競技活動20年目を迎えた。戦争による中断や競技活動が困難な時期があったが、関係者の努力により、徐々に復興しつつある時期だった。3、4年前から徐々に各チームに取り入れられたT体型が普及し、ほとんどのチームがこの体型を採用。近代戦術の消化に各大学が努力を開始した。
1953.01.01
お知らせ
T体型普及。関西学院、中学、高校、大学がそれぞれ全国制覇
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 1月15日
・ 2月1日 ・ 4月12日 ・ 5月29日 ・ 6月25日 ・ 7月27日 ・ 8月28日 |
・早川電機、国産初のテレビ発売
・NHK、テレビ本放送開始(参考:1925年7月:NHKラジオ本放送開始) ・NHK、東京六大学野球の入場式と開幕戦をテレビ中継(日本初のテレビスポーツ中継) ・エドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏、エベレスト初登頂 ・昭和28年西日本水害 ・朝鮮戦争休戦協定 ・日本初の民間テレビ局・日本テレビ放送網、本放送開始 |
フットボール | ・
・ 4月29日 ・春 ・秋 ・秋 ・翌年1月1日 ・翌年1月 |
・手製フェイスガード使用チームが増加
・第1回早大-慶大定期戦(明治神宮外苑競技場) ・第1回慶応高-関学高定期戦(高校、最初の定期戦) ・関西学生リーグ、立命大加盟で5校に ・関西学院、中学・高校・大学がそれぞれ優勝 ・第7回ライスボウル、米軍第8回ライスボウルと共同開催(明治神宮外苑競技場) ・第1回正月ボウル開催(長浜南中-長浜西中) |
競技活動20年目を迎えた。戦争による中断や競技活動が困難な時期があったが、関係者の努力により、徐々に復興しつつある時期だった。3、4年前から徐々に各チームに取り入れられたT体型が普及し、ほとんどのチームがこの体型を採用。近代戦術の消化に各大学が努力を開始した。
[1]主な出来事
●関西学院のフットボール一貫教育は1941年大学、48年高等部、49年中学部の創部で確立したが、53年度はその体制が見事に開花した年となった。大学は3年ぶり3度目の王座獲得、高等部は58連勝で全国3連覇、そして中学部も新設された中学大会決勝で優勝を果たした。
大学にとっては、中学部創部時の選手がそろって進学してきたことが大きかった。基礎の完成した新人を迎え、伝統のシングルウイングをやめ、QB武田建(四年)を核としたT体型攻撃一本に絞り込んだ。2年前から実施していた米軍との強化試合では、春季に関東に遠征し、この年6月福岡、佐賀、熊本で死者・行方不明者計849名の被害をもたらした水害支援の「西日本水害地域救済基金募集日米親善試合」で極東空軍と対戦した。当時米軍は陸、海、空、海兵隊の国内の各基地単位でチームがあり、関東地区のチームが強く、中でも空軍(立川基地)が最強であった。その極東空軍に関学大は敗れたものの、0-19と善戦した。
●T体型の導入で日本に近代フットボールを確立し、立大に2度の全国制覇をもたらしたドナルド・オークス氏が、この年9月に日本滞在の任務を終え、夫人と滞日中に生まれた2人の子供とともに横浜港から帰米した。同氏は1984年3月に立大創部50周年式典に来日すると、日本フットボールの発展に驚いた様子だった。
●4月29日、明治神宮外苑競技場で現在でも続く関東大学連盟内の最も古い定期戦、早大-慶大がOB戦に続いて開催された。当日はかなりの強風で目も開けられない状態。1Q、早大はパントをしたもののボールは強風で戻り、自陣3ヤードからの守備に。すると、慶大がFB須貝伸吉(四年)の中央突破で先制TDを奪い、最終的には21-0で記念すべき勝利を挙げた。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●2年前の1951年、NCAAの公式規則変更で着用が義務付けられていたフェイスガードは、日本では当時、入手困難であり、立大が手製のフェイスガードを使用していたが、それがこの年あたりから各チームに普及してきた。戦後の物資不足の時代からだいぶ経過したものの、米国製の防具類は高価であり、まだ入手困難な時代だった。そのため、防具類の着用義務に関しての公式規則の厳密な適用は、なされていない時代だった。
