2023.03.10
日本におけるフットボールの厂史(2) 最初の公式戦当日~1934秋
お知らせ
◆ 1934(昭和9年)最初の公式戦当日 ◆
さていよいよ日本最初のゲームの日、11月29日がやつて来た。
当日は晴天であつた。明治神宮外苑競技場には新聞によれば2万人と書いてあつたが、実数は1万5千人位であつたが、とにかくメインスタンドは一杯になる位の観衆が集つた。そして貴賓席には秩父宮殿下のお姿も見えた。秩父宮様と云えばスポーツの宮様と云う愛称もあり、大変スポーツの好きな宮様であつた。お若い頃には内緒でラグビーもやられたことがあるとか云う話もあつた。その秩父宮様とグルー米國大使等が貴賓席で観戰されている中で日本最初の正式なアメリカンフットボールは華々しく日本において開花したのである。
記念すべきこの日は厳粛にと云うよりは華々しく行われたのである。約1万5千人の観衆を集め、フロリダのバンドが来場してアメリカの有名大学の応援歌を演奏し、二卋を中心とした応援団は黒紋付の羽織に袴と云う日本の学生応援団を見馴れた日本人の眼には異様に見える白シャ ツにズボン姿のアメリカスタイルで英語を駆使する応援団等、映画でも見ているような雰囲気であつた。
ゲーム開始に先立つて東京学生米式蹴球聯盟の委員長ポール・ラッシュ氏が、日本で最初の正式なフットボールを開催するについての現在までの経過及び内外有志各位の好意に対する感謝の辞を英語で述べ松本氏がこれを通訳した。そして次にジョセフ・グルー駐日アメリカ大使の祝辞があつた。その主旨は次の通りであつた。
「アメリカンフットボールほど観衆にも選手にもスリルを感じるスポーツはない。そして苟しくも米國人たるものはこのゲームを持つことに誇りを感じないものは一人もあるまい。アメリカンフットボールは意志強固にして責任感強く、スピードと忍耐力を備えるものにとつてのみ許され、価値あるものであつて、以上の素質薄弱なるものはこの競技にたずさわる
ことは出来ない。私の考えでは、日本國民の習慣、生活態度及びスポーツに対する熱度から見てこの競技は全く日本國民に最も適したスポーツである。」
このグルー氏の云葉を全く至言とでも云う可きものであり、吾々フットボールをプレイする者はこの云葉を金言として来て現在迄もそれを忠実に実行していると云える。即ち意思の強固、責任感の旺盛、忍耐力の養成はどのスポーツにも必要であるが、特にフットボールにおいてはこれ等が欠除していたのではチームの力を発揮することは出来ないのである。その意味からもこのグルー氏の云葉はフットボールを志す者にとつては、必要欠くべからざる所の金言であると云はなければならないと思う。
さてその記念すべき日本最初のゲームの内容は、翌日の朝日新聞の記事を以下に写して見よう。昭和9年11月30日朝日新聞朝刊運動欄「26-0 外人軍を圧倒し学生軍大勝す日本初の米式蹴球」の見出しで
「早明立学生混合軍対横浜外人軍の日本最初のアメリカンフットボール試合は 29 日午後3時から神宮競技場に於て挙行。この日秩父宮殿下台臨あらせられグルー米國大使を始め外人観衆極めて多く、メインスタンドは満員で約2万を数へた。
レフリー・ジョージ大尉、アンパイヤー・ファウラー氏、主線審浜田氏、線審河辺氏、ラッセル氏。
何しろ初めての試合であり両軍共に訓練の期間が少かつたので試合は技術的にも戰法的にも殆んど見るべきものなく、外人軍はバックスが球を得れば唯密集に突つ込むばかり窮すれば3ダウンか4ダウン目にタッチを狙ふとか一かばちかハイパントを揚げて従らに攻撃を放棄するばかり。これに比べると学生軍は展開力もより広くFB川原がしばしば長駆して僅かながら競技的な興味を躍らせて居た。
