前年度からの急速な一般の関心の増大を反映するように、東京・大阪中心の関東・関西以外に北海道、東海、広島、九州の各地区でフットボールの活動が開始され、日本協会に加盟。結成された地方連盟により、活動は全国的規模に拡大した。そして各試合、接戦が続き、日本フットボール界は実力迫中の戦国時代の幕明けとなった。また米国外での初の全米学生オールスター戦、ジャパンボウルが開催され、多くのNCAAのスター選手が国立競技場を駆け巡った。日本で海外チーム間の試合が多く開催される始まりだった。
1975.01.01
お知らせ
各地区で加盟校急増、全国的普及が開始。ジャパンボウル始まる
日 付 | 主な出来事 | |
社 会 | 4月30日 | サイゴン陥落、ベトナム戦争終結 |
5月16日 | エベレスト日本女子登山隊の田部井淳子氏、女性で世界初の登頂成功 | |
7月5日 | 沢松和子・アン清村組、テニスのウィンブルドン選手権女子ダブルスで優勝 | |
11月15日 | 第1回先進国首脳会議、フランスのランブイエで開催 | |
フットボール | 春 | 第1回全国歯科学生アメリカンフットボール競技大会(岐阜歯科大G) |
4月1日 | 広島アメリカンフットボール連盟設立 | |
6月 | 北海道学生アメリカンフットボール連盟発足 | |
5月23日~ | アメリカンフットボール・フェア開催(渋谷パルコ) | |
7月6日 | 第1回スズランボウル、札幌大-北海学園大、北大-札幌ラングラーズ(札幌大競技場) | |
8月 | ハワイ・カウアイ高来日(関学高、駒場学園高と試合) | |
9月 | 東海学生アメリカンフットボール連盟設立、5大学で関西学生リーグから独立 | |
10月 | 東北学生アメリカンフットボール連盟設立 | |
11月 | 社会人全日本(関東社会人)、フィリピン遠征(在比米海軍、同空軍と2試合) | |
12月20日 | ベースボール・マガジン社より「アメリカンフットボール・マガジン」創刊 | |
12月28日 | 関大一高、関学高の6連覇を阻んだ東海大付高を破り、初の高校日本一 | |
秋 | 関西社会人リーグ発足 | |
翌年1月18日 | 第1回ジャパンボウル開催(国立競技場) |
前年度からの急速な一般の関心の増大を反映するように、東京・大阪中心の関東・関西以外に北海道、東海、広島、九州の各地区でフットボールの活動が開始され、日本協会に加盟。結成された地方連盟により、活動は全国的規模に拡大した。そして各試合、接戦が続き、日本フットボール界は実力迫中の戦国時代の幕明けとなった。また米国外での初の全米学生オールスター戦、ジャパンボウルが開催され、多くのNCAAのスター選手が国立競技場を駆け巡った。日本で海外チーム間の試合が多く開催される始まりだった。
[1]主な出来事
●北海道の新加盟は札幌大、北海道大、北海学園大、旭川大で、関東の新加盟の駒澤大、武蔵大を加えて計6校が関東協会下に、東海地方の中京大、愛知大、関西地方の八代学院大(現神戸国際大)、大阪経済法科大、九州の福岡大の計5校が関西協会に所属した。関東41校、関西34校で合計75校。東海地方は先発の3校(愛知学院大、名古屋学院大、岐阜歯科大)を加えた5校による東海学生リーグを編成し、近畿学生リーグと同列の関西学生リーグ2部として活動を開始した。各地区の連盟、事務局、委員会、学連などは新しい活動開始で大忙しの年だった。
●4月19、20の両日、この頃、必要性が徐々に唱えられてきたテーピングに関する「アスレティック・セミナー」が東京・新宿で開催され、多くの参加者が集まった。講師は日体大の青山一夫、大和真の両教授、日体大の山本郁栄講師、慶大の安藤勝英講師が務めた。この頃、日本のフットボールに第2の防具「テープ」とその利用技術「テーピング」が重要視され始めた。
●4月1日、広島アメリカンフットボール連盟が設立された。
