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2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(1) 1934~聯盟発足前夜

お知らせ

◆ 1934(昭和9年) ◆

 

日本におけるフットボールの創立は、昭和9年11月29日木曜日アメリカ感謝祭の日である。

これは西厂で云えば1934年である。アメリカのニューブランスィックでラトガース大学とプリンストン大学が初めてフットボールの前身である当時のサッカーの試合を行つた1869年から65年経過した時である。然し考えて見ると、まだフットボールの形式をとつていない、フットボールの前身であるサッカーがアメリカで正式なゲームとして行われてから僅か65年しか経過していないのに、正式なフットボールとして日本に伝わつたのは厂史的に見て早いとしか云いようがない。ましてウォルター・キャンプが1チーム11名の現代の基礎となつたフットボールを考案したのは1880年であつたから、これから見ると日本にフットボールが移入されたのは54年後と云うことになる。

 

こうして見るとアメリカンフットボールがアメリカで考案されてから日本に移入される迄はそれ程長い期間がかかつて居なかつたと云うことになるのである。

然し日本には明治維新以来、外國の文化を吸収するのには呑慾であつた。経済の面において然り、文化の点において然り、明治時代は文明開化に狂奔したと云つても過云ではないであろう。

この文明開化に從つてスポーツも外國のものがどんどん移入されて来た。明治に引続いて大正にも又新しいスポーツが日本に入つて来た。そして日本は卋界各國のスポーツの展示國のような様相を呈して来たのである。然しこれ程卋界のあらゆるスポーツが移入された中にフットボールだけは昭和9年迄日本では行はれなかつたのは何故であろう。

 

それには色々と理由があつたと思われるが、

その第1には当時のフットボールは余りにも危険であつたと云うことで、それに恐れをなして移入することをためらつたと云うのが大きな原因であろうと思われる。前にも書いた様に1906年に11名死亡、それ以降毎年10名以上死亡し、1923年には18名、1925年には20名と云う死亡者を出して居る。1906年は明治39年で、1925年は大正14年である。丁度明治の後半から大正にかけて外國のスポーツが続々と日本に入つて来た時代であるので、その頃の死亡者がアメリカでも一番多かつた時である。死亡者が10数名以上20名もあるとすれば、フットボールによる負傷者の数は膨大な数に達して居たであろうから、危険と云うことが第一印象となつて、日本でこのスポーツを行うことに二の足を踏んだのであろう。

 

第2の理由としては用具に金がかかると云うこともあつたのであろう。当時日本は卋界の小國であり、貧乏國であつた。それで只單なるスポーツの為に金をかけると云ふことは仲々困難であつたと云うことは想像出来る。

 

第3の理由としてはアメリカ人が積極的でなかつたと云うことである。特に日本に来て居たア メリカ人に積極性がなかつたのではなかろうか。英國人は古くから植民地政策には積極的であり、ある地点に植民地を設定すると自國の文化をドンドンと移入し、その地点を本國化させる方法を採用して、それによつて植民地をふやして来た。その習慣があるのでスポーツも本國のスポーツを新しい土地に移入させて、その國に行わせたのである。然しアメリカ人は元来移民國であつて、むしろ古い時代にはそのようなことをさせられた國であるので、そのようなことは積極的でなかつたのではないか。それと同時に当時は英國人に比較してアメリカ人の日本に駐留して居る人数が少なかつたのではなかろうか。それともう一つ日本に駐留して居た当時のアメリカ人は自分の仕事に忙しくて他の方面まで手が廻らなかつたのであろう。当時アメリかで猛烈な勢で普及していたフットボールの日本に移入することに積極的な行動をとらなかつた。

 

以上のような理由によつて、まだ日本にはアメリカンフットボールの移入がなかつたのである。然し前にも書いたように昭和9年11月29日に初めて日本でフットボールの試合が行われたのである。これは突然起つたことではなく、当然日本にもフットボールが行われるような基盤が出来ていたのである。

 

それは前にも書いたように昭和の初期の3年4年頃から映画に、雑誌に、そして新聞にフットボールに関することがしばしば出て来た。それによつて一般にもフットボールに興味を持つ者がふえて来たのは当然である。それと同時に昭和5年頃からアメリカ生れの二卋が日本の大学に 続々と留学して来たのである。

 

明治時代の中頃からアメリカはハワイもしくは西部地区の開発のための安価な労働力として 中国人と共に日本人の移住を認めた。それで日本人も多数移民船に乗つてハワイ、カリフォルニア方面に出かけたのである。これが即ち一卋であつた。ところが昭和4~5年以後になると、この一卋達の子供、即ち二卋が大学入学の年頃となつたのである。一卋の聯中は貧農や日本を食いつめた人達が多く、日本に居てもうだつが上らなかつたが、アメリカの新天地に行き、そこには多くの苦労があつたが、その苦労に打勝つた成功者は多く、そしてその人達は金をも持つようになつた。

