アジアで初めての夏季オリンピックが東京で開催され、フットボールも開催時期の変更や競技場の利用不可などの影響を受けた。一方、日本フットボール30周年を記念して戦後初の米国ハワイ遠征が実現し、総監督竹下正晃氏、コーチに篠竹幹夫氏、米田満氏、選手は関東4連覇の日大、関西16連覇の関学大各12人を中心に26人の全日本が編成された。全日本はハワイ大学に0対40と完敗したが、ハワイ大OB主体のフォーティナイナーズとの第2試合は28対10と本場チームに対し、戦前の米国遠征を含めて初勝利を挙げた。
1964.01.01
お知らせ
日本フットボール30周年、全日本ハワイ遠征。甲子園ボウル、関学大8連敗
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | ・ 4月1日
・ 4月1日 ・ 8月20日 ・10月1日 ・10月3日 ・10月10日 ・11月8日 ・12月1日 ・ |
・日本、IMF8条国に、円が国際通貨に
・日本、海外旅行自由化 ・国立代々木競技場完成 ・世界初の高速鉄道、東海道新幹線開業 ・日本武道館開館 ・第18回夏季オリンピック開幕(東京) ・アジア初のパラリンピック、東京で開催 ・東京都立駒沢オリンピック公園開園 ・岸記念体育会館移転(東京・渋谷神南へ) |
フットボール | ・10月24日
・12月 ・翌年1月1日 ・翌年1月15日 |
・東京オリンピックの影響で、関東、関西秋季リーグ、遅れて10月開幕
・日本フットボール30周年記念、全日本、戦後初の米国(ハワイ)遠征 ・第18回ライスボウル、1月15日開催の甲子園ボウルの前に開催 ・ハワイ遠征の影響で年を越して第19回甲子園ボウル開催、日大-関学大 |
アジアで初めての夏季オリンピックが東京で開催され、フットボールも開催時期の変更や競技場の利用不可などの影響を受けた。一方、日本フットボール30周年を記念して戦後初の米国ハワイ遠征が実現し、総監督竹下正晃氏、コーチに篠竹幹夫氏、米田満氏、選手は関東4連覇の日大、関西16連覇の関学大各12人を中心に26人の全日本が編成された。全日本はハワイ大学に0対40と完敗したが、ハワイ大OB主体のフォーティナイナーズとの第2試合は28対10と本場チームに対し、戦前の米国遠征を含めて初勝利を挙げた。
[1]主な出来事
●アジアで初の夏季オリンピックが10月10日に東京で開幕。そのために国内の運動施設や交通機関、道路、社会の仕組みなどが充実し、戦後徐々に整備されてきた社会が大きく変った年だった。フットボールもその影響で、秋のシーズンは五輪終了後の開始となり、また五輪で整備された競技施設の利用は翌1965年以降となったため、関東大学リーグの秋季公式戦は各大学のグラウンドを使用した。
●この年は東京五輪に加えて関東・関西の学生の戦後初の米国遠征もあり、グラウンドやスケジュールでいくつかの影響を受けた。秋季大学リーグは東西とも東京五輪終了後の10月24日に開幕。関東大学リーグは各校グラウンドでの開催となり、「第19回甲子園ボウル」は例外的に翌1965年1月15日に開催された。
●これまで、関東では大学リーグ戦の試合結果は試合経過だけでなく、場合によってはプレーの写真も掲載されるなど、やや詳しく報じられてきたが、この頃から徐々に通常の公式戦の試合結果(勝敗とスコア)だけになってきた。ただし、リーグ優勝を決めた試合に関しては、スペースが小さくなったものの、解説付きの記事が多かった。
●1962年の甲子園ボウルで登場した華やかなバトントワラーが、この年のライスボウルでも登場し、ハーフタイムを盛り上げた。以降、アメリカンフットボールの試合、特にボウルゲームではハーフタイムを中心に趣向を凝らしたイベントやショーなどが徐々に行われ、観客の目を楽しませた。
●メンズファションメーカーのVANが社内有志を集めてチームを設立した。
[2]競技施設・装具・公式規則など
◆防具・装具
●当時は既製の防具が高価だったため、選手は母親手製のパッドで試合に臨み、パンツも伸縮性に乏しい物が利用されることが多かった。購入する場合、防具類は国産品がなく、米国からの輸入品で、予約から3か月待ちというほどだった。大卒初任給が12,000円の時代にリデルのヘルメットが3万円、ショルダーパッドは2万円もしたため、とても買うわけにはいかず、先輩から譲り受けたり、米高校との試合後に道具部屋から中古品を譲ってもらったりしたこともあった。そのため、防具のメンテナンスにかける愛着は一通りでなく、ひび割れ補修やポイント点検、ほつれ修理など、予備のない使い込んだ防具や道具を大切に使用した時代だった。
