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2023.03.10

アメリカンフットボールが日本に来る前の日本國内の状況

お知らせ

アメリカンフットボールは吾國では昭和9年11月29日に初めて行われた。然しアメリカンフットボールが初めて日本で行われた昭和9年以前に、日本國内においては、アメリカンフットボールを受け入れる様相は充分にあつたと云える。

 

日本においてアメリカンフットボールと云うものが米國において非常に盛んなスポーツであ ると云うことは、古くから知られて居た。それは新聞や雑誌で紹介されて居たのである。それも一番深く日本人の意識に残つて居たことは、毎年幾十人と云ふプレイヤーがこの競技のために死亡すると云ふことであつた。その当時はアメリカンフットボールとは日本では云はないで、「アメリカン・ラグビー」と云ふ名で知られて居たのである。

 

即ち大正の末期から昭和の初期迄は、日本においてはアメリカンフットボールは「アメリカ ン・ラグビー」であつて、そのプレーは非常に勇猛で乱暴極りないスポーツで米國では毎年数十人から百人近い若人がこの競技の為に死亡する。そして危険防止の為に頭には甲をかぶる位の事しか一般には知られて居なかつた。そしてボールがラグビーのボールと同じ型であり、そのボールを持つて走る。そしてそれを停めるにはタックルをする。等々を見て総合すればまあ大体ラグビーと似て居るであろうと云ふ判断で「アメリカン・ラグビー」と勝手に名付けた。

 

事実、新聞、雑誌等にも「アメリカンフットボール」と書くものと「アメリカン・ラグビー」と書くものが混然として居た。然しアメリカンフットボールがまだ日本に無い頃の日本人には「アメリカン・ラグビー」の方がおぼろ気ながら実体を知る事が出来たかも知れない。実際その頃はサッカーをフットボールと云つて居た。それでアメリカンフットボールと云へばアメリカでやつて居るサッカーとでも思ふかも知れない。

 

日本におけるサッカーの厂史は古い。明治の末頃から始められた。この点はラグビー・フットボールも同じであり、サッカーをアソシエーション・フットボールと云ひラグビーをラグビー・フットボールと云つて居た。これを略してア式蹴球、ラ式蹴球と呼称して居た。そのサッカーが大正の初期に当時の髙等師範学校の体育の正課として採用され髙等師範学校の学生の間で盛んに行はれるようになつた。その髙等師範学生の卒業生が日本全國各地の中等学校の教師として赴任したことにより、全國の中等学校でサッカーが盛んに行われるようになつた。その為にサッカーは当時の日本においても一般の人に割合と知られて居た。

 

それに引きかえて、ラグビーはサッカーと厂史は余り変らないが都会的でプレイヤーも大学が主であり、その大学も東京・大阪・京都と云ふ都会の大学であつた。大学の中でもラグビー部の無い大学も多かつたのでサッカーの様に髙等師範学校でも盛んでなかつた為、全國的に広がらなかつた。

それには、サッカーに比較して競技がハードであつたことやルールが難しいこと、或は怪我が多いと云ふ種々の条件があつたこともサッカーに比べてポピュラーにならなかつた要因ではあつたのだろう。

それで当時はフットボールと云へば、一般の人はサッカーと思つて居た。その為にもアメリカンフットボールと云ふ名はサッカーを聯想するので、アメリカン・ラグビーとわざわざ云つたものであろう。その当時でも新聞社や雑誌社に入つて来る外電には、アメリカン・ラグビーと云ふ電文ではなく必ずやアメリカンフットボールと入電して来た筈である。

 

日本でも古くから卋界の三大学生スポーツゲームとして日本の早慶野球戰、英國のケンブリッジ対オックスフォード両大学のボートレース、それに米國のエール大学対ハーバード大学のアメリカンフットボールゲームは有名であつたからアメリカンフットボールと云ふ名称はあつたの だが、それをあえてアメリカン・ラグビーと云つて居たのは前述のようにボールの型、タックル等にラグビーと共通した点がある為サッカーと明確な区割をつけるためにつけられて居たものであろう。

 

以上の様に日本にアメリカンフットボールが輸入される相当以前から、アメリカンフットボールはアメリカン・ラグビーとしての名前は相当知られて居たことは事実であるが、それが実際にはどんな競技かを知つて居る者は少なかつた。大体においてラグビーフットボールからの聯想で想像はして居たろうが、明確にアメリカンフットボールを理解して居た人は殆ど皆無であつただろう。

 

それが昭和4年頃から映画によつてだんだんと解つて来た。昭和3年頃から、映画は無声映画時代からトーキーの時代に代わつて来た。そして米國からトーキーの映画が数多く入つて来て日本全國で上映され出した。その当時どう云ふことか映画には青春物が多く、米囗の大学生活のストーリーを描いた映画が沢山あつた。米囗の青春物と云えば、特に大学生をストーリーにしたものと云えば、必ずと云つて良い位アメリカンフットボールの場面が入つて居た。事実その当時米國においても、一時、年間多数の死者を出し國会でも米國の有能な青年をこのスポーツの為に失うことについて大変な問題になり、それを契機にルールを改正したり、防具の改良を行つたりした為、一時は衰退の方向にあつたフットボールが隆盛を取り戻し、学生スポーツの花として見事に再開した頃でもあつたので、映画でも青春もの、特に学生ものとなればフットボールのシーンは欠くことの出来ないものであつたのだろう。今、その頃を思い浮べながら記憶に残つて居るアメリカンフットボールのシーンの出て来た映画を年代順に思い出して見ると

 

昭和4年 秋

◆青春ジヤズ大学(College Love)ユニヴァーサル

日本名で青春ジヤズ大学と云ふとおよそフットボールとは無関係のようだが、ストーリーは大学のフットボールのプレーヤーの友情を描いたもので、画面にはフットボールのゲームのシーンが沢山出て来る。そしてラストはゲーム中最後の1分にその友情によつてタッチ・ダウンをして試合を逆転させて優勝をすると云ふストーリーであつた。

 

昭和5年 秋

◆スポーツ王國(So This is College)M.G.M

これも学生々活もので試合の場面が多く出て来る。これ等の他にもまだ多くのフットボールのシーンの出る映画はあつたが、何れも有名な映画の「モロッコ」より以前のものである。

 

昭和7年 春

◆蹴球大学 (The Spirit of Notre DAME)ユニヴァサル

過去から現在まで多くのフットボールを主題にした映画は多くあつたが、これ程本格的に、そ してダイナミックにフットボールを描写した映画は、余りない程素晴らしいフットボール映画で、私は現在でも見たい映画である。その当時のこの映画の広告には次のように書いてあつた。

 

「ユニヴァサル超特作」全発声運動映画 リュウ・エアーズ氏主演 ウィリアム・ベエクウエル氏ファーレル・マクダアナルド氏助演 ラッセル・マつク氏監督

 

