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INFORMATION ニュース

1979.01.01

1979年(昭和54年) 活動46年目

お知らせ

日大、ショットガンで圧倒。ノートルダム大来日。ポール・ラッシュ博士永眠

日 付 主な出来事
社  会 1月1日 米、中国(中華人民共和国)と国交樹立、中華民国(台湾)と国交断絶
3月28日 米スリーマイル島原発で放射能漏れ事故
6月28-29日 第5回G7サミット、東京で開催
10月26日 WHO、天然痘根絶の宣言
11月18日 国際陸連初公認の女子マラソン、第1回東京国際女子マラソン開催
フットボール 関西学生リーグ、近畿学生リーグに新ブロックを創設、5ブロック制に
北陸学生連盟設立、4校でリーグ戦開幕
10月7日 愛媛連盟、初のリーグ戦開始
12月12日 ポール・ラッシュ博士永眠
翌年1月13日 第5回ジャパンボウル、会場を横浜スタジアムに移して開催

一般社会でもスポーツや健康への関心が高まり、フットボール界では”真紅の集団”日大が完成したショットガン体型で圧倒的な強さを発揮して全国2連覇と黄金時代を迎えていた。関西学生リーグでは、関学大と同大がともに1敗の同率優勝。同大は1946年以来33年ぶりの優勝だった。12月12日、日本のアメリカンフットボールの活動開始に多大な貢献をした「日本アメリカンフットボールの父」ポール・ラッシュ博士が永眠した。

[1]主な出来事

●「日本アメリカンフットボールの父」ポール・ラッシュ博士が12月12日、自らが再建に関わった東京の聖路加国際病院で永眠。日本とフットボールを愛した82歳の生涯を日本で閉じた。「日本アメリカンフットボールの殿堂」には、名誉の殿堂入りをしたポール・ラッシュ博士が顕彰され、そのプレートには以下のように紹介されている。

Paul Rusch (ポール・ラッシュ)1897~1979

1897年、インディアナ州フェアマウント生まれ、ケンタッキー州ルイビル出身。関東大震災で被災したYMCA復興のため1925年来日。1926年、立教大学教授に就任、日本に留まる。米国からの日系二世留学生の生活充実を目的にアメリカンフットボール競技活動を組織化。1934年、立教、早稲田、明治大学からなる東京學生アメリカンフットボール聯盟を設立、初代理事長に就任。精力的な行動力で、同年11月29日、明治神宮競技場において、全東京學生選抜-横濱カントリイ・アスレチック・クラブの日本最初の公式試合を開催する。その後もリーグ戦の開催、全米選抜チームの招聘、全日本学生選抜軍の訪米等、戦況悪化により1942年米国に帰国するまでフットボールの発展に尽くす。この間、1938年、山梨県清里にキリスト教指導者研修施設清泉寮を建設。終戦直後の1945年9月、連合国軍司令官・総司令部の将校として来日。職務のかたわら、我が国のフットボール活動の再興と発展、清泉寮の再建と清里地区の開拓を推進した。1961年12月16日、日本アメリカンフットボール協会は、我が国のアメリカンフットボール競技の誕生への貢献とその後の功績に感謝し、「日本アメリカンフットボールの父」の称号を贈る。

●関東フットボール協会の理事長に河田幾造氏(法大OB)が就任した。河田氏は2年間の準備を経て従来の並列リーグ制から1981年の1~3部制への変更に指導的な役割を果たし、90年まで理事長を務めた。

●11月、関東フットボール協会は初めてとなる記録集『1979年関東大学アメリカンフットボール戦公式記録集(創刊号)』を制作した。記録には日程、勝敗とともに各チーム単位で攻・守、パス、ラン、キックなどの統計データ、チームの個人記録などが整理して掲載された。以降の年も制作は続き、「記録のスポーツ、データのスポーツ、フットボール」が広まった。

●日本協会理事長(第11代)に安藤信和氏が就任し、1993年まで務めた。

 

[2]競技施設・装具・公式規則

◆公式規則変更

【この年の日本の主な規則変更】

●チームエリアにコーチ占有のコーチング・ボックスを設けた。
●腰より下のブロックの禁止の対象が、Aチームの有資格レシーバーおよびインターセプト後のランナーを除く全プレーヤーに対しても拡大された。

