1964年東京オリンピックの陸上男子百メートル金メダリスト、ボブ・ヘイズ氏が3月に来日。試合とともにフットボールに対する社会的関心が高まった。メディアでのフットボールの取り上げも多く、街中でのファッションにフットボールが取り入られた。国内のチームの設立も多くなり、特に地域で活動するプライベートチームが多くなった。
1974.01.01
お知らせ
ボブ・ヘイズ氏来日。社会で広く競技活動が報じられる
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | 5月1日 | 日本初の障がい者専用スポーツ施設「大阪市身体障害者スポーツセンター」オープン |
8月8日 | ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任 | |
10月21日 | IOCアマチュア規定改正 | |
11月25日 | 第1回世界スポーツ科学会議、モスクワで開幕 | |
フットボール | 3月 | ボブ・ヘイズ氏来日(在日米軍チームに加わり、関東と関西で試合) |
8月 | ハワイ・マウイ高来日(関学高、慶応高と試合) | |
8月31日 | アメリカンフットボール専門誌「FRESHDOWN」創刊 | |
秋 | 駒沢第二球技場でゴールポストを使用。キッキングが重要視される時代になる | |
秋 | 関西学生リーグ、2部を4ブロック制に | |
10月26日 | 第1回プレジャーボウル(後の平和台ボウル)。九州学生選抜-在日米軍佐世保 | |
11月 | 第1回ポテトボウル、札幌ラングラーズ-旭川大 | |
12月 | ノースウエスタンカレッジ来日(関西・関東で試合) | |
12月14日 | 第29回甲子園ボウル。この年から年間最優秀選手賞チャック・ミルズ杯を授与 | |
12月29日 | 関学高、高校アメリカンフットボール5連覇 | |
九州アメリカンフットボール連盟設立 |
1964年東京オリンピックの陸上男子百メートル金メダリスト、ボブ・ヘイズ氏が3月に来日。試合とともにフットボールに対する社会的関心が高まった。メディアでのフットボールの取り上げも多く、街中でのファッションにフットボールが取り入られた。国内のチームの設立も多くなり、特に地域で活動するプライベートチームが多くなった。
[1]主な出来事
●1934年のわが国のフットボール初の公式試合から40周年を迎えた日本フットボール界は、その着実な普及や競技力向上とともに一般からの強い関心も集め出した。
契機となったのは、3月の米国プロフットボールNFLの代表的WRだったボブ・ヘイズ氏(ダラス・カウボーイズ)の来日だった。関東、関西で在日米軍のチームに加わり、2試合を行った。それまでは遠い存在だったNFLが身近な存在となり、街にはNFLチームのキャラクター商品があふれ、夏には大きな番号入りTシャツを着た人々が街を歩いた。
そして秋には、NFL公式戦の番組がテレビに登場。UHFのカレッジフットボールの放映など、週3番組の放映が始まった。10年前は関東・関西での大学チーム数は20校。それがこの年には関東で37校、関西で30校と増加し、社会人チームも関東で10、関西で9となった。さらにフットボール愛好者で活動するプライベートチームが関東だけでも50チームあると言われ、アメフトブームの到来であった。
●この年からNFLの試合の放映がNET(現テレビ朝日)で始まった。深夜時間帯の放映で、以降テレビ局の変更はあったが、民放では1993年まで放映が続いた。
●8月30日、アメリカンフットボール専門誌『FRESHDOWN』がJapan Football Properties社から創刊された。
[2]競技施設・装具・公式規則
◆競技施設