 

そうなると自分達は小学校も卒業出来なかつた弱味もあるので子供だけには髙等教育を受けさせたいと云う願望を持つようになつた。事実移民となつて移住して見ても常に白人達に押えられて居たので、その反発もあつて白人に勝つ為には立派な教育を受ける必要をつくづくさとつたのである。然し米國の大学に入学させるのには大変金がかかる。それと明治生れの第一卋には故郷を懐しむ気持が強く、移民としてアメリカには来たが成功して、金を持つて生れ故郷に錦を飾つて帰りたいと云う気持が強くあつたのと、もう一つにはそのことも含めて子弟には日本の教育を受けさせてやり度いと云う気持もあつたのであろう。それで大学の教育は日本でと云う者が多かつた。

 

当時日本の円とアメリカのドルとの関係は大体2対1であつた。即ちアメリカの1ドルは日本の2円に相当したのである。ところがアメリカの大学に入学すると、その経費は1ヵ月少く見積つても100ドルは必要であつた。それが当時の日本では大学卒業者の初任給が50円位であり、朝夕2食付きの下宿料が月額20円位であつたので、アメリカの大学に入学した時の経費の半額の50ドルも送金すれば、日本では100円になつた。

 

100円の月給取りともなれば会社では係長クラスである。大変にぜいたくな生活が出来る。それと同時に出費は半額ですむのであるから大変有利である。又第二卋は現在の三卋、四卋と異つて日本語の勉強もして居たし精神的にも日本人であつた。それは一卋は殆ど英語が出来なかつたので、家の内では日常日本語を使つており、又小学校、中学校の正式の学校はアメリカの学校でアメリカ人と一緒に勉強して居たが、放課後は日本語の学校へ行つて日本語の勉強もして居たので、日本語にも割合に不自由しなかつた。

 

それから又彼等の両親は日本に大人になる迄居た。その風俗習慣は日本のものをそのままアメリカでも実行して居たので、二卋もそれを受継いで精神的にも日本人であつた。現在の三卋四卋になるとそれらのものがだんだん薄くなつて、日本語も話せない精神的にも全くアメリカ化してしまい、顔だけは日本人でその他は全くのアメリカ人と云うのが多くなつて来た。
それで日本の各大学にはハワイやカリフォルニアの二卋が沢山留学して居た。そして彼等はアメリカ人であると云う気持より日本人の気持であつた。その二卋はアメリカにおいては小学、中学、髙校を通じて大なり小なりフットボールと云うものを知つて居たことは当然のことである。

 

以上のような要素が備はつて居たのでフットボールが日本に移入されるのは時期の問題であ つたと云うことが出来る。ある日突然フットボールが日本に移入されたのではなく、日本にはフットボールを受入れる準備とチャンスは充分に熟し切つて居たのである。

◆ 1934(昭和9年)聯盟発足前夜 ◆

 

昭和9年の春頃からその気運は動きつつあつた。その当時、立教大学の教授であつたポール・ラッシュ(PAUL RASH)氏を中心に、同じく立教大学体育主事ジョージ・マーシヤル氏、明治大学教授松本瀧蔵氏、立教大学教授小川徳治氏、アメリカ大使館付武官ジョージ陸軍中尉、同ブース陸軍中尉等がグループを作り日本にフットボールを移入する協議を開いた。勿論これには駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルー氏も大変に熱を入れていた。

 

その会議は主としてポール・ラッシュ氏の自宅である東京池袋の立教大学第4号館で行われた。ポール・ラッシュ教授はテキサス州の生れで米國聖公会に所属し、東洋方面を担当し、東南アジアを経て大正の末、日本に来たのである。そして日本聖公会に所属して聖アンデレ同朋公と立教大学教授となつた。そして彼は第二卋の面倒をよく見て居たので日本在住の第二卋との聯絡をとるのにも大変都合のよい人であつた。又松本瀧蔵教授は第二卋であつたが、早くから日本の大学に留学して、卒業後引続いて母校明治大学の教授になつた人である。1958年病死されたのは残念であるが、フットボールだけでなく終戰後は進駐軍と日本政府との聯絡に色々と活躍していた。

 

ジョージ・マーシヤル氏は1925年から1928年までオハイオ大学のフットボールでクォーターバックをやり、名選手として鳴らし、又同大学のバスケットボールのキャプテンもやつた人で、同校卒業後立教大学の体育主事として立教大学の体育、体操を担当すると同時に立教大学のバスケットボールのコーチもして居たのである。

 

小川徳治氏は立教大学卒業で、在学中はサッカー部に所属していたが、卒業後立教大学に残り、ペンシルベニア大学に留学し、帰朝後は立教大学商業英語の教授となつた。ポール・ラッシュ氏 とは師弟の関係にある人である。ジョージ中尉は1919年に米國陸軍士官学校フットボールの主将であり、又オール・アメリカにも選抜された名クォーターバックである。