第1クオーターでは学生軍は自陣30碼ラインからバックスの突進で第4ダウン迄に外人側40碼ラインを突破し続く攻撃の第4ダウンで15碼に迫り、次の第3ダウン目に川原最初のタッチダウンを得て6-0とリード。第2クオーターでは外人側40碼からバックスの突進で第3ダウン迄に25碼に迫り第4ダウン目に梶谷のフォワードパスを川原ゴール前5碼辺で掴んでタッチダウン、川原のプレイスメント決まつて7点を得、13-0とリード。第3クオーターは双方動きが鈍く外人軍のバック、ザバーの活躍があつたが決まらず両軍無得点。第4クオーターに入るや学生軍は外人側30碼のスクリメーヂからパスで突進、第2ダウン迄にゴールライン1碼に迫り、第3ダウンで川原右に抜いてタッチダウン。野中プレイスメント決めて7点を得20対0となり、タイムアップ前外人軍20碼から36碼辺に盛りかへしてからの第3ダウンでフォワードパスを試みるを藤田中央線付近でインターセプトして左にスワーブして抜き去り最後のタッチダウンを挙げ6点を得て26対0で快勝した。
紹介的な試合であつたから一概に云ふわけにはゆかないが外人側は1人余計出た時もあり試合そのものとして、極めて凡戰で、パスの攻撃など殆どなくフォーメーションも数へる程しか出なかつた。併し米國式蹴球は如何にも面白さうだといふことを見せる意味では外人見物のお祭り気分やバンドの活躍などにも彩られて大いに効果的だつた。」
と横尾俊彦記者は苦し気に書いている。
それもその筈であろう、この記事を見ても横尾記者はフットボールのことは知らないのではないかと云うことがよくわかる。ハイパントとかタッチを狙うとか、プレイスメントやスワーブと云うラグビー用語が随所に出て来るので、横尾記者はラグビー担当の記者であると云うことは解る。もつともフットボール担当記者と云うものはまだまだ誕生しない時である。やつとフットボールが日本に誕生したばかりで、今生声を挙げたばかりであるのでフットボール担当記者なんかある訳がない。ラグビーと似ていると云うので横尾記者が書かされたものであろうが、横尾記者としては大変に迷惑極まりないことであつたであろう。
それにゲームが派手な面白いものであつたらもつと何か他に方法もあつたのであろうが、何しろ初めての試合でプレイヤー自体がよく解つていないし、又経験も無い上に練習期間も短かつたので目のさめるようなよい試合が出来る筈はない。横尾記者にはその点気の毒であつたが彼は一応得点の経過は正確に記事にしている。唯惜むらくは得点のタイムとダウンがどのシリーズのダウンであるかが書いてないのは残念であつたが、とにかく初めての記事としては正確に書いていることは現在となつて非常に有難いことであり、そして又貴重な記録であると云うべきである。
この試合のスコアー及びメンバーは次の通りである。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
学 生 |
6 |
7 |
0 |
13 |
|
|
26 |
|
YCAC |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 学 生 |
|
YCAC |
| 14 |
FD |
12 |
| 194 |
YR |
105 |
| 50 |
YP |
25 |
| (註)FD はファースト・ダウンを得た数
YR(ヤード・ラッシュ)全試合に突進したヤード数総計
YP(ヤードペナルティ)反則のため後退させられたヤード数総計 |
| 学 生 |
|
YCAC |
| 井 上(早) |
RE |
ヒーシュ |
| 山 田(明) |
RT |
フィゲス |
| 野 中(早) |
RG |
シュバリエ |
| 花 岡(明) |
C |
ウェーソン |
| 松 本(早) |
LG |
ショーネ |
| 畑 (明) |
LT |
ダウ |
| 梶 谷(立) |
LE |
ワイスブラット |
| 大 前(明) |
RH |
F.ハリス |
| 藤 田(早) |
LH |
デヴィン |
| 太 田(立) |
QB |
J.ハリス |
| 川 原(早) |
FB |
ザバー |
| 交代
(学生軍):FW唐木(明)、山本(明)、黒沢(立)、横野(早)、根本(立)、加藤(明)、頴川(立)、黒川(明)、FB 山本(明)
(外人軍):FWテッシュ、ペスタロッチ、ロード
タッチダウン 学生軍 川原 3、藤田
タッチダウンよりのゴール 学生軍 川原、野中 |
以上は朝日新聞の記事によるものであるが、FDの数とかYRのヤード数、又はYPの長さ等これは勿論聯盟で発表したものであろうが、それを刻銘に載せていることは、現在においても大いに学ばなければならないことである。