 

[3]春季試合

◆春季試合(学生)

●日大が独走。対抗馬はT斉藤悟(四年)、E/K松井恭治(四年)、E本多恵一(四年、主将)、T松本文雄(四年)の強力ラインに、若手QB松田泰節(一年)のパスを生かす法大、G工藤則之(四年、主将)、T橋本啓司(四年)、愛川洋二(四年)を軸とする守備フロントフォー、QB山路友幸(四年)が健在な日体大だった。

関西では、関学大が関大に大苦戦しながらも3年ぶりに「西日本大会」に優勝したものの、日大には14-55と大敗。春季最終戦では主力の過半数を負傷で欠いたとはいえ、青学大に8-14と不安定な春季を過ごした。京大は笹原明雄監督の下、パス攻撃への移行がもたつき不振。第2グループにいた関大、同大、近大が地力を付けたのが印象的だった。

 

◆春のボウルゲーム

●第25回西日本大会

「西日本大会」も第25回の記念すべき年を迎えた。社会人13チーム、学生29チームが参加し、3月25日から5月20日にかけて西宮球技場、神戸中央球技場、万博陸上競技場、西京極球技場で開催された。決勝は3,000人の観客の下、関学大がブラックイーグルスを20-7で破り、3年ぶりの優勝を遂げた。3位決定戦では、創部3年目の大阪市立大が、前年関西学生リーグ3位の近大を破り、大きな話題となった。

●第25回西宮ボウル

「第25回西宮ボウル」は6月2日、人工芝の西宮球場で20,000人の観客の下で開催。試合は日大のショットガン攻撃を主体とする全関東が、佐曽利正良(日大OB)、金井義明(日大OB)、鈴木隆之(日大三年)の3人QBの下、HB島功一(日大四年)のパワフルなランで先行。OBを中心とする全関西の力強い守備にも5TDを奪う攻撃力で、全関西を35-14と振り切り3連勝。対戦成績を五分の12勝12敗1分とした。

●第4回パールボウル

「社会人春季実業団選手権」は前年度加盟した二葉組がRB桐野達也、鹿沼律、法師人進、G成田完の日大出身者とT浦島昌二、池内優の日体大出身者を軸に優勝し、パールボウル出場を決めた。

関東のナイトゲーム「第4回パールボウル」は7月5日、後楽園球場に23,000人の観客を集めて開催。第1試合の首都八大学リーグ選抜21-12実業団選抜に続き、二葉組が協会推薦の日大OB5人を加えた日大と対戦した。1Q、日大は二葉組のパントリターンのファンブルから好位置で攻撃を始め、QB鈴木隆之(三年)からFL大用和宏(三年)のフックパスからTDを挙げた。日大はその後も得点を重ね、守ってはDH宍戸博昭(四年)、RT安村行雄(三年)が二葉組の攻撃を封じ、55-7で完勝した。

 

[4]秋季試合

■関東(学生)

●関東秋季リーグは64大学が参加。駒沢第二球技場、駒沢補助競技場に加えて大井陸上競技場、大井サッカー場を数試合使用した。大井のグラウンドも雨天の場合は使用できず、当日や翌日の会場移動があった。

東京七大学リーグ戦は予想通り日大がショットガン体型で圧倒的に強く、第4戦の東大戦まで無失点で、明大、法大にも危なげなく勝利。リーグ6試合で総得点529(1試合平均88点)、失点13(同2点)で、2位となった法大にも77-13の圧倒的勝利だった。古豪・明大は新旧交代期ということもあり、1勝4敗1分と低迷した。

他のリーグでは桜美林大、千葉商大、大東大の関東大学選手権常連組が1位に、関東八大学リーグは中大が1位となり、それに推薦の日体大、法大、予選から勝ち上がった神奈川大が関東大学選手権に出場した。

●第10回関東大学選手権

首都八大学リーグで優勝の千葉商大は、1回戦で法大と対戦し、7-21と敗れたが、その健闘が光った。準決勝の日大-日体大は日大が71-3で法大-中大は法大が24-10でそれぞれ勝利し、決勝に進んだ。

