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INFORMATION ニュース

1952.01.01

1952年(昭和27年) 活動19年目

お知らせ

立大が連覇。明治神宮外苑競技場返還、記念試合開催

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 2月28日

・ 3月20日

・ 3月31日

・ 4月28日

・ 5月19日

・10月14日

・日米行政協定調印

・米、日本との平和条約を批准

・明治神宮外苑競技場、講和条約発効前に進駐軍から接収解除

・サンフランシスコ講和条約発効、連合国総司令部活動終了

・白井義男氏、ボクシング世界フライ級王座に

・国際連合、ニューヨークの本部ビルの利用開始

フットボール ・春

・ナイルキニック競技場、日本返還。記念試合として、その後、定期戦として続く大学の試合を開催

・1936年の発行に続き2冊目となる公式規則書「公式フットボール競技規則書」発行

立大が前年よりさらにラインを充実させたT体型で、関東大学リーグで他大学を圧倒し、甲子園ボウルも危なげなく制覇。トリックプレーがなく、プレー数も少ないと言われた立大は、基本に忠実であるとの評価が高かった。一方、関西は関学大が2位以下を寄せ付けず、関学大の一段の進歩ができない状態と言われた。ちょうどラグビーもこの頃、関東と関西に大きな力の差があり、フットボールもラグビーと同じだと言われた。

[1]主な出来事

●この年、日本協会事務所は東京都港区(芝海岸通り1-15)に置かれた。(理事長:服部慎吾氏)

●この年の春、前年のサンフランシスコ講和条約締結に伴い、それまでナイルキニック競技場として使用されていた明治神宮外苑競技場が日本に返還された。日本協会では立大-同大、早大-関大、法大-関大、関学大-明大など8試合を開催し、返還を祝った。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

●この年、1936年発行以来2回目の完全翻訳版「公式フットボール規則」が発行された。沖健吉委員長(慶大OB)の競技規則制定委員会(井上素行(早大OB)、服部慎吾(立大OB)、桑原梓(慶大OB)、坂本三郎(明大OB)、山内正邦(関大OB)、坪井義男(関大OB)、井床國夫(関学大OB)の各氏)が2年をかけ、全米大学体育協会(NCAA)発行1949年版「フットボール・オフィシヤル・ガイド」の翻訳を果たし、1952年度から適用した。日系二世早大卒の井上素行氏がNCAAから取り寄せ、委員会で作業した。

 

[3]春季活動

●関東では春季、前年のサンフランシスコ講和条約に基いて駐留軍から返環された明治神宮外苑競技場(前ナイルキニック競技場)で返還記念試合として高校、大学の東西定期戦が開催された。同大-立大、関大-早大、法大-関大、関学大-明大の定期戦が主体で、関学大-明大を除いて関東側の圧勝だった。

 

[4]関東・秋のリーグ戦

●前年まで3年間、リーグ戦の勝利がなく慢性的部員不足だった日大は、新たに竹本君三氏を監督に迎えて4か年計画を策定。その第1弾として付属高を中心に徹底した部員獲得に乗り出した。その結果、20人の新入部員を獲得し、笹田英次、小島秀一、篠竹幹夫ら四年時に甲子園ボウル優勝(同率)に輝くことになる部員が新入生として入部した。その後の強豪チーム、日大の始動だった。

●関東の秋のリーグでは、明治神宮外苑競技場を3年ぶりに主会場に使用した。白色にユニフォームを変えた立大が、洗練された攻守で危なげなくシーズンを乗り切り、甲子園ボウル2連覇を成し遂げた。前年はバックス主体のチームだったが、この年はC蕪木吉雄(三年)、LE宮川一郎(四年、主将)、RE弘田舒春(四年)らのラインが強力になり、また1軍と2軍の差が縮まり、部全体のチーム力が向上した。

