前年12月のユタ州立大の来日などにより、日本フットボールの活動は広く社会に知られるようになってきた。そしてユタ州立大の近代的攻守に刺激を受けた日本フットボール界は、基礎の見直しを含めた総合的チーム作りへと、普及や競技力向上のペースを上げた。
1972.01.01
お知らせ
社会人チームの実力が向上。高校タッチフットボール、最後の大会
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | 2月3日 | 第11回冬季オリンピック開幕(札幌) |
2月19~28日 | 浅間山荘事件 | |
2月21日 | ニクソン米大統領、訪中 | |
5月15日 | 沖縄、日本に返還 | |
9月5日 | ミュンヘンオリンピック、テロ事件 | |
12月19日 | 米アポロ17号、月から帰還。アポロ計画終了 | |
12月21日 | 東西両ドイツ、互いを国家承認。基本条約を締結 | |
万博記念競技場開場 | ||
フットボール | 春 | ハワイ・カウアイ高来日(関学高、慶応高と試合) |
春 | 第18回西日本大会、サイドワインダーズ優勝。社会人チームが久々の優勝 | |
6月 | 韓国・高麗大来日(関東、関西で3試合) | |
6月 | 日本協会、NFLコーチ、マイク・ギディング氏を招へい、クリニック開催 | |
夏 | ハワイ・ヒロ高来日(日大櫻丘高、関学高と試合) | |
12月10日 | 第27回甲子園ボウル、初出場の法大が関学大を下す | |
12月25日 | タッチフットボール最後の第19回全国大会、虎姫高が都立西高を下す(駒沢第二) | |
翌年1月 | ハワイ大来日(関西、関東で試合) |
前年12月のユタ州立大の来日などにより、日本フットボールの活動は広く社会に知られるようになってきた。そしてユタ州立大の近代的攻守に刺激を受けた日本フットボール界は、基礎の見直しを含めた総合的チーム作りへと、普及や競技力向上のペースを上げた。
[1]主な出来事
●近代的競技力の向上の施策の一環として、6月上旬、日本協会の招待で米国プロフットボールNFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ守備コーチのマイク・ギディングス氏が来日。関東、関西で講習会を開催し、多数のコーチが参加した。戦略とそれに基づく戦術のスポーツ、フットボールの研究が進んできた頃だった。
[2]競技施設・装具・公式規則
◆公式規則変更
●この頃まで、前半・後半の終了時には、競技用ピストルでその終了を知らせていた(ボールデッド時)。紙火薬の弾をセットした競技用ピストルは、前後半ラスト4分のレフリーからのシグナルがあった後、主催者(当番学連委員など)が、グラウンド内の審判員(主としてBJ(バックジャッジ))に手渡した(雨天時はビニールなどに包んだ)。BJは手元のストップウオッチを見て、前後半終了時にその競技用ピストルを鳴らし、前後半の終了を知らせた。コーチは、その競技用ピストルがグラウンド内の審判員に手渡されると、「残り時間が少ないな」、BJが撃鉄を上げると「もうすぐ終了だな」と判断した。試合時間をチームや観客に知らせるスコアボード内の計時装置が、大きな競技場にしかない時代だった。
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●相手の膝、頭、顔、首に伸ばした腕や肘で当たることは、15ヤード、ひどい反則者は資格没収となった。
[3]春季試合
◆春のボウルゲーム
●第18回西日本大会
春季恒例の「第18回西日本大会」で、関学大は前年の甲子園ボウルで負傷したQB万田博一(三年)がその影響で春練習は不在となり、2回戦で全桃山学院大に0-12の完封負けする波乱でスタート。そして、前年度日本リーグが結成されて意気上がる社会人が、大学を抑えて決勝に進出した。決勝では、前年度社会人覇者のサイドワインダーズが、関学大出身が多いホワイト・ベアーズを21-12で破って初優勝。新時代の幕開けを示した。社会人チームの西日本制覇は1960年の第6回の全神戸(関学大OBチーム)以来12年ぶり。関学大現役、卒業生以外が優勝したのは66年の関大に次いで2回目であった。サイドワインダーズは森龍彦監督、金氏眞ヘッドコーチ以下、京大出身選手が中核となっていた。社会人チーム同士の決勝戦は、社会人チームのレベルアップを印象付けた。