●秋、関東の主要会場である駒沢第二球技場でゴールポストを使用するようになった。公共会場である同球技場は常設することはできず、試合開始前に組み立てて設置し、その日の最後の試合の終了後に解体、格納する利用方法だった。しかし、リーグ戦でのゴールポスト使用で、キッキングは日常的なこととして重要視される時代となった。
◆防具・装具
●この頃から、試合や練習時にテーピングを使用することが多くなった。多くの企業からさまざまな商品が販売され、テーピングの技術指導もチームのトレーナーやマネジャー向けに盛んに開催された。再利用可能なテープもあったが、多くは1回だけの使用で、テーピング代はばかにならなかった。
◆公式規則変更
【参考】この年のNCAAの主な規則変更
●フリーキック時はどこでも、およびスクリメージキック時では正当なクリッピングゾーンを越えた地点でどこでも、腰から下のブロッキングが禁止された。この変更は、負傷の予防に大きな効果があった。また以降の、ブロックの安全性に関して次々と規則変更がされるきっかけだった。
●ショルダーパッドの使用が義務化された。
●攻撃側が自己のチームのボールを使用できるようになった。以前は、レフリー(主審)が選んだ1個のボールを試合中通して使用した。
●負傷者のためのタイムアウトは、レフリータイムアウトとなった。以前は、特に明確な規定はなく、場合によってはチームタイムアウトが課された。
●チームタイムアウトの回数は、それぞれのチームが前・後半で各4回が3回になった。
●チームタイムアウトの要求はフィールドキャプテンに限られていたが、どのプレーヤーも要求できるようになった。
[3]春季試合
◆春季試合(学生)
●大学では春季から関学大が独走していた。日大、明大との定期戦に完勝。「第20回西日本大会」でもNACLに快勝し、「第20回西宮ボウル」でも全関西の核として勝利に貢献した。
◆春のボウルゲーム
●第20回西日本大会
「第20回西日本大会」は日大、明大に快勝した関学大が、QB玉野正樹(三年)、西村英男(二年)のリードで順調に勝ち進み、決勝で関学大OBのE滝悠喜夫、E安部井湧助、E野木伸二、QB広瀬慶次郎らが活躍する社会人チームNACLを28-8で破り、3年ぶり16回目の優勝を飾った。パスの関学大の得点源、WR小川良一(三年)の活躍が光った。社会人チームの3連覇は関学大が阻止した。
●第20回西宮ボウル
「第20回西宮ボウル」は6月24日、西宮球場に15,000人の観客を集めて開催。両チームとも社会人、学生から選抜された文字通りのオールスターの対戦となり、白熱した試合を展開した。全関東が試合開始3プレー目でTDパスで先制。その後、全関西のHB谷口義弘(関学大三年)が雨の中で3TDを挙げ、守備の伊角富三(関学大OB)、ケント・ベアー(ユタ州立大OB)、前川比呂郎(関学大三年)、松田成俊(関学大三年)の鉄壁の守りで以降の得点を許さず、全関西が28-6で完勝し、対戦成績を関西の11勝8敗1分とした。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●並列5年目を迎えた関東リーグは、主会場である駒沢第二球技場にゴールポストが使用され、キッキングの重要性も浸透した。リーグ戦は例年通り、駒沢競技場(第二球技場、補助競技場)をメイン会場とし、その他の各大学グラウンドを使用した。創価大が加盟し、関東大学リーグは35校となった。
東京七大学リーグでは、日大が軽量ながら機動力のあるラインがQB中川雅昭(二年)のパス、FB桐野達也(三年)のランを生かし、G横越善嗣(二年)、T森田勝良(四年)の鋭いラインがQB宮部昌彦(四年)、FB井口庄司(三年)を生かす明大と1、2位を占めた。
明大と日大の試合は、明大のオプションプレーを日大が4-4守備でストップし、日大が20-0で勝利。しかし、関東大学選手権での対決を意識してか、両チームともすべてをさらけ出した試合ではなかったようだ。法大は日大に7-19、明大に8-28でともに敗れ、関東大学選手権への出場はかなわなかった。