●練習中に水を飲むと「スタミナを消耗し、とんでもない」と言われていた時代。夏合宿は地獄のようで、「終了時に五体満足で帰れる確率は半分未満」と記念誌に記載しているチームもある。
◆公式規則変更
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●フリーキック時、キッカーの足がボールより前に出てもよくなった。従来はキック前に軸足がボールの前に出ると反則だった。
●ゲームクロックが計時を停止している場合、交代人数の制限はなくなり、計時中の場合は2人までの交代となった。現在の自由交代制にかなり近付いた。
[3]春季試合
●関西は関学大が主力選手の大部分が残り、春のシーズンは好調。ベリー・シリーズなどランプレーを主体とした。一方、1試合平均74得点で春季全勝の日大は、好QB横溝裕利(四年、主将)のラン、E中村明広(四年)へのパスを中心に若手バックスを起用。アンバランスTとクイックパント攻撃の威力は相変らずだった。一時4チームあった関東社会人は3チームが活動を停止。唯一活動継続中の不死倶楽部に対抗するため、新たに慶大と立大の若手卒業生がKRCサンダラースを設立。慶大、立大と交流試合を行い、いずれもサンダラースが快勝した。
◆春のボウルゲーム
●第10回西日本大会/西宮ボウル
4月5日に開幕した「第10回西日本大会」は関学大が決勝に進出したが、関学大OB主体の神戸クラブとの試合は不戦勝となり、関学大が優勝した。春のシーズンを締めくくる「西宮ボウル」は西宮球場が日程的に使用できず、中止となった。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●秋季リーグは、東京五輪後の10月24日に東西そろって開幕した。関東の会場は1部リーグが日大下高井戸グラウンドで、2部は東大駒場グラウンドで開催した。開幕前は日大と明大の争いという予想だったが、その通りになり、圧勝を続ける日大と、攻守に切れ味のよさを見せる明大が最終節に全勝で対戦。明大はQB下坂典正(四年、主将)、HB太田正雄(四年)と技のあるラインで健闘したが善戦に終わり、日大が42-22で勝って4連覇を果たした。3位は慶大で、以下法大、防衛大、立大となった。
4年前に甲子園ボウルを制して学生日本一となった名門・立大が、新鋭・防衛大にも敗れて全敗で最下位となったが、入れ替え戦では早大を下して降格は免れた。この立大が翌1965年に甲子園ボウルに出場し、関学大と両校優勝すると思った人はおそらく少なかったことだろう。
■関西(学生)
●関西リーグも関東と同じ10月24日に開幕。服部緑地公園を主会場に、同大と京大のグラウンドを使用した。
関学大はQB美田和茂(四年)の下、G小笠原秀宜(四年、主将)、矢田泰次(四年)、C逸見真敏(三年)のラインと豊富なバックス陣を擁し、どの試合も危なげなく相手を大差で破り優勝し、16連覇を遂げた。立命大戦は128-6の記録的勝利で、他の4大学との試合も50点台の得点を挙げ、この年も1強だった。
2位はここ4年間甲南大が占めていたが、関大が甲南大に48-14で圧勝。関大は関学大には6-52で大敗したが、T有田敏一(二年)、梶義弘(二年)を中心とするラインは粒揃いで、ラインプレーを生かして2位となった。3位以下は甲南大、京大と同大が同率で4位、再下位は立命大という順だった。京大は関学大と関大に大差で敗れたが、甲南大には8-14の惜敗で、同大とは引き分け、立命大には28-0で勝利と安定した戦いができるようになってきた。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第19回甲子園ボウル
●「第19回甲子園ボウル」は米国遠征があったため、ライスボウル終了後の1965年1月15日に開催された。リーグ戦での安定度から、関学大が8年ぶりに王座奪回かとの前評判があった中で日大と対決。両校の主要メンバーは米国遠征で同行し、互いに手の内をさらけ出し合って迎えた一戦だった。
試合は関学大がFB丸上昭二(二年)のインターセプトから好機をつかみ、LG小笠原秀宜(四年、主将)らの強固なラインと左右へのオプションプレーで前進し、1Q終了直前に丸上が右オフタックルで先制。日大もFB伊佐絋之(四年)、LH末永順(二年)のランで攻め、2Q1分に伊佐の左エンドランでTDを挙げ、TFPは末永のパスが決まり逆転。この直後の守備で関学大HB美田和茂(四年)のファンブルを拾ったDE佐久間巌(三年)が50ヤードを独走してTDし、関学大の気力をそいだ。