ノオトルデェム大学フットボールチームの精鋭特別出演「秋紺碧の風を衝いて廿五嗎、飛ぶ熱球を逐ふ18の健児があぐる眞紅の意気、これは近代アメリカの唯一の誇り、精悍無比のフットボオルの眞随を伝へたる傑作。その最強のチーム、ノオトルデェム大学精神に捧げられたる典型的の運動映画である。全編火を吐く白熱の試合の聯続、ラヴ・シーンを持たない男性映画。時好し、カナダ軍の来襲によつて来るべきスポーツダムの王者たるラグビィの興奮をまずこのアメリカン・フットボールに求めて時代に先駆せられよ!」

 

と以上のような文面であつた。この年にカナダからラグビーのチームが日本に遠征して来たので、後半の文句を加入して人気をあおつたのであろう。これによつてもフットボールとラグビーは似て居ることを思はせるし又フットボールではまだ名前が一般的でないのでラグビーを引合に出したものと思われる。

この広告文面においても“熱球を逐ふ十八の健児”とあるがこの十八はどう云ふ意味かわからない。この文を作つた人もフットボールを知らないので画面を見て両軍で18人位居るので無責任にも十八の健児と書いたのではなかろうか。

 

この映画はその原名の通りノートルディエム大学のフットボールのプレイヤーの物語りである。ノートルディエム大学は古い大学であると同時にフットボールも創成期から盛んであり、又、強い大学ではあつたが1920年頃から強力なチームになつて来て全米にその名が知れて来た。特に監督にヌート・ラクニーを招聘してからはノートルデェム・システィムとかラクニー・システィムと云はれる戰法が成功して全米に何回か覇を唱えるに到つた。このラクニーシスティムと云ふのは、プレイにパスとかパントを多く用いて4回の攻撃の内3回失敗しても1回で10ヤード以上ボールを前進させれば勝てると云ふ論法である。従つて試合はロングパスだとかオープンにランをするとか、又はロングキックをするとかで非常に派出であり、又スピーデイでもあつた。

これに比較されたのが当時南カリフォルニヤ大学のコーチのハワード・ジヨンズである。ジヨンズはカリフォルニアの人間は東部に人間と比較して体格が大きく力があるので4回の攻撃で10ヤード、即ち1回の攻撃に3ヤード位づつボールを前進させるような戰法を採用した。従つてプレイは中央突破やインサイドタックル、オフタックルのプレイが多く地味ではあつたがこの戰法を採用して雄名を馳せた。

 

そのノートルディム大学の全盛時代にこの映画がノートルディム大学の実名を題名につけて日本でこそ、その当時はフットボールを知つて居る人が少いために「蹴球大学」と題名をつけたが原名は「ノートルディエム大学の精神」と云ふ題名で製作された。

 

内容はスタープレイヤー2人の功名爭いから同僚が怪我をして、それをキッカケに2人が仲直りしてチームを優勝させると云ふ物語りであるが、映画の中にはノートルディム大学対ノースウエスタン大学の試合や対アーミーの試合等多くのゲームの実戰が出て来た。又特別出演としてドン・ミラー(ライン)、ジム・クロウレイ(ハーフ・バック)、エルマー・レイドン(フルバック)、ハリー・スチュルドレエル(クオーターバック)等のオール・アメリカン級のノートルディム大学の卒業生等が参加して居り、ノートルディム大学自体としても只單なる劇映画と云ふより大変な力を入れて居たようであつた。その為映画自体も他のフットボールの映画より内容的にも大変優れて居た。

只残念なことにはこの映画のフットボールのシーンの撮影の指導の為、東部から飛行機でハリウッドに飛んだノートルディム大学のコーチのヌート・ラクニーは飛行機が悪天候の為にロッキー山に衝突して死亡したことであつた。一代の名コーチのラクニーはこの映画のために死亡し、又、この映画の中に生きたとも云えるだろう。

 

昭和7年 春

◆タッチダウン (Touchdown)パラマウント社

この映画も前記の「蹴球大学」を追いかけるようにして輸入上映された映画であり「蹴球大学」が選手を中心にしたものであるのに対してこの映画はコーチの物語りであつた。これは実在の大学名は使用されて居なくて仮空の大学名で、その点純然たるフィクション映画であつたが画面には多くの試合場面があつて華々しいものであつた。

 

昭和7年 秋

◆御冗談でしヨ (HORSE FEATHERS)パラマウント社

この映画は当時の喜劇王として知られたマルクス四兄弟が主演したドタバタ喜劇ではあつた。従つてその内に出て来るフットボールの場面のフォーメーションも奇想天外であつた。この様にフットボールが喜劇に使はれた例は沢山あつた。

 

昭和7年 暮

◆七万人の目撃者 (70,000WITNESSES)パラマウント社

この映画は一種の探偵映画である。ある大学のスタープレイヤーが試合中ランナーとなつて敵のゴール寸前で倒れて死亡した。その原因は毒物による他殺であり、その殺人犯人を捜索すると云ふフットボールの試合を舞台にした一寸珍らしい推理映画であつた。

しかしこの映画にもアメリカの大学の応援団だとか、又、大きなスタディアムとの内で華々しい試合風景等見事であつた。

 

昭和8年 秋

◆響け応援歌 (College Humor)パラマウント社

この映画はミッドウエスト大学のフットボールチームのプレイヤーの恋愛と友情を描いたもので主演者にはビング・クロスビーが出て居るので当然音楽映画とも云えるかもしれない。その他の主演者は「タッチ・ダウン」の主演者と同じで当時の名コンビのリチャード・アーレンとジアック・オーキーがプレイヤーとして主演して居た。

そしてビング・クロスビーはミッドウエスト大学の教授として演じて居た。即ち歌あり、恋ありフットボールあり又友情ありと云つた完全な青春娯楽映画であつたが、ミッドウエスト大学とか又ネブラスカ大学とか実在の大学の名前を堂々と使用し、又その試合風景を多く画いて居たのは面白い。

 

昭和9年 暮

◆カレッジリズム パラマウント社

これも青春カレッジ映画でその題名の如くフットボールとその応援のチヤー・ガールの恋愛と音楽との一つのミュージカル物であつた。主演にはカレッジ物には欠かすことの出来ない三枚目のジアック・オーキーが出演するこれも娯楽物で、フットボールの試合の場面も面白いがグラウンド一杯に繰り広げられた応援団の踊りに中心があつたようだ。

 

まだこの他にもフットボールを中心にしたり或はフットボールの試合を一部に取り入れた映画は多くあつたが記憶に残つて居る主な映画は以上の様なものであつた。

 

これでも解るとおり日本にフットボールが上陸する前数年の間に多くのフットボール映画が 日本で上映されて居た。それは米國においても大学のフットボールがもつとも盛大になつて居たことを明示するものであると云えるだろう。それは前にも述べたように一時ラフなプレイが多く、その為に沢山のプレイヤーが死亡した為、米全國民から非難を受け一時衰退気味であつたのが、ルールの改正と用具の改良、それにパワーのみにたよるプレイからより科学的にスピーディにゲ ームを展開するフォーメーションが多く出て来た為に再び隆盛になつて来たのであろう。

