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INFORMATION ニュース

1958.01.01

1958年(昭和33年) 活動25年目

お知らせ

関学大・日大二強時代。ショットガン初登場

  日 付 主な出来事
社  会 ・ 3月30日

・ 4月5日

・ 5月1日

・ 5月4日

・ 9月27日

・10月14日

・国立競技場落成。5月24日:第3回アジア競技大会、東京で開幕

・プロ野球巨人・長嶋茂雄氏初試合(1974年引退)

・文部省に体育局設置

・初めての「国民体育デー」実施

・狩野川台風、神奈川に上陸

・東京タワー竣工

フットボール ・ 9月6日

・翌年1月1日

・関東大学リーグ、新装国立競技場で開幕

・第12回ライスボウル、初めての国立競技場開催

 

フットボールの基本的な魅力である戦略・戦術の重視とそれに基づいた技術、体力の向上により、この年も熱戦や好試合が続いた。戦後最強の年は1951年と言われていたが、この年の各チーム力もそれに勝るとも劣らない年だった。

[1]主な出来事

●戦前から、まだテレビ放送などが普及していないこの頃まで、映画館では作品が上映される前に数分間のニュース映画が上映されていた。国内のニュース映画以外に海外、特に「ムービートーン・ニュース」、「パラマウント・ニュース」などのアメリカのニュース映画では、フットボールの試合の様子がニュースとして放映された。まだNFLが興隆に向かう途中の時期だったため、ローズボウルなどのボウルゲームや陸軍士官学校-海軍兵学校、イェール大-ハーバード大などのカレッジフットボールが取り上げられていた。米国のフットボールが新聞や雑誌などであまり取り上げられることがなかった時代。このニュース映画を見てフットボールに興味を持ち、日本の国内試合を観戦した人や大学でプレーをした人も多かった。

●この年、田村新氏が日本協会理事長(第5代)に就任した。

 

[2]競技施設・装具・公式規則など

◆公式規則変更など

【参考】この年のNCAAの主な規則変更

●攻撃側のプレーヤーは片手、片腕ならば守備側プレーヤーに接触できるようになった。
●チームタイムアウトは前後半5回から各4回になった。
●守備側のプレーヤーは、スナップ前に攻撃側のプレー開始と紛らわしい声を出してはならないことになった。
●Aチームの無資格レシーバーは、フォワードパスが投げられた後はダウンフィールドに前進できることになった。
●一度、交代でチームエリアに戻ったプレーヤーは、そのクオーターに再びプレーヤーとして参加できることになった。
●前年1957年に定めた交代選手が交代したことを報告する審判員(2人)は、赤と緑のバンドを腕に着けることとなり、そのいずれかの審判員に対して報告することになった。

 

[3]春季活動

●1950年代半ばになって、大学フットボールは加盟校が増え、この年も関東で日本体育大が加盟した。日体大は2年前の56年に活動を開始。この年に加盟し、リーグ戦には翌59年に参加した。

急激なレベルアップで、熱戦や好試合が続いた。戦後最強の年と言われていたのは1951年だが、それに勝るとも劣らない年だった。再び注目を集めたのは関東の古豪・立大だった。前年のスタートメンバーがそのまま残り、G水田吉春(四年)とC八巻信太郎(四年)を中心とする平均75キロの重量ライン、HB中沢昌二(四年)、石田弘毅(二年)の快足コンビ、QB藤田恒夫(三年)も冷静で、春季も頭一つ抜けた得点力を誇り、優勝候補の筆頭となった。一方、日大は大量の部員が卒業し、頼れるのはG滝沢正彦主将(四年)にHB織戸保四郎(二年)、吉岡龍一(三年)のバックスコンビだけとなり、春季は猛練習に徹した。

●春の東西選抜対抗試合も活発に12試合が行われ、関東が9勝3敗で優位を保った。特に関西の雄・関学大は明大との伝統の定期戦に12-13で7年ぶりに敗れ、甲子園ボウルでの宿敵・日大にも0-19で完敗。戦力低下がささやかれた。

 

◆春のボウルゲームなど

●第5回西宮ボウル

5月20日の「第5回西宮ボウル」は、関学大1957年卒のOBが健在の全関西がチームワークの取れた攻守で現役学生主体の全関東に19-7と勝利して3連勝。対戦成績を4勝1敗とした。

 

