どんなスポーツもそうであるが、そのスポーツが何年何月何日から始つたと云うようなものは無い。とにかく人間がこの卋の中に出来た時から何らかのスポーツはあつたに違いない。それがスポーツと云はれる程のものでないにしろ、人間は生きて居る以上、何か身体を動かさないでは居られない動動なのである。
歩くことも、走ることも、或は跳ぶことも皆スポーツと云えば云えるであろう。そして同時にこれ等のことは人間が生活をして行く上に必要なことなのである。
それから人間が生活して行く為には食はなければならない。その食物を得る為には又身体を使 はなければならない。原始生活においては木の実を食い、動物をつかまえて食う。木の実を取るには髙い木に登つたり、又長い棒で叩き落さなければ手に入らない。又動物をつかまえる為には動物より早く走らなければならないし、又それと格斗をして倒さなければならなかつた。原始時代にはスポーツとは云はなかつただろうが、然しこれらの行為は皆現代のスポーツの原形である。人間が生活して行く為に必要な、そして自然的な行為である。そしてそれらの原始的行為が他人より優れて居れば居るほど他人より良い食物を獲ることが出来、それだけ多く食う事も出来るのである。
それから又、人間には、生来、斗爭心がある。他人に負けまいとする気持は誰にでもある。人より早く走ること、人より遠くに物を投げること、人より早く泳ぐこと、或は格斗して人に勝つこと等々人間には生来斗爭心を持つて居る。それが大きくなると戰爭につながることにはなるのであるが、然し又人間が向上して行く為には良い斗爭心は必要な事である。
そして衣食住の為に直接にそれ等の身体を使ふ必要がなくなるとそれをスポーツとして楽しむようになるのである。然しスポーツとして楽しむようになつても最初からそれをスポーツとして行うのではなく斗爭心の表現として行うのである。例へば早く走ると云うことでもその巨離を100米とか400米に定めたものでなく、只單に向うの小山の1本杉迄と云うような定め方をして走つたことから競走競技が出来たのである。それであるからスポーツの原形は原始的必要性から生じた個人競技である。
個人競技はそれであるから原始的と云える。古代ギリシヤで行はれたオリンピアの競技は個人競技であつた。そしてその勝者には個人の栄誉をたゝえて月桂樹の王冠を贈つたのである。
然し人間が進歩して来ると共に、その個人競技のみでは満足しなくなつた。單純な個人競技より復雑な、そして色々な個人競技を組合せ、そして頭脳を使うスポーツの方を好むようになつて来た。それが現代の団体競技の始りである。即ち單純な個人競技に飽き足りなくなり、より髙等のスポーツを要求したのである。
然しそれは始めからルールを定めて行はれたものではない。自然発生的に出来たものである。例えばボールを1人で蹴つて居たのが1人より相対向する他の人と蹴り合う事の方が楽しめ、そしてその人数が増えて蹴り合う方が面白くなつた。そうなると敵味方2組に分れてお互に蹴り合うようになつて遂にはゴールを作つてそれに蹴つて入れて得点を爭う興味を憶えた。これがサッカーの始りであろう。
然しサッカーも最初から11人宛つでグラウンドの広さも明確に定められて居なかつたが、それを楽しんで居る内に人数も11人位が調度良いし、グラウンドの大きも自然に経験を経て定められて来たものである。それであるから、例をサッカーにとつてもサッカーの厂史は何時からかは不明であると思はれる。
全てのスポーツは皆そうである。ラグビーにしてもその厂史は英國のラグビー・ハイスクールのサッカーの選手がサッカーの試合中、興奮の余りボールを抱えて走つたのが始りだと云はれて居るが、それは丸いボールでありゴールもサッカーのゴールであつた筈である。それが現在の様な楕円形のボールになり、現在のようなゴール・ポストになり、現在の様なグラウンドの広さになつたのは、一時にそうなつたのではなく長い年月がかかつて徐々に現在の様な型式になつたのである。
日本放送協会編「スポーツ辞典別冊スポーツ競技の見どころ」と云ふ本がある。この本の中で陸上競技の項に日本陸上競技聯盟常任理事の鈴木良徳氏が陸上競技の厂史を次の様に書いて居る。
「‘人間‘という動物が地球に現われてきた遠い昔、そこには義理も人情もなかつた、犬猫なみの卋界だけがあつた。猛獣から逃れるためにはより速く走ることが必要であつた。おなじような理由で、流れや障害物をより遠くへ飛び、食糧用のトナカイを捕獲するためには、ものを投げる必要があつた。