●第18回西宮ボウル
第18回を迎えた初夏恒例の夜間試合、「西宮ボウル」は6月6日、全関東、全関西ともに社会人リーグ勢が中核で14チームから選抜された編成となった。全関東の佐曽利正良(シルバースター)、全関西の金氏眞(サイドワインダーズ)がQBとして指揮した。全関西がリードして迎えた4Q、全関東の川口久(法大四年)がTDを挙げ、TFPも決めて同点に持ち込み、20-20で史上初の引き分けとなった。対戦成績は全関西の9勝8敗1分。
[4]秋季試合
◆秋季試合(学生)
■関東(学生)
●関東では秋季リーグ戦を迎えるにあたり、採用3年目の並列リーグ制のリーグ内実力格差を是正するため、所属校を見直した。関東学生リーグの日大を東京七大学リーグへ、日体大を関東七大学リーグへ(ともに1校増えたので「六大学リーグ」から「七大学リーグ」の名称へ)、桜美林大をさつきリーグに移動した。
また、過去2年、リーグごとに発行していた秋季リーグ戦プログラムを関東フットボール協会発行の1冊に統合した。主会場は駒沢競技場とし、他に各大学のグラウンドを使用した。新加盟は千葉商科大、桜美林大の2校。関東大学リーグは計34校でリーグ戦を開催した。
3年ぶりに旧1部校が多くを占める東京七大学リーグで対戦した日大は、大学紛争の影響で四年生部員は2人でまとまりを欠き、法大に12-14と惜敗。その法大は日大戦に勝利したものの明大に0-14で敗れ、早大とは6-6の引き分け。日大が5勝1敗で優勝し、法大は2位となった。日大は東京七大学リーグの優勝は果たしたが、攻撃力は大幅ダウン。日大の常勝が続いていた関東の大学リーグに、法大がもう一方の柱となる前触れだった。
●第3回関東大学選手権
「第3回関東大学選手権」には、これまで5リーグの優勝校のみのトーナメントであったが、この年から5リーグ優勝校に加え関東学連理事、審判協会理事からなる選考委員による検討を経た推薦校3校が加わる8校によるトーナメントとなった。この年は推薦出場の規定により、東京七から日大と法大、さつきから桜美林大と明学大、関東七から防衛大と日体大、それにリーグ優勝の一橋、東経を加えた8校が出場した。
決勝は日大-法大の再戦となったが、法大が後半FB川口久(四年、主将)、HB高田洋一(三年)を生かすラインの健闘で逆転し、18-8で関東初優勝。甲子園ボウル出場を決定した。日大はQB山本剛士(四年、主将)からE平野祐之(二年)へのロングパスによるTDだけで、1968年に明大に屈して以来4年ぶりに甲子園ボウル出場を逃した。
■関西(学生)
●9月中旬開幕の関西学生リーグは、西宮競技場と西京極総合運動公園を使用して開催。春に全桃山学院大に敗れた若手中心の関学大は、秋季リーグ戦は常に失点を許す不安定な試合ぶりだった。関学大は、関西学生リーグ2年目の追手門学院大に22-14と競った試合の勝利となったが、一、二年生主体の若いチームをG/LB伊角富三主将(四年)が良くリードして伝統を守り、公式戦118連勝で関西24連覇を達成した。この年の関学大の強みは、キッキングでコンスタントに50ヤードを蹴るK千田英雄(一年)と雨中でも確実なスナップを送るC麻生五郎(三年)の安定的なプレーだった。
激戦の中から6勝1敗で2位となったのは京大。金氏眞ヘッドコーチの的確な戦術指導もあって関大を26-24、甲南大を14-6とともに僅差での勝利。QB刀根規久男(三年)を中心としたIフォーメーションから正確なミドルパスが岸田明義(二年)、池上直哉(二年)の両エンド、HB松浦康夫(二年)に飛び、また刀根も自らランナーとなって進む攻撃が功を奏した。3位の甲南大は4勝3敗。桃山学院大、阪大、追手門学院大など下位グループも着実に力を付け、大差の試合が減少した。
■各地区(学生)
【北海道】3月、札幌大が創部し、道内で最初の活動を開始。北海道学生アメリカンフットボール連盟の設立は、この3年後の1975年だった。
◆秋季試合(社会人)
●社会人の日本リーグは関東で警視庁、関西でトミジマが参加した。7チームで開催した関東はイエローシャークスが優勝。以下サンダラース、シルバースター、4位は同率でヴァンガーズとアポロ11、6位が同率でバッファローと警視庁となった。