●5月、北海道学生アメリカンフットボール連盟が発足した。加盟は札幌大、北海学園大、旭川大、北大。
●9月、東海学生アメリカンフットボール連盟が設立、5大学で関西学生リーグの下で、東海地区の加盟大学によるリーグ戦を開催した。
●10月、東北学生アメリカンフットボール連盟が設立された。
●四国で初の学生チーム、高知大が創部した。
●歯学系大学の大学間体育大会のアメリカンフットボール部門のトーナメント戦、第1回全国歯科学生アメリカンフットボール競技大会が3月に開催された(岐阜歯科大グラウンド)。以降、毎年春休みの時期に各校持ち回りで開催された。
●5月23日から29日まで、タッチダウン社主催の「アメリカンフットボール・フェア」が東京・渋谷のパルコで開催され、多くのファンでにぎわった。会場ではフットボールの紹介とともにフィジカル・フィットネスの実演、防具・装具紹介、パスの体験など盛りだくさんの内容だった。「さわる」、「ふれる」、「対話する」をベースにさまざまな趣向を凝らした展示やイベントが人気を呼び、休日にはパルコの開店時間前から来場者の長い行列ができた。
●12月20日、ベースボール・マガジン社より、月刊誌『アメリカンフットボール・マガジン』が創刊された。当初はNFL、NCAAの米国フットボールの記事が多かったが、次第に日本のフットボールも大きく取り扱われるようになった。1979年4月号で一度休刊したものの、80年代半ばに復刊。97年5月号(vol.109)で休刊するまで、国内外のフットボール記事を掲載した。
[2]競技施設・装具・公式規則
◆公式規則変更
●この頃、米国チームの来日や日本チームの海外遠征が多くなり、一方で日本の公式規則書が1970年発行のままであったことから、試合を行う上でもルールの確認、適用で問題が生じる危惧があった。また、この当時の日本の公式規則の制定や適用を推進する競技規則委員会の位置付けと活動がやや不明確であったことから、これまでも組織として存在していた競技規則委員会の役割と体制について再検討し、再編成がなされた。新しい競技規則委員会は笹田英次氏、古川明氏、三谷明氏、喜入博氏を中心に充実し、規則適用や変更の仕組みが組織的に確立された(このときに制定された競技規則委員会の活動方針、活動内容、公式規則変更検討手順、公式規則発行方針とそれに基づく発行は、現在でも継続されている)。
新体制で発足した競技規則委員会では、公式規則変更の基本方針として、その年のNCAAのルール変更で日本でも適用する項目は、米国チームとの試合が多くなっていることから、同じ年で変更する、同期を取ることとした。
これらの方針を基に、5年前に制定された公式規則を見直し、1936年のわが国での初めての公式規則書の発行から8冊目の公式規則書(表紙:赤)を発行した。
当時はIT環境はもとより、FAXが使用できる環境も限られていた時代。電話や郵便による通信、手書きの原稿、活字組版、手作業による校正の時代であり、毎年最終決定を4月に行う米国NCAAとの公式規則の同期は多くの困難があったが、シーズン前の8月20日に発行することができた。以降、公式規則書はほぼ2年ごとに発行し、その間の年は規則変更のみの説明資料を作成。NCAAと日本との規則の同期は維持されている。なお、出版物の発行は、各チームの夏合宿前に出版することが重要であるとし、1978年からは7月上旬に出版された。
なお、早めの公式規則変更の概要のお知らせ(公式規則変更予定報)と確定した公式規則変更の通知(公式規則変更決定報)の仕組みは1988年に開始された。
●この年の公式規則変更で「キックオフ、およびニュートラル・ゾーンを越えたスクリメージキック時の腰より下のブロック」が禁止された。安全性に関して、この公式規則変更の効果は大きかった。
●チームエリアが両35ヤードライン間から、両30ヤードライン間に拡大された。
[3]春季試合
◆春のボウルゲーム
●第21回西日本大会
