された。直近の全日本チームは15年前、1936年の米本土遠征チームであったか、関東・関西からの選抜で、「関西を含めた全日本チーム」は戦前・戦後を通じて初の編成だった。
1951.01.01
お知らせ
T体型の立大、初の甲子園ボウル制覇。近代フットボールの幕開け。神戸ボウル誕生
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 3月4日
・ 4月19日 ・5月8日 ・ 5月13日 ・ 6月21日 ・ 7月16日 ・ 9月8日 |
・第1回アジア大会開催(ニューデリー)
・ボストンマラソン、日本初参加の田中茂樹氏優勝 ・IOC、日本の再加盟を決定 ・ラジオ体操復活 ・日本のユネスコ正式加盟承認 ・日米陸上競技大会(ナイルキニック競技場) ・日本、連合国48か国との講和条約調印、また米国との安全保障条約締結 |
フットボール | ・ 3月
・12月9日 ・12月16日 ・翌年1月1日 |
・第1回長浜ボウル(後の長浜ひょうたんボウル)開催
・第6回甲子園ボウル、立大が関学大を下し初優勝。NHK、毎日放送、朝日放送がラジオ中継 ・戦後初の全日本チーム、全日本学生-米軍京都キャンプ(西京極運動場) ・第1回神戸ボウル開催(全星稜高-全兵庫高) |
ついに立大T攻撃が全国制覇を成し遂げた。オークス監督の下、導入2年目にしての快挙で、各チームが立大に習い、T体型は急速に普及。近代フットボール時代の幕開けとなった。また戦後初めて全日本チームが編成された。直近の全日本チームは15年前、1936年の米本土遠征チームであったか、関東・関西からの選抜で、「関西を含めた全日本チーム」は戦前・戦後を通じて初の編成だった。
[1]主な出来事
●近代フットボールの幕開けとも言われた年だった。日本フットボール創始校の一つ、立大は関係者が日本での競技活動の開始や、戦前の活動困難な時代に協会活動の継続と発展に中心となっていたが、競技力で言えばさほど強くはなく、リーグ戦の成績は後に競技活動を始めた法大、慶大、日大より下位に甘んじることが多かった。
しかし、1949年に就任したドナルド・オークス監督の下で、初めて関東大学リーグを制覇した。本場米国の経験を生かし、フットボール競技や試合における戦略、戦術の重要性から練習し、作戦を考え、ついに関東大学リーグのトップに躍り出た。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●この頃、関東連盟では米軍から40組の防具の払い下げを受け、これを20組に分けて各大学の夏季合宿で順に使用させた。タックルの練習に使用するダミーはおが屑を入れたもので、当たると目から火が出るようで、一瞬息が詰まるようなものだった。関東勢は関西遠征の際、米1升を持参した。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●チームタイムアウトの後の計時開始はスナップからとなった。
●フェイス・マスクの着用が必須となった。
●前年削除されたフェアキャッチの規定が復活した。
●不正なシフトの反則に対する罰則が、15ヤードから5ヤードになった。
[3]春季活動
●T体型の立大が春季に関西遠征し、同大、京大、関学大を連破したのをはじめ、東西交流や駐留米軍との交流が活発に行われた。後楽園、西京極、花園、神宮と東西の主要競技場にフットボールの衝撃音が響き、立大は6月にGHQがナイルキニック競技場で開催した在日米軍向けの講習会に出席し、陸軍士官学校コーチ(主任講師は後のNFLグリーンベイ・パッカーズ監督のビンス・ロンバルディ氏)の指導を受けて多くの最新技術や戦術の知識を得た。このクリニックへの参加が、その後の日本フットボールに大きな影響を与えた。