●第5回関東大学選手権
日大、明大の両校にそれぞれのリーグで1位となった日体大、青学大、千葉商大、東経大の各校と推薦の東海大、桜美林大を加えての「第5回関東大学選手権」の決勝は、予想通り準決勝で東海大を66-0で破った日大と、日体大に26-24で辛うじて勝利した明大の対戦となった。
日大は開始15プレー目でQB中川雅昭(二年)からE平野佑之(四年、主将)へのTDパスで先制。以降も日大は軽量ラインながら縦へのスピードとタイミングを生かした速いプレーで62-10と明大に圧勝し、16回目の関東征覇をなし遂げた。
■関西(学生)
●関西は仏教大、京都学園大、京都外国語大、大阪体育大、大阪商科大の5校が加盟。合計29校と急増し、関東の35校に近付いた。関西学生リーグの試合会場は西宮球技場、西京極球技場で、近畿学生リーグは主として各大学のグラウンドを使用した。
前年関学大に肉薄した京大は、水野彌一新監督の下でその後も大きな話題となるウィッシュボーンT体型を採用。稲波博男(二年)、河瀬卓郎(三年)、川端僚二(二年)の強力ラインとQB中川恒(四年、主将)、FB倉光恭三(二年)を生かし、5-2守備はLB松崎裕(二年)、DB松浦康夫(二年)、高木俊彦(二年)がまとめて絶好調だった。
その京大は全勝の関学大と最終戦で対戦したが、関学大の巧みな戦術にRB柴田尚(四年)の効果的な先制TDを許すなど、0-24で敗北した。しかし、京大は3位となった近大に94-0、追手門学院大に74-0で勝利し、リーグ戦の総得点355と失点16は関学大の374、19とほぼ互角。3年連続で2位となった京大が、連勝を続ける関学大に忍び寄ってきたと言えた。3位は星をつぶし合って近大、甲南大、阪大の順となった。
■各地区(学生)
【北海道】 道内大学チーム同士の初の試合、札幌大-北海学園大の試合を開催した。
【九州】 「九州アメリカンフットボール連盟」が設立された。加盟大学チームは福岡大、西南学院大(翌1975年、久留米大加盟)。
◆秋季試合(社会人)
●4月、四国で初めてのチーム、松山マフバックス(クラブチーム)が結成され、活動を開始した。
●企業チームが進出してきた社会人リーグでは、関東実業団の老舗・東京ヴァンガーズが協会を離れ、ラングラーズ、東京パリス、三井物産と4チームで独自のリーグ運営を行った。10月26日、千葉県総合運動場陸上競技場で、この4チームによる「第1回ピーナッツボウル」を開催した。秋の4企業チームのリーグ戦の最終日にボウルゲームとして開催されたもので、東京ヴァンガーズ-パリス東京、ラングラー-三井物産の対戦。各社挙げての華々しい応援合戦やバンド演奏でフットボールの雰囲気を高めた。ピーナツボウルは1976年の第3回まで開催された。
社会人日本リーグは、関東地区はクラブチームのリーグと企業リーグの2リーグに分け、クラブチーム・リーグ上位2チームによる優勝決定戦はシルバースターが16-7でサンダラースを破って2連覇。企業リーグでは警視庁がレナウン、東京トヨペットを破って優勝した。
クラブチーム主体の関西地区は4チームでリーグ戦を開催。初戦で優勝候補同士のサイドワインダーズとブラックイーグルスが対戦、両チームとも肝心な場面での反則や公式規則の理解不足、ファンブルなどで思わぬ展開が続き、ブラックイーグルスが16-14でサイドワインダーズを破り貴重な勝利を挙げた。その後、ブラックイーグルスはヴァンガーズ、オールゼンケンを破って全勝で優勝した。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第29回甲子園ボウル