学生軍のメンバー中、LE 梶谷(立)とあるが、梶谷は立教の学生ではなく法政の学生であつたが、このチームが早明立の三大学選抜と云うことになつているので聯盟の発表も立教としたものと思はれる。そして学生軍のスターティングラインアップは皆二卋であつた。但し交代の中には日本生れの学生が数人入つていた。立教からの太田は二卋でカリフォルニア大学を卒業して立教に入学した選手であり、黒沢は拳斗部に居た選手で、根本はラグビー部に居た選手であつた。頴川は通称ロニーと云い台湾人であるとのうわさもあつた人である。
とにかくこの様に日本最初の試合は盛会裡に学生軍が26対0で快勝して成功裡に終わつたが、翌日の各新聞は試合経過よりスタンド風景に主力を置いて書いていた。これもフットボールを書ける記者が各紙共居なかつたので仕方がなくそのような処置を採用したのであろうが、スタンドの風景は確かにその当時の日本のスポーツには珍らしい様想であつたのでその方が面白かつたのであろう。
朝日新聞にもゲームの写真とならべてスタンド風景の写真をのせて、それに「スタンド異色風景」と云う見出をつけて次のように説明している。
「初めて神宮で行はれたアメリカンフットボールは試合も試合だがスタンドの風景がこ れは又頗る異色味たつぷりメーンスタンドを埋めた2万観衆に外人の多かつたのも平素と変つていたが記者席の前に陣取つたYCACのバンド(上)がタイム毎、得点毎に吹き鳴らすジャズ張つた奏楽の賑やかなこと、國歌や行進曲以外に聞いたことのない一般フアンはビックリ仰天、それかあらぬか、3大学学生軍の応援隊(下)のエールまでが凡そ日本人には聞き馴れぬ云葉ばつかり、手ぶり身ぶりまでが本場からの輸入もの、イヤどうもユカイなものでござる。」
と驚きと皮肉で書いている。
前にも書いたように昭和9年と云えば、昭和6年の満州事変が終り日支事変が近着き日本全体がそろそろ軍國調に踏み出した頃であり、神國日本の風調が強まりかけて来た頃である。神國日本の権化とも云うべき明治神宮の外苑で全くアメリカ調のスポーツが始り、スタンド全体をアメリカ調に包んでしまつたのであるから呆れるのも当然である。それまでこの競技場ではラグビーの試合も常に行はれてはいたが、ラグビー協会では拍手以外の応援は禁じられいた。
又六大学の野球の応援は盛んであつたが、応援のリーダーは正服正帽か紋付羽織袴と定つて居り、ブラスバンドなども入らないものであつた。それが神聖な神宮外苑にジャズ式のブラスバンドの演奏が鳴りひびき、それに合せて英語の応援がこだましたのであるから見物も皆ビックリ仰天してあきれたのも無理はない。
その時の応援団と云つても各学校の応援部ではなく二卋聯中で米國の髙校等で応援した経験 のある者がリーダーになり、見物に来た二卋や日本生れの学生を一ヶ所に集合させて聯盟で作つたテキストのプリントを渡しそれによつて応援をする臨時応援団ではあつたが、それは臨時傭いにしてはリーダーの指示がよかつたのか割合にまとまつていて臨時応援団とは思われない位であつた。
その時の応援のテキストは次の様なものであつた。
YEILANDSONG
(HAILTEAM)(BIGTHREE)
HAI LTEAM!×(NAME)RAH..RAH..RAH..(NAME)
××××××××
HAI…….LTEAM!×SONGS
TEAM!TEAM!TEAM!×HAILHAILTHEGANGS
ALLHERE
(ROCKET)××××××××
WHEE……(whistled)…….EE EBOOM!
AHHH……………………HH HVARSITY
VARSITY!VARSITY!
×××××××××
Soft)VAARRSITYRAH!RAH!
Medium)VARSITYRAH!RAH!
Loud)VARSITY
VARSITY(EE)……VARSITY(EYE)WOW!
××××××××××
(WARCRY)
FIGH……TTEAM FIGHTFIGHT!
FIGH……TTEAM FIGHTFIGHT!
YEA……H HTEAM
FIGHTFIGHTFIGHT
××××××××××
(OSKY)
OSKIE……E……EWOW..WOW!
WHISKIE……E. EWEE…WEE!