「第21回西日本大会」は、交代を含め14人以上の選手を有するチームであることを参加条件として開催し、31チームが参加。関西学生リーグ、近畿学生リーグ、社会人チームのブロックに分けてトーナメントを実施し、4回戦から他のブロックとも対戦する方式となった。
接戦が予想された関学大-京大は関学大が64-0の大差で勝利。決勝は関学大と関大OBが多いブラックイーグルスの対戦となり、各Qまんべんなく得点を重ねた関学大が64-0で勝利し、2年連続17度目の優勝を遂げた。
●第21回西宮ボウル
「第21回西宮ボウル」は6月3日、西宮球場外野特設グラウンドで開催。全関西は立ち上がり、全関東のパスプレーに揺さぶられて0-13とリードを許したが、3Qに志浦康之(関学大二年)が関東のパスをインターセプトしてそのままTDするなど19-13と逆転。その後も関東の攻撃を守備陣が守り切り、22-20で勝利。4連勝で通算成績を関西の12勝8敗1分とした。
[4]秋季試合
■関東(学生)
●秋季大学リーグは、東、西ともに実力伯仲の好試合が続いた。関東大学リーグでは、駒沢競技場(駒沢第二球技場、駒沢補助競技場)を主会場として使用し、大学グラウンドも多く使用した。
東京七大学リーグでは、フランカーTにショットガンV(スプレッド)体型を併用した日大がQB中川雅照(三年)のパス、FB桐野達也(四年)の負傷の穴を埋めたHB岩沢正人(三年)のラン、G川畑忠之(四年、主将)、T飯島秀男(三年)、B吉田一雄(四年)の堅い守備もあり順当に1位。この日大と、各リーグ1位の防衛大、青学大、和光大、城西大に推薦の明大、日体大、学習院大を加えた8校が第6回関東大学選手権に進んだ。
●第6回関東大学選手権
過去2大会連続で東京七大学勢に2点差で敗北していた日体大が準決勝で日大と対戦。雨中の泥濘戦で重量ラインを生かし、FB山本勉(三年)が挙げた3TDを守り切り、23-21の接戦を制して念願の打倒日大を果たした。もう一方の準決勝、明大-防衛大も防衛大が怪物ランナーFB廣瀬進(三年)の突進力で最後まで明大を脅かしたが、明大が30-28で辛くも勝利した。
決勝は駒沢陸上競技場に15,000人の観客を集めて開催。明大が野﨑和夫監督の提唱するマルチプルオフェンスから、QB秋山篤弘(四年)からE小川博史(四年、主将)へのパス、オプションからRB井口庄司(四年)のラン、RB郷田謙一(三年)の縦の突進と持ち味のすべてを出して35-0と日体大を完封。7年ぶり3回目の甲子園出場を決めた。
■関西(学生)
●関西ではフットボールの人気も高まり、試合会場も公共施設を中心としたスタンド付きの会場が多く使用できるようになった。1部に相当する関西学生リーグの会場は西宮球技場、伊丹スポーツセンター、西宮球場、尼崎陸上競技場で、観客席のある会場を広く使用することができた。
関西学生リーグの覇権争いも壮烈だった。急速に力を付けた京大がウィッシュボーンTにQB宅田裕彦(二年)、FB倉光恭三(三年)、TB岡田健二(四年)、WR乗京正弘(二年)、E岡本勝夫(二年)と好選手をそろえて全勝で最終節に関学大に挑戦した。雨の西宮球場に8,000人の観客を集めて行われた熱戦は、関学大の鮮やかな第1プレーの先制TDで始まった。WR小川良一(四年)へのクイックスクリーンで80ヤードの独走だった。
しかし、京大も直後にTB岡田健二(四年)が75ヤードのキックオフリターンTDを挙げ、岡本勝夫(二年)のキック成功で7-6と逆転。2Q、関学大がK村田安弘(三年)のFGで再逆転すれば、押し気味の京大がQB宅田裕彦から岡本への20ヤードパスを通し、再々逆転で14-9に。雨足が激しくなった後半は関学大のペースとなり、4QにQB玉野正樹(四年)からWR小川良一(四年)へのサイドラインパスでTDし、トライも同じパスで成功して17-14と逆転したのが終了7分前。さらに駄目押しのTB村田安弘(三年)のランも出て、関学大が24-14で勝利した。リーグ戦の連勝記録を139に伸ばし、7年連続優勝を果たしたが、京大がほぼ互角の戦いを見せたことで、関学大の孤高の時代の終了を告げる試合でもあった。