●6月、「甲子園ボウル」、「ライスボウル」に続くわが国3番目のボウルゲーム「長浜ひょうたんボウル」の第1回大会が滋賀県連盟の奥川直助氏、𠮷川太逸氏を中心に長浜北高グラウンドで開催され、中学は長浜南中が彦根東中を、高校は彦根東高が八幡商高をそれぞれ破って優勝した。この試合は3月に西宮球技場で開催された「第1回近畿ジュニアタッチフットボール大会」(参加校:長浜四中、関学中、大阪・北陵中)で長浜四中が優勝した記念に創設されたボウルゲームで、以降も続いて開催された。
[4]関東・秋のリーグ戦
●「フットボールナイター」が9月14日にナイルキニック競技場で、大阪警視庁-A.F.C、関大-早大(第3回定期戦)の対戦で行われた。
関大-早大は戦後初のナイター試合であり、観客が5,000人だった。16時開始の大阪警視庁-A.F.C戦は、大阪警視庁が眞鍋浅吉監督と選手26人、A.F.Cは花岡惇監督と関東6大学のOB選手26人で、ラインプレーが強い大阪警視庁が21-7で勝利した。19時開始の関大-早大定期戦は、関大が坪井義男監督と選手22人、早大が中山晟監督と選手44人。早大がラインプレーで関大を圧倒し、60-13で3連勝とした。
●関東大学リーグは9月29日に後楽園競輪場で開幕した。3連覇の偉業を達成した慶大はこの春、大量の卒業生を送り出し、下馬評では影が薄かった。優勝候補は早大とT菊池靖(旧二年)、G藤村博三(旧三年)、B山下進(旧二年)の好ラインをそろえた明大と見られていた。しかし、シーズンが始まると、早大は法大の新人で固めたラインに押し負け、得意のT体型からの攻撃を抑えられて19-32で逆転負け。同日開催の明大-立大は、スピードの立大が力はあるものの出足の遅い明大を圧倒。1QにLH中澤貞夫(三年)が中央を突破して80ヤード独走のTDを挙げて先制すると、その後も明大を圧倒して27-13で勝利した。リーグ戦は波乱の幕開けとなった。
慶大はまとまりあるラインとQB永田正夫(四年)、HB菅原甫(四年)の気力が充実して3勝を挙げた。一方、ドナルド・オークス監督就任3年目の立大は、使い慣れたT体型からのランとパスを生かして一戦、一戦勝利を収め、第4節に慶大との全勝対決を迎えた。
開幕前、ともにBクラスと予想された両チームの対戦は、慶大が先制したが、立大はじっくり攻めて前半で同点に追い付くと、後半に2TDを挙げて21-7で快勝した。立大は安本鐵司(四年)、川崎佐司(四年)、宮川一郎(四年)のラインが正確無比なブロックを見せ、QB野村正憲(三年)が冷静に指揮し、HB中澤貞夫(三年)の巧みな走りもあって”完璧なT”を展開。3年目の5-3守備も機能して全試合に完勝した。ドナルド・オークス監督は米国で高校時代にフットボール経験があり、1949年に来日。たまたま立大の練習風景を見たことが、監督に就任したきっかけだった。
1934年に活動を開始した日本のフットボール1期生の立大は、戦前・戦後を通じて初の関東大学リーグ制覇となった。この頃の新聞の関東地方のスポーツ欄は、関東大学リーグ戦の結果は写真付きの記事で報道されたが、リーグ戦各週の予想も3段記事で掲載された。ようやくマスコミの報道が、戦前の30年代後半頃の扱いになってきた。
[5]関西・秋のリーグ戦
●関西は例年通り西宮球技場で秋季リーグ戦を開催。関学大は甲子園ボウル2連覇を達成した大黒柱が大量に卒業し、最上級生四年が来住義明(主将)ただ一人だったため春は不振だったが、秋は豊富なメンバーと体力、技術などで他を寄せ付けなかった。
関学大はこの春から採用したT体型を徐々に身に付け、京大、関大、同大に完勝。1949年の同大戦からリーグ戦無敗の9連勝とし、3連覇を成し遂げた。関大はQB堂本武男(四年)が中心のチームで、T体型の同志社大もHB庄野裕作(二年)に頼り過ぎて関学大との差は離れるばかりであった。関大-同大は6-6で引き分けとなり、ともに同率2位。京大は3校に大敗し、最下位の4位だった。この年の部員数は関学大33人、関大25人だった。