●関学大有利の前評判で迎えた16回目の対戦となる日大-関学大の「第29回甲子園ボウル」は12月8日、25,000人の観客を集めて開催された。日大はチームワークとラインの大健闘で奔放なプレーを展開。終盤に関学大が逆転し、史上に残る好試合となった。
立ち上がり、関学大は体重が約10キロ軽い日大ラインに苦しんだが、2Qに柴田尚(四年)の47ヤード独走で先制。TFPをK村田安弘(二年)がキックで決めて7-0とリード。しかし、日大は直後のキックオフリターンで吉田一雄(三年)が80ヤードのTDを挙げると、さらにFB桐野達也(三年)、LH高林厚(三年)のランで揺さぶり、最後は桐野が30ヤードのTD。トライもK中川雅昭(二年)のキックが成功し、13-7と逆転した。
後半に入って関学大がQB玉野正樹(三年)からLH小川良一(三年)へのパスで再逆転すれば、日大もラインの気力ある当たりでRH岩沢正人(二年)がTDで再々逆転と激しい展開。関学大は日大の切り札であるQB中川雅昭(二年)からRE平野祐之(四年、主将)へのパスを、S石田常雄(二年)が好インターセプトして日大の勢いをそぎ、玉野から小川への再度のTDパスとK村田安弘のキックで逆転した。
関学大は4QにもS石田常雄(二年)のインターセプトからRH谷口義弘(三年)のTDに結び付け、日大のパス反撃を守り切って28-20で試合終了。層の厚い関学大が勝利した。この年から学生の年間最優秀選手賞として「チャック・ミルズ杯」が制定され、柴田尚(関学大四年)が受賞した。
◆第28回ライスボウル
●翌1975年1月12日の「第28回ライスボウル」は、国立競技場に28,000人の観客が集め、13時キックオフ。グラウンドが軟弱で、ラインの平均体重が10キロ軽い関東選抜の苦戦が予想された。
前半、両軍1TDずつを挙げて後半に突入。3Q、関東はリーグ戦ではQBを務めた藤野正博(日体大四年)をFBに配置したショットガン体型を採用。C米沢秀彦(日大四年)からスナップを受けた藤野が関西のラインを引き付けてから両Eの安田弘(日体大四年)と平野祐之(日大四年)にミドル、ロングのパスを鮮やかに決め、4分、6分、9分と立て続けにTDを挙げ、一気に25-7とリードした。
関東は4Qにも駄目押しのTDを挙げ、守備陣も関西の反撃を封じて31-7で勝利した。米国の大学との国際試合で変則的な選手編成を2年間続けてきた「ライスボウル」だったが、本来の関東選抜のチーム編成に3年ぶりに戻った。関東はノースウエスタンカレッジとの日米交流戦の後、3週間の練習をこなし、関西に3年ぶりの勝利を挙げて対戦成績を18勝10敗とした。
◆その他のボウルゲーム
●24年前の1952年、第1回大会として県立兵庫高OBと県立星陵高OBの対戦で始まった神戸ボウルは諸般の事情からこの年は1月7日(月)の平日開催となった。しかし会場の神戸中央競技場には2,500人の熱心なファンが来場。平日開催のため学生間の試合となり、関西学生選抜と関西リーグ3位の近大と4位の甲南大を主とした全関西の対戦となった。試合は全関西が善戦したが、関西学生選抜が30-0で勝利した。
[6]高校フットボールの活動
◆春季大会(高校)
●「春季東京都大会」(神奈川、埼玉も参加し、実質は関東大会)は17校が参加。準決勝で浅野高を下した日大櫻丘高と、慶応高を下した法政二高が決勝で対戦し、日大櫻丘高が40-0で勝利した。
●「春季第4回関西高校選手権大会」は準決勝で県立八日市高(滋賀)を破った関学高と、関大一高(大阪)を破った崇徳高(広島)が決勝で対戦し、関学高が66-0で崇徳高を下して3回目の優勝を遂げた。
◆第5回全国高校選手権
●秋季の高校大会は7都府県55校が参加。各地区の代表からなる「第5回全国高校選手権」は12月27日~29日、前年に続き西宮球技場で開催した。
日大櫻丘高、日大一高、駒場学園高、法政二高、関西大倉高、県立八日市高、関学高、崇徳高の8校のトーナメント戦では、準決勝で駒場学園高を12-7で破った法政二高と、日大櫻丘高を42-0で下した関学高が決勝で対戦した。