[4]関東・秋のリーグ戦

●関東秋季リーグ戦は、この年の春のアジア大会のため新装となった国立競技場(旧明治神宮外苑競技場)で9月6日に開幕。以降、小石川運動場、明大八幡山グラウンド、早大東伏見グラウンド、学習院目白グラウンドで行い、前年に続いて8大学総当たりで争われた。

近年、躍進著しい日大は、主力の大量卒業により、四年は主将のRG滝沢正彦、LT小山良三の2人だけとなり、心配された。結果はその通りとなり、第6節で慶大に足をすくわれた。圧倒的に押しながら、パスインターセプトから90ヤードの独走を許し、さらにQB川上一郎(三年)のパスで試合終了直前に逆転されて19-20の惜敗。二年生主体の若さを露呈した形となった。

全勝の立大と1敗の日大の最終戦対決は、雨中の国立競技場で行われ、立大は予想通りラインが押して進み、HB中沢昌二(四年)の10ヤードオフタックルランで先制。日大は8キロも軽いラインが粘りと闘志で対抗し、2QにFB加藤勝(三年)が中央に飛び込んでTDし、TFPは吉岡龍一(三年)のエンドランが成功して逆転した。

日大はさらに交代出場したHB服部集(二年)の20ヤードTDランで追加点を挙げ、軽量をカバーする4-4守備で立大の反撃をQB藤田恒夫(三年)の70ヤード独走TDのみに抑え、14-12とTFPの差で接戦をものにし、同率に持ち込んだ。

一週間後の優勝決定戦は早大東伏見で行われ、この日も雨中の泥濘戦となった。明らかに不利な日大軽量ラインは低い姿勢で立大に対抗。日大は1Q、FB吉岡龍一(三年)が10ヤードのエンドランで先制TDを挙げ、TFPも吉岡が成功して7-0に。立大は3Q、QB藤田恒夫(三年)が73ヤードのパントリターンTDを決めると、HB石田弘毅(二年)がトライに成功して同点とした。立大はその後も押し気味に試合を進めたが、決勝点を挙げられずにこの再戦は引き分けとなった。

甲子園ボウルまでの日程が厳しいため、出場校決定の再々戦は開催せず、前年度順位優先の規定で日大が優勝し、4連覇となった。日大はこの日の4-4守備に加え、後にショットガン体型として開花するクイックパント体型を雨中戦に使用し、効果を挙げた。

表彰選手には、最高殊勲選手はG瀧沢正彦(日大四年)、敢闘選手はC水島磯司(慶大四年)が選ばれた。

 

[5]関西・秋のリーグ戦

●関西学生秋季リーグは、前年部員不足で欠場した京大が復帰し、9月中旬に6校で開幕した。西宮球技場、関学大グラウンドを使用し、例年通り関学大の独り舞台だった。

関学大は一試合平均80得点を記録し、失点は0。巨漢T梶要介(三年)を中心とする動きのいいラインに小西一斉(三年)、豊田敏欲(四年)らバックス陣の層も厚く、QB浜野哲(四年)は緻密な用兵策を展開した。関学大はこのシーズン、米田満監督が東京大へ内地留学して不在となり、木谷直行ヘッドコーチが実戦指導に当たり、関西学生リーグ10連覇を遂げた。

同大は唯一、全勝で関学大を追い、関学大との最終戦で左アンバランスTから果敢に攻めたが、関学大のT梶要介(三年)、LG杉浦剛(四年、主将)を軸とする重量ラインの壁は厚く、ダウンを一度も更新できずに0-32で完敗した。

関学大と同大に続き、甲南大が3位と躍進。新鋭ながら古豪・関大に7-0で勝利し、3勝2敗で終えて注目された。リーグ最優秀選手に関学大LG杉浦剛(四年、主将)、敢闘選手に関学大HB豊田敏欲(四年)、模範選手に立命大・政木清が選ばれた。

 

[6]第13回甲子園ボウル

●「第13回甲子園ボウル」は12月7日、快晴の甲子園球場に4,000人の観客を集めて4年連続で日大と関学大の間で争われ、予想通りの接戦となった。

試合開始早々、日大がLT小山良三(四年)らラインの強い押しで主導権を握ったが、関学大はシングルウイング攻撃を織り込んで日大の気勢をそぐと、2QにQB浜野哲(四年)からRH豊田敏欲(四年)へのパスで敵陣に入り、一年の大型FB倉智春吉がラテラルパスを受けて先制TDを挙げた。