■各地区(学生)
【北海道】2月、道内4番目のチームとして北大が創部。5月、北海道アメリカンフットボール連盟が設立。設立記念として、第1回スズランボウルを札幌大陸上競技場で開催。1回戦は6月29日に行い、北海学園大76-0旭川大、札幌大66-6北大。決勝は7月6日に行い、札幌大76-0北海学園大だった。
【東海】愛知学院大、名古屋学院大、中京大、岐阜歯科大、愛知大の5チームで争われ、愛知学院大が4勝全勝で優勝した。以下名古屋学院大、中京大、岐阜歯科大、愛知大となった。優勝した愛知学院大は、関西学生リーグとの入れ替え戦出場権を懸けてトーナメントに出場したが、京産大に0-19で敗れた。
◆秋季試合(社会人)
■秋季試合 関東(社会人)
●日本リーグは関東のシルバースター、関西のサイドワインダーズがともに連覇。関西に実業団5チームが参加し、日本リーグの2部に当たる関西社会人リーグを発足させた。11月、全関東社会人選抜がフィリピンに遠征した。
[5]秋季試合(ボウルゲーム)
◆第30回甲子園ボウル
●30回目を迎えた「甲子園ボウル」は、関学大(武田建監督)と明大(野﨑和夫監督)の7年ぶり2度目の対戦となり、12月14日に28,000人の観客を集めて開催された。
関学大は立ち上がりからラインプレーでじっくり明大を攻め、大差が付いてからパスプレーを使用する戦法。関学大は最後まで手を抜かずに攻め立て、56-7と史上最多得点で圧勝し、13度目の全国制覇を遂げた。
明大は2Q7分、RH井口庄司(四年)の2ヤードTDランで14-7と1TD差に迫ったが、その後自陣8ヤードからのパスを関学大DB志浦康之(一年)にインターセプトされ、同点の機会を逸した。関学大はG前川比呂郎(四年、主将)、T池内和彦(二年)らの強力ラインがバックスを支え、QB玉野正樹(四年)からWR小川良一(四年)へのパス、QB西村英男(三年)のトリプルオプション、FB谷口義弘(四年)の2TDと豊富な戦力を縦横に駆使。一方、明大は消耗戦に敗れ、1TDに終わった。総勢57人の関学大に対しわずか21人で臨み、最後まで全力を出した明大に拍手が送られた。ミルズ杯は関学大UB谷口義弘(四年)が受賞した。
◆第29回ライスボウル
●翌1976年1月11日の「第29回ライスボウル」は、国立競技場に観客25,000人を集めて開催された。
1Q、関東はQB秋山篤弘(四年)とLH井口庄司(四年)の明大コンビが活躍。井口が関西の重量ラインをすり抜けて前進すると、最後は関西陣19ヤードからK金井義明(日大一年)のFGが成功し3点を先取した。
関西は2Q、それまでのランプレーからパスプレーに切り替えた。WR小川良一(関学大四年)が左右にポジションを変え、QB玉野正樹(関学大四年)のロングパスも次々に決まって前進。最後はWR小川良一がTDで逆転すると、2Qの終わりには関東が敵陣まで迫るものの前半終了。
4Q開始直後、関東は再びQB秋山篤弘、LH井口庄司の明大コンビで敵陣に迫り、この試合二つ目となる逆転のTDを挙げる。しかし、関西もやはりQB玉野正樹、WR小川良一の関学大コンビで関東陣に迫り、小川この試合二つ目のTDで逆転。関東も反撃し、後半終了間際に敵陣に迫ったものの試合終了。関西が14-10で接戦を制し、11勝目を挙げた。関東は前後半ともに終了間際に敵陣に迫りながら得点を挙げられなかったことが響いた。
[6]高校フットボールの活動
◆春季大会(高校)
●「春季第5回関西高校選手権大会」はトーナメントで開催され、決勝で関学高が関大一高を19-13の接戦で破り優勝した。
◆第6回全国高校選手権
●「第6回全国高校選手権」は12月26~28日の3日間、3年連続となる西宮球技場で開催された。参加は関東から早大学院、東海大付高、駒場学園高、法政二高、関西から県立長浜商工高(現・県立長浜北星高)、関大一高、関学高、崇徳高の8校。