 

ブース中尉は陸軍士官学校の1917年から1918年にガード、タックルで活躍した人である。

 

このように権威のある人々が集まつて色々と日本にフットボールを普及させる為の協議を盡 したのである。然しフットボールが移入される可き気運は日本には充分あつたのではあるが、何しろ無から有を生み出すのであるから色々の困難があつたのである。競技をする者については多少でもアメリカで経験のある二卋を中心にすれば何とか出来るが、その数だけでは足りないので無経験の日本の学生も入れなければならないし、又普及も出来ない。

 

又、用具その他を購入するのに金は必要である。その金の調達法をどうするか。更に日本の運動具屋では全々無経験な用具の製造の方法をどのように指導して作らせるか、等々色々と困難な問題が山積していた。

 

それで昭和9年春頃から何回もこれ等の人々が集合して協議を繰り返えしたのである。それで競技者についてはポール・ラッシュ氏及び松本瀧蔵氏が中心になつて在日二卋の学生に働きかけて勧誘をし、更にその二卋を使つて学内の希望者を集める方法をとつた。然しその他の用具の点で運動具メーカーを動かす件や、又日本國内でやるのであるから、國内のスポーツ事情にくわしい者が居なくては何かにつけて不便であるので、当時朝日新聞の運動部の記者をしていた立教大学ラグビー部のO.Bの加納克亮氏を一枚加えて、フットボールのP.Rと國内の聯絡のために有利にしようとした。

 

資金の点については仲々困難な問題であつたが、これはアメリカ大使館及びポール・ラッシュ氏が横浜にあるY.C.A.C (YOKOHAMA COUNTRY ATHLETIC ASSOCIATION)に働きかけて、在日米国人から寄付を募集する方法を採用することになつた。それでポール・ラッシュ氏は自分で文章を作り、自分でタイプライターを打つてY.C.A.Cのメンバーに手紙を発送した。Y.C.A.Cとはその名のとおり横浜にある外人の体育聯盟で、横浜の根岸の山の上に立派なクラブハウスと、芝生の美しいグラウンドやテニスコートから体育館まで備えた日本には外に例を見ないような立 派な施設を持つたクラブであつた。そして其所には東京、横浜地区に在住して居る外人が日曜日毎に集つてスポーツを楽しむ機関であり特にラグビーやサッカー等は相当の実力を持つチームがあり、日本の一流のチームと対等の試合をして居たのである。

 

これと同様な外人クラブが関西にもあつた。それは神戸にあつて、K.R.A.Cと云つて居り、京 阪神地区在住の外人がスポーツを楽しむ機関であつた。しかしそれは外人専用の施設であり日本人が自由に使用することは出来ない、招待される場合の外は日本人の使用は出来なかつた。そしてY.C.A.Cの場合でもK.R.A.Cでも同様であるが外人のスポーツ機関であると云うことは、外国人全体のことであつて、アメリカ人とか英国人とか一國の日本在住して居る外人のことではない。外人全体である。即ちアメリカ人も英国人もフランス人もベルギー人もドイツ人もイタリア人もあらゆる外国人が加入することが出来、そして使用することが出来るのである。その当時日本に在住して居る外国人は現在よりは大部数は少なかつた。然し日本に在住して居る外国人は宗教関係、商社関係、外国企業関係、教育者とかで現在のように得体不明な外国人は少なく、何れも彼等自身の母国においても相当な地位の者が多かつた。そして彼等は母国の企業なり団体から日本に派遣されて居たので金も相当持つては居たが、アメリカ人だけではないのでフットボールの寄附金募集についてもその点において苦労があつたと思われる。

 

事実それまでこれらの外人クラブで行われて居たスポーツでフットボールは行われて居なか つた。彼等の間で行われたアメリカのスポーツはバスケットボールと僅かに野球が少し行われて居たのみである。Y.C.A.Cではラグビー、サッカー、ホッケー、テニス等は盛んであつた。このようなクラブに寄附金を募集するのであるから、アメリカ人は当然フットボールに関しては良く理解はあるが、英国人やドイツ人、フランス人はフットボールは全々未知なものであるから寄附金についても仲々うまくは行かない。然し金持の外人でありクラブのアメリカ人の説得などにより一定の寄附を得ることが出来たのはポール・ラッシュ氏やアメリカ大使館関係者の盡力によるものが多く、フランス人もベルギー人も英国人も寄附してくれたのである。その外、日米協会にも寄附を依頼したのである。それで一応スタートする位の金は出来る見透しはついたのである。

 

金の方は充分とは云えないが一応の募金の見透しはついたが、道具の方をどうするかが又大きな問題であつた。何しろ日本に初めて行われようとするスポーツであるので、当然それまでは日本においては需要はなかつたのである。

 