O……O……O OLYMUCKYEYE!
O……O……O OLYVARSITY!
日本の「フレーフレー」とか、「ガンバレガンバレ」とは格段の差であるが矢張りフットボールにはこの方が何かピッタリと来る様な気がした。これでは新聞記者ではなくとも日本人の観客は一様にビックリ仰天したのは当然であり、横尾記者ではないけれど「イヤどうもユカイなものでござる」である。
又読売新聞はこれ以上面白く書いていた。
「急に力が出た筈 米軍にもぐりが1人 アメリカンフットボール初試合珍風景」、との見出しで
「29日午後3時から神宮競技場でアメリカンフットボールがデビューした、横浜カントリー・アスレティック・クラブ(Y.C.A.C)対全東京学生選抜軍チームの試合、デビューにふさわしく鳴物入の素晴らしく華やかなお目見得だ。
フロリダのジャズバンドが出張して試合開始前からまるでお祭り騒ぎ、横浜の全外人が夫婦づれ、子供づれでドライヴして来て、中央スタンドは「アメリカ語」で煮えくり返つた。タクトを振る外人コンダクターの恰好もすつかりホール気分だ。見物の外人は指揮棒に合せて心を浮かれさせ立上つては大声でジャズの注文「ホイ乾杯の歌」。普通席も学生でギッシリの満員、早稲田、明治、立教の応援団が旗をなびかせて元気一杯の応援だ。この応援流暢なアメリカ語、学生軍の大部分がアメリカ生れの第二卋だ。応援団もまた第二卋で固められているのだから負けつこない。時々学生の向ふ仕込みで優しく見え過ぎる応援団長が外人の前に出張つて応援のリードだ。
活動では見たことがあつても本物の試合を見るのはこれが初めて。解説付5銭のプログラムが飛ぶ様に売れた。解説とにらめつこしての観戰だ。ヤンキー聯はさすがお國自慢のスポーツ、得たり顔に、試合なんか始めからなめてかかつて、奇声、歓声の聯発。
試合終了少し前外人軍に急に力が出た、レフェリーがきょとんとして人数を勘定していると思つたら、なあんだ12人。11人のメンバーが選手交替の時何時の間にか12人になつていた。お陰で外人軍反則で15ヤードの後退を命ぜられた。途端に毛皮を頭からかぶつた外人がスタンドの前に飛び出してとんぼ返りまでして応援だ。自称ジョニーウォーカー君、蜜柑を十字にくくつて首にぶら下げて居。26対0、ジョニーウォーカー君の折角のとんぼ返へりも、洋服が汚れただけのことになつた。
スポーツの宮様秩父宮殿下には競技場に台臨、終始御興深く御覧遊ばされた。」
以上写真入で書いてあつた。
「活動では見た…」とあるのは活動写真、即ち映画のことである。それから外人チームは交替時の聯絡が悪く1人退場しなくて12人になつたこともあり、とんだ御愛嬌であつた。
このようにして色々と批判はあつたが、とにかく大成功の裡に日本最初のフットボールの試合は終つたのである。そしてここで早稲田大学、明治大学、立教大学の3大学で東京学生米式蹴球聯盟を結成して発足したのである。
アメリカンフットボールでも良いのであるが、長過ぎるのと、当時の日本の情勢から成るべく漢字を使つた方が良いのではないかと云うことで米式蹴球としたのである。当時はサッカーをア式蹴球と呼び、ラグビーをラ式蹴球と云つて居たので、ここは新語を作る名人の加納さんが考えてアメリカンであるから米國式と云うべきではあるが、ア式、ラ式と同様の方がよかろうと米國の國を外して米式蹴球としたものである。
◆ 1934(昭和9年) 聯盟設立 ◆
そして東京学生米式蹴球聯盟(TOKYO INTERCOLLEGATE FOOTBALL LEAGUE)の発足は昭和9年12月1日、即ち第一回の正式フットボール試合の翌々日に、フットボール設立準備委員会の席上において正式に発足したのである。
そして新聯盟の理事長には P.ラッシュ氏が推選されて就任し、理事には松本瀧蔵、小川徳治、ジョージ・マーシャル、加納克亮の諸氏が就任した。
そしてこの席上に於て今後フットボールを日本に定着させ発展させる為への色々な決議がなされた。その主な事項は次の様なものであつた。
1. 聯盟の定期試合の季節を毎年10,11,12 月の3ヶ月と定め加盟大学の試合は総て聯盟の主催とする。
2. 明年度の定期シリーズ迄には他大学を勧誘して少なくとも六大学のリーグ戰を行ふ為努力すること。
3. 加盟大学選手の資格に関する事項。