 

事実1910年代においては、相当ラフなフォーメーションがあつた。その一例に、その当時のクォーターバックはランナーとなるよりはシグナルを出すことを第一任務として居たので、体格の大きさよりはむしろ頭脳の方に重点を置いて居たので、小柄なプレイヤーが多かつた。それでその小柄なクォーターバックのパンツのベルトの背中の所に取手をつけて、後2~3ヤードで新しいダウンを取れる時とか、或は又、あと2~3ヤードでタッチ・ダウンになる時にはそのクォーターバックに球を持たせて、体格の大きい力の強いハーフ・バックとフル・バックでそのクォーターバックの取り手をつかんでライン越に敵の陣地にほり投げて地域を獲得したこともあつ た。このような乱暴なプレイが多かつたので死者や負傷者が続出したのである。

 

前述の映画「カレッジリズム」のフットボールの試合の場合でも、敵のゴール前に来てどうしても点が取れないので、最後のダウンでフル・バックの肩の上にハーフ・バックが立つて乗り、そのハーフ・バックの肩の上に小柄なクォーターバックが立つて乗る、即ち人間の三階建になりそのクォーターバックが球を持つて敵のゴールに近づく、敵がタックルをすれば、その人の柱は倒れて敵のゴールの内にボールを持つたクォーターバックは落ちてタッチ・ダウンとなると云ふ様なフォーメーションを演じて居た。

実際にこの様なプレイがあつたかどうかは疑問であるが相当奇想天外なプレイがあつたこと は事実のようである。前に述べたクォーター・バックを敵陣に放り投げる等も危険極りないものである。それでルールを改正し現在のようにランナーを手或は体で以つて前進を助ける行為は反則になつたのであろう。

 

我が國にフットボールが上陸して以後もフットボールの映画は上映された。昭和11年にはユニヴァーサル社の「オフサイド」、昭和12年春にはパラマウント社の「ローズ・ボウル」、この映画はフランシス・オーレル原作の「ノートルダムのオーライリ」より脚色された映画で青春カレッジ映画でローズ・ボウル・ゲームに出場するプレイヤーの恋愛と友情の物語りであつた。そしてこの中で応援歌として歌はれるメロディーは立教大学のカレッジ・ソングの「セント・ポールの歌」と同じであつたのは面白かつた。

 

更に昭和13年春にはR・K・O社の「ビッグ・ゲーム」があつた。この映画も大学のフットボール・ゲームの物語りではあつたがそれには賭博がからんで居り、スタープレイヤーが賭博ギャングに誘拐監禁され試合の第4クオーターにやつと間に合つて最後にタッチ・ダウンを挙げて勝つと云うすじで、最後のゲームは矢張りローズ・ボウルゲームを舞台にして居た。この映画にはオール・アメリカンに選抜されたジム・モスクリップ、ジエイ・バーウェンジヤー、キングコング・クライン、ボビイ・ウィルソン、ロバート・ハミルトン、ウィリアム・シェークスピア、フランク・アルスチザ、ゴーマー・ジヨンズ等が特別出演してフットボール・ゲームのシーンを盛り立てて居た。

 

まだこの他にもフットボールの映画は多く上映されて一般にはアメリカンフットボールの概要はおぼろ気ながらつかんで居たのであろう。然し実際のゲームには接して居なかつたので映画の上での派出なプレイしか見て居ないので実体は知ることは出来なかつた。

 

一方、又、新聞雑誌にも時たまフットボールの記事が載ることはあつたが野球やラグビー、サッカー、陸上、水泳等のように我國ではまだ行はれて居ないので記事が出るのも本当にまれではあつたが、米國を代表するスポーツであり、又、卋界三大学生スポーツの一つのエール大学対ハーヴァードのフットボールゲームは有名であるので、年に二回か三回は小さな記事として出る程度であつた。そしてその記事も記事としての重要さよりも埋め草的取扱いでビッグゲームのスタンドの写真とか或は練習風景とか、又、一部の女子学生のフットボールとかで試合そのものを書いたものよりは興味半分的な記事が多かつた。又、外電としてシーズンの終りにそのシーズン中に死亡した者の数を発表する位のものであつた。

 

しかし、さすがに朝日新聞社で発行して居た「アサヒ・スポーツ」には色々と眞自面に取り上げて記事を書いて居た。アサヒ・スポーツは戰前から発行されて居り、その記事は何れもそのスポーツの権威者が執筆して居り、内容についても大変権威があつた。戰時中、昭和19年頃一時休刊したが、戰後又復刊したが戰後続出した大衆受けのするスポーツ新聞に押された為か昭和25年頃廃刊してしまつた。惜しいスポーツ誌であつた。このアサヒ・スポーツは、日本のスポーツ界の発展に大変寄与したことは確実である。

 

そのアサヒ・スポーツの昭和5年12月15日号に朝日新聞社特派員の中尾済氏が「欧米スポーツ界行脚」と云ふ続物を書いて居る。その中でヨーロッパを廻つてアメリカに渡り、セントルイス・カーヂナルスとフィラデルフィア・アスレティックスとのワールドシリーズの観戰記を載せて居たが、その第7信の中で

 

「10月から11月にかけてのアメリカの寵児はフットボールである。昨日(10月25日の土曜日)の朝の新聞に「本日の蹴球戰」と題して予告されて居た試合だけでも200を超してゐた。そして今朝の新聞にはスタンフォード対南加州大学の8万8千人を筆頭にニューヨーク大学対フォーダムの7万8千5百人、プリンストン対ネーヴィーの4万5千人等集まつた観衆の数を通算すると昨日のビッグゲームだけで50万人に上るだらうといふやうな記事を掲げてゐる。これに反してシーズンを終つた野球の記事は殆ど一字もない。本月8日の卋界選手権野球試合の第6回戰を大詰として、舞台は完全に一転したのだ・・・」

 

と書いて居り、アメリカのスポーツのシーズン制が如何にはつきりと区別されて居るかと云ふことと、フットボールがアメリカでは如何に盛んなスポーツであるかと云ふことを昭和5年秋の事を報告して居る。

なおこの頁の中のコラムに「布哇生れの日本人糸賀氏は今シーズンより米國カンサス大学の蹴球選手(アメリカン・ラグビー)として活躍してゐる。」と云ふ記事がある。ハワイの二卋であろう。蹴球選手と書いてカッコしてアメリカン・ラグビーと書いたのも面白い。

 

昭和6年1月15日号のアサヒ・スポーツの記事の中にアメリカンフットボールについて書いて居る。その題は「蹴球と奇禍」である。

 