準決勝では東海大付高が6年連続優勝を狙う関学高を24-22で破る殊勲の勝利。もう一方は関大一高が法政二高との接戦を20-14で制し、決勝に進んだ。
最終28日の決勝も接戦となり、関大一高がRB梶田雄三(三年)のランで前進し、QB小西克也(三年)のパスで2TDを挙げ、14-6で勝利し、初優勝を飾った。第1回大会から5連覇していた関学高が準決勝で敗退するという記憶に残る大会だった。
[7]フットボール・ファミリーの活動
◆プライベートチームの活動
●日本協会に加盟せずに自由な活動を行うプライベートチームがこの頃から増え始めた。5月には神奈川県で独自に活動していた8チームが集まりパシフィックリーグを設立し、スケジュールに沿った活動を始めた。また都心で活動する北の丸コーエンズなどのチームも連携を取り合い、リーグ設立の準備を始めた。
以降続々とプライベートチーム、およびそれをまとめたリーグが発足していった。これらのチームや組織の活動には、大学などで現役時代活躍したOB選手が多く参加し、フットボールの活動領域を広げていった。
[8]海外・国際関連の活動
◆日本チームの活動(海外開催)
●11月、関東社会人は各チームからのオールスターチームを結成。フィリピンに遠征して米軍スーピック基地のスービックベイ・ネイビーズ・アドミラルズと対戦し、34-0で敗れたが健闘をたたえられた。東京の横田基地から配線むき出しかつ尾翼向き座席の軍用機で往復した。スービックベイ・ネイビーズ・アドミラルズは、在日米軍も歯が立たないほどの強力なチームで、極東一の実力と言われていた。
◆外国チーム間の試合(日本国内開催)
●1976年は米国建国200年に当たり、それを記念して米国NCAA公認の「東西オールスター戦ジャパンボウル」がスポーツニッポン新聞社の主催でスタートした。オールスター戦としては4つ目の米国NCAA公認の試合、そして米国外で唯一のNCAA公認試合で、出場選手は学生時代最後のプレーとなる試合だった。
その第1回が1976年1月18日、国立競技場に史上最高となる満員68,000人の観客を集めて開催され、テレビでおなじみのRBジョー・ワシントン(オクラホマ大)、セルモン兄弟(ともにオクラホマ大)、チャック・マンシー(カリフォルニア大)らの米国超一流の豪快なプレーが日本中の話題となった。選手の平均身長は190センチ、体重100キロ(巨漢同士の試合は日本で初めて)。試合前の1週間は日本中の注目を集めるフットボールフィーバーで、大盛況のうちに大会は成功裏に終了した。
日本からはFB桐野達也(日大四年)、QB吉田一雄(日大四年)、G横越善嗣(明大三年)、B井口庄司(明大四年)、RB金光善秀(法大四年)、T槇野均(日体大四年)が参加した。第1回のこの大会は日本テレビが生中継し、13時キックオフのこの時間帯では驚異的な11.4%の視聴率だった。このジャパンボウルは1993年1月10日の第18回まで開催され、NCAAのスター選手による本場の試合が披露されて人気を集めた。
★当時の関係者の言葉(日本協会50年史掲載)
●四年時の想い出
「日大が日体大に破れ甲子園ボウルに出てこなかったのが一番印象的。甲子園は日大とするものと思い込んでいた」(関学大1976年卒 T・主将 松田成俊)
●甲子園ボウルの想い出
「第2Q、自陣20ヤードからアウトパスをE小川博史に投げ、きまったと思った瞬間に志浦康之選手にインターセプトされTDされた。この一発で緊張の糸が切れ、あせりとなった。今でも残念です」(明大1976年卒 QB・主将 秋山篤弘)
★★★★★★★★★★★
フットボールが徐々に社会的にも関心を持たれてきた年。スポーツ専門誌以外にも一般全国紙で記事として取り上げられることが多くなった。最後はジャパンボウルで締めくくった。関係者の忙しい1年が終わった。