4. ルールは総て米国ナショナル・カレッジエイト運動協会公認に従ふこと。
主なるものは以上のような事項であつた。この内第一項のシーズンを 10,11,12 月と決定し たことには重大な意義が含まれているのである。これまでの日本のスポーツはシーズンを殆ど無視して行つていたのである。即ち、あるスポーツを志した者は一年中同一のスポーツのみを行つていた。夏の暑い盛りにも冬の寒い頃も関係なく同じスポーツしか出来なかつた。そして、又、その練習は一年中繰り返されて居た。これは学生としての本分の学業についてもおろそかになり、又、プレイヤーにとつても一つのスポーツしか不可能な不具者的なプレイヤーを作る結果になる。
これでは有能な才能を持つたプレイヤーでもその才能を発見出来ずに終らせてしまうような結果にもなりかねない。
例えば野球のキャッチャーだとか、拳斗の選手だとかは近距離の運動神経が発達しているので、アイスホッケーのゴールキーパー等には非常に有力な場合が多く、拳斗では余り力を発揮することが出来なくとも、アイスホッケーのゴールキーパをやらせたら大変な力を見出すことが出来る様なものである。その為には一つのスポーツにしばり着けることなく色々なスポーツをやつて見て、自分に一番適応しているものを発見させることが必要だと云う観点からアメリカで実施されているシーズン制をそのまま採用したものであり、これは日本で最初のシスティムであつた。然し、それから40年経過した現在でもこのシーズン制をはつきりと尊定しているのは、フットボールだけであると云つても過云ではないだろう。
野球、ラグビー、バスケットはややシーズンを守つているが、その当時一応シーズンを守つていたサッカーは、現在では全く無視して年中やつているし、バレーボールに至つては全々無秩序であると云うに他はない。このシーズン制を守つていることはフットボールの誇りであると思はれる。シーズンは10~12月であるが、春にはそのチームの実情に応じて1ヵ月の練習期間を認めることがこのときの理事会で決定した。これもアメリカのシスティムを準用したもので、1ヵ月以上は許可されないことになつている。
第4項の米國ナショナル・カレッジエート体育協会(N.C.A.A)のルールを採用するのは現在も同じである。
◆ 1934(昭和9年) 秋 ◆
そしてこの理事会で聯盟主催の第一回のリーグ戰を挙行することが決定した。その日程も次の通り決定した。
|
|
|
|
|
| 12月8日 |
明 治 |
対 |
立 教 |
午後2時池袋 |
| 12月15日 |
早稲田 |
対 |
明 治 |
午後2時神宮(有料) |
| 12月22日 |
早稲田 |
対 |
立 教 |
午後2時池袋 |
その他年内にもう一度 Y・C・A・C と何れかの大学が対戰し、翌年からは資金的援助を受けたお礼も兼ねて各大学共シーズン中に一度は Y・C・A・C と対戰することも決定した。
その第一回のリーグ戰の第一戰明治対立教のゲームは12月8日午後2時から池袋の立教グラウンドで行はれた。その経過を翌12月9日の朝日新聞は次のように書いている。
「24-0 明大楽々勝つ 対立教・米式蹴球東京学生米式蹴球リーグ
第一戰の明大対立教の試合は8日午後2時から池袋立教グラウンドでレフェリー・ジョージ、アンパイヤー・ブース、線審ファーラー、松本4氏審判の下に挙行
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
6 |
6 |
12 |
0 |
|
|
24 |
|
立 教 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
経験のより多い明大は、第一クォーターから立教を圧迫して出で9分、先づ吉岡タッチダウンを挙げ6-0とリードし、第2クォターでは7分二階堂がタッチダウンを挙げ12-0となり、第3ダウンでは8分二階堂、10分仁井と何れもスクリメージからタッチダウンを挙げて24-0と開き、第4クォーターでは明大側フォワードパスで攻めたがミス多く立教の好防もあつて得点なく結局24対0で明大の快勝となつた。
| 明 治 |
|
立 教 |
| 畑 |
LE |
井 上 |
| 黒 川 |
LT |
