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INFORMATION ニュース

1957.01.01

1957年(昭和32年) 活動24年目

お知らせ

日大が2回目の全国制覇。戦術面の重要性高まる

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 1月29日

・ 2月14日

・ 7月25日

・ 8月31日

・10月4日

・10月4日

・日本の南極越冬隊が南極大陸初上陸

・スポーツ振興審議会設置決定

・諫早豪雨

・国際学生スポーツ週間を「ユニバシアード」と改称

・「国民体育デー」の設置決定

・ソ連、人工衛星スプートニク1号の打上げ

フットボール ・秋

・11月

・11月24日

・翌年1月1日

・関東大学リーグ、防衛大学校加盟で8校に

・ウィーリー・杉原氏を中心に明大OB、立大OB主体の東京ラムズ創部

・第12回甲子園ボウル、日大が関学大を下し2回目の優勝(単独では初)

・第11回ライスボウル、初めての後楽園球場開催

 

日大がついに念願の単独全国優勝を遂げた。優勝の要因は、徹底した基礎の習得と猛練習によるスタミナ、スピードが第一に挙げられるが、敵情視察や新戦術の採用にも積極的であった。前年に竹本君三監督から受け継いだ小畑重夫監督、篠竹幹夫コーチの新体制の熱意の結晶でもあった。またわが国での初めてのクラブチーム、東京ラムズがウィーリー・杉原氏を中心に創部した。

[1]主な出来事

日大は春季、猛練習を原因とする新人のストライキ騒ぎがあり、部員が80人から40人に減少するという不測の出発となったが、春季オープン戦で関学大に33-6と完勝。最終学年を迎えたQB須山匡(四年)の采配と定評あるラインの押しに、早くも全国制覇間違いなしとの評が流れた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●相手のフェイス・マスクをつかむことが反則となった。
●チームエリアが初めて設けられ、両35ヤードライン間となった。
●フィールドに入った交代選手は、そのことを審判員に告げなければならなくなった。

 

[3]春季活動

●この頃は関東・関西の大学の交流戦・定期戦が、関東・関西の隔年で4~5月の連休に集中して開催されていた(現在は日程が分散し、開催場所も関東・関西にやや分散)。

この年の東西の対抗戦や定期戦は、「東西大学アメリカンフットボール対抗戦」として関西で開催され、全試合が西宮第一球技場で、以下の試合が開催された。

日 付 対 戦 備 考
4月27日(土) 日大-京大  
4月28日(日) 日大-関学大  
法大-関大 第6回定期戦
4月29日(祝) 法大-同大  
日大-立命大 第3回定期戦
5月3日(祝) 明大OB-関学大OB 第6回定期戦
立大-同大 第10回定期戦
明大-関学大 第10回定期戦
5月4日(土) 明大-京大  
立大-関大  
明大-立命大  
5月5日(日) 慶応高-関学高 第4回定期戦
学習院-甲南大 第2回定期戦
立大-関学大  

日大、立大は3日連続の試合だった。

 

この春のオープン戦と定期戦では、前年甲子園ボウル優勝の関学大が、主力選手の大量卒業で、「第4回西日本大会」と明大との定期戦には快勝したものの、日大、立大とのオープン戦には完敗。多難さが浮き彫りになった。

 

◆春のボウルゲームなど

●第4回西宮ボウル

春シーズンの最後を飾る「第4回西宮ボウル」は6月1日に西宮球場で開催。前年”関学大黄金期”の卒業生を中心とした関西が現役中心の関東を13-6で下した。

 

[4]関東・秋のリーグ戦

●関東大学リーグに防衛大学校が新加盟。8大学となり、総当たりのリーグ戦28試合を開催した。9月7日に法大武蔵小杉グラウンドで開幕。翌8日、後楽園競輪場で入場式を行い、以降は後楽園競輪場、立大上板橋グラウンド、日大下高井戸グラウンドを使用した。

日大と立大の二強は、これに割って入ると見られた慶大が第一の壁だったが、日大は守備ラインの押しで慶大好QB市原則比古(四年)のパスを封じ込め、40-0と完勝。E宇田川恵三主将、LH伊沢健司(四年)、RH織戸保四郎(一年)を生かすT小山良三(三年)、LG山口寛治(四年)の強力ラインと旺盛な闘争心で勝ち続けた。