「去年1930年の蹴球シーズンだけにアメリカン・フットボールは13名の死者を出した。そのうちハイスクールの生徒8名、大学生4名、クラブ選手1名といふ割合ださうだが、これで1906年以来の25年間に出した犠牲者総数は235名といふ夥しい数に達するといふことである。なかでも1925年の死者20名といふのが、いままでの最髙のレコードだが、このときには流石のアメリカ人も大分驚いたと見え全米に蹴球禁止運動さへ起こつて一頃大騒ぎをやつたことがある。これだけ夥しい死傷者を出すハード・ゲームだから、蹴球選手といへば吃度生命保険会社などで敬遠され、もし契約が成立つても必ずや特別課税されてるだらうと思つたら、なかなかどうしてアメリカの統計によると蹴球選手の死傷者数など問題ぢやなく狩猟死傷率の方がずつと髙率を示してゐるといふことである。各年度の死亡者数を挙げると

 

1906-11 1917-12
1907-11 1921-12
1908-13 1923-18
1909-12 1925-20
1911-11 1926- 9
1912-13 1927-17
1913- 5 1928-18
1914-13 1929-12
1915-13 1930-13

 

フットボールの死者数より狩猟の死亡者の方が多いと比較したのも面白いし、保険会社を引合に出して居るのも面白い。確かに 1925 年の死者 20 名の時は全米で大変な騒ぎになり囗会でまで取り上げられたが大統領の「将来の米國を背負ふ青年がこのようなアクシデントに負けていじけるようではいけない」

 

と云ふことで用具・規則の改正を急がせた結果、今日の隆盛があつたのである。

 

それ以前昭和5年4月1日号のアサヒスポーツの「スポーツ通信」欄には蹴球界の名物男と題して次の様な記事があつた。

 

「米囗蹴球界の名物男、エール大学の名ハーフたるアルビー・ブース君は「メキシコのはじけ豆」と卓名される 144 封度の小柄であるが、彼が全米に威名を走せた今シーズンの出来事は、強敵アーレーとの一戰であつた。彼はハーフタイムから出場したのであつたがその時まで13対0の頽勢を彼一人の3タッチ・ダウンで21対13の勝利に導いたのであつた。

彼は競技中、決して靴下をはかないので有名である。彼はニューへブン産で、父親は一介の労働者である。3人の子供の次男で、兄はウィリアム君といつて同じくエール大学に学び三年前に卒業したが、在学中は野球の選手で外野手をやつてゐた。

ブース君は至つて小柄だが、その筋骨は筋金の如く、又竹の如しと称されてゐる。彼に対して新聞記者が「君の一番長かつたランはどれ位かね」と質問すると、彼は一寸首をかしげたが直ぐ思ひ出したやうに答へた。「73 碼です」」

 

以上であるが、何故これが蹴球界の名物男かと一寸疑問に感ずるが小男であると云ふことと靴下をはかないことかもしれないが、この様な記事が何故載つたのか不可解であるが、これも通信社から送られたものであると云うことと、フットボールの事を載せようと云うことではなかろうか。

 

又、昭和6年1月1日号のアサヒ・スポーツには次の様な記事がある。

 

「入場料を失業救済

全米蹴球フアンの人気を集めた陸軍士官学校対海軍兵学校蹴球試合は、いよいよ本日同地 のヤンキースタヂアムで行はれ、予想通り大接戰となつたが最後に士官学校のハーフバック、ステッカーが57ヤードのダッシュに成功して6-0のスコアーで士官学校の勝となつた。觀集7万に上り、その入場料60万ドルは失業救済基金に寄附した。(総合ニューヨーク12月13日発)」

 

この頃は卋界的不況であり、経済パニックの起つた時期で日本でも「大学は出たけれど」と云うような映画迄出来た位である。アメリカでも不況で失業者が多く出たのである。その救済基金にアーミーとネービーの試合の入場料を寄附したと云う記事であるが、それにしても60万ドルとは大金であり入場者7万人とすると1人平均8ドル50セント位になり相当髙い入場料である。因にルンペン等と云う云葉が日本にも流行し出したのは此の頃である。

 

昭和6年1月15日号同誌に「日支蹴球」との見出しで次の記事がある。

 

「旧臘14日サンフランシスコのケザル競技場で行はれた在米日本人対中華のアメリカン蹴球試合は三対零で日本側が敗れたが、当日の觀集7,000、同地のKPOから戰況放送まであつて非常な人気を煽つたさうである。」

 

又写真の説明に去る12月13日挙行のサンフランシスコ東洋人アメリカンフットボール選手権試合に3対0で中華民囗の為敗れたが、過去3年間選手権を持つてゐた日本昭和チーム。とあり日附は違つてはゐるが、同じ試合のことで在米日本人チームとあるが、これは殆ど日系二卋であり、又、中國系二卋の試合でアメリカにあつて東洋人選手権試合をするのは面白いし又それをラジオで実況放送するのも又アメリカらしい。

 

前述の中尾済氏の「欧米スポーツ界行脚」の第8信には次のように書いてゐる。

 

「前の通信にも書いた通り、10月から12月にかけてのアメリカは蹴球のアメリカである。單に試合が多く行はれるといふばかりでなく、都も郡も押しなべて蹴球気分に浸つてゐるといつていい。

 

雨が降らぬ日の公園の隅や、町角の空地には必ず幾組かの青少年の群がゐてボールを蹴つ てゐる。中には一チームとか二チームとかの人数が揃つて練習してゐる場合も屢次見受るが、多くは3人か5人で、1人がパスする、1人がそれを受けて蹴る、1人が捕る、躍進する、タックルするといつたやうな簡單な動作を何回となく繰りかへしてゐる。丁度、日本の町々で見る野球のキャッチボールのやうに、一寸した暇があると誘ひ合せてそれをやりに出かけるのらしい。まだいたいけな小学生が大きなヘルメットをかぶつて、頭ばかりのお玉杓子のやうな格好をして、得意で歩いてゐるのにもよく出くわす。それから玩具屋へ行けば、其処には無数のゴム人形の蹴球選手がをり、安価で軽い蹴球用のボールがあり、お菓子屋へ行けばチョコレートの蹴球選手がボールを抱へて並んでゐる。そしてシーズンの関係もあるのだらうが、アメリカは野球國だといふのに野球用具や野球人形の玩具とかお菓子とかは、殆ど皆無といつていいほど、何処へいつても目にかからない。

 

10月の24日だつたニューヨーク北郊のヴァン・コートランドでコロンビア・プリンストン両大学のデュアル・ミートと、ニューヨーク・シティ及びマンハツタンのカレッジとのトライアンギュラー・ミートと、同時に二つの断郊競走が行はれるといふ新聞記事を見たので、蹴球で鼻をつく思ひをしてゐる折柄ではあり、可なり期待して見に行つたが、そこに集つてゐた選手以外の人間は、審判員と、選手の附き添ひらしい学生、新聞社の写真班等を併せて、総計60人ばかりしか居らず、対校競技らしい熱は何処をさがしても見られなかつたに反し、同じ公園内の同じ広場でやつてゐた何処かのハイスクール・チームの蹴球練習には黒山のやうに人が集つてゐた。一も蹴球、二も蹴球。全くもつて蹴球ならでは夜も日もあけぬ冬のアメリカである。

 

