戦後10年、日本全体が戦争とその後の混乱からやっと日常が戻り、高度成長に第一歩を踏み出したころだった。戦後、再建された日本フットボールも徐々に体制が充実し、ボウルゲームを頂点としたシーズンの活動が定着してきた。しかし加盟校の増加は見られず、普及・拡大には、もう少し待たなければならなかった。
1955.01.01
お知らせ
宿命の対決、日大対関学大の始まり。甲子園ボウル、史上初の両校優勝
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 2月2日
・ 5月11日 ・ 5月14日 ・ 7月9日 ・ 7月 ・ 9月10日 ・10月1日 |
・スポーツ検証委員会、「スポーツマン綱領」決定
・紫雲丸事故 ・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化 ・後楽園遊園地完成 ・全国中学校体育連盟発足 ・日本、関税および貿易に関する一般協定(GATT)に正式加盟 ・新潟大火 |
フットボール | ・ 5月22日
・春 ・11月23日 |
・西宮ボウル、開催を春に移し第2回大会開催
・関西地区、OB、クラブチームを含めた西日本大会創設 ・第10回甲子園ボウル、引き分けにより関学大、日大の両校優勝(日大初優勝) |
戦後10年、日本全体が戦争とその後の混乱からやっと日常が戻り、高度成長に第一歩を踏み出したころだった。戦後、再建された日本フットボールも徐々に体制が充実し、ボウルゲームを頂点としたシーズンの活動が定着してきた。しかし加盟校の増加は見られず、普及・拡大には、もう少し待たなければならなかった。
[1]主な出来事
●真紅のユニフォームに身を包んだ日大が強豪チームとして登場してきた。1952年から部員を大量に入部させ、4か年計画に乗り出した竹本君三監督が総勢80人の部員で猛練習し、万年最下位から日本のトップに押し上げた。慶大のノートルダム・ボックス体型から開始した戦後は、関学大のシングルウイング体型、立大の完成した近代T体型と戦術の変遷を重ねたが、ここに日大独特のアンバランスT体型の登場を迎えることになる。シングルウイングのアンバランスドラインを生かし、Tのスピードを加味したというこの攻法は、粘り強いブロック、卓越したスタミナ、そして旺盛な闘志に支えられ、圧倒的な力を発揮していくことになる。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆公式規則変更など
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●各節(クオーター)の初めにプレーに参加していたプレーヤーは、交代で退出した後も、一度ならばその節内で再びプレーに参加できることになった。
●キックのホルダーは、そのボールを持ってランあるいはパスをすることができるようになった。
[3]春季活動
●春季に関西遠征した日大は立命大を59-0の大差で下すと、その2日後には2年連続日本一の関学大に挑戦。関学大に西宮ボウル出場直後の疲労があったとはいえ18-6で破り、その急上昇ぶりを実証した。
1.春のボウルゲームなど
●西日本大会
関西では春季トーナメント戦である「西日本大会」を開始した。参加は部員不足の京大を除いた4大学に、関学大卒業生による全神戸、元大阪警視庁を中心とした大阪クラブ(全大阪)、関大卒業生を加えた全奈良。5月8日の決勝は関学大-関大となり、関学大が前半にHB芳村昌悦(三年)の40、60ヤードの2独走TDなどで33点を挙げ、後半の関大の反撃をHB植野克己(三年)から桜間浄三(四年)のパスによる1TDに抑え、41-7の完勝で初優勝した。この「西日本大会」は85年まで継続的に開催され、86年に学生、社会人を分離した形態となったが、関西地区の春のイベントとして人気を集めた。
●西宮ボウル
5月22日に行われた「第2回西宮ボウル」は、混成軍の関東が関学大勢で固めた関西を4Qの勝ち越し点で振り切り、20-13で前年の雪辱を遂げた。
[4]関東・秋のリーグ戦
●関東秋季リーグは明治神宮外苑競技場を主会場に9月17日に開幕。接戦の好試合が続いた。10月2日の立大(2勝)-日大(2勝1分)が事実上の優勝決定戦となった。
試合は立大がHB阿部重一(四年)、山村侑司(三年)のランを積み重ね、2Qに山村が中央を突破して先制。日大は後半に立大フローティング守備の虚を突くHB筒井真澄(四年)とB小島秀一(四年)の速攻ランや守備の後陣を突く確率の高いミドルパス、ショートパスで反撃。3Qに小島のランで同点とし、さらに4Qには2TDを追加して19-7で快勝した。日大は最終の法大戦にも完勝し、1940年に加盟して以来の初優勝を遂げた。