日大は続いて立大と対戦。立大はこの一戦を前に5日間の合宿をして臨んだが、日大はFB吉岡隆一(二年)がリバースで独走した好機に、二年から先発を務めるQB須山匡(四年)がオフタックルを走って先制。さらに立大のミスに乗じて須山のエンドランなどで2Qにも得点してペースをつかむと、立大の”20貫”(75キロ)ラインを食い止めるラインの健闘もあり20-6で勝利。リーグ3連覇を果たした。

関東学生リーグにこの年加盟した防衛大は、加盟校中最多の50人近くの部員を擁し、コーチに野﨑和夫氏、ウィーリー・杉原氏を迎え、春季第一戦で慶大に19-20と善戦。秋季リーグ戦も野﨑監督の好指導の下、実戦経験を積んだ最終の2試合では早大を18-0、学習院大を69-6で破り、6位に食い込んだ。

日大、立大、慶大に続いた明大は、G沢田哲夫(四年)、HB金沢好夫(四年)と好選手はいたものの、攻撃の決定力が今一つだった。リーグの最優秀選手は日大QB須山匡(四年)。敢闘選手に慶大E水村晃隆一(二年)、模範選手に立大T岡村一正主将(四年)が選ばれた。

 

[5]関西・秋のリーグ戦

●関西学生リーグは京大が部員不足で参加を棄権、5大学で9月22日から西宮球技場、関学大グラウンド、京大グラウンドで開催された。

前年に比べ戦力が低下した関学大だが、やはり攻守に安定した力で連戦連勝し、全勝優勝で9連覇を果たした。続いて2位に同大が浮上。E長谷川根勇(三年)、T峰尾弘(四年)、C奥村司郎(三年)、HB高木治郎(三年)と粒を揃え、関大に20-14と逆転勝ちしたのが復活の鍵となった。常に関学大、同大、関大の戦前創部の3大学で優勝が争われてきた関西学生リーグだったが、この年、加盟2年目の甲南大が関大と6-6で引き分ける健闘をみせた。リーグ最優秀選手にG田中正次(関学大四年、主将)、敢闘選手にT峰尾弘(同大四年)、敢闘選手にはG大野博康(甲南大四年)が選ばれた。

 

[6]社会人

●11月、日系2世ウィーリー・杉原氏を中心に明大、立大のOBを中心としたクラブチーム、東京ラムズが結成され、活動を開始した。11月23日に米軍立川基地で、防衛大と最初の試合を行った。これまでアンドリウス商会、大阪警視庁の実業団チームが活動していたが、東京ラムズはクラブチームとしては日本で最初のチームだった。東京ラムズの活動は1960年頃まで続いた。

米国に生まれ育ったウィーリー・杉原氏は、1941年に祖母に会うために来日。同年12月2日に帰米する予定だったが、太平洋戦争の勃発間際で帰国できず、そのまま日本に滞在した。戦後も在日米軍法務部に勤務する傍ら、日本のフットボールの発展に寄与した。後に専修大、玉川大の監督を務めた。

 

[7]第12回甲子園ボウル

●「第12回甲子園ボウル」は11月24日、観客3,000人の下でスタートメンバーの大半を新しくした関学大と日大の3度目の対決となった。

関学大はQB東山修(四年)からLE井上太郎(四年)、RE小宮正弘(三年)のパスを得点源としていたが、四分六分で不利と見られていた。しかし、試合が始まると、関学大の米田満監督は、意表を突いた右アンバランス・スプリットT攻撃体型を展開。日大の混乱に乗じて東山から小宮へのロングパスで攻め込み、HB平野薫(二年)の中央突破で6-0と先制した。

日大がリズムを取り戻したのは2Q。LH伊沢健司(四年)、RH織戸保四郎(一年)のオープンプレーで前進し、QB須山匡(四年)が伊沢に30ヤードのTDパスを決め、竹下俊行(四年)のキックで7-6と逆転した。その後は五分の攻め合いが続いたが、3Qに入ると日大は突如マン・イン・モーションを展開。関学大の守備を眩惑し、伊沢がTDを挙げると、須山からFB吉岡隆一(二年)へのパスでトライも成功し、14-6で勝利した。