従つて運動具メーカーでもフットボールの用具の製造はしていなかつたし、又その研究もしていなかつた。それならばアメリカから輸入するのも一つの方法ではあるが、それには多額の資金を必要とするし、又その方法であれば一時的には間に合うであろうが、フットボールを日本の土地に植え付ける為には非常に不安定である。それで何とかして日本で用具を製造させる方法を採るようにする必要がある。が運動具メーカーでも見たことも作つたこともない用具であるし、又それを作らせるには金型だとか、その他の資材だとか相当の資金が必要である。それを負担してまでフットボールの用具を製造するメーカーがあるだろうか。業者とすればフットボールはアメリカでは国技として非常に盛んなスポーツであると云うことは充分に知つては居るが、それが日本に移入されてどの位発展するかは不明である。

更に用具を製造する設備を用意しても、その採算がとれるかどうかは非常に不安である。どの運動具メーカーでも二の足を踏むのは当然のことであつた。

 

その件について設立準備委員会では何回も協議をくり返えし、その結果、日本のスポーツ事情にくわしい加納氏に依頼して方々の運動具メーカーに相談した。その当時日本でもアイスホッケーは盛んになつて来て、アイスホッケーの用具を製造するメーカーはあつた。それでその方面のメーカーにあたつた結果、アイスホッケーの用具メーカーとしては経験の豊富な、東京牛込の矢来下にある玉沢運動用具店で製作を引受けて呉れたのである。然し玉沢運動具店でもアイスホッケーの用具は製造しているが、フットボールの用具は造つたことがない。それで委員のジョージ・マーシャル氏が学生時代に使用した用具一通りを持つて来ていたので、それをサンプルとして用具の製作を初めたのである。マーシヤル氏の持つていた用具はマーシヤル氏がオハイオ州立大学の現役時代に使用した用具であるので、1928年頃のもので6年位の時代遅れのもので、その当時すでにアメリカでは新型のものが出来ていたが、その新型はまだ誰も持つて居なかつた。ヘルメットは今のように固いものではなく、外側は皮革で出来て居り、内側にフェルトを貼り、強く押すと二つにたためるようなものである。ショールダーパッドも外側は固い底皮で内側にフェルトを貼つたものであり、ヒップパッドはパンツの附属物のようになつて居た。それでパンツをはくと、腰から上の部分にヒップパッドの一部がユニフォームの上に出るような型になつて居た。

 

そのように1928年頃の旧式な型で、新型の用具は誰も持つていなかつたし、又、知らなかつたので、その旧型をサンプルとして玉沢では製造にかかつたのである。玉沢運動具店でも日本で初めて作るものであるから依頼を引受けては見たものの、大変な苦労をしたことと想像される。

 

それで一応プレイヤーの件、資金の件、用具の件と一番困難であつた件も解決する見透しが出来たので、それでは何時日本における第一の試合を挙行するかを決定しそれのP.Rをしなければならない。

 

昭和9年の5月頃に最初の話が出てから、これだけの準備をするのに4ヵ月位経過し、すでに9月の中頃になつて居た。それで9月中頃の会議では第一試合を何月何日に挙行するかについて協議された。そして用具が出来上るのは玉沢で努力はしているが10月末日頃がせい一杯でそれより早くは不可能であると云う条件が先づ第一であつた。設立準備委員会としては10月中頃から開始して11月一杯で終了したいと考えて居た。プレイヤーの方は一応、早稲田大学、明治大学、立教大学の三校にチームが出来ることが確実になつていたし、資金は目度がついたが、道具が出来ないのでは試合が出来ない。

 

10月末日にならないと道具が出来ないのでは、試合は11月中以降に行うより仕方がなかつた。

 

それで協議の結果11月29日(木曜日)アメリカ感謝祭の日に、フットボール設立の為大変援助 してくれたお礼にY.C.A.Cと明治神宮外苑競技場で日本最初の試合を挙行することが決定された。

 

そして日本側はこの三大学を中心とした学生選抜軍と決定した。選抜軍のコーチにはマーシャル氏ともう1人立教大学体育主事のE・ファウラー氏が当ることも同時に決定された。

早稲田、明治、立教の三大学には9月早々にしてチームが出来た。早稲田、明治には当時、アメリカ、ハワイの二卋が多く留学して居たのでチームを作るのには割合に簡單に出来たが、立教大学はその当時予科、学部の全学生を合計しても1,200名が定員である関係上、二卋の留学生も殆ど居なかつた。早稲田の20,000名、明治の10,000名に比較して学生の数が極端に少なかつたのである。その為に二卋の留学も少なかつた。然しポール・ラッシュ、ジョージ・マーシャル、 小川徳治、加納克亮とフットボール設立準備委員会の重要人物が立教大学関係者である以上、立教大学にチームを作らない訳にはゆかなかつた。それで立教関係の委員が色々考えて、当時学部の一年に居たカリフォルニアから留学して居た二卋で太田次郎、通称ジミーを先づ中心にして、ラグビー部、ホッケー部、バスケットボール部、角力部、矛道部、拳斗部等からレギュラーの選手には一寸なり得ないような者を選んで勧誘をしたのである。いわゆるラグビー部くずれ、角力部くずれとでも云う者である。それでともかくチームを作つてそれ等に練習をさせて成長させ、それ以後は正規に入部する者をふやして行こうと云ふ考え方であつた。これは立教大学だけに限らず早稲田大学においても明治大学においても、その数の大小はあるが同じような他の部のくずれが入つて来たのである。