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●守備側のパス・インターフェランスの反則の罰則は、自動的に第1ダウンとなった。
●一度、交代で退出したプレーヤーは、その節(クオーター)はプレーに参加できなかったが、前後半ラスト4分は例外として参加できるようになった(注:1948年に制定した自由交代制が、再び制約を受けることになった)。
[3]関東・秋のリーグ戦
●東西交流戦は秋のシーズン前の9月6日に明治神宮外苑競技場で定期戦3試合が行われた。
スコア | 備 考 | |||
第5回定期戦 | 早大 | 25-13 | 関大 | 早大の4勝1敗 |
第4回定期戦 | 日大 | 52-0 | 京大 | 日大の4連勝 |
第7回定期戦 | 慶大 | 20-6 | 同大 | 慶大の7連勝 |
●関東学生リーグは明治神宮外苑競技場と後楽園で開催。9月に帰米したドナルド・オークス氏の熱心な指導でT攻撃をマスターした立大の近代戦法が群を抜いていた。QB野村正憲、HB中澤貞夫の抜けた穴をQB加藤友俊(三年)とHB山村侑司(二年)、HB瀬田六郎(三年)が埋め、G佐藤孝(三年)、リーグ最優秀選手となったT神子光(四年、主将)は守備も安定していた。
肉薄したのは復活した慶大だった。E高島孝之(四年)、L石井徹(四年)、T伯耆原拓太郎(三年)、G佐藤正(四年)のラインがHB須貝仲吉(四年)を走らせた。3位の早大はC星子康彦(三年)、QB金谷週治(四年)が鳴海米生監督の指導を生かした。日大は竹本君三監督のもとで猛練習し、G海老原良平(三年)、HB小島秀一(二年)の活躍が光って同率3位に躍進。1949年から最下位が続いていたが、法大に7-6、明大に10-7と接戦を制し、2勝3敗で終えた。法大と明大がともに1勝4敗で5位になった。
[4]関西・秋のリーグ戦
●関西は例年通り西宮球技場でリーグ戦を開催。6年ぶりに5番目の大学として立命館大(以下、「立命大」)が加盟した。立命大はリーグ初戦で関学大に0-132と大敗を喫したが、京大が選手不足で十分な活動ができなかった時期でもあり、関西フットボール界の光明だった。
京大は前年棄権が多かったが、この年は関学大戦は不戦敗となったものの、以降はリーグ戦に参加。立命大に23-0とリーグ戦4年ぶりの勝利を挙げ、1勝3敗で4位となった。
関学大は高等部で26連勝を飾った新人たちが入部し、ますますその実力を高めていった。同大には前半0-0で、後半にセーフティーを挙げてからやっと引き離して15-0と唯一の苦戦を味わったが、全試合完封勝利でリーグ戦5連覇を飾った。1949年に創部した関学中学部1期生が大量に入部し、関学大フットボール10年体制が確立。そして6年間リーグ戦無敗とした。2位にはT体型の先駆者・同大がHB庄野裕作(四年)、E川勝修(四年)、G福森雍四(四年)の活躍で躍進した。重量ラインの関大は導入1年目のT体型が消化不良だった。
[5]社会人の活動
●9月29日、大阪・馬場町グラウンドで大阪警視庁が関大と対戦し、25-7で勝利した。大卒の経験者を採用し、関西地区で唯一の単一組織の社会人チームとして1950年に結成。関西、関東の大学や米軍チームと対戦して実力もあった大阪警視庁は、単独チームとしての活動をこの年でやめ、以降は大阪倶楽部というクラブチームとして活動した。
[6]第8回甲子園ボウル
●「第8回甲子園ボウル」は12月6日、薄曇りで底冷えする中、3回連続で立大と関学大の対戦となった。
立大はこの秋ドナルド・オークス氏が米国に帰国し、中村廣一新監督の指導で関東大学リーグを全勝で制しての出場だった。立大は特急「つばめ」を使用し、7~8時間かけて大阪に移動。宿舎は甲子園球場内の大部屋だった。
●試合は2Q、立大のパントを関学大のG木谷直行(一年)が好ブロックしてチャンスをつかみ、RH中川逸良(四年)が左エンドランで先制。その後もT太瀬重信(四年、主将)、C大道伸一郎(四年)、RT小島貞夫(三年)を中心とする関学大ラインが健闘。QB武田建(四年)の冷静な指揮で中川を生かして主導権を握った。
関学大は新人選手の活躍もあり、立大の反撃を1TDに抑えて19-7で完勝。3年ぶりに王者に返り咲いた。今季T攻撃一本に絞った関学大がシリーズ更新11回だったのに対し、立大は5回。関学大はRH中川が3TDを挙げる活躍で、交互に起用されたLH谷川福三郎(四年)のランも効果的だった。公式戦3年間無敗だった立大は、連勝記録がストップした。