生きるためには、こうした走る、飛ぶ、投げるは、日常生活に欠くことのできない手段であつた。うつかりすると地球から消されてしまう。それが陸上競技の基本になつた。
くる日もくる日も、理屈なしに、死ぬまで戰うことの聯続であつた。
いま競技会のように考えられてゐる古代オリンピックを初め、そのころの競技会は、すべて神へ奉納するお祭りで、競技だけを目的としたものは、ひとつもなかつた。お祭りだから、死ぬまで戰つて、相手を殺してしまつては、その目的に反する。そこで‘古代オリンピック憲章‘にも規定されているように、相手を殺すと、優勝者にはなれない。そればかりか科料に処せられた。
古代の競技会は、スポーツではなく、死斗であつた。云々。」
と書いて居り、あらゆるスポーツの原型である陸上競技は‘人間‘と云う動物が生きて行くための必要条件として生れ、そして‘古代オリンピック憲章‘が出来るまでは、競技会は死斗であつたと云つている。
又、この本のボクシングの項では日本アマチュアボクシング聯盟常任理事小林正三氏は
「有史以前の人類は身を護るためにこぶしを用いましたが、こぶしを基として発生した護身術ボクシングがはじめて厂史に記録されたのは、紀元前688年の第23回オリンピア祭典からであります。」
と書いて居る。
拳斗の厂史も古い。然し現在のような拳斗はごく最近のものであつて、紀元前688年の第23回オリンピア祭典で行はれた拳斗は全く違つたものであつたのであろう。
更にサッカーについては、矢張りこの本で日本蹴球協会常務理事竹腰重丸氏が
「フットボール競技は1,000年も前からイギリスにあつたということですが、正式には1863年にイギリスにフットボールという競技を統一規則でやろう、それまでは1,000年ぐらい方々でやつていたわけですが、競技規則がまちまちだつたために、よそとの他流試合ができない、それで不便だから統一規則でやろうじゃないかということで、「ザ・フットボ-ルアソシエーション」、「イングランド蹴球協会」というものをつくつたわけですね。それが近代サッカーの初めだということになります。」
と云つており、現代のようなサッカーになつたのは100年位前からのことであり、それまでは規則のまちまちで勝手にやつて居たというのである。
又ホッケーについては日本ホッケー協会常務理事広太郎氏が
「棒で石を打つと云う人間の本能的動作は、おそらくどこの國でとくに早く始めたということもないだろう。ホッケーは非常に古くからあつたということは、アテネの遺跡の中に、今日のホッケーに似た浮き彫りが発見されたことでもうかがえる。それが今日のものに近い形をととのえたスポーツとなつたのは、1887年イギリスにホッケー協会が創立された時である。」
と書いて居る。
以上のようにあらゆる競技が現在のスポーツとして形をととのえたのはごく最近のことであつて、それ以前には人間が生きて行く為に必要な行動であり、それが基本となつて現代スポーツとなつたものである。そして現在のような種々なスポーツが出来たのであるがそれまでには大変永い年月が経過して居るのである。それであるから現在のスポーツはその規則が設定されてからの厂史はどの競技においても割合明確にわかつて居るが、それが発足は何時かと云うと、それこそ原始時代までさかのぼらなければならない。
アメリカンフットボールにおいてもその通りである。その紀原は走る、投げる、飛ぶ、等の人間の凡ゆる行動を総合したものであるから、原始の時代に始まつたと云えるかも知れない。然しアメリカンフットボールと云う名称がはつきり居る以上は、アメリカ大陸が発見されて後であることは確実である。
1492年コロンブスが米大陸を発見すると、ヨーロッパの各國は競つて新大陸に植民地を得、又それを拡大して行つた。そして各國共多くの移民をこの新大陸に送つた。特に北アメリカ東岸に1497年ガボットがチェサビーク湾へ到着し、英國が勢力をのばし、18卋紀の初めには13の植民地が出来た。又カナダには1534年にフランス人カルチイエが発見し、フランスの植民地になつたが後に英國の支配化になつた。