5チームで開催した関西はサイドワインダーズが優勝。以下ブラックイーグルス、ホワイト・ベアーズ、ヴァンガーズ、トミジマとなった。
翌1973年3月18日の第2回東西王座決定戦は、サイドワインダーズがイエローシャークスを20-12で破り2連覇。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第27回甲子園ボウル
●関学大と法大という過去オープン戦も含めて対戦したことのない両者の「第27回甲子園ボウル」は、12月10日に15,000人の観客を集めて行われた。
わずかに優位と予想された関学大は1Q、押しながらも無得点。パスの関学大、ランの法大と対照的な両校だが、まず法大のランが波に乗った。大型FB川口久(四年、主将)へのマークを避け、3人目のバックの石井英介(四年)が快走し、2Q10分に17ヤードのTDラン。QB松本孝伸(四年)からRE三橋幸二(四年)へのパスでTFPも成功すると、関学大守備が崩れた。
法大は3QにFB川口久(四年、主将)が中央突破で2TD。関学大は武田建新監督の下、ラインのLG伊角富三(四年、主将)、RG豊島良夫(三年)のブロックで守られたQB玉野正樹(一年)からE山崎博(四年)へ得意のロングパスを通して反撃。しかし、法大は川口が再三の中央突破を見せ、71ヤード独走でこの試合3つ目となるTDを挙げた。
その後も関学大はQB玉野正樹からWR小川良一への一年生コンビで40ヤードTDパスを決めると、法大FB川口久(四年、主将)はこの日4回目の中央突破での29ヤード独走TD。この3Qは両軍合わせて38点という激しい攻め合いだった。
法大は「第16回全国高校タッチフットボール大会」で優勝した法政二高出身が主力。佐藤利雄総監督、金井明彦監督の下、自主的な運営で個性を出し合うセミ・ツープラトン制を採用。LT大坪広(四年)、RG山田裕保(三年)を中心とするラインの忠実なブロックがFB川口の突進力、LH石井英介(四年)、RH高田洋一(三年)の快足を生かして34-20で勝利し、初優勝を飾った。パスプレー全盛のこの時代、法大はすべてのTDをランプレーで、しかもすべて守備ラインの中央を破ってみせた。
◆第26回ライスボウル
●翌1973年1月15日、「第26回ライスボウル」は11時半から雪の中、国立競技場で同日の関東代表のハワイ大戦との同時開催で行われた。
ライスボウルの関東代表は東京七大学リーグ勢がハワイ大戦のチームに参加するため、このライスボウルは主に日体大、東海大、防衛大の関東学生リーグと青学大、明学大、桜美林大のさつきリーグを主体として編成された。関西は例年通り、関学大を主体とした編成。監督は関東が日体大監督の近藤昭雄氏、関西が関学大監督の武田建氏だった。試合前は、関西の圧倒的有利との予想だったが、関東が善戦し、最後まで分からない好試合となった。
関西のキックで試合開始。関東はそのキックを10ヤード付近でレシーブした糸川秀(中大三年)が90ヤードのリターンTDを挙げ、試合開始19秒で先制した。しかし関西は、その後QB刀根規久男(京大三年)が7ヤードの中央突破のTDを挙げ、TFPで逆転した。
その後、関東はQB倉井昭(防衛大四年)からE山村国夫(防衛大三年)へのTDパスで再逆転すれば、関西もHB川口准一(関学大三年)のオフガードのTDで再々逆転。1Qを関西が16-12とリードして終了すると、その後も関東、関西まったく互角の戦い。関西は4QにFB金本正明(甲南大四年)が左オフガードのTDで関東を突き放すと、追いすがる関東を振り切った。最終スコアは28-26。5度の逆転劇の接戦を関西が制した。
[6]高校フットボールの活動
●1946年に大阪で当時の米軍政官ピーター・オカダ氏によって始められたタッチフットボールは、関西地区のこの年の活動で終止符を打つことになった。
◆春季大会(高校)
●「関東高校春季大会」決勝は、6月25日に都立西高グラウンドで、日大櫻丘高と慶応高が対戦。0-0のまま4Qに入り、日大櫻丘高は慶応高陣15ヤードで、ショットガン・フォーメーションからQB中川が走り込んでTD。そのまま試合終了となり、日大櫻丘高が優勝した。
●「第2回春季関西高校選手権大会」はトーナメントで開催され、決勝で関学高が14-0で関大一高を破って優勝した。