 

そのようにしてフットボールに未経験な日本人を養成していかなくては、フットボールはあくまでもアメリカの競技になり、日本においては二卋のスポーツになつてしまつて、フットボールが日本に根を降すことが出来ないからである。

 

このようにして立教大学ではプレイヤーを集めたが、それでもまだ不足しているので一時的にでも他の運動部からプレイヤーを借りてチームを編成すると云う大変苦しい努力をしたのである。

 

このようにして早、明、立の三大学には 9 月中頃、すなわち第二学期の開始早々にチームを編成して練習を続けては居たが、その頃はまだ第一回の試合の日取りも、相手もまだ決定していなかつた。然し準備委員会の方で11月29日米國感謝祭の日にY.C.A.Cと神宮競技場でやると云ふ大きな目標が決定され、プレイヤーもやつと張り切ることが出来るようになつたのである。

 

その当時、東京には正式にスタンドを備えて観客を収容するようなグラウンドは明治神宮外苑競技場以外にはなかつた。それで外苑競技場は陸上競技、ラグビー、サッカー、ホッケーと各種のスポーツ団体が使用し、春秋のシーズンの土曜日、日曜日はとても取ることが出来ないような状況であつた。

 

しかし平日は割合に空いて居たので、加納氏が神宮側と交渉して11月29日に確保することが出来たのであるが、これにも相当な困難があつた。何しろ日本のスポーツは日本体育協会がこれを取り締つているような形になつて居り、体育協会に加盟していないスポーツ団体はスポーツではないように思われて居たのである。更に昭和9年と云えばそろそろ日本の軍國主義化が進んで来た頃である。即ち昭和6年に満州事変が起き、これが飛火して第一次上海事変にまで発展し、日本國内は戰爭状態に入る道を突進していたのである。

 

昭和9年頃は一応、満州事変は終息しては居たが國内の軍國化は進んでおり、昭和12年の支那事変へと情勢は邁進して居り、その間に國内においても不穏の情況を示しつつあつた。そして軍の尻馬に乗る官庁は一般をして益々國粋化に指導して居たのである。このような時期にスポーツとは云えアメリカのスポーツを取り入れようとするのであるから、その困難さは相当なものであつた。又一方、考え方によれば、このような時期であつたからこそ対米親善の必要もあつたのではなかろうか。アメリカ側としても対日感情をやわらげる為には日米の交流を計る必要があつたのかも知れない。いわゆる日米外交親善上、或は対外國のゼスチャーとしても、日米親善の実を内外に示す必要があつたのでフットボールと云うスポーツを通じて民間の親善を計つたのか も知れないが、その当事者としては種々の困難な問題を一つ一つ解決して行かなければならなかつた。

 

その一つに明治神宮外苑競技場使用についても同様なことがあつた。明治神宮と云えば日本の代表的な神社である。その頃からボツボツ叫ばれていた神國日本の象徴の大本山でもある。その神域にある競技場でアメリカのスポーツの発足をすることについては多くの異論があつたこと は想像出来る。

 

然しそのような時期にこそアメリカとの親善の為にも外苑競技場で発足する真の意義がある と云えるだろう。とにかくこれの折衝にあたつた加納氏もバックに朝日新聞と云うマスコミを背負つて交渉して、平日であると云う好条件もあつて明治神宮外苑競技場を借りて第一回の試合を挙行することが出来たことは、大変な成功であつた。

 

一方プレイヤーの方はチームを編成して練習を始めたが、まだ用具が出来ていないので、本格的な練習は出来なかつた。主としてフォーメーションとコンビネーションの練習のくり返えしであつた。それでも11月29日に第一試合が決定して一同大きな目標が出来て張り切つて練習をしたのであるが、悲しいことには専用のグラウンドは、勿論ある筈がない。それで他の部がグラウンドの使用していない時間を見計らつては練習をすると云う不安定なものであつたが、それでも皆一生県命に練習を続けたのである。然し、練習許りを続けているとどうしても飽きが来て、何とか試合がやりたくなつて来るのは当然のことである。然し試合をするには用具がまだない。そこでハワイで行はれているベア・フットボールで試合をしようと云うことになつた。

 