そして英國から、或はスペイン、ポルトガル、フランス等多くのヨーロッパから大陸を目指して多くの移民がアメリカに渡つて行つた。そしてこれらの移民と共にヨーロッパの文化も新大陸に渡つたのである。音楽、絵画、文学、経済、法律、等多くの文化が移民と共にアメリカ大陸に上陸した。その中に当然スポーツもあつたのである。即ち古くからヨーロッパ各地で親しまれて居たスポーツである。これ等のスポーツが新大陸で移民の間で親しまれたのも当然であろう。これ等移民の間で親しまれていたスポーツが、フロンティア精神のおう盛な彼等によつては旧来のヨーロッパ大陸のスポーツに飽き足りなくなり、より面白く、より豪快な、より科学的なスポーツを作り出したのである。即ち野球を作り、バケットボールを作り、そしてヨーロッパ大陸に古くからあつたサッカーとラグビーを基礎としてアメリカンフットボールを作り上げたのである。
平凡社発行の卋界大百科事典のアメリカンフットボールの項にはフットボールの厂史として大谷要三氏は以下の通り執筆して居る。
「米式蹴球
アメリカの学生がサッカー、ラグビーから考案した独自の競技規則をもつフットボール。
この名称はアメリカ以外の國で用いられ、アメリカでは單にフットボールという。
アメリカにおけるフットボールの厂史は、1869年11月6日ニューブランスィックでおこなはれたラトガースとプリンストン両大学の試合にはじまるとされているが、この試合はサッカーの規則によつたものであつた。このころからハーヴァード、エール、コロンビアなどにもフットボールクラブができはじめたが、1874年カナダのマックギル大学(モントリオール)がケンブリッジでおこなわれたハーヴァード大学との対戰でラグビーを紹介した。
これよりハーヴァードの学生が、従来ボールを足のみで運んでいたフットボールに、手を用いることの面白さを知り、自らボストンゲーム(当時ハーヴァードのフットボールをこう呼んでいた)にラグビーをとり入れて、今日のアメリカンフットボールの基礎となつたルールを考案した。1チームの人員が、現在の11名になつたのは1880年のことで、これを主張したのはウオルター・キャンプWalter Campであつた。キャンプはエール大学の主将をつとめ、卒業後も永く規則委員の任にあつた権威で、今ではアメリカンフットボールの父と云はれている。
キャンプは、その他スクリメージ・ライン、クォーター・バックなども考えついたが、とくに重要なことは、4回の聯続ダウンが終つてなお5ヤード(現在は10ヤード)前進しない場合は攻撃権を失うという画期的な規則を制定したことである。なぜならば、この点がこの競技の最大な特色となつているからである。
エール、ハーヴァード両大学対抗試合(第1回は1890年)や陸海軍の対抗試合(同じ1890年)などは厂史と伝統にかざられ、現在も人気の中心となつている。又1920年にはプロ・フット ボールがおこり、野球とおなじように2大リーグに分れ、シーズン(9月~11月)を通じ試合をおこなつている。プロの規則はアマチュアと多少の違いがある。
なおアメリカンフットボールの試合にボウル・ゲーム bowl gameという云葉が用いられるが、これはシーズン終了後おこなわれる選手権試合などのことで、ボウルは競技場の意で、これに試合のおこなわれる土地にふさわしい(例えば特産物など)名称を冠して、ローズ・ボウル、オレンジ・ボウル、シュガー・ボウル、コットン・ボウルなどと用いられるようになつた。」
と書いている。
フットボールの最初の試合は、ニューブランスウィックで1869年にラトガース大学とプリンストン大学の間で行われたサッカーの試合であつた。
1492年コロンブスがアメリカ大陸を発見以来、欧州各國はきそつて探険隊を派遣し16卋紀から17卋紀にかけてその広大にして豊かな土地と資源の輪郭が明らかになつた。
そして各國は新大陸に植民地を建設した。英囗は1607年はじめて組織的なそして恒久的な英囗 の植民地をヴァージニアのジェームズ・タウンに建設した。植民地の感覚として、英國人はフラ ンスやスペインと違つて、植民地を本國の延長のように考え、風習習慣、政治制度、その他をそのまま植民地に移した。その後フランス植民地と爭いが起き、その結果アメリカにおけるフランス植民地は英國植民地に吸収された。そしてアメリカにおける英國植民地は強固なものになつた。