[7]第7回ライスボウル
●「第7回ライスボウル」は、1954年元日に明治神宮外苑競技場で開催。快晴に恵まれ、15,000人の観客が観戦した。関東は立・慶・早勢、関西は関学大・同大の連合軍だった。
前半は五分五分の展開。1Q、関東がQB金谷週次(早大四年)からRE石井徹(慶大四年)にロングパスを通して敵陣に迫るも、関西はT太瀬重信(関学四年)を中心としたラインが健闘して得点を許さない。2Qには関西が自陣20ヤードから蹴ったパントを関東がジャッグルして落球。関西がリカバーからTDに結び付け、リードして前半を終了した。
関東は3Q、全員立大勢で固めると、QB加藤友俊(三年)から瀬田六郎(三年)のショートパスが72ヤードの独走となり、山村侑司(二年)がTFPを成功させて同点に。さらに関西のファンブルを蕪木吉雄(四年)が抑え、FB阿部重一(二年)のオフタックルランで勝ち越し、20-7で関東が4連勝した。勝因は5-3チャージング守備の裏をかいた関東・花岡惇総監督の好采配だった。
「第7回ライスボウル」は、9時30分から東西高校タッチフットボール選抜戦に続いて11時30分から行われた。実はこの試合の後、14時から米軍の「第7回RICE BOWL」が開催されており、合計3試合が行われた。
在日米軍は戦後、日本の「ライスボウル」より1年早い駐留直後の1946年から、同じ名前の米軍内の「RICE BOWL」を開催しており(したがって「ライスボウル」は米軍が先に始めたボウルゲームの名称。52年は朝鮮戦争のため「米軍RICE BOWL」は中止。これにより53年の「ライスボウル」から日米の「ライスボウル」の回数は同じとなった)、この年は日米の「ライスボウル」を同日同会場で開催することになった。
米軍の「RICE BOWL」は当初3回まで在日米軍と在韓国米軍のオールスター戦として開催され、第4回の1949年から日本国内の陸、海、空、海兵隊の4軍オールスターのトーナメント戦の決勝として開催されたもの。この日の「米軍第7回RICE BOWL」は、在日米海兵隊が在日米空軍を19-13で下している。この日米共催は、翌55年1月の「ライスボウル」でも実施された。
●なお、この日の第1試合、東西高校タッチフットボール選抜戦は関学高、日吉ケ丘高、長浜西からの選手の関西高校選抜が、麻布、慶応高、早大学院、都立西高からなる関東高校選抜を44-0の大差で下した。
[8]高校タッチフットボールの活動
●4月、慶応高-関学高の第1回定期戦開催(西宮球技場)。高校で最も古く、また長く続く定期戦が始まった。関学高が26-0で記念すべき勝利を挙げた。
●「第6回東西高校タッチフットボール王座決定戦」は、関学高が麻布高を27-6で破って3連覇を達成し、連勝記録を58とした。1949年創部の関学中学部も、新設された中学大会で優勝。関西学院は中学、高校、大学すべて全国優勝を果たし、関学大フットボール一貫教育体制が見事に開花した。
[9]フットボール・ファミリーの活動
◆小・中学生フットボール
●1954年元日、滋賀県で「第1回正月ボウル」が開催された。当時、滋賀県の小中学校は元旦に登校し新年式を行っていた。第1回大会は長浜南中が優勝。元日の開催は1964年の第11回大会まで実施し、以降は1月8日または同15日に開催した。
[10]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●関学大はリーグ戦の最中、「西日本水害地救済基金募集日米親善試合」として、10月3日に明治神宮外苑競技場で開催された関東大学リーグ戦の早大-立大(立大20-0早大)に続いて、極東空軍と試合をした。この試合は、6月下旬に九州北部を襲った記録的豪雨で死者・行方不明者1,001人の大災害をもたらした西日本豪雨の災害の基金募集試合だった。試合は極東空軍が2Qから4Qにそれぞれ1TDを挙げて19-0で勝利した。関西学生リーグ開催中での関学大の関東遠征は、圧倒的実力を維持する関学大の余裕でもあった。
★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)
●現役選手に望む
「キックオフからタイムアップまで出場できる選手を目指すことを期待したい」(関学大1954年卒・LT主将・太瀬重信)