おかげさまで私も短い滞米中に、蹴球だけは毎土曜日欠かさずに見ることが出来たが、外の競技は殆ど何も見る機会がなくて済んでしまつた。」

 

その後同氏はその2年後、即ち昭和7年第3回冬期オリンピックの開催される予定地ニューヨーク州のレーク・プラシッドを見る予定にして居た処、その前日のプリンストン対ネーヴィの蹴球を見に行つて、3時間余り身を切る様な寒風にさらされて風邪を引いて予定日を過ぎてしまい、レーク・プラシッド見学は出来なく、やむなく翌々年(昭和7年)第10回オリンピックの開催 されるロスアンゼルスへと旅行して行くのである。

 

さすがの中尾氏も、秋の米囗のフットボール一色にぬり盡されたスポーツ界には一寸あきれた様子であり、欧州から米囗と色々のスポーツを視察に歩いて米囗の陸上競技だとか水泳その他を見たいと思つて居たのが、秋の米囗のスポーツはフットボールだけの為に一寸予想外であつた様子である。確かに米國はシーズン制が確立して居るので他のスポーツを見学しようとしても仲々思ふ様にはいかない事を知つた様子であるが、フットボール一色には辟易とした有様がよくうかヾえて面白い。

 

この号の別の頁のコラムに「運動競技偏重で弊害続出の米國」と題し以下のような記事がある。

 

「アメリカの大学における運動競技の偏重は色々の弊害が続出し、たとへば最近ウエスト・ポイントの陸軍大学でフットボール選手の入学につき不正行為があつたため、上院の問題にまでなつてゐる位だ。

同大学ではこれらの弊害にかんがみて総長トーマス・ゲーツ氏の英断で大改革が行はれた。従来運動部は大学の支配から離れてをり、独立の存在を維持して来たが、今回大学内に体育部なるものが出来、大学が直接にこれを取締ることとなり給料も一般耺員なみに準ずることになり今回の問題の的になつたフットボールにおいてはヘツド・コーチ年俸一万四千弗、補助コーチ一万弗であつたのが、大大的に減給されることとなつた。このほかフットボール選手に与へられてゐた各種の特権もすべて廃止され、試合数、試合期間に大制限が行はれた。」

 

と云ふものである。陸軍士官学校の入学にどんな不正があつたかは知らないがその為にゲーム数やシーズンも大幅に制限されたと報じて居り、更にコーチ陣が減俸されたとあつては大変気の毒なことであるがこの当時からフットボールのコーチは髙給取りであつたことが解る。即ち一般耺員なみに大々的に減給されたと云うのであるから、一般職員よりは遥かに髙級であつたことがうかがえる。同誌昭和6年3月1日号には前記中尾済氏の「欧米スポーツ界行脚」第9信にはサンフランシスコにおけるフットボール見物記が長々と出てゐる。

 

羅府の見物をそこそこに済ませ、途中ヨセミテ・ヴァレーに寄つて、11月20日サンフランシスコに着く。その翌21日にはセント・メリー蹴球チームの凱旋があり、22日には加州大学対スタンフォード大学の定期戰、27日のサンクス・ギヴィング・デーにはセント・メリーとオレゴンの定期戰と、ここでもフットボールがひとり幅を利かせてゐる。

セント・メリーはサンフランシスコの対岸オークランドにある小いカレッヂで、加州大学やスタンフォード大学からは、常に一枚下の弟扱ひにされてゐるが、同校の蹴球部は近年メキメキ強くなつて、兄貴面をする諸大学をして顔色なからしめてをる。その代り学校当局の蹴球部に対する力の入れ方も一と通りではないと見えて、昨年の新人メムバーには、ハイスクールでキヤプテンをしてゐた選手を20人も揃へてをり、今年も同様の新人を16人集めてゐるといふ。そして昨シーズンは全勝し、今シーズンは近年不振の加州大学に一敗して鼎の軽重を問はれたが、間もなく東部に遠征し、アメリカでは一、二を爭ふ強チーム、フォーダム大学を撃破して名誉を恢復すると同時に、昨年以上に比部加州の人気ものとなつたのである。

 

とセントメリー大学を紹介して更に

 

「フォーダムといへばノートルダムと共に、一般の人たちから「あれは学問を研究する大学ではなくて、フットボールの大学だ」と悪口をいはれてゐる位で、全米蹴球界に鳴り響いたチームである。それを西部の小カレッジ・チームが遥々遠征して破つたのだから、全國的にも相当のセンセーションを湧かしたらしいが、喜んだのはサンフランシスコ附近の加州児であつた。「我等のセント・メリーがフォーダムをやぶつた・・・選手一行は戰勝後首都ワシントンを訪れてフーバー大統領に謁見した・・・フーバーは夫人の郷里加州が生んだ若人等の光輝ある勝利として、特に一行の栄誉を祝福したさうだ」等々語り伝へ、聞き伝へて有頂天になつてゐるところへ一行が帰来し、21日の午後、桑港市庁の前で盛大な歓迎会が催されたのである。しかしその歓迎会は市庁前の広場に集まつた群集数万、市庁の歓迎の辞があつてのち、選手1人ずつを壇上に引き上げて紹介する、群集が喝采する、その紹介の騒音をラジオで放送する、と云つたやうな段取りで、お祭り騒ぎの好きなアメリカにしては思つたよりも單純な物であつた。」

 

とセント・メリー大学の凱旋風景を書いて居る。これは日本においても甲子園の髙校野球優勝チームを向へる都市とよく似て居る。続けて

 

「加州大学とスタンフォード大学の定期蹴球戰は今度が36回目である。東部におけるエールハーバードやプリンストン、コーネルと併称される太平洋岸随一の大試合で、今シーズンは両大学共に弱く、北方のワシントン及びワシントン・ステート、南方の南加州大学などから狭撃されて、どちらも気勢あがらず、従つてこの試合も例年ほどには人気がないと聞いてゐたが、矢張り厂史の力は恐ろしい、日本の野球フアンが早慶戰といふと猫も杓子も見たがるのと同じ心理で、試合の入場券は一ヶ月も二ヶ月も前に出拂つて了ひ少々のプレミアムをつけた位では容易に手に入らぬといふ有様であつた。

 

だが幸にして私は、東大の旧い短艇選手でいま桑港の邦字新聞「日米」に健筆を振つてゐる海老名君の好意により入場券を一枚分与して貰ふことが出来た。球場はバークレーにある加州大学の大戰記念スタディアムで、桑港湾を越えてそこへ行くのがまた一苦労であつたが、これも海老名君の友人で加州大学出身の藤井氏の車に乗せて貰ひ、文字通り居ながらにして球場に達するを得た。

 

私が滞米中に見た蹴球試合はニューヨークで2回、プリンストン、シカゴ、ロスアンゼルスで各1回、桑港で2回と都合7回であるが、そのうち観衆の多いことにおいて、応援の盛んなことにおいて、最も対校試合らしい気分を見せられたのはこの日であるから、以下少しばかり雑観を書いて見よう。」