3年連続出場の日大は、2年前の両校優勝に続く2度目の優勝。単独優勝は初となった。一方の関学大は5連覇を阻まれた。日大の小畑重夫監督は就任2年目での初優勝だった。関学大のアンバランスTといい、日大のマン・イン・モーションといい、甲子園ボウル用の新戦法が登場するなど、フットボールが戦術的色彩を強めていく契機となった。

 

[8]第11回ライスボウル

●1958年元日の「第11回ライスボウル」は天候に恵まれ、前年に続いてアジア競技大会の影響で明治神宮外苑競技場が使用できなかったため、後楽園球場で開催した。後楽園球場でのフットボール開催は、54年の関東大学リーグ戦以来だった。

試合は関東の「重量」と、関西の「スピード」の対決と予想された。1Q、関東はLH伊沢健司(日大四年)が32ヤードを独走してTD。2QにはRH中沢昌二(立大三年)からLH織戸保四郎(日大一年、当初出場予定だった日大・吉岡龍一の負傷欠場で急きょ補充)へのリバースプレーからの80ヤード独走のTD。3Qにも中澤の75ヤード独走TDで点差を広げた。

オープンフィールドをよく走った関東は3Q終了直前、HB金沢好夫(明大四年)がやや突進を遅らせるディレーのラインプレーでTD。またタイムアップ4分前にQB須山匡(日大四年)がE水村晃(慶大四年)へTDパスを決めた。守ってもLE宇田川恵造(日大四年)、RE水村晃(慶大四年)、RG大出俊行(立大四年)のラインが最後まで関西にチャンスを与えず、31-0と快勝。対戦成績を9勝2敗とした。

 

[9]高校タッチフットボールの活動

●関東高校の秋季戦は1948年からリーグ戦を行っていたが、加盟校の増加によりこの年からトーナメント方式となった。

 

◆東西王座決定戦・全国高校大会

●東西王座決定戦は関学高が28-7で慶応高を下し、125連勝(1引き分けを含む)を遂げた。

●16校が参加した1958年1月5日開幕の第4回全国高校タッチフットボール大会は、4日夜からの積雪が10センチとなり、選手も参加して全員で雪をかき、そしてラインを引いて開幕した。決勝に進んだ関学高と慶応高は、5日に各2試合を積雪のグラウンドで、6日に準決勝と決勝の2試合を着替えのないユニフォームをそのまま着用して行った。両校とも2日で4試合目となる決勝は、関学高が慶応高を19-0で下し、4連覇を達成した。

 

[10]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●関東では秋のリーグ戦終了後、甲子園ボウル出場の日大を除いた関東大学選抜軍(コーチ:花岡惇氏、中澤貞夫氏)が在日米海軍横須賀のシーホークスと「第1回ターキーボウル」を米軍横須賀基地内Berkey Fieldで開催。関東学生は7-33で敗れたが、リーグ戦終了後の選手たちにとっては、他校の選手と交流の場になり、大いに刺激となった。その後も長い間米軍などとの対戦で選抜チームを編成することによって各校間の連携が卒業後も続き、クラブチームや社会人フットボールの発展などにもつながっていった。

「ターキーボウル」はその後、開催場所を国立競技場に移した。試合後は両チームの選手や関係者が国立競技場近くのワシントンハイツ(現在の国立代々木競技場一帯)に移動し、ハイツ内将校クラブの「明治クラブ」で晩さん会と表彰式を行った。晩さん会は立食ではなく着席のディナーで、日本の学生選抜の選手はユニフォームから学生服に着替えて参加した。食糧事情がまだまだ不十分な時代、大きなステーキや食べ切れないほどのデザートは、出場選手の記憶に残るものだった。

 

★当時の関係者の言葉 (日本協会50年史掲載)

●甲子園ボウルの思い出
「勝ったと云った気持と同時に主将として、四年生として無事責任を果せたとの気持が強かった」(日大1960年卒 E・主将 宇田川惠造)