ベア・フットボールとは、ルールは正式のフットボールのルールを使い、用具は両チーム共全々使用しないで行うフットボールである。ヘルメットも、ショールダーパッドも、スパイクシューズもお互に使用しないのである。相方共用具を用いないから危険度も少ない訳である。そのベア・フットボールで練習マッチをやることになつた。このゲームが真の日本最初の試合であると云えるかも知れないが、正式のフットボールでないと云う理由で表面には知られていない。

 

この試合は明治大学在学中の二卋が組織しているシグマ・ヌ・カッパ対在日ハワイ二卋との対戰で、昭和9年10月25日午後1時30分から池袋の立教大学のグラウンドで行われた。

この試合の予告を朝日新聞10月25日付では、次の通り書いている。

 

「日本で最初の米國式フット・ボール戰 けふ立教球場で挙行

 

アメリカンフットボールの持つスピードと迫力はかねてから我が國青年の間で憧憬の的となつて居り、嘗ては東髙師、水髙或ひは横浜髙工等でこれが研究並びにチームの組織を志し最近では慶応及び立教等の学生間でこの新時代スポーツに対する関心を持つ者が漸く多 きを加へて来たが、今回明大在学中のアメリカ及びハワイの邦人第二卋聯中が組織して居るシグマ・ヌ・カッパ倶楽部が中心となつて同大学の松本瀧蔵教授や立大のマーシヤル体育主事等と諮つてこれが具体化に努めた結果、在京のアメリカ生れ第二卋邦人の選抜軍と25日午後1時から池袋立教球場で松本教授のレフェリーで日本最初のアメリカンフットボール戰を行ふこととなつた。尚今回は最初の試合でありこれを広く卋間一般へ紹介する意味から大いに一般有志の観戰を歓迎する由である。両軍メンバー左の如し。

シ 軍 選 抜
山 本 RE 陶 井
仁 井 RT 今 村
黒 川 RG 三 上
加 藤 C 三 枝
川 辺 LG 青 木
押 田 LT
二階堂 LE 島 袋
吉 岡 QB 福 田
松 本 LH 西 原
杉 山 RH 藤 田
三 浦 FB 仁 井

 

 

以上のように昭和9年10月25日付の新聞の記事がのつた。

 

記事は「チーム組織を志し」とか「漸く多きを加へて来たが」今から思えば大時代的な用語が使われて居るが、二段の予想記事と云うよりむしろP.R的要素を多分に含んだ記事で仲々有効な記事であつた。

 

この記事の中にも書いてあるように、アメリカンフットボールについては過去においても興味を持つていた人は多くいたのである。即ち「嘗ては東髙師、水髙或ひは横浜髙工等でこれが研究並びにチームの組織を志し云々」とあるように東京髙等師範学校、水戸髙等学校、横浜髙等工業学校等でフットボールのチームを作るか、或いは作ろうとする気がまえはあつたらしい。それが何時頃かは明確ではないが、とにかくフットボールに興味をいだき、それをやつて見たいと志した人は少くともこれ等の学校には居たのであろう。

 

東京髙等師範学校ではその性格上フットボールを研究し、それを又教材とする為にも研究をしていたと云うことはうなづけるが、水戸髙等学校、横浜髙等工業学校ではプレーをやりたいと云う目的の為ではなかつたのではなかろうか。然しそれも種々の今迄述べたような困難な条件の為に実現出来なかつたのであろう。誠に残念なことであつた。

 

さて昭和9年10月25日は晴天であつた、池袋の立教大学のグラウンドと云つても体育館の裏の現在の理学部の教室の建つている処に、昔はグラウンドがあり、陸上競技、ラグビー等が使用していた。勿論予科の体操や教練の時間にもこのグラウンドを使用していたものでスタンドも何もない只のグラウンドであつたが、新聞の宣伝で知つたものか約200人位が時間になるとグラウンドの周囲に集つた。勿論多くは立教の学生であつたが、その他にもフットボールに興味を持つている各大学の学生も遥か電車でやつて来て見学をしていた。

 

何しろ用具がないので両チーム共、ジャージーも長袖のものもあればTシャツ姿、ランニングシャツ姿で、色も殆どが白であり、パンツもシヨートパンツの者、長ズボンの者と全部まちまちで自前のシャツ、パンツと云ういでたちであつた。中にはたつた1人だけヘルメットをかぶつて居た者がいたのはご愛嬌であつた。靴も殆ど運動靴で、中にははだしの者も4~5人居た。然しルールは正規のルールで試合をしていたのであるから、当りは仲々するどかつた。

その試合の記事が翌10月26日の新聞に次のように書かれていた。

 