◆秋季大会(高校)
■関東地区(高校)
全国大会関東地区は、東京地区は14校で開催。日大櫻丘高が決勝で東海大付高を34-26で破り、決勝を戦った両校が全国大会に出場した。神奈川地区は4校で開催。慶応高が優勝し、準優勝の法政二高とともに全国大会に出場した。
■関西地区(高校)
関西地区はトーナメントを勝ち進んだ関学高、関大一高、府立池田高、清風高でリーグ戦を実施。関学高が全勝で優勝し、関大一高とともに全国大会に出場した。
◆全国高校選手権
●高校では、終戦直後から普及の中心となってきたタッチフットボールがこの年で姿を消した。加盟校がアメリカンフットボールへと移行し、参加校が減少。全国大会もこの年の第19回が最後の大会となった。12月25日に駒沢球技場で行われた決勝では、県立虎姫高が都立西高を14-0で破って初優勝を遂げ、戦後の高校フットボールを支えた高校タッチフットボール競技の幕を下ろした。
同時に開催された「第3回全国高校アメリカンフットボール選手権」は8校が参加し、12月23日に駒沢第二球技場と日大下高井戸グラウンドで1回戦を開催。関大一高が日大一高を、日大櫻丘高が日吉ケ丘高を、東海大付高が崇徳高を、関学高が慶応高をそれぞれ破り、翌日の準決勝に進んだ。
翌24日に駒沢第二球技場で予定していた準決勝は、雨天のため使用できず順延。翌25日の10時に準決勝、13時半に決勝を行う強行スケジュールとなった。準決勝は関学高が22-0で東海大付高を、日大櫻丘高が50-6で関大一高をそれぞれ破り、午後の決勝に進んだ。決勝は関学高が日大櫻丘高を27-8で破り、3年連続3回目の優勝を飾った。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●高校の日米交流は、春季にハワイからカウアイ高、夏季にはヒロ高が来日、関学高、慶応高、日大櫻丘高と対戦。関学高が1勝を挙げた。
●これまで国際試合は米国との試合が多かったが、当時、アジアでもう一つのフットボール活動国である韓国からの来日や対戦も始まった。シーズン開始前の6月、初めて韓国から選手21人を含む高麗大チーム29人が来日した。韓国では当時5大学が活動し、この年来日した高麗大は韓国の強豪チームだった。10日に国立競技場で全関東学生に14-63、14日に駒沢第二球技場で早大に6-48、18日に西宮球技場で関学大に8-56と3試合を行ってすべて敗れた。
●シーズン終了後の翌1973年1月、前年のユタ州立大に続く日米交流の第二陣としてハワイ大が来日。1月7日に西宮球技場で全日本(関西)と、同15日に国立競技場で全日本(関東)と対戦した。選手には日本、中国、韓国の二世の選手も多く、国際色豊かなチームだった。
米国では比較的、小型だが、ハワイ大は全日本とは二回りは違うサイズ(日本チームとの体重差約20キロ)。それに加えてスピードがあった。関西での試合では、全日本がQB金氏眞(京大)からHB阪口善裕(京大)のコンビで2回のパスを成功させて敵陣に迫ったが、TDを挙げられず全日本は0-31で完敗。
1月15日には天候が悪い中、国立競技場に25,000人の観客を集めて全日本(関東)が挑んだが、0-43で敗戦。ハワイ大は2連勝で帰国した。この2試合はいずれも天候が悪く、関西では雨、関東では雪交じりの雨という悪コンディションだった。ハワイ大のラインの平均体重は107キロ、バックスは90キロ超の体格に、日本チームはどうしようもなかった。
●この年の桜の季節にも「サクラボウル」が第3回として開催され、全日大が在日米海軍厚木を22-0で破り、初勝利を挙げた。
◆日本チームの活動(海外開催)
●8月、関大がOBを加えた全関大としてグアムに遠征。8月26日、グアム大スタジアムでグアム大と対戦。両チーム2TDずつを挙げたが、グアム大の1QのTFP失敗があり、全関大が14-13で勝利した。
★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「一年時:日大RB3人のうまさ。二年時:全国優勝。三年時:日大がはじめて現在のショットガンを使い短いパスが止められなかった。四年時:日大、日大と思いながら法大に敗れたこと」(関学大1971年卒、G、主将、伊角富三)