決勝の日大-法大は前半、スピードとパワーを誇る法大守備陣が日大のパスをよくカバーしていたが、テクニックで上回る日大ラインに圧倒され始め、日大が82-0の大差で勝利し、破竹のリーグ3連覇と19回目の甲子園出場を決めた。

 

■関西(学生)

●関西地区では北陸学生リーグの独立で、関西学生リーグ、近畿学生リーグ(5ブロック)、東海学生リーグ(2ブロック)、北陸学生リーグ、九州学生リーグという編成となった。関西学生リーグは西宮球技場、神戸中央球技場、長居陸上競技場、万博陸上競技場で開催。実力接近で波乱の連続の末、関学大と同大が同率優勝となる最後まで白熱した優勝争いだった。

1946年以来33年ぶり2度目の優勝を果たした同大は田辺哲郎ヘッドコーチの下、春季に慶大、立大に勝利して自信を付け、秋の関西学生リーグ中盤で関学大に12-7で快勝。開幕戦で関大に19-42と惨敗したのを乗り越えて念願を果たした。QB重本聖道(四年)からWR岩本誠(二年)、WR角田裕司(二年)へのパス、RB下坂裕(二年)へのピッチ、LB木村公一(三年)、DB瀬川佳成(二年)の速い反応、T坂田哲二(四年)、森本悦次(三年)、G細田新二(四年)、G藤本昌也(三年)、C小川明良(三年)が中心のラインと攻守にまとまりがあった。

3位の関大はQB小西克也(四年)からWR金ヶ江宏介(三年)、WR田村浩次(二年)へのパス、RB梶田雄三(四年、主将)、RB金川浩士(四年)のランで優勝のチャンスもあった。1970年代に力を付けてきた京大は、関大に快勝したものの、近大と引き分けて4位。

関学大、同大が6勝1敗の同率優勝で開催された甲子園ボウル出場校決定戦では、同大の主力RB下坂文裕(二年)がリーグ戦の負傷から回復せず、攻撃力が低下。一方、関学大は同大戦での敗戦後、二年生QB松井晃を起用し、気分一新して同大を35-0で下し、31年連続の甲子園ボウル出場を果たした。

この年、2部相当の近畿学生リーグに所属していた立命大がリーグ優勝。入れ替え戦でも神院大を46-21で破り、念願の関西学生リーグ昇格を決めた。立命大の9年間の近畿学生リーグでの活動がやっと終わった。

 

■各地区(学生)

【北海道】 2ブロックに分けて開催。それぞれのブロックを制した北海学園大と旭川大が優勝決定戦で対戦し、北海学園大が40-6で優勝した。
【東北】 1976年に東北連盟を結成して活動を続けてきた東北学生リーグ6校が、この年関東フットボール協会と日本アメリカンフットボール協会に加盟。6校によるリーグ戦を、気象条件もあって春季に開催し、東北学院大が優勝した。秋季は新人戦を開催した。
【東海】 名古屋学院大、愛知学院大、中京大の3者の争いとなり、名古屋学院大が両チームを破って5戦全勝で優勝。初の栄冠を手にした。
【北陸】 これまで関西学生連盟の近畿学生リーグに所属していた北陸の金沢工大、福井大、金沢経済大が独立して北陸リーグを結成。初年度は金沢工大が優勝した。
【九州】 福岡大が5戦全勝で優勝。2位は3勝1敗1分の九大で、3位が久留米大、4位が福岡歯科大と西南学院大、6位が九州産業大となった。

 

◆秋季試合(社会人)

●社会人は関東の実業団がレナウン、社会人がシルバースター、関西社会人1部リーグはブラックイーグルスが優勝。関東の社会人リーグは、スケジュールの問題から変則的な対戦をこれまで行ってきたが、参加チームを絞り、総当たりのリーグ戦を開催した。主として日大と日体大の若手OBで編成するシルバースターは、甲子園ボウル終了後の日大と「ヨコハマシティボウル」で対戦。随所に好プレーを展開し、日大にあとわずかと迫ったが、日大が27-19で勝利した。

 