黒 沢 |
| 三 浦 |
LG |
村上(兄) |
| 畑(進) |
C |
安 藤 |
| 山 田 |
RG |
海 津 |
| 加 藤 |
RT |
玄 |
| 花 岡 |
RE |
亀 井 |
| 松 本 |
QB |
田 中 |
| 吉 岡 |
LH |
村上(弟) |
| 仁 井 |
RH |
関 口 |
| 大 前 |
FB |
畑 |
| (交代)明大 FB 二階堂 |
以上が記事であるが第3クォーターを第3ダウンと書いたり、或はタッチダウンはどんなプレイで挙げたかと云うことは少しも書いていない。書くことが出来なかつたのが事実であろう。
それは記者がフットボールを知らないのである。然しいくらリーグ戰最初のゲームであるとは云え、メンバー入れてこれ程書いてくれたのは余程希待するものがあつたのであろう。メンバー中、立教のFB畑とあるのは明大の畑3兄弟の1人を間違えて記入したものであろう。
この日も晴天であり、ユニフォームも両チーム共新調のものであつたのは当然である。11月29日の学生選抜と Y・C・A・C との試合の時のユニフォームは、学生軍は白地に肩の所と番号を赤で染めたユニフォームを着、Y・C・A・C は紺に腕から肩にかけての白縁を染め分けナンバーも白であつたが、この日の明治は紺のユニフォームにパンツはカーキ色、立教はオレンジのユニフォームにパンツはカーキ色であつた。このオレンヂは立教のマーシヤルコーチの母校オハイオ州立大学のカレッジカラーを模したものである。
そして試合の結果は、24-0と一方的ではあつたが、片や明大は全員二卋で固められて居り、何れもアメリカでは中学校から髙等学校迄は大なり小なりフットボールの経験のある者を揃へ ているので、フォーメーションの数も多く、又、動きもフットボールの動きをしていたが、立教は主将の太田を除いては全員未経験の日本生れの者ばかりであつた。しかもプレイヤーの数も少いので色々と他の部から借りて来て臨時に偏成されていたようなものであつた。
Eの井上、QB田中、RHの関口はラグビー部、G海津、Tの玄は角力部、Gの村上は柔道部、Tの黒沢は拳斗部、C安藤は水泳部、Eの亀井はバスケットボール部と各部から集めたものであつた。
勿論これを機に将来フットボールに籍を置くようになつた者もいた。井上、黒沢、安藤、亀井、 田中等である。その為に充分な練習も出来なかつたのは事実である。コーチは当時日本では他にはこれ程優秀なコーチは居ないと云はれた立教大学体育主事ジョージ・マーシャル氏であつたが、これではどうすることも出来ないのでフォーメーションも全部で5プレー位しかなかつた。No1、No2、No3、爆弾3勇士、パス、パントとこの位である。No1がインサイド・タックル、No2がオフタックル、No3がエンドラン、で前の第一次上海事変の時に上海戰線で敵の鉄条網爆破の為、自己を犠牲にした小倉の工兵聯隊で有名を馳せた爆弾3勇士にちなんで名付けた爆弾3勇士は、インターフェアランス2人をつけた FB のセンタープランジであつた。これでは勝てる訳はないが、防禦の方は各自そのポジションをよく守つて明大の多彩な攻撃を防いだが、何しろ未経験の為、フェイクプレイに引つかかつて、得点されたのは殆ど明大のフェイクプレイであつた。
余り明大の行うトリックプレイに引つかかるので、見ていた立教の応援の学生が明治はキタナ イ、あんなキタナイプレイをするフットボールなら止めてしまへとまで云つた者がいたが、何れにしても初心者許りの、しかも寄せ集めの立教としては善戰したとしか云いようが無いのである。
12月15日には第一回リーグ戰の第2戰が明治対早稲田の間で行はれた。例によつて翌16日の新聞を引用して見よう。
「6– 2 明大快勝す 対早大米国式蹴球
東京学生米式蹴球リーグ明大対早大の試合は15日午後2時から神宮競技場に於て挙行(レフリーブース氏、アンパイヤーファウラー氏、線審浜田氏、マーシヤル氏)
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
0 |
6 |
0 |
0 |
|
|
6 |
|
早稲田 |
2 |
0 |
0 |
0 |
|
|
2 |