関学大は3QにもFB倉智春吉のエンドランで追加点を挙げて12-0とリードしたが、2回のTFPはともにキックを外した。日大は執拗にランを積み重ねて反撃を開始。3Q10分にFB吉岡龍一(三年)が10ヤードのオフタックルランで初めてTDを挙げると、直後の関学大のパントをLH織戸保四郎(二年)が一度ファンブルした後に80ヤードを独走してTD。TFPも吉岡のオフタックルで成功させて13-12と逆転し、そのまま逃げ切って2連覇を遂げた。

関学大は2つのTFPの失敗が響いた(この年までTFPはラン、パス、キックの成功すべて1点だった。ラン、パスの成功が2点になるのは翌1959年からだった)。日大の小畑重夫監督は、この甲子園ボウル2連覇を花道に翌年は監督を篠竹幹夫氏に託し、自身は関東審判部の活動に加わった。小畑氏は以後、少年時代の滞米生活で身に付けた流暢な英語で、国際試合なども含めて活躍した。この頃から、その後も続く「青の関学大と赤の日大」と言われる二強時代となった。

 

[7]第12回ライスボウル

●「第12回ライスボウル」は、アジア大会で新装なった国立競技場(旧明治神宮外苑競技場)で1959年元日に開催。雨が雪に変わり最悪のグラウンドコンディションで、これまで最悪と言われていた35年の全米学生来日時よりもさらにひどい状況となった。観客も3,000人と、現在までのライスボウル史上最も少なかった。

試合もパスプレーはほとんどなく、ランプレーもタックルされたランナーが倒れた後にグラウンドを滑って止まるような状況だった。試合前は、両チームの俊足バックスの対決が見ものとの期待もあったが、このグラウンド状況でバックス陣は大変苦労した。

試合は前半、膠着状態が続いたが、後半、日大、慶大、立大の混成チームの関東はグラウンドコンディションにも慣れ、関学大主体の関西を一気に突き放した。1Q、両軍とも立ち上がりは小刻みにラインプレーで着実に進めたが、関東は9分、ダウンを連続して更新し、敵陣15ヤードに進むと、最後はQB藤田恒夫(立大三年)のTDランで先制した。

2Qに入るころには、ユニフォームからしみ込んだ冷たい雨水が選手を震えさせた。チームエリアでは、選手の体を温めるためにたき火が用意された。3Q11分、関東はHB中沢昌二(立大四年)と石田弘毅(立大二年)のTDラン、QB藤田恒夫(立大三年)からE中村博(日大三年)へのTDパスと、立大勢が甲子園に出場できなかったうっ憤を晴らす活躍で25-0と快勝。通算成績を10勝2敗とした。関東の中沢は試合後、「手の感覚がない。ボールをもらっても手の中にあるのかないのか分からないほどだ」と語った。

 

[8]高校タッチフットボールの活動

◆関東地区秋の大会

●関東高校はAブロック聖学院高、正則高、足立(現足立学園高)、慶応高、Bブロック早大学院、日大一高、都立戸山高、都立西高でリーグ戦を行い、各ブロック上位2校がトーナメントに進んだ。決勝は聖学院高が都立戸山高を19-0で破った

 

◆東西王座決定戦・全国高校大会

●高校タッチフットボールは12月7日の東西王座決定戦で、関学高が聖学院高三年の快足・柴田茂を完封し、QB勝田鐐二(三年)、HB山本恵一(三年)の活躍で連覇を果たし、公式戦140戦無敗とした。関学高は1959年1月5~7日の全国大会も決勝で聖学院高を12-0で下し、大会開始から5連覇を成し遂げた

 

[9]フットボール・ファミリーの活動

◆小・中学生フットボール

●日本タッチフットボール協会理事で滋賀県タッチフットボール連盟理事長の奥川直助氏(滋賀県立愛知高)が、「アメリカン・ハンカチーフボール」を考案。滋賀県内の教育現場に普及させ、試合も行った。現在のフラッグフットボールのフラッグの代わりにハンカチーフを腰に付けて競技するもので、何人制でもよいルールとした。なお、1975年に同様に相手が被った帽子を取ることでボールデッドとする「ハットボール」も試行されている。

●2月、ミカサボール大阪K.K.で小学校用アメリカン・ハンカチーフボールのボールが試作販売された。3月、滋賀県愛知川小学校でアメリカン・ハンカチーフボールを開始した。

 

[10]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●関東で前年から開催したターキーボウルは、第2回が11月17日に開催され、体重を制限して臨んだ米海軍選抜が、甲子園ボウル出場の日大を除く立、慶、法主体の関東学生と互角に渡り合い、接戦の末に米海軍選抜が22-16で勝利した。