[5]秋季試合(ボウルゲーム)

◆第34回甲子園ボウル

●「第34回甲子園ボウル」は日大と関学大の19回目の対戦となり、12月9日に30,000人の観客を集めて開催された。

試合の興味は日大がどれほどの大量点を挙げられるかだったが、日大は開始早々、1Q2分にQB鈴木隆之(三年)からSB大用和弘(三年)への28ヤードのTDパスで先制。その後も鈴木、RB鳥功一(四年)、RB黒田利明(三年)、WR秋山克未(四年)、大用、TE川畑勝司(四年)のバックスのショットガン体型で攻めた。ライン陣は、LT仁科明弘(四年)、C羽村尚男(三年)、G柿沼真一(三年)、T安村幸雄(三年)ら、守備陣はLB増渕巌(三年)、DB木村正士(三年)、DB小沢康宏(三年)、DB宍戸博昭(四年)らで、攻守とも全日本級で固め、頭抜けた力を持っていた。

関学大はQB松井晃(二年)からWR永井正三(四年)、TE細田泰三(四年)へのパス、RB川上透(三年)のランで攻め、DT木村健一(二年)、DE岩本忠浩(四年)、LB三浦多実也(四年)の守備が善戦。日大のショットガン攻撃をある程度防ぎ、0-48の点差に抑えた。

関学大のパス重視の守備に対し、日大は途中からドラゴンフライ体型に変更。新人QB加藤悟(二年)を走らせるなど余裕ある戦術展開で、2年連続13度目の全国優勝。ミルズ杯は日大QB鈴木隆之(三年)が受賞した。

 

◆第33回ライスボウル

●「第33回ライスボウル」は翌1980年1月4日、国立競技場に8,000人の観客を集めて開催された。

関東は日大中心のチームと法大、日体大および各リーグから選抜されたチームの2つのユニットで編成。関西は関西学生リーグ同率優勝の関学大と同大の2ユニットで編成した。

1試合の平均得点80点の攻撃力を誇る日大勢が活躍。前半、QB鈴木隆之(三年)のパスがさえ、5TDで32点を挙げて大きくリード。後半は関西も互角に戦ったが、関東が42-14で関西を下し、通算成績を21勝12敗とした。

1Q開始早々、RB黒田利明(日大三年)が関東の最初の攻撃で44ヤード独走のTDを挙げると、その後はQB鈴木隆之(日大三年)のパス攻撃が効果を発揮。前半、鈴木は35回の攻撃のうち7割の25回がパス攻撃、うち16回のパス成功で4回のTDと、一方的な攻撃を展開した。

さらに、後半開始の関西のキックオフは、関東のリターナー大用和宏(日大三年)が自陣8ヤードでキャッチすると相手をかわし、またB黒田利明(日大三年)がタックルに来る関西選手を見事にブロックして走路を開け、大用が92ヤードを走り抜けてTDを挙げた。関西は後半、QB久保篤嗣(関学大四年)のパスで2TDを挙げたが、前半の失点が響いた。

 

◆その他のボウルゲーム

●新春恒例の「第29回神戸ボウル」は翌1980年1月6日、神戸中央球技場で開催。4回目となる全関西学生と全関西社会人の対戦で開催された。全関西学生が2TDを先取したが、全関西社会人は2Q、TDとセーフティーの後、RB板倉毅(ブラックイーグルス)の67ヤードのキックオフリターンTDで逆転。その後も追加のTDを挙げ、全関西社会人が21-14で勝利し、3連勝を飾った。MVPはRB中富信三(松下電工)、最優秀攻撃ラインマンはT西田進(松下電工)、同守備ラインマンは柴田憲三(松下電工)、最優秀守備選手は尾立和則(ブラックイーグルス)だった。

 

[6]高校フットボールの活動

◆春季大会(高校)

●「春季第5回関東高校選手権大会」は、準決勝で浅野高(神奈川2位)を下した日大櫻丘高(東京1位)と、同じく日大高(神奈川1位)を下した駒場学園高(東京2位)が決勝で対戦。日大櫻丘高が16-8で優勝した。