後半は日大のQB横溝裕利(四年)がショットガンから自由に走り、投げて4TD。日大が48-14と予想外の完勝で、甲子園ボウル4連覇と通算8回目の優勝を遂げた。関学大は1957年の第12回大会から甲子園ボウル8連敗。うち7回は日大に、1回は立大に敗れ、4回は逆転負けで、1TD差以内の敗北も4回だった。
◆第18回ライスボウル
●「第18回ライスボウル」は1965年元日、前年の後楽園競輪場から東京五輪のために改装された国立競技場を初めて使用して開催。以降、国立競技場は第45回大会(92年1月3日)で東京ドームに移るまで27年間使用された。
その「第18回ライスボウル」は、前月の全日本選抜軍のハワイ遠征の関係で、甲子園ボウルは1月15日の開催となり、甲子園ボウル出場の関学大は全員不参加、日大は5人のみが参加となった。明、慶が主力の関東と関大、甲南大中心の関西との対戦となり、関東の監督は野﨑和夫氏(明大監督)、関西の監督は長手功氏(甲南大監督)で、開会式の国歌演奏は日大櫻丘高の吹奏楽部が行った。
雨上がりのグラウンドは試合開始時にやや軟弱だったが、1Qに関東は作戦を指揮するQB下坂典正(明大四年)の下、着実なラインプレーとその間隙を突く多彩なパスプレーを展開し、下坂からE辻村俊一(日大三年)への鮮やかなパスで先制。2Q開始早々、関西が自陣深くでファンブルしたボールを関東が抑えると、FB村瀬幹雄(明大四年)が中央を突いてTD。関東はその後も追加点を挙げ、前半は関東がシリーズ更新10に対し、関西は0と一方的な展開となった。
関西は後半、QB天野隆史(甲南大四年)からE伴永造(関大四年)へのロングパスで前進し、さらに天野がHB三原昭人(甲南大 三年)にロングパスを決めてTDと一矢を報いた。しかし、関東は村瀬幹雄、HB太田正雄(四年)の明大勢のランと、T木元靖郎(日大四年)、E富沢孝(慶大四年)らの強力ラインが活躍。スピードに勝るのと多彩なフォーメーションで終始関西を圧倒。各Qにむらなく得点を挙げて44-6と快勝し、2年ぶり15回目の勝利とした。
長年元日に開催されてきた「ライスボウル」は翌年から1月15日開催となり、「新春スポーツの先陣」はこの年が最後となった。
[6]高校タッチフットボールの活動
◆第11回全国高校大会
●「第11回全国高校タッチフットボール大会」は12月26、27日、藤井寺球技場で12校が参加して開催。準決勝は市立西宮高が法政二高を26-6で、関学高が足立高を40-0でそれぞれ破ると、決勝は関学高が市立西宮高を18-6で破り、市立西宮高の3連覇を阻んで9回目の優勝を飾った。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●関東では秋シーズン開幕前に、在日米軍との交流戦の「第7回ターキーボウル」が開催され、地力を付けてきた関東学生が44-12で勝利し、対戦成績を2勝5敗とした。また前年第1回大会が開催された「高校ターキーボウル」は2回目を11月21日に国立競技場で開催。立川ジョンソン高校が26-8で関東高校選抜に勝利した。
●1934年から30年が経過したこの年、日本協会は30周年記念試合として「米蹴30周年記念ANNIVERSARY BOWL GAME」として関東学生選抜-米海軍オールスター、関東高校アメリカンフットボールチーム-U.S.海軍ハイスクールの2試合を、後楽園競輪場で開催する準備を進めていた。関東学生選抜は日大、立大、明大、慶大のユニットチームが、米海軍オールスターチームは厚木の海軍航空隊チーム、高校戦は関東高校チームが、当時アメリカンフットボールの競技でリーグ戦を開催していた正則高、法政二高、早大学院、慶応高のユニットチーム、U.S.海軍ハイスクールは「米軍横須賀ハイスクール(YO-HI)」の対戦であった。しかし、ベトナム戦争が拡大して米海軍厚木基地からも派兵される事態となり、この記念試合は直前になって中止された。
◆日本チームの活動(海外開催)
●日本フットボール30周年を記念し、戦後初の米国遠征(ハワイ)がハワイ在住の明大OBの日系二世の努力で実現した。