1Qで法政二高が2つのTDを挙げ、4Q残り1分15秒で法政二高が14-8でリードしていたが、法政二高のパスを関学高がインターセプト。それからの攻撃を関学高が40ヤードのパスとキャッチ後の30ヤードランで同点のTD。2点のTFPも決め、関学高が16-14の劇的な勝利を挙げた。関学高は第1回大会から5連覇とした。
[7]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(国内開催)
●日米交流はコーバー明治学院高教師の努力で、翌1975年にNAIA(全米大学対抗競技協会)2部優勝するノースウエスタンカレッジ(アイオワ州オレンジシティ)を招き、東、西学生選抜が対戦した。
12月24日の第1戦は、西日本学生が関学プロ、京大ウィッシュボーンの二つの攻撃チームで編成し臨んだが、0-48と完敗。同29日の東日本学生戦は雨中戦となり、約30キロの体重差をQB藤野雅博(日体大四年)のパスとFB桐野達也(日大三年)、HB岩沢正人(日大二年)のラン、それに好守備で善戦したが、0-14の惜敗に終わった。米国下位校ではあるが、ノースウェスタンカレッジの試合で基礎体力や基礎知識の重要性を学んだ交流だった。
●3月、1964年東京オリンピックの陸上男子百メートルで10秒0の世界タイ記録で、四百メートルリレーでは米国のアンカーとして4人をごぼう抜きし、それぞれの金メダリストとなったボブ・ヘイズ氏(当時NFLダラス・カウボーイズ所属のWR)が10年ぶりに来日。国立競技場で関東社会人選抜と、西宮球場で関西社会人選抜(ともに当時の日本リーグのオールスター)との試合に出場した。
ヘイズ氏は、QBとして当時のWFL(World Football League)所属のゲリー・バルベナ氏(テネシー大卒)を帯同させ、在日の米国オールスターチーム(多くは米軍チームに所属)の一員として参加した。国立競技場の試合には38,000人、西宮球場には28,800人の観客が集まった。これまで米軍と共催した1955年の「ライスボウル」で40,000人の観客が最多記録だったが、それに次ぐ観客数であった。
ヘイズ氏はWRとして攻撃のほぼ全プレーに参加。日本チームの守備ラインの活躍でQBが余裕を持ってパスを投げることが少なく、自身も徹底したマークに遭って華々しいTDレシーブやロングランはなかったが、関東での試合は3Q終了間際に逆転のTDを挙げ、見せ場をつくった。
1プレーごとに観客をわかせた同氏の来日は社会的関心を集め、試合前後に多くの報道がなされた。1970年代後半から社会的にも注目されたフットボールの話題の皮切りであり、その効果は大きかった。
●第8回を数える「東京シルクボウル」は12月15日、国立競技場に10,000人の観客を集めて開催。関東社会人選抜が16-6で在日米軍横田を下した。日本チームの勝利は大会史上初。関東社会人選抜の在日米軍チームとの対戦では、これまで3戦して今回が初勝利だった。近年、日本チームの実力が向上してきたこと、および米国は1973年から徴兵制を撤廃したことも関係しているのか、この頃から、日本チーム(学生、社会人)は在日米軍と対等、そして徐々に日本チームが優勢になっていった。
★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)
●甲子園ボウルの想い出
「秋は京大戦に全精力を傾けたために、十分に日大をスカウトできずに苦戦を強いられた。前半軽い脳震盪を起こしていたために得点が分からず、負けていると聞いてびっくりした。日大のパスが良く、石田常雄のファインプレーがなかったらと、心の緩みの恐ろしさを思い知らされた」(関学大1975年卒 T。主将 小寺通嗣)