これと時を同じくしてヨーロッパでも英國とフランスの間に7年戰爭(1756年~63年)が起り、ここでも英國は勝利を収めたが、このため財政的に苦しくなり、これをアメリカの英國植民地に課税して吸ひ上げようとした。ここに植民地側の英本國不信の念が起り、1775年にジョージ・ワシントンのひきいる植民地軍と英本國軍の戰斗が起り、それが✲立戰爭へと発展して行つた。そして、1783年パリ条約によつて英國にアメリカ合衆國を承認させたのである。
フットボールも英囗移民と同時にアメリカ大陸に渡つて来たものであることは確実であるから、1600年頃からは、アメリカ大陸でも英國のサッカーが移民の間で盛んに行はれて居たことは考えられる。しかし日本蹴球協会の竹腰氏の話の中に英國で統一した規則が作られたのは1863年であると云つて居るから、その当時アメリカで行はれたサッカーはまちまちな規則の下で行はれたものであろう。そしてこの種々雑多なルールの下にアメリカ各地の移民の間でサッカーが行われて居た。それは当然子供の間にも行われて居たので小学校や中学校でも盛んであつたのだろう。然しアメリカンフットボールの厂史は、ラトガース大学とプリンストン大学の対校戰が1869年11月6日にニューブランスィックで行われたのが最初であるとされて居ることは、英國に於てサッカーの統一規則が出来たのが1863年であるから、その統一の規則の下に行われた第1回の大学対抗試合を以てフットボールの厂史の創りとしたのであろう。
それは英國サッカーの新規則が出来てから6年目である。6年とは少し長すぎるように思えるが、それもその当時の交通機関、文書の伝達等が速かにいかなかつたことと、新独立國の建設に多忙 でそこまで手が廻らなかつたこともあつたろうが、実際にはもつと早く新規則はアメリカ大陸に渡つて来て居て、一部にはすでに新規則のサッカーをして居たと思われる。然しこの新規則が一般に普及して、しかもその新規則をプレーの上に活用するのには相当の年月を必要としたのは事実であろう。即ちそれ迄の各地の種々雑多な規則を統一するには英國でも長い年月を経ているのであるから、米國でもある期間は必要であつたことはわかる。その上大学対抗となると、それも最初であるから、その手続きにも時間がかかることはうなづけるのである。それで英國に新規則が出来て6年後にアメリカで大学対抗の試合が出来たのである。
その後アメリカでもサッカーの新ルールが普及され、それによりハーバード、エール、コロン ビア等の大学でサッカーが盛んに行われるようになつた。1874年にカナダのモントリオールにあるマックギル大学が、ケンブリッジでアメリカのハーバード大学にラグビーを紹介したのである。
それではラグビーはどの様な厂史を持つて居るのであろうか。平凡社発行の卋界大百科事典のラグビーの項によれば
「イギリスで創始された球技の一種、正称は(ラグビーフットボール)というが、とくにアマチュアーのラグビーは<ユニオン・ラグビー>、プロフェッショナルのラグビーは<リーグ・ラグビー>と呼ばれる。
[沿革]ユニオン・ラグビーの創始は、教育の一環としてイギリスのパブリック・スクール(とくにイートン、ハロー、ラグビー、ウィンチェスター)に採用されたフットボールにおいて各校✲特のルールで盛んに行われていたが、1823年ラグビー校におけるゲーム中、興奮のあまりウイリアム・ウェッブ・エリスが、規則と習慣に反して相手のキックを受けてそのまま走つたことが契機となつてラグビー・ゲームの特徴が創始されたといわれている。
また一説にはエリスは興奮のあまりボールを受けて走つたのではなく、彼が故郷のアイルランドでやつていたガェリック・フットボールのプレーをそのままやつたのにすぎないともいわれている。そののち学生間に急速に普及し、クラブが多数設立された結果、対抗ゲームも盛んに行われるようになると、当然、規則の統一が叫ばれるに至り、再三会議の結果、足だけを使うサッカーを愛好するものは1863年<イギリス蹴球協会>を設立、手も足も使うラグビーを愛好する者は72年<イングランド・ラグビー協会>を結成、そのさい全面的にラグビー校のフットボールの規則を基準として採用したところから、<ラグビー・フットボール>と呼ばれるようになつた。」
云々、と日本ラグビー協会の大西鉄之祐氏が書いている。