 

とカリフォルニヤ大学とスタンフォード大学のフットボール・ゲームは両校現在は弱いが伝統の対抗戰の人気の髙いことに驚いて書いて居る。

 

「加州大学のスタディアムは1923年に建設されたもので、中にトラックも何もなく全く蹴球専用の競技場である。スタンドの観覧者収容人員は8万人ださうであるが、試合開始の直前にはそれが悉く満員となつたのみならず、球場の上に枯草のスロープを曳く遥かの山上にも数千人の見物が群つてゐる。そしてこの日の入場料は1人につき5弗の均一で、山の上にゐる聯中はロハかと思つたら、これも登り口に学生委員が見張りをしてゐて1人1弗の金をとつてゐるのだといふ。一体にアメリカの蹴球の入場料は安くない。

 

私が見た試合だけを見ても、コロンビヤ対ウエスレヤーンの試合が2ドル均一、ミゾリー対ニューヨークが3ドルと1ドル半、プリンストン対ネービーが4ドル均一、シカゴ対プリンストンが同じく4ドル均一、ハワイ対南加州が3ドルと1ドル半、斉しく大学チームの試合でありながら、人気の厚薄によつて入場料に髙低があるのもアメリカらしいところであるが、その最低級に属するものでも、大リーガーの野球の入場料(ウォールド・シリーズは別)より遥に髙く、おまけに観覧席の設備にいたつては、野球が何れも屋根附きのスタンドに、個人別の折り返へし椅子を設けて、お客様本位に出来てゐるのに反し、蹴球は例外なしに無蓋のコンクリート・スタンドにシートの番号が打つてあるだけ、見物人はてんでにクッションや毛布を持参におよんで、寒風に慓へながら、髙い見物料に甘んじてゐる。一面から見ればプロフェッショナルとアマチュアとの差別の現れともいへやうし、又両者に対するアメリカのフアンの人気の差を現すものともいへやう。」

 

この当時アメリカの1ドルは日本円の2円に相当して居た。

大学を卒業して一流会社に入社した者の初任給が50円ないし60円であつたので、この試合の入場料の5ドルはたしかに髙価である。月給の1/5か1/6である。現在の学卒の初任給7万円とすれば、この入場料は12,000円から11,000円位に相当するものであろう。しかしそれでスタンドのサービスはプロ野球と比較して悪いと云ふ。又プロ野球のペナント・レースの入場料より髙いと云うので中尾氏も驚いて書いて居る。然しそれでも入場券の入手は大変に困難だと云うのである。

 

これは中尾氏もフットボールとプロ野球に対するフアンの人気の差を現はしてゐると同氏は書いて居る。それ程アメリカにおいては学生のフットボールの人気が凄いものであつたのである。更に中尾氏は何れにしても1人5ドルの均一は決して安い入場料ではないが、しかも元価の5ドルで入場し得た者は恐らく全体の半数にも達せず、大多数の入場者は20ドル、30ドルのプレミアムを支拂つてゐるだらうといふことだ。プレミアムといへば2、3年前のこの試合のとき、50碼ラインに近い絶好の座席を指定した4枚つづきの切符があつて、それが何千ドルとかの自動車と交換されたといふ話もある。同じやうな位置の入場券でも1枚よりは2枚、2枚よりは3枚と、番号が並んでゐるほど髙いプレミアムがつくのださうで、「50碼線の附近で4枚並んでをれば、 銀座に地所を持つてゐるやうなもんだ」といつた海老名君の冗談も大した誇張では無いかも知れぬ。この当時は銀座に限らず日本全國まだ土地の価格は現在とは比較にならなかつたのであろう。

 

「また、これは私たちが球場へ行く途中、サンフランシスコからバークレーへ渡るゴールデンゲート・フェリーの渡船の中での話だが「今日このフェリーで海を越す自動車が何台あるだらう」と海老名君がいふと「サア少くなくも1万台は下るまい」と藤井氏が答へる。バークレー、オークランド、アラメダ等球場と同じ側にある海沿いの町々から集る観衆も少い数ではないが、矢張り大部分はサンフランシスコの在住者で、それがわれ勝ちに海を越えて自動車や電車で殺到するさまは、確かに一種の壮観であつた。」

 

まだゴールデンゲート・ブリッジは架橋されて居なかつた頃であろう。

 

「校名は加大の青に対するス大の赤で、スタヂアムの正門から向つて左、山に沿う左方のスタンドの中央には加大の男学生応援団が2ブロツクスを占領し、更にそれに続く2ブロツクスを女学生が占めてゐる。

 

だが豪快を誇る肉彈戰(御承知の通りアメリカン蹴球の肉彈戰はラグビーなどの比ではない)に女性のキーキー声は不調和だと思つてか、彼女等は決して唄はない。唯味方のバンドの奏楽や男学生応援団の咆哮に合せて、各自が手に持つた黄菊に青リボンの花束を打ち振るだけだ。

 

この当時のアメリカの大学の女子学生は大変におとなしいものである。現在の女子学生は応援団のリーダーになつて居るチヤーガールも多い。現代の日本の女子学生でもこの当時のアメリカの女子学生より余程おてんばでシャシャリ出る者が多いだろう。アメリカでも西部は東部より女性を大事にされ、又、それだけ女性のイバツて居るアメリカ西部の女子学生でさえこの様な状態であるから現今の日本の近代的女性と云はれる種族はもう少し考えなくてはいけないだろう。

 

一方、反対側スタンドの中央はス大の応援団で埋まつてゐるが、ビジティング・チームであるためか、それともス大の伝統か、これは男の学生ばかりで女はゐない。しかしこのサイドの観衆は九分通りス大贔屓で白菊にモールでSの赤字を篏め込んだのを胸に手にまたは 帽子にかざしてゐる。スタンフォード大学の応援席には女子学生は居ないと云う加州大学以上である。男女同権の習慣が古くから有るアメリカでさえ、何か明白なけじめがあつて気持が良い。

 

試合開始前30分、両軍の選手が約60人づつ入場してウォーム・アップをやる。それがまだ終らないうちに、型の如くス大、加大の順序で各百人近くの人数から成る応援のバンドが 繰り込んで盛んなパレードをやる。華やかな服装と気取つた態度、奏楽。もし今の日本でこれを眞似たら、余りお芝居じみてゐるとか、眞面目を欠いたお祭り騒ぎだとかいふ理由で非難されるに相違ないが、アメリカの蹴球戰には欠くべからざる景物の一つとなつてゐる。のみならずこれには各大学がいろいろ趣向を凝してゐると見えて、シカゴではシカゴ大学が直圣3間以上もあらうと思はれる車つきの太鼓をドヤしながら押して来たのを見たし、ロスアンゼルスでは南加大学が男女二隊の賑やかな行進をやつた上、大きな汽船の模型を押し出し、最後に女子軍をその汽船に収容して、煙突から黒煙をあげながら楽屋に引込むといふ余興振りを見た。

 