このハワイ遠征は、秋季リーグ戦開幕直後に正式に決定し、例年12月開催の甲子園ボウルを翌年1月に開催するなどの日程調整後、慌ただしく全日本が編成された。団長に日本協会理事長の小川徳治、総監督に竹下正晃(明大出)、コーチに篠竹幹夫(日大監督)、米田満(関学大監督)の各氏が就任した。選手は関東4連覇の日大勢12人、関西16連覇の関学大勢12人、慶・法から各1人補強しての26人。遠征先はハワイで、全米上位100校のボーダーラインにいるハワイ大と、ハワイ大卒業生によるフォーティナイナーズ・クラブとの2試合が予定された。
日本代表の米国との交流は、1935年3月の全米学生選抜が来日して以来3度目。2度目は36年に全日本選抜が訪米した際の米国高校との対戦だった。また、それ以外の日本チーム間の海外での試合は39年に戦前の韓国併合時の京城(ソウル)での早慶戦があったが、いずれも船便の使用。このハワイ遠征は、日本のフットボール初の航空機による遠征でもあった。海外渡航にいろいろな制約や困難があったこの時代、28年ぶりの本場との対戦だが、日本の技術向上と、日大と関学大という日本で頭抜けた2チームがツープラトン制で出場するとあって、連携に不安はなかった。日本のフットボールの誕生はハワイと米本土からの日系二世が中心となっており、その30周年の記念にハワイ遠征が行われたのは、よい企画だった。
●一行30人は12月8日に結団式を行い、9日に日航機で出発。在ハワイ卒業生の歓迎を受け、ロイヤル・トロピカーナ・ホテルに滞在。12日のハワイ大との一戦は、雨上りのホノルルスタジアムで夕刻から開催されたが、緩いグラウンドに持ち味の変化とパスを生かせず、全日本が0-40で完敗した。ハワイ大はフライT体型から開始第1プレーで70ヤードを独走してTDを挙げ、平均体重で日本チームを15キロ上回る体格差と、体力に加えたスピードの差を見せ付けた。
フォーティナイナーズとの第2試合は18日夜、絶好の条件で同じホノルルスタジアムで開催。全日本が28-10と本場チームに初勝利を挙げる健闘を見せた。第1戦の大敗と平日ということもあってか、1,000人ほどの観客の中、フォーティナイナーズがFGで先制したが、全日本も日大チームがQB横溝裕利(四年)からHB末水順(二年)への10ヤードのパスでこの遠征の初TDとして逆転。
2Q、フォーティナイナーズは73ヤードのロングパスを決めて逆転TDとしたが、後半は緊張の取れた全日本のペース。関学大チームがQB梅田一夫(三年)、HB美田和茂(四年)、網克己(三年)、丸上昭二(二年)の小刻みなランで前進し、美田が7ヤードのTDランで再々逆転。丸上のトライも決まって14-10とすると、4Qには関学大得意のオプションプレーからHB宮本曠敬(三年)が80ヤードを独走してTD。TFPは美田のランが成功し、終了間際には日大チームがこの日好調のクイックパント体型からHB末水順(二年)が30ヤードのオープンプレーでTDを挙げてとどめを刺した。28-10の完勝は、日本フットボール界の可能性を証明したものとなった。一行は21日に日航機で帰国した。
日大と関学大が対戦するこの年の甲子園ボウルは、この遠征の後、翌1965年1月15日に開催した。
この戦後初の海外遠征の日本選手団は次の通りだった。
役職/ポジション | 氏 名 |
団 長 | 小川徳治(日本協会理事長) |
総監督 | 竹下正晃(元明大監督) |
コーチ | 米田満(関学大監督)、篠竹幹夫(日大監督) |
E | 新井修一(関学3年)、奥井常夫(関学4年)、佐久間巌(日大3年)、中村明宏(日大4年) |
T | 明石誠(関学3年)、小田島宏(日大2年)、中里喜一(日大3年)、松井完(関学4年) |
G | 太田泰次(関学4年)、小笠原秀宜(関学4年)、柳沢嵩登(日大3年)、山田一宣(日大2年) |
C | 逸見真敏(関学3年)、並木文男(日大4年) |
QB | 梅田一夫(関学3年)、田村洋八(日大2年)、横溝裕利(日大4年) |
HB | 網克己(関学4年)、後藤完夫(慶大4年)、高萩芳宣(日大3年)、末永雅章(日大2年) |
長松幹昌(法大4年)、美田和茂(関学4年)、宮本曠敬(関学3年) | |
FB | 伊佐絋之(日大4年)、丸上昭二(日大3年) |
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
東京五輪開催と30周年記念の全日本ハワイ遠征の関係で、関東、関西とも秋のシーズン開始は10月下旬から、甲子園ボウルはライスボウル開催の後の翌年1月15日開催と、例年のフットボールカレンダーとは大きく異なった年だった。