これによつてもラグビーはサッカーから別れたものである。サッカーから別れたと云ふよりは、むしろラグビーはサッカーの一種であつたのである。即ち英囗のアイルランドと云つていたもの で、アイルランドにおいてはサッカーはこのガェリツク・フットボールであつたのである。それが1863年に足しか使うことの出来ないフットボールと、足も手も使うことの出来るフットボールとに分けて、足だけしか使うことの出来ないフットボールを統一してイギリス蹴球協会が発足した。これが現代のサッカーとなり、手も足に使うことの出来るフットボールは取り残された形になつていたが、それから9年後の1872年にイングランド・ラグビー協会が成立し、ここにサッカーとラグビーは明白に分離したのである。
アメリカのハーバード大学がカナダのマックギル大学からラグビーを紹介されたのは1874年であるから、イングランド・ラグビー協会が設立されてラグビーがサッカーから明白に分れた1872年から2年経過しているのである。それであるからハーバード大学は正式なイングランド・ラグビー協会設定の規則によつてマックギル大学からラグビーを教はつたのであろうことは確実である。
マックギル大学がハーバード大学に紹介したラグビーは、従来の足だけしか使うことの出来なかつたサッカーには無い手を使うことの出来る面白さが理解出来たアメリカの青年の間に盛んになつて行つた。これは足だけしか使えず、又激しい体力の斗爭が出来ないサッカーでは物足りなかつたからである。そして更にそのラグビーを改良して、もつと激しく、より科学的でそしてもつと面白い競技に変えて、当時ボストン・ゲームと呼ばれていたハーバード大学のフットボールにラグビーを取入れて、今日のアメリカンフットボールの基礎を作つたのである。そしてこの競技はラグビーとも又違つた形になり、開拓者精神の旺盛な新大陸の青少年の人気の的になつて全アメリカに普及して行つた。しかしまだその当時は出来たばかりで現代のものとは大部変つたものであつたと思はれる。
1880年にかつてエール大学のフットボールの主将であり、又卒業後も永く規則委員を務めたウォルター・キャンプが現在のような規則を制定した。即ち競技者数を11人にすること、スクリメージ・ラインの規則、4回の攻撃権とその必須前進距離等である。これが現在のフットボールの基礎となつたのである。ハーバード大学がカナダのマックギル大学からラグビーを紹介された年の 1874年からこの新しいフットボールの規則が出来る迄は、僅か6年しか経過していない。異状なスピードと云はなければならないだろう。それ程この新しいフットボールはアメリカ人の気質に合つたのである。ウォルター・キャンプはフットボールの父と云はれる人である。尚その当時の四回の攻撃の必須前進距離は現在の10ヤードより短い5ヤードであつた。そしてこの4回の攻撃権中に5ヤードを必須前進距離と定めたことは他のスポーツに例のない最大の特色となつている。
ウォルター・キャンプ等によつて1880年に新たに制定された規則によつて、アメリカンフット ボールはサッカーでもラグビーでもない一つの人格を持つた✲立した新しいフットボールとして、新卋アメリカのスポーツとして隆盛な勢をもつて発展して行つた。そしてその年はアメリカが独立してから約100年経過して居た。
新しく出来たスポーツ、アメリカンフットボールはアメリカの青少年、特に大学、髙等学校の学生、生徒の間に猛烈な勢で伸びて行き、学校間の対抗試合が続々と行われるようになつた。新ルールが出来てから僅か10年経過したばかりの1890年には、陸軍士官学校対海軍兵学校の対抗戰(ネーヴィー・アーミー戰とも云う)、又同年エール大学対ハーバード大学の対抗戰が生れた。
そしてこれらの試合は現在でもアメリカのビッグゲームとして続いている。エール・ハーバード戰は、卋界の学生3大競技試合として英國のケンブリッジ対オックスフォード両大学のボート・レースの試合、日本の早慶野球戰とならんで有名である。