それからプリンストンで見たネービーの応援は、バンド、喇叭隊、マスコットの山羊と順々に引張り出しただけでは足らずに、一隊約二百人の学生を八隊まで繰り出し、それがグラウンド一ぱいに整列してエールを三唱した上で、初めて所定の応援団席につくといふ念の入つた騒ぎ方をやつてゐたが、さうなるとウォームアツプをやつてゐる選手などはそこ除けで、暫くは応援団がグラウンドの主人になつたかのやうな奇観を呈する。」

 

アメリカに於けるフットボール試合の応援合戰のお祭り騒ぎには、中尾氏も呆れ顔で書いてゐる。話が余談に亘つたつたが、さて当日の試合はといふとやつと試合経過について書き出した。

 

「前半は第1クォーターにス大が1タッチ・ダウンを得て6点をスコアしたのみ。第2クォーターは両軍零で、加大は圧迫されながらもよく防ぎ、可なり面白い試合であつたが、第3クォーターから加大が崩れて、結局41対0の大差でス大の大勝に帰した。

 

試合中最も目立つたのは、加大のハーフ・バック、ベツケツト君であつた。戰前ス大に 7分の強味ありといはれてゐた予想に違はず、最初から加大は猛烈な圧迫を蒙り、第1クォーターにおいて早くも1タッチ・ダウンを許したのに奮起したのであらう。ベツケツトは第2クォーターに入る時からヘルメットをかなぐり捨て、素あたまを以て敢然と敵軍の猛者どもと相衝撃した。そしてタックル又タックル、たとへ手の先であらうが、足の踵であらうが、荀しくも彼が手がかりを得たが最後、如何なる者も引き倒さねばやまぬ猛斗振りを示し、刻々に戰況を報ずる拡声器は、ス大攻撃陣の殆ど各ダウン毎に「何ヤード・ゴー・タックルド・バイ・ベツケツト」を繰り返へした。」

 

その当時はヘルメット等も現在の様に完全でなく外側が皮で出来て居り、内部にフェルトを貼つた様なものであつたので、よく試合中にバックの者など走るのに邪魔になるので、ヘルメットを取り試合をした者も居たが、中尾氏の素あたまは傑作である。確かに素あたまと云う感じである。他のプレーヤーが皆ヘルメットをかぶつてゐるのに、1人だけ脱いで居るのだから目立つ筈である。日本においても最初の間は法政の梶谷だとか早稲田の島袋、立教の鈴木等はそれこそ素あたまを振りながら奮斗して居たものである。

 

「細い記録をもつてゐないから確かなことはわからないが、試合の過半を通じて、ボールをかかえたス大選手の恐らく8割は彼の手に引き倒され若しくは捻じ伏せられたであらう。

しかしベツケツト如何に勇猛なりとはいへ鉄石の身ではないから、戰いの進むにつれて次第に疲れ、泥と汗とに塗られた顔は蒼白となり、つく息も苦しげによろめきながら、それでもなほ戰線を去らず悪戰を続けたが、第3クォーターの半ばすぎに至つて、コーチも遂に見るに見かねたものか彼を退けて補欠を送つた。果然万雷の如き拍手はスタヂアムを揺るがすばかりに起つた。それは敵味方を問はざる8万大衆の、真に力尽きる迄健斗した彼の意気と力とに対する賞賛の響きであつた。」

 

ここの処は講談口調でベツケツト君を書いて居て面白い。取つては投げ、千切つては投げの口調であるが中尾氏もこのベツケツト君には感心したのであろう。

 

「一方、ス大側では第3クォーターから現はれたフル・バックのローサート(円盤と砲丸の選手で近く日本へ来る男)が目立つてゐたが、前半をベンチに休んでをり、後半に至つてその怪力と鋭気にまかせ疲れ切つた敵軍を縦横にかけ悩ましたローサートよりも、怒涛の如く殺到する敵軍に対して、よろめき乍ら其素あたまをブツつけて行つたベツケツトの方が私には一層ヒロイックに見えた。」

 

以上でスタンフォード大学対加州大学の試合の見聞記は終つて居るが、しかし当時の試合風景がよく出て居て面白い文章である。現在でこそプロフェッショナルのチームが多く出来て人気を得て居るが、この当時にもプロのチームは有るには有つたが大学のチームの人気には遠く及ばなかつたのである。中尾氏は引続いて次の様に書いて居る。

 

「27日のセント・メリー対オレゴン大学の試合は、桑港金門公園のケーザー・スタヂアムで行はれた。

加州大学対スタンフォードを早慶戰とすればこれは6~7年前の一髙三髙戰といつた格で、西部では可なり人気のある試合である。殊に昨シーズンのセント・メリーが聯戰聯勝相手のチームを悉く零敗せしめて行きつつあつた折柄、オレゴンが敗れながらも1タッチ・ダウンをセント・メリーから奪取した戰厂があるので、今シーズンの試合は一層興味を呼んでゐるといふ事であつたが、果して当日は双方タッチ・ダウン各一つをあげ、ただゴールが成ると成らぬとの差、即ち一点違ひでセント・メリーの勝に帰する接戰を見せてくれた。しかしこの日は生憎の雨天で、観衆もスタンドの半ばに充たず、折角の好ゲームもその割合に観者の感激を誘はなかつた。凡ての競技を通じて、観衆はその日の空気に大きな影響を及ぼす一つの要素である。」

 

ここでこの手記は終つて居る。内容はフットボールの試合の経過は殆ど無く、それよりむしろ試合場風景と云う点に重点が置かれて書いて居る。これは当然のことであろう。それと云ふのもその当時の日本人の読者ではフットボールとはどんなゲームかも知らない人が大半であつたのだからその試合の内容や又批評を書いても読者に諒解させることは困難であつたし、又中尾氏自身もアメリカに渡つてから15日や20日ではフットボールを理解することも出来なかつたろうから、書くことも出来ないのは当然のことである。

 

これが日本でも行はれて居るゲームであつたら、もつとくわしくゲームの内容を書いたであろうが中尾氏自身もアメリカに渡つてフットボールを見るまではフットボールとはどんな競技か知らなかつたのではあるまいか。事実、手記の中にも書いて居るようにヨーロッパを廻つてアメリカに来て陸上競技だとか野球だとか他の競技も色々と見て行く積であつたのが、シーズン制のはつきりして居るアメリカの然も最も盛んな競技のフットボールのシーズンになつてしまひ、他の競技が行われないので仕方なく、フットボールを見て歩いたと云ふ感がないでもない。

 

従つて試合場風景に重点が置かれたのは無理もない事であるが、中尾氏もフットボールのゲームを見てその場内の華やかさには驚いたり、又大変に興味を持つたことはこの文中に於ても明らかであり、そして又フットボールがアメリカでどんなに人気のある競技であるかと云うこと認識したのは事実であろう。

 