立大はシークエンスに則った戦術展開や絶妙なタイミングとスピード、正確で粘り強いダウンフィールドブロックなど近代フットボールの特徴を完璧に身に付けた。加えて、5-2オクラホマ守備の導入やキッキング戦術の向上、選手交代制限緩和を利用した「ツープラトン制」の採用など、次々と技術の近代化を実施していった。ただ、この時代のツープラトン制は実力が近い選手を2人あるいは2チーム編成するという、制約が緩和されてきた交代制を活用したもので、攻撃専門、守備専門の選手で試合に臨む形ではなかった。攻撃、守備の専任によるチーム体制の採用は、1960年代中ごろまで待たなければならなかった。

捕球と守備に優れたE宮川一郎(四年)主将以下、T神子光(三年)、C蕪木吉雄(三年)のライン、名QB野村正憲(四年)、2年連続関東リーグ最優秀選手のHB中澤貞夫(四年)ら史上に残る選手も多い。

●T体型からの攻撃を本格的に駆使する立大の甲子園初制覇の影響で、各校はこぞってT体型を導入し始めた。法大は再建5か年計画の2年目を迎え、米国の情報や技術をいち早く取り入れた保科進監督の下でリーグ2位の躍進を遂げた。小坂安宏(三年)、木村和夫(三年)の重量ラインを抱えているとはいえ、ほとんどが無名選手。選手の水準に合わせ、基本的なシングルウイング攻撃の徹底を図った保科監督の指導が実り、明大、早大、慶大に粘って勝利し、2位となった。

明大はHB山下進(三年)を中心に粘って3位。4位とBクラスになった慶大はG井島重人(四年)、武宮菊男(二年)の中央を生かすべく、日本初のI体型を展開。対立大には4-4守備を見せるなど新技術の導入を図った。しかし、やはりドナルド・オークス監督率いる立大には及ばなかった。

 

[5]関西・秋のリーグ戦

●関西は前年来のメンバーが残る関学大が、2位となった同大に26-0、3位の関大に59-0で圧勝し、京大には不戦勝の3戦全勝で優勝。T太瀬重信(三年)、G尾田升(四年、主将)に段中貞三(四年)、高橋治男(四年)、中川逸良(三年)ら層の厚いバックス陣で、伝統のウイングバッグ体型に加えてスプリットTにも取り組んだ。

2位の同大は、前年度のメンバーが多く、新たにT体型を採用した。創部時に海軍兵学校出身者が多かった京大は、関大に6-59で大敗した後、徐々に欠員が多くなり、同大戦、関学大戦は棄権することとなった。京大の苦しい時代で、この年の関西学生リーグは4試合のみと寂しいシーズンだった。関学大は試合数が少ないことから、シーズン中に米軍キャンプ奈良と2回、キャンプ神戸と1回の試合を行った。

 

[6]社会人の活動

●11月9日、大阪・馬場町グラウンド(現:難波宮古墳跡)で第3回大阪ボウルを開催。大阪警視庁が全大阪(大阪在住の大学OBチーム)と対戦し、ライン中央が強固な大阪警視庁が13-7で前年に続いて勝利した。

馬場町グラウンドでの試合後、全大阪チームはグラウンドから大阪駅まで護送用トラックで送ってもらった。降りるときに、大阪警視庁の人から周りにも聞こえるような大声で、「もう戻って来るんじゃないよ」と言われたという。

●大阪警視庁はこの秋の関東大学リーグの最終節に、明治神宮外苑競技場で全法大と対戦(既に法大は前週でシーズン終了)。1Qに全法大が3TDを挙げて一方的な試合かと思われたが、体力に勝る大阪警視庁は徐々に追い上げ、4Q終了直前にQB小野からLE岡本へのパスが決まり、岡本は80ヤード独走して逆転のTDを挙げ、大阪警視庁が26-19で勝利した。OBを加えているとはいえ、関東学生2位の法大に勝利と、唯一社会人で活動する大阪警視庁の勝利は大きな話題となった。

 