[6]関西社会人・大阪警視庁の活動
●約2年前に創部した大阪警視庁が12月16日、大阪球場で第2回大阪ボウルとして全大阪(大阪在住の大学OBチーム)と対戦。26-13で勝利し、着実な進歩を見せた。
[7]第6回甲子園ボウル
●12月9日の「第6回甲子園ボウル」(この年から表記が従来の「甲子園バウル」から「甲子園ボウル」に変更された)は初出場の立大と関学大の対戦で、T対シングルウイング、技術対力と、互いの誇りを懸けての好試合となった。
関学大は前半からパスプレーを多用したが、敵情偵察済みの立大はフローティング、ゾーン守備のオクラホマ5-4の体型を使用し、関学大のパスを12回中1回の成功に抑えた。立大は確実なをシリーズ更新を積み重ねる攻撃で、LH中澤貞夫(三年)、RH平野煕一(四年)、さらに中澤がTDを挙げて3Qまでに19-0とリード。関学大はシングルウイングから伝統のオープンランで1TDを返して反撃開始。すると、次の攻撃ではQB武田建(二年)、HB中川逸良(二年)、長手功(一年)によるT体型に変更。武田の頭脳的な作戦で中川がTDし、TFPは武田がキックを決めて19-14と5点差まで猛追した。
さらに、波に乗った関学大は最後のプレーでLH鈴木博久(三年)、RH段中貞三(三年)、RE二宮哲夫(三年)、LE今井信吉(三年)とボールをつないで立大エンドゾーンに迫ったが、ゴール前3ヤードのところで試合終了となった。
立大の勝因は、T体型からの着実なラン攻撃で、一方の関学大は敵陣内で5度もパスをインターセプトされてチャンスを失った。この試合で関学大はスポッターを採用。スタンド上段にスポッターを配置し、電話回線で立大の弱点をベンチに伝え、終盤の猛追を実現した。NHK第二放送、新日本放送(現MBSラジオ)、朝日放送と計3局がラジオ中継した。
[8]第5回ライスボウル
●1952年1月5日の「第5回ライスボウル」は「技の東か、力の西か」との前評判で、快晴微風の絶好のコンディション下、接収が解除され、名称も以前に戻った明治神宮外苑競技場に5,000人の観客を集めて開催された。
関東は花岡惇氏(明大OB)が、関西は井床國夫氏(関学大OB)が監督としてチーム編成。関東は前半終了間際、自陣40ヤードからの攻撃でスナップバックをHB増田守邦(法大四年)がジャッグルしたが、これがかえって関西のラインのタイミングを外し、そのままオフタックルを走り抜けて20ヤードをゲイン。最後は増田のオフガードでTDし、これが前半唯一の得点となった。
後半、関東は前半の苦戦からラインのクロスチャージを採用。徐々にT体型の効果が出始め、3Q10分には、高橋治男(関学大三年)のパントを受けた菅原甫(慶大四年)が相手のタックルをかわして70ヤードのリターンTDで追加点。守備陣もT井上柳一(明大三年)、T菊池靖(明大二年)、B森本祐司(日大三年)、L井島重人(慶大三年)の堅い守りで関東が20-7と勝利し、2年連続4勝目とした。
[9]その他のボウルゲーム
●1952年元日、第1回神戸ボウルが神戸村野工業高(現・彩星工科高)グラウンドで、県立星陵高-県立兵庫高の現役・OBチームによる親睦対抗戦として開催された。前日の大晦日、豪雨の中で石灰を使用したライン引きなどグラウンドの準備を行い、試合当日も降り続く冷雨で泥田と化したグラウンドで壮絶な戦いとなった。試合は、全星陵高が後藤俊明(OB・法大)のTDで6-0と勝利した。
この試合、日本にアメリカンフットボールを普及させた功労者の一人である米田満・米田豊兄弟、県立兵庫高の牧田隆(タック牧田:後に関学大でプレーし、卒業後にNFLを中心に写真を撮影したフォトグラファー)が中心となって企画された。両チームの防具類は県立星陵高が、グラウンド関連は県立兵庫高が準備した。大変なグラウンドコンディションで開催されたこの試合、関係者はめげることなくその後も継続して開催し、2回目からは神戸新聞社が後援した。大変な天候の下で開始した神戸ボウルはその後、大きく発展していった。