フットボールがアメリカの青少年の間に盛んになると、そのスポーツ人口も当然多くなつて来た。それに従つてフットボールに原因する負傷者の数も増して来た。特にアメリカで問題になつたのはフットボールによる死亡者の増加であつた。これは前に述べたように1925年の死者20名を筆頭に毎年12~3名の死亡者が出、1906年から1930年迄の25年間に235名と云う夥しい数に達したのである。それで当時のアメリカ国会でもこの数字に驚いて問題になつたことがあつたが当時の大統領のフーヴァーであつたかが、“アメリカの将来の発展を荷負う青少年がこのような事に驚いてスポーツをやる勇気を失うようではアメリカの発展もおぼつかない”と云ふ決断によつてフットボール禁止の声を押えたと云う話がある。しかし一時的ではあるがフットボール禁止の声は無視することが出来ず、先づ用具の改良を実施し、又他方では規則を改正し危害防止に努めたのである。その結果、死亡者も減少し、フットボールは益々隆盛の勢を示し現在に至つたのである。そしてエール対ハーバード、或はアーミー対ネービーのような厂史と伝統をもつたビッグゲームが全米にいくつも出来たのである。
又、アメリカでは大きな人気のあるスポーツにはシーズン制が確立されて居る。即ち野球は4月から9月迄、9月から11月がフットボールのシーズンで11月から翌年の4月までがバスケットボールのシーズンとなつている。
そしてフットボールは春に1カ月の練習期間が認められている。これは学生は本来学業を主とするので、一年を通じてスポーツをやつて居たのでは学業の成績が落ちる、それでシーズン以外は学業に専念させる、と云ふ主旨から採用されたのと同時に、一つのスポーツのみに専念すると他のスポーツをやることが出来ない。
他のスポーツにも良い処は沢山ありその良い所を学ぶのも一つの勉強であると同時に人間を不具者にしない、即ち何でも出来、そして何でも楽しめるようにする、そしてその個人の特性を生かすことの出来るスポーツを発見することが出来て、その個人とそのスポーツを発展させることが出来るのである。このようなねらいを含めてシーズン制を確立したのである。事実日本の学生のスポーツの在り方と云うものは一つの部に所属すれば一年中そのスポーツのみをやり、その者が他に優秀な能力を持つて居ても他のスポーツをすることが出来ないような制度であつて、競技者の身体を単一スポーツに特化してしまうような結果になつている。その代りそのスポーツに対してはエキスパートであるが他のスポーツの良い点を知らず、又他のスポーツの良い点を自己のスポーツに取り入れることも出来ない。その結果その個人もそのスポーツも行きづまりになつて進歩しなくなるおそれがある。
然しシーズン制を採用して、シーズン以外の時は他のスポーツをやらせることにより、他のスポーツから得た✲特の技術を自分の専門のスポーツの中に採用してそのスポーツを技術的に向上させることが出来る有利な点は見のがすことは出来ない。日本においても古くは一人で2種目或は3種目の競技の選手をしたことのある人も沢山居たが、最近になり各競技共に綱張り根性が強くなり、又、閉鎖的になつて一つの競技に登録された者は他の競技に参加することは事実上不可能な様式になつたことはなげかわしい。
これも日本のスポーツにシーズン制の無いことに大きく起因していると思はれる。サッカー等も本来はウィンタースポーツであつたが最近は卋界的に年間オールシーズンのようになつた。又ヴァレーボール等は室内競技の為かシーズンなしのスポーツである。矢張り少くなくともアマチュア・スポーツにはシーズンの区別はあつた方が良いと思はれる。
アメリカで髙等学校や大学の学生の内に、スクール・カラーにその学校の校名のイニシャルを付けたスェーターを着て居る者がある。そしてその左腕の所に線が1本、2本、3本入つて居る。これはその学校の体育会からスポーツの正選手に送られる名誉のあるスェーターであつて、腕の横線の1本は一つのスポーツの正選手を表はしている。即ち2本入つていれば2つの競技の正選手であることを示しているのである。このようなこともシーズン制が確立されていることによつて可能な事と云える。
又アメリカの学生競技には日本のようなリーグ戰形式、即ち総当りのゲームと云うものは少い。フットボールの試合でもそうであつて、一地区或は一ブロックの参加チームが毎年総当りをすることは少ない。主として対抗戰形式で2年ないし3年前にその年のスケジュールを各校同士話合で 定める形式が多い。然しそのスケジュールの中には伝統と厂史を持つ試合は必ず組込まれている。
例えばA校のスケジュールの中には伝統のあるB校とC校の試合は組入れられているがその他のD校、E校は次の年は必ずしも試合をしないこともあるのである。そして強い学校は矢張り強い学校を相手に選らんでいる。例をニューイングランド地区のアイビー・リーグに加盟して居るプリンストン大学の或る年とその翌年にとつて見ると