[7]第7回甲子園ボウル

●「第7回甲子園ボウル」は12月7日に甲子園球場で開催。ドナルド・オークス監督率いる新しい白のジャージの立大が、完成されたT体型の攻撃でTDを重ね、関学大に得点を許さず、20-0で2回目の優勝を飾った。

立大は近年の活躍で部員数も40人を超え、攻守で選手を入れ替えるツープラトンを採用した。試合は立大がT体型、関学大がスプリットTとシングルウイングの併用で、試合開始のキックオフをレシーブした立大・野村正憲(四年)がハーフラインまで戻し、最初の攻撃シリーズでFB由家康喜(二年)の左オフタックルでシリーズを更新。次のプレーでLH杉原佳男(四年)が中央を突破して試合開始わずか3プレーでTDを挙げた。

立大はさらに2Qと3Qにも杉原佳男(四年)と中澤貞夫(四年)のランでTDを重ね、ウイング体型からのパスに頼った関学大を、ラインのE宮川一郎(四年、主将)、神子光(三年)の活躍で無得点に抑えた。1932年ロサンゼルス五輪の陸上三段跳びの金メダリスト、南部忠平氏が開会の挨拶を行った。

 

[8]第6回ライスボウル

●「第6回学生選抜対抗ライスボウル」は1953年元日、明治神宮外苑競技場で開催された。関東の監督は再び花岡惇氏(明大OB)で、関西は山内正邦氏(関大OB)だった。このシーズンの甲子園ボウルで立大が関学大に快勝していることから、関東が有利との予想だった。両チームの一軍の選手も立大と関学大を中心に編成され、試合は予想通り関東の圧勝に終わった。

関東、関西ともにT体型の対戦となったが、関西のT攻撃が消化不良であるのに対し、関東は1QにQB野村正憲(立大四年)が巧みにフェイクを入れてからのE宮川一郎(立大四年)への20ヤードTDパスで先制。2Qには中澤貞夫(立大四年)のラン、さらに法大躍進の推進役でリーグ模範選手となったHB増田守邦(四年)がFGを決めるなど着々と加点した。関東は守っても関西のパントをブロックするなど、攻守に関西を圧倒し、結局43-0と第2回大会の52-0に次ぐ大勝で、対戦成績を5勝1敗とした。この試合の2Q20分(ランニング計時)に関東・増田が関西陣18ヤードからFG(フィールドゴール)を成功させた。これは戦後初のFGだった。

ライスボウルに出場する関東選抜チームは、試合前の12月27日に芝パークホテルで、この年1月の「シュガーボウル(メリーランド大-テネシー大)」の16ミリカラー映画を全員で鑑賞した。これは戦前にメリーランド大のバックスであったグレレッキー氏(グレレッキー商会社長)が米国から取り寄せたもので、同氏が関東選抜チームを招待。選手たちはポイントとなる場面は巻き戻して何回も見る熱心さだったという。

 

[9]高校タッチフットボールの活動

1.春の活動(高校)

●1949年のチーム発足以来、徐々に力を蓄えてきた関学高が51年から連戦連勝を続けていた。春季に明治神宮外苑競技場返還記念試合の一環として関学大に帯同して関東に遠征し、麻布高、都立九段高、慶応高と対戦していずれも完勝した。

●3月に関西タッチフットボール連盟の第1回公認審判養成講習会が開催された。

 

2.秋の活動(高校)

●関東は秋季リーグ戦を1部6校、2部3校で開催。当時は、高校の体育でタッチフットを教えており、体格の良い者を勧誘した。

●高校では、大学並の力量を誇る関学高が、関東優勝の都立西高を47-0で下して2年連続優勝。24連勝とした。

 

[10]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●前年同様、関学大は在阪米軍との試合を積極的に開催した。

日 付   スコア   会 場
10月25日 関学大 0-7 米軍キャンプ奈良 奈良PRセンター
11月11日 関学大 19-20 米軍キャンプ神戸 甲子園
11月22日 関学大 12-34 米軍キャンプ奈良 西宮球技場