大体、日本人は野球はよく知つて居り、そして野球は勿論アメリカから輸入されたものであるから、アメリカでは野球が最も盛んなスポーツであると思つて居たが、アメリカに行つて見て初めて野球より盛なスポーツのフットボールがあると云うことを知る人が多い。その様なスポーツが何故に日本に輸されるのが遅れたのであろうか? それには色々と理由があるであろう。

 

このアサヒ・スポーツの同号には「米囗のスポーツを亡すもの」と云ふ題でアメリカのスポーツ記者のバドック氏が書いた記事が載つて居る。それはアメリカの青年が酒におぼれて居ると云うのである。当時アメリカでは禁酒法が施行されて居た。その為、良い酒が姿を消して密造酒が多く出廻つて居た。その悪い強い酒を青少年が飲みスタミナを無くし、記録が出ないと云うのである。禁酒法は逆に青少年迄酒飲みにさせて、彼等の体力を衰えさせたと嘆いてゐる。その内に同じことを蹴球についてもいひ得る。肉と肉との相博つ昔の勇壮なゲームはもう見られなくなつた。

 

今ごろのフットボール・ゲームは力に代ふるにスピードとパッスとを以つてしてゐる。「それが蹴球の進歩を語るものである」・・・と普通にいはれてゐるが、それは一種の口実にすぎない。今の青年は60分間の激斗には堪へ得ぬから止むを得ずパッシングに訴へるやうになつたのだ。

 

フットボールのプレイヤーも酒に毒されて居る為にスタミナが無くなつたと云うのである。こ の理論は一寸こぢつけの気味があるが、当時の青少年が酒に害されて居たことは事実のようである。然しパスやスピーディなプレイは酒でスタミナが無いので止むを得ずやつて居ると云うのは、たしかにこぢつけの様な気がし、何時の卋の中にもこの様な老人は居るものである。

 

昭和7年1月1日号のアサヒ・スポーツにはフットボールの写真が2枚出て居る。その一つは 最近行はれたエール、ハーバード両大学の蹴球試合で、エールのブース君は25ヤードのドロップ・キックに成功して3対0で勝ち、シーズンを無敗全勝の記録で終らんとするハーバードの希望を打ちこわした。写真はブース君がキックをしたところとある。1931年のハーバードは優秀なチームであつたらしい。

 

もう一つのトロージヤン対ノートルダムの蹴球試合は、過去3シーズン聯続的にノ軍が勝利を得てゐたが、最近行はれた両チームの試合でト軍が勝つた。それはノ軍の猛者パナス君が例の如くゴール前1ヤードまで突進したときト軍のホーキンス君がタックルし、次でト軍のジョニーベーカー君が24ヤードのプレースキックに成功したためであつた。写真はホーキンス君がタックルするところと云ふ解説がついて居るが、何か一寸変な解説で中が少し脱けて居るような気がするが当時の日本人は良く知らないから、そんなものかナァと云うことですましてしまつて居る。

 

そしてその年の7月30日からロスアンゼルに新しく建設されたオリンピック・スタディアム(現在はドジャースの野球場として使用されて居る)で第10回オリンピックが開催された。このオリンピック大会では日本の水泳が大活躍して男子競技6種目中5種目にメインポールに日章旗を上げた。特に100米背泳では3本共日章旗が上ると云ふ盛大さで囗民を喜ばせた。又、陸上競技でも三段跳で南部忠平がメイン・ポールに日章旗を上げ、又、走幅跳でも南部忠平が3位に入賞し日本の選手が大活躍した。その他馬術競技では大障碍飛越で西中尉が優勝。メイン・ポールに日章旗を上げ、又、女子水泳200米平泳では前畑秀子が2位の旗を上げた。ホッケーは2位となつて、これも日章旗を上げたが、ホッケーは日本と印度と地元のアメリカの三國しか参加しなかつた。棒髙飛で西田修平の2位、三段跳で大島健吉が3位、水泳では100米自由形 宮崎康二1位、河石達吾2位、400自由形大横田勉2位、横山隆志3位、1,500米自由形で北村久寿雄1位、牧野正蔵2位、100米背泳清川正二1位、入江稔夫2位、河津憲太郎3位、200米平泳鶴田義行1位、小池礼三2位、800米リレー日本(宮崎、遊佐、豊田、横山)1位とこの大会は日本選手が大活躍したのであつた。この大会の自転車競技が行はれたのは有名なパサディナにあるローズボウル・スタディアムであつた。

 

そしてこの第10回オリンピック大会には番外競技としてアメリカンフットボールも参加した。オリンピックには番外競技としてその主催國の特色のある競技を2種目迄は認めて居る。それでアメリカであるのでフットボールを加えたのである。そしてこれには東部地区と西部地区の選抜チームが出場し10日目の8月8日にオリンピック・スタディアムで行つた。その結果は37-6で西部選抜軍が勝つた。

 

以上書いた様に当時日本においてはフットボールと云う競技は行はれては居なかつたが、新聞、雑誌、映画等にはしばしば出て来て居る。それと云うのも米國に於ける代表的なスポーツである と云うことは良く知つて居たのであろう。それ程興味があり乍ら何故輸入されるのが遅れたのであろうか?

 

それは前にも述べた様に怪俄、死亡者が米國で多く出ると云うのもその一つの理由であつたかも知れない。然しそれよりも日本のスポーツは欧州系のものが多く輸入されて居た事によるものではなかろうか。明治の中期頃より英國とは親交があり、日本に多くの英國人が来て居たと云うことに依るものが多いと思はれる。そして米國人は日本に来てもそれ程自國のスポーツを押し付けるような事はしなかつたのかも知れない。これを裏返へすならば米國人は仕事に熱心ではあるがその他の面についてはそれ程熱心でなかつたと云う事かも知れない。実際の問題としてこれ程米國において盛んな競技が現在でも尚欧州アジア、その他日本を除いた國では殆ど行われて居ないと云うことは米國人はその普及には不熱心であると云へるだろう。

然しその当時、日本においても水戸髙校や髙等師範等では研究をして取り入れを計画した事はあるらしいが、それは実行されないままになつて居た。

 

それから又、輸入されない原因の一つとして用具の問題もあつたのではなかろうか。運動具メーカーでは行われて居ないスポーツの用具を造る冒険はしないだろうし、用具が無くてはスポーツは出来ないと云う理由で輸入されなかつたのも一つの理由と云える。

 

然し新聞、雑誌、映画で度々紹介されて居ると云うことは、日本にもその気運は熟して居たと云うことになるだろう。私が立教の予科に入つた年、即ち昭和8年だが学校の体操の時、体操の先生がマーシヤル氏であつた為だろうがクラスの生徒を人数分けしてタッチ・フットボールを教えたことがあつた。その当時吾々はそれが何であるかは知らなかつた。フットボールと云うのはヘルメットをかぶつてタックルをするものであることは映画や写真で見て知つて居たが、タッチフットボールは全々知らないし、又、それがフットボールの親戚であることにも気がつかなかつた。

とにかく昭和9年頃は色々の見地から見てフット・ボールが輸入される要因は充分にあつたと云える。むしろ遅すぎたきらいがあつた。

 

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