「シ軍勝つ

日本最初の米国式蹴球日本最初のアメリカンフットボール戰、明大在学中のアメリカ第二卋シグマ・ヌ・カッパ対ハワイ第二卋との試合は25日午後1時半から立大グラウンドで松本(主)、マーシヤル(副)、村山(線)の審判で挙行したが何分道具が一つもないのでヘルメット、プロテクター抜きの素面、素小手、靴も蹴球用は危険とあつて多くは籠球用ゴム底靴ハワイ軍はハダシで対戰し、漸く第2クオーターで明大シ軍見事にタッチダウン。コンバーション成つて7点を得、第3、第4クオーターは得点なく7対0で明大シ軍に凱歌が挙つた。

 

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明大シグマ 0 7 0 0 7
ハワイ二卋 0 0 0 0 0

 

明 大 ハワイ
川 辺 RE 陶 井
黒 川 RT 今 村
山 田 RG 三 上
武 田

C

三 枝
加 藤 LG 青 木
押 田 LT
二階堂 LE 島 袋
吉 岡 QB 福 田
松 本 LH 西 原
斉 藤 RH 藤 田
山 本 FB 仁 井

 

 

以上であるが剣道ではあるまいし素面、素小手とは又大変な表現であるが、仲々妙を得ていると云うべきであろう。中に1人のアメリカの水兵のかぶる白い帽子をかぶつている者が居たのが印象に残つている。

 

これが日本におけるフットボールの最初のゲームであると云うには余りにも寂しい。他のスポーツでも皆同様ではあると思はれるが、皆このような寂しいゲームが第一回となつているのであろう。然しこの試合は練習試合であつて、あくまでも正式のゲームではなかつた。即ち正式のゲームを挙行する為の下準備に過ぎないのであつて、日本のフットボール史上では、日本最初のフットボールゲームは飽く迄も11月29日となつている。然しこのゲームは用具こそ用いなかつたが、正式なグラウンドで正式な審判の下に正式な時間で行われたのであるが、日本最初の正式なゲームを盛り立てる為の準備であつた。

 

何回も書くようではあるが日本最初のフットボール・ゲームは、昭和9年11月29日木曜日アメリカ感謝祭の日に、明治神宮外苑競技場において東京学生選抜軍とY.C.A.Cとの間に行われたのである。

 

10月の末になると、製作を急いでいた玉沢運動具店から同店苦心の作の用具が出来たのである。勿論出来上がるまでにはマーシヤル氏やアメリカ大使館付武官のジョージ中尉、ブース中尉等が 何回も指導したり相談に応じたりして、型は旧式ではあるがアメリカ製に匹敵する位の用具が出来たのである。この間玉沢運動具店の苦心も相当なものであつたことは想像出来る。日本のフットボールの厂史にこの玉沢の努力を忘れることは出来ないし、又玉沢はフットボールの恩人とも云えるのである。また玉沢運動具店としてもそれを誇りにしても良いのである。

 

さて用具が出来上ると、練習も本格的になつて来た。Y.C.A.Cの方も同様に本格的練習を開始したのは当然のことであつた。学生軍の方はコーチにマーシヤル氏とブース中尉が当つた。用具を装着すると各プレイヤーの動きも変つて来た。二卋の中には正式なフットボールをやつたことのあるプレイヤーも居たが、日本生れのプレイヤーは初めて装着する用具であるから、ぎごちがない。手が髙く上には上らない、腰がやわらかくまがらない等用具に馴れるまでが、又大変であつた。

 

又練習用のグラウンドにも苦労した。何しろ出来たばかりであるので何処のチームも専用のグラウンドなど持つている筈はない。また各学校でも各部が専用のグラウンドを持つているのではなく、お互に時間の割り振りをして使用して居るような状態であるから、出来た許りのフットボールに使はせてくれるだけの予猷はない。まして選抜チームであるからなおグラウンドについては苦労した。それで主として池袋の立教のグラウンドでラグビー部、陸上競技部の使用していない時間に練習をしたのである。

 

Y.C.A.Cでも練習には苦労したことと思はれる。それはグラウンドはクラブ所有の立派な芝生のグラウンドがあつてその点ついては心配しなかつたが、プレイヤーの方の苦労があつたのではなかろうか。何しろプレイヤーはアメリカ人だけではなく英國人もドイツ人もフランス人もベルギー人も入つていて、フットボールは見たこともない外國人が入つて居た。それをアメリカ人が指導してチームを作るのであるから、初歩からやらなければならない。まして彼等は何れも仕事があるので練習の時間に制限を受ける。その他学生と違つて社界人であるので、コーチする方も非常にコーチしにくい点も多々あつたと思はれるが、根がスポーツ好きの外人の集団であるので期日までには型を作ることが出来た。

 

一方、試合の裏方も忙しくなつた。11月中頃には入場券の前売りを始めた。都内のプレイガイドや運動具店を使つて前売りをする外、出場する大学の部を通じて学生に前売をした。学生券30銭、一般券50銭、特別席1円の値段であつた。又当日試合場で売るプログラムの製作もしなければならなかつた、プログラムは一部5銭の定価をつけた。

 