低迷を続けてきた日大の初優勝の原動力は、竹本君三監督が4か年計画で育て上げた19人の四年生を始めとする80人の部員だった。プレーの種類はさほど多くなかったが、基本に忠実に竹本監督が編み出したシングルウイングとTのスビートをミックスしたアンバランスTをベースに、主将E笹田英次、篠竹幹夫、HB小島秀一、筒井真澄(いずれも四年)の活躍に加え、二年のQB須山匡の好リードと6大学随一のラインの整備が光った。
2位となった立大はE瀬尾博治(四年)、L加藤丈雄(四年)、HB山村侑治(三年)、T山崎嘉封(三年)ら関東オールスター級をそろえながら、ラインが日大に押し負けて気力を失った。早大は若手コーチの熱意とQB川井信義(三年)の成長などで3位に躍進。慶大は新採用のスプリットTが消化不良で、HB中津川浩三(三年)らを生かせなかった。
1951年の立大ドナルド・オークス監督が確立したT体型は5年目のこの年、アンバランスT(日大)、スプレッド/スプリットT(慶大・法大・明大)、フランカーT(早大)に進化した。また守備面も従来の6-2、7-1から、5-3、5-4、4-5、4-3、4-4、7-2、8メンと幅広くなり、守備能力が向上した。
[5]関西・秋のリーグ戦
●関西では関学大の独走が続いた。西宮球技場と京大グラウンドを使用した関西学生リーグは、関学大が体重、身長で前年に比べやや小柄になったことが案じられた。しかし、従来のノートルダムTに加え、古川明コーチが留学先のデンバー大から持ち帰った「デンバーT」も取り入れ、一試合平均80得点を記録するなど例年にも増して大量得点を挙げ、優勝決定戦の関大戦にも74-7で大勝した。
チームの中心のQB鈴木智之(三年)、RG平岡敏彦(四年、主将)、LG木谷直行(三年)を中心にまとまり、シーズン中、相手に許したTDもこの関大戦の1TDだけという圧倒的な強さだった。これで関学大は1949年から7連覇と記録を伸ばした。2位は関大、以下は同大、立命大で、部員不足で悩んでいた京大が再下位の5位となったが、4年ぶりに全試合に参加した。
[6]第10回甲子園ボウル
●「第10回甲子園ボウル」は秋晴れ、絶好のフットボール日和の11月23日、観客3,000人が集まり、その後の宿命の対決となる関学大(米田満監督:選手36人)と日大(竹本君三監督:選手35人)の初顔合わせで14時にキックオフされた。日大はアンバランスT体型からE笹田英次(四年、主将)、LG田村太蔵(四年)、LT小沢茂(四年)を核とするラインが鋭いブロックを見せ、LH小島秀一(四年)の中央突破で先制TDを挙げてTFPも成功。その後、関学大はHB大藤努(三年)が55ヤードを独走してTDを挙げたが、TFPに失敗し、同点とはならなかった。結局この失敗が、試合最後のプレーでのドラマを生むことになった。
その後、日大はHB筒井真澄(四年)、小島のランなどで、関学大はFB芳村昌悦(三年)の30ヤードランでそれぞれ追加点を挙げ、4Q終了直前には日大が26-20とリードした。試合終了まで残り40数秒、ここで関学大は自陣奥深くからQB鈴木智之(三年)が40ヤードのパスを通し、キャッチしたRE西村一朗(三年)が45ヤードを独走してTDを挙げ、同点に追い付く。しかし、TFPで関学大のオフタックルを主将笹田が止めて26-26で試合終了。その後、東西のライバルとなる関学大と日大の初対戦は、いつまでも記憶に残るような史上初の同点劇となり、両校優勝で幕を閉じた。
[7]第9回ライスボウル
●「第9回ライスボウル」は、過去2回は「米軍RICE BOWL」と共同開催だったが、この年から日本のライスボウルだけとなり、1956年元日に無風の明治神宮外苑競技場で行われた。
前日に米軍の「第9回RICE BOWL(在日米空軍33-14在日米陸軍)」で使用した得点板などをそのまま使用。1Qは関東が攻めてシリーズを更新するものの、関西守備陣が得点を許さずに終了。2Qに関東はHB筒井真澄(四年)、小島秀一(四年)の日大勢やQB中津川浩三(慶大三年)のランの後、小島が中央を突破して先制のTD。さらに山村侑司(立大三年)、E加藤丈雄(立大二年)の中央突破から、山村の左エンドランでTDを追加した。
後半、関西はスプリットから、関東はパワー・シングルウイングからそれぞれのパスが決まり始めたが、互いに守備陣が得点を許さず、試合終了間際に関東が中津川浩三(慶大三年)から山村侑司(立大三年)への30ヤードパスが決まってTD。関東が19-0で勝利し、対戦成績を8勝1敗とした。シリーズ更新数は関東21、関西4と大きな差があった。
[8]高校タッチフットボールの活動
●高校は関学高の連勝が続き、王座決定戦では57-0、全国大会では13-0でともに聖学院高を下した。
[9]海外・国際関連の活動
1.外国チーム間(日本で開催)
●12月下旬には駐留米軍同士の試合が「TORII BOWL」(12月17日:米在日陸軍-米在日海兵隊)、「SUKIYAKI BOWL」(12月18日:米在日空軍-米在日海軍)の名称で開催され、明治神宮外苑競技場にそれぞれ30,000人、20,000人の観客を集めた。