[10]高校タッチフットボールの活動
●第4回高校王座決定戦は、関学高が創立時の中学部メンバーが主力となり、慶応高に29-0で完勝した。
[11]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●前年、朝鮮戦争の勃発で中止された在日米軍との試合は、この年はまだ朝鮮戦争は終結していなかったものの復活し、各地で試合が行われた。秋のシーズンの合間を縫って、関学大と大阪警視庁が神戸ベースの米軍コブラズや佐世保海兵隊との試合を行った。結果は以下の通り。
日 付 | スコア | ||
9月29日 | 神戸ベース | 26-0 | 関学大 |
10月27日 | 神戸ベース | 45-0 | 大阪警視庁 |
11月10日 | 佐世保海兵隊 | 13-7 | 関学大 |
関東では11月13日にナイルキニック競技場で関東学生がアメリカンスクール成増と対戦し、20-13で勝利した。
●甲子園ボウルの1週間後の12月16日、「日米親善 西京極運動場返還記念 對抗米式蹴球試合」として、京都の西京極運動場の日本への返還を記念した「全日本学生選抜対米軍キャンプ京都選抜」の親善試合が行われた。
この試合は戦後初の全日本の編成であり、また日本学生選抜は関西の学生も含む戦前・戦後を通して初めての「全日本」であった。ドナルド・オークス監督(立大)、井床國夫助監督(関学大)が攻守ツープラトン制でチームを編成。立大7、関学大6、同大5、慶、明、関大各3、早、京、日各1と全校選手が顔をそろえて総勢30人。QB野村正憲(立大三年)に中澤貞夫(立大三年)、HB段中貞三(関学大三年)、HB山下進(明大旧二年)の快足バックを擁したT攻撃が主体となった。
平均82キロの相手に前半は0-6。後半に入るとランプレーが効果を発揮し、HB中澤貞夫(立大三年)の右オフタックルで同点とすると、B河西和泉(早大四年)の15ヤードエンドランで全日本が勝ち越した。4Q、米軍が再逆転して迎えた終了2分前、全日本は中澤の2ヤードランで再々逆転。5,000人の観客を狂喜させ、18-13で勝利した。試合には米軍楽隊が参加し、パレードと演奏で観客を沸かせた。
この試合、日本の対戦相手は当初、目黒、成増、横浜の米国ハイスクールのオールスターで、試合のポスターにも「在日米高校オールスター」として広く広報されたが、開催日直前になって米軍京都キャンプに変更された。当日、入場者に配布されたプログラムは正しい対戦内容が間に合い、「全日本学生選抜-米軍キャンプ京都」と掲載された。
●この年まで、戦後の日米交流(米国側は在日米軍、在日ハイスクール)は関学大が3度、山口東高が2度、明大、立大、大阪警視庁が各1度であった。戦後直ちに日本国内で米軍内の競技活動を始めた米軍は、この米軍京都キャンプ戦をきっかけに日本チームと対戦することが多くなり、1950年代から70年代にかけて日米の交流が盛んに行われた。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●1951年シーズンの想い出
「部員は多くて25人位、スクリメージは組めなかったし、オークス監督独特のEのみの守備に対し、攻撃はダウンフィールドブロックの練習が多かった。甲子園ボウルでは19−0の後、少人数と負傷者(試合前にレギュラーに5人)のスタミナ切れで急迫を許した。勝てて感無量。全日本の主将に選ばれたのも個人的に印象に残る。(立教1952年大卒・RT・主将・野呂(旧姓川崎)佐司)
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監督らしい監督、ドナルド・オークス氏の登場で、日本フットボールは、T攻撃全盛の近代フットボールの時代を迎えた。