その他、試合場の人の配置、医師の手配、招待状の製作発送、又グラウンドの作り方、これも又ラグビーやサッカーのラインの引き方やゴール・ポストの建て方はグラウンドの方で充分知つてはいるが、何しろ日本で初めてのことなので外苑競技場の方でも全々知らない。それで外苑競技場が出来た時から居る管理人の岡崎太郎氏によく話を通じてフットボールのラインを引いて もらうように依頼もしなければならなかつた。何しろルールに則つたラインを引いてもらうにはルールから説明をしなければならいのである。

その他、ヤーデッジ・チェーンやダウン・インディケーターそれにコーナー・フラッグ、ヤード標示板等何れも今迄日本で使つたことのないものばかりなので、これを作らせるのに一々手を取つて指導する必要があつた。

 

いよいよゲームの日が近づいて来た11月25日には、新聞記者発表を丸の内のアメリカンクラブで行つた。当時はテレビはなくラジオはJOAKだけであつたのでPRの主力は新聞に向けられたのは当然である。在京の主力新聞記者十数名が集まつた。委員会の方からはポール・ラッシュ委員長を始め松本、小川、マーシヤルの各委員とこの記者会見をアレンジした加納委員も参加したのは当然である。そして各新聞記者共運動部のベテラン記者ではあるが、フットボールに関してはスブの素人であるので、フットボールの簡單なルールや、出場選手のメンバー表等の参考資料を配布し、フットボールの解説をし、その他の質義応答もあり相当盛会であつた。

 

11月28日の東京の各スポーツ欄には各紙共4段全紙を使つて、相当にくわしい解説記事を写真と図解入りで載せた。各紙がこれ程大きく記事を取り上げたことは日本のスポーツ界においても稀有のことであつたであろう。これも委員の中に朝日の記者の加納氏が居て、色々と記者仲間を集めて卋話をしてくれたおかげである。

 

朝日新聞には

「米國式蹴球とはどんな競技か あす日本最初の試合」と云う見出で4段抜きで

「29日午後3時から明治神宮競技場に於て早明立三大学選抜軍と横浜外人団と初めて正式の米國式蹴球試合を挙行することとなつたが、アメリカンフットボールとはどんな競技か?」

と書き出しグラウンドの大きさ、ゲームの時間、使用ボール、競技者数、ポジション、ゲームの進行のし方、反則の種類、得点、等について詳細に記載していた。

 

読売新聞も 4 段で

「AMERICAN FOOTBALL 日本で初めて紹介試合 横浜Y.C.A.C対東京学生聯合軍29日神宮競技場」の見出で「ラグビーによく似ていてもつと猛烈なアメリカンフットボールが29日午後3時から神宮外苑の競技場で我国最初の試合としとデヴュウする。かたや横浜のY.C.A.Cかたや東京学生聯合軍、この当日はグルー米國大使が開会の祝辞を述べる。ついでチーム間の記念品贈呈、選手の紹介などにつづいて國歌の吹奏、それから米國のフットボールに関するマーチを20も演奏して3時からキック・オフといふ大がかりなもの、これで日本に知られていないが米國スポーツ界の王者アメリカンフットボールを日本に移植しようといふのだ」

と書き続いて

「学生聯合軍といふのは米國生れの邦人が殆んど全部で現在早立明大などに学籍を置いてひたすら日本人的教養を受けつつある学生諸君。明後日の試合を前に27日の午後立教大学の長崎運動場で立教のマーシヤル体育主事、ブース米大使館員、コーチの下に、フォーメーションの練習に余念がない。何しろ英語の方が板についている聯中なのでクォーターバックの喋る英語も他の10人の動く気合もチョイト日本人離れがしている。
選手達の予想では“横浜の外人クラブは重量があるのと大きいから苦手だけれど、年寄り達が多いから初めの15分が過ぎればヘバルだらうと思つてます。だから後半で勝ち抜く気でいるんですよ”となかなか闘志満々だ」

と少々皮肉つた筆で書いている。即ち日本に留学して日本的教養をうけつつある二卋がアメリカのスポーツを日本でやるとか、英語や動作が日本人離れしているとは大部皮肉つているが続いて

「試合方法と反則初めて観る人のメモ」でチーム、試合、競技場、試合時間、反則、見方と色々項目を別けて親切に解説し、最後に「ラグビーがウィットな試合であるのに対してアメリカンフットボールは全くフォーメーションの戰ひである。普通は図のやうなライン・アップを作るが、クォーターバックのシグナルでプレイが初められる直前に色々と配置の変化が行はれる、だからチームの一人が譜号を忘れたり、誤つたりするとチーム全体の動きが破壊されてしまふ」

と解説している。

 

各新聞が競つてこんなに大きく解説予告とも云うべき記事を書いてくれたかと云えば、加納さんの努力盡力は当然のことであるが、日本にフットボールが移植される気運が充分に熟し切つていたと云えるのであろう。

 

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