双方マーク良く試合は最初から接戰を演じたが早大は第1クォーターでセーフティーによる2点を挙げたのみで、最後迄タッチダウンを獲得出来なかつた。明大もタッチダウンを一つ得たのみであつたがフォーメーションも多く殊に前衛陣の確りしたプレーと、FB大前の突進で良く攻め、第2クォーターでFWのインターフェアランスによつてバックの進路を作り、スクラムラインを突破するラインバックが効を奏して大前が貴重なタッチダウンを挙げ勝敗を決定的なものとした。この試合は内容的には前回の YCAC 対学生混合軍の試合に勝る各種のプレーが演じられ鋭さも増して相当興味深いものがあつた。
| 明 治 |
|
早稲田 |
| 河 辺 |
LE |
陶 |
| 塚 平 |
LT |
永 井 |
| 山 田 |
LG |
横 野 |
| 唐 木 |
C |
島 |
| 黒 川 |
RG |
風 間 |
| 畑 |
RT |
井 上 |
| 花 岡 |
RE |
竹 崎 |
| 吉 岡 |
LH |
野 中 |
| 畑(進) |
RH |
蔵 力 |
| 松 本 |
QB |
藤 田 |
| 大 前 |
FB |
川 島 |
| 交代(明大):FW三浦、半田、加藤、山本、HB二階堂
(早大):FW三上・有賀、田中、宮田、HB村山、田畑
タッチダウン 大前(明大) |
以上のような記事が出ていて大部記者も馴れては来ているがラインをFWとしたり、スクリメージラインをスクラムラインと書いたり、矢張り処々にラグビー用語が出て来た。この日の早大のユニフォームは白地に肩の処と番号はスクールカラのエビ茶のものを着ていた。そしてこの記事にあるように両軍共大部分が二卋であるために、試合も熱戰でフォーメーションも多く用いられて内容的には相当充実したものであつた。この時の早大は初めて「自由の女神」(スタチュア・オブ・リバティー)を使つた。これが日本で最初であつた。それ以来「自由の女神」は早大の得意なプレーになつたのである。なお早大のセンターの島は、その2年後には立教に入つて来た島袋である。
第3戰の早大対立教の試合は12月22日に行はれた。
その朝日新聞の記事は
「6– 0 早大勝つ 対立教米国式蹴球
東京学生米式蹴球リーグ最終戰早大対立教の試合は22日午後2時から立教グラウンドにおいてレフリー浜田氏、アンパイヤーブース氏、線審坂本氏、西川氏の下に挙行、早大は優秀選手が出場せず、顔振れは悪かつたため大体優勢に戰ひながらも、ブロッキング戰術をマスターした立教の好防に得点が出来ず、第4クォーターのタイムアップ直前にフォワードパスが成功して蔵力が唯一のタッチダウンを挙げ辛うじて6対0で勝敗を決した
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
早稲田 |
0 |
0 |
0 |
6 |
|
|
6 |
|
立 教 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 早稲田 |
|
立 教 |
| 島 |
LE |
亀 井 |
| 宮 田 |
LT |
鈴 江 |
| 永 井 |
LG |
沢 田 |
| 久保田 |
C |
安 藤 |
| 風 間 |
RG |
安 部 |
| 井 上 |
RT |
黒 沢 |
| 陶 |
RE |
上 村 |
| 蔵 力 |
LH |
相 京 |
| 野 内 |
RH |
田 中 |
| 田 畑 |
QB |
太 田 |
| 藤 田 |
FB |
西 島 |
| タッチダウン 蔵力 |
」
以上であるが、早大はメンバーを落としたように書いているが、対明大戰の時と比較してもそれ程落としているとは思えない。早大としてもその時のベストメンバーであつたことには間違いない。
然し立教も第2戰となり、素人のチームも大部馴れて来たので対明大戰の時よりは見違える位進歩していた。それに早大の場合は明大のようにフェークプレーを多く使用しないので、その点においても大部有利でラインが良くチャージして早大のバックをつぶして居た。
それでタイムアップ寸前迄押されてはいたがよく持ちこたえて、あわや引分け試合になるところであつたが、矢張り素人の悲しさで、タイムアップ寸前に早大の攻撃で、立教陣30ヤードの立教ゴールに向つて右のインバウンズ・ラインから左にエンドランをした。このエンドランは前進せず、左のサイドラインに出た。ここて早大はノーハドルでいきなりスクリメージ・ラインについた。