「春季第9回関西高校選手権大会」は9チームが参加してトーナメントを開催。決勝は関学高(兵庫1位)と県立虎姫高(滋賀1位)の対戦で、関学高が42-0で勝利し、6年連続優勝を飾った。

 

◆秋季大会(高校)

■関東地区(高校)

●「全国大会準々決勝関東大会」は11月3日、横浜ビーチフィールドで開催され、東海大浦安高(東京5位)が日大高(神奈川1位)を、日大櫻丘高(東京1位)が早大学院(東京4位)をそれぞれ破って全国大会出場が決定。同大会の準決勝に進んだ。関東大会決勝は東海大浦安高が日大櫻丘高を12-6で破って優勝した。

 

■関西地区(高校)

●「全国大会準々決勝関西大会」は11月18日、西宮球技場で開催。関西大倉高(大阪1位)が市立西宮高(兵庫2位)を、関学高(兵庫1位)が清風高(大阪2位)をそれぞれ破り、全国大会出場が決定。関西地区は、全国大会出場2校が決定した後の両校による関西地区決勝は開催しなかった。

 

◆第10回全国高校選手権

「第10回全国高校選手権」は関東、関西から各2校が集まり、準決勝は12月25日、決勝は12月26日にともに西宮球技場で開催された。準決勝第1試合は関学高が日大櫻丘高を55-0で、第2試合は関西大倉高が13-6で東海大浦安高をそれぞれ破り、決勝に進んだ。指導者が不在となるため、このシーズン限りの活動となった東海大浦安高は決勝進出とはならなかった。

決勝はともに関西勢の関学高と関西大倉高の対戦となり、関学高が最初の攻撃シリーズで確実にTDを挙げ、以降も得点を重ねて前半で35-0と大きくリード。後半も相手に得点を許さず、55-0で3年ぶり7回目の高校日本一となった。

 

[7]フットボール・ファミリーの活動

◆プライベートチームの活動

●かねてから独自の活動を行ってきた各プライベートリーグが2月17日、横浜スタジアムで「第1回ヨコハマ・フェスタボウル」を開催した。関東地区の4つのプライベートリーグのオールスター戦2試合が行われ、パシフィックリーグ選抜37-0シティリーグ選抜、関東リーグ選抜42-12東京リーグ選抜となった。折からの雨の中での開催だったが、チームと観客の熱気の中で終了した。ヨコハマ・フェスタボウルは以降も毎年、この時期に横浜スタジアムで開催された。

 

[8]海外・国際関連の活動

◆日本チームの活動(国内開催)

●1972年から日本と交流を続ける韓国から、釜山地区を中心とした大学の全韓国選抜チームが来日。近畿学生リーグの英知大、阪南大、そして関学大新人チームと対戦し、1勝2敗の成績を残した。

 

◆外国チーム間の試合(日本国内開催)

●「第3回ミラージュボウル」は11月25日、会場をこの回から国立競技場に移し、ノートルダム大とマイアミ大が対戦。ノートルダム大が40-15で勝利した。小雨が降り続くあいにくのコンディションだったが、名門ノートルダム大の出場もあって観客は60,000人。スピードと破壊力、機敏さに場内が沸いた。

●「第5回ジャパンボウル」は翌1980年1月13日に開催。この年から会場をスタンドとフィールドの間が近い横浜スタジアムに移した。当日は朝の冷雨が雪へと変わるジャパンボウル史上最悪の悪天候にもかかわらず、28,000人の観客を集めて熱戦を展開した。

西軍は全米屈指の理論家ルー・ホルツ氏(アーカンソー大、第1回ジャパンボウルで敗戦)、東軍はアール・ブルース氏(オハイオ州立大)がヘッドコーチとして両チームを率い、Cジム・リッチャー(全米最優秀ラインマンに対するアウトラウンド賞受賞)も選手として参加。西軍が4Qに2TDを挙げ、逆転で28-17で勝利するという好試合だった。試合中にフィールドは一面の銀世界になり、全18回開催(うち16回が屋外での開催)されたジャパンボウルで、唯一の雨天の試合だった。この試合は初めて全米にテレビ中継された。ジャパンボウルもミラージュボウルも、この年は悪天候だった。