この時、先のエンドランを行つた地点に早大のプレイヤーが1人倒れていたのである。それをそのままにして早大はスクリメージ・ラインについたものだから、立教側はビックリして、わざわざ早大側に「1人向うで怪我をして倒れているゾ」と知らせたり、レフリーに知らせたりして、ディフェンスの充分でなかつた時、ボールはインプレーになつた。そのトタンに倒れていたプレイヤは立上つて右のサイドライン沿いに走り立教のエンドゾーンの中でバックから投げられた フォワードパスをノーマークで捕球してタッチダウンを得たものであつた。
この時もこの試合を見ていた立教の学生もフットボールをよく知らないものであるから、フットボールのトリックプレーの何たるかが解らないので、インチキだとおこつてこんなインチキなスポーツは止めてしまえとどなつた者も居た。プレイヤーもそんなフォーメーションがあるとは知らないので、当然怪我をして動けないものだと思い込み、それに対する警戒は全々せず親切にも敵方に負傷している旨を知らせたりして、或る点では呑気なものであつた。立教のメンバーの中で黒川とあるのは黒沢で、相原とあるのは相京のミスプリントである。
この試合を他の新聞は次のように書いている。
「早大快勝す 対立米式蹴球
早大対立教の米式蹴球試合は22日午後2時から池袋で挙行、立教は押され乍らもよく守りタイムアップ直前まで早大得意のフォワード・パスを喰ひ止めていたが、早大は最後にフォワード・パスでゴール前2ヤードに迫り、この時QB蔵力は左タッチに伏して待ち立教側の目を眩ませて永井のパスを受けタッチダウンし快勝した。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
早稲田 |
|
0 |
|
6 |
|
|
6 |
|
立 教 |
|
0 |
|
0 |
|
|
0 |
【編注】内訳が前後半のみだったため、2Qと4Qに得点を記載した
| 早稲田 |
|
立 教 |
| 久保田 |
RE |
亀 井 |
| 井 上 |
RT |
鈴 江 |
| 風 間 |
RG |
沢 田 |
| 島 |
C |
安 藤 |
| 宮 田 |
LG |
安 部 |
| 永 井 |
LT |
黒 沢 |
| 陶 |
LE |
村 上 |
| 蔵 力 |
QB |
相 京 |
| 田 畑 |
RH |
田 中 |
| 野 内 |
LH |
太 田 |
| 藤 田 |
FB |
西 島 |
| 交代
(早大):藤野、有賀、村上
(立教):堂本、太田 |
」
以上であつて、この方が得点の経過がよく書いてあるが、その内容についてはおかしい所がある。それは永井のパスを蔵力が捕球したとあるが、永井はLTである、ラインマンがパスを投げる筈がない。
これで東京学生米式蹴球聯盟の第一回のリーグ戰は終了した。この結果、
優勝 明治(全勝)
第2位 早稲田(1勝1敗)
第3位 立教(全敗)
となつた。
また第3戰と同日の12月25日には明大がYCACと横浜のYCACのグラウンドで試合をして明大が勝つた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
|
6 |
|
12 |
|
|
18 |
|
YCAC |
|
0 |
|
6 |
|
|
6 |
【編注】内訳が前後半のみだったため、2Qと4Qに得点を記載した
これで日本に初めてフットボールが移入された昭和9年(1934)の記念すべき年は全部で6試合を挙行して終了した。もつとも10月25日の正式でない試合を除けば5試合になる訳である。そしてフットボールも軌道に乗り翌年からの発展が期待されたのである。12月末日の読売新聞の運動欄に、各種スポーツのその年を振り返つて星野竜猪記者が書いた「卋界の水準から」の記事の内の球技の項で「なお今年度に生れたアメリカンフットボールの前途はまだ未知数とはいへ興味深いものがある」と書いている。
とにかく無事に、しかも成功裡に日本にフットボールを移植出来たことは当時の社会の情勢もあるが、それに努力した準備委員会の委員諸氏の盡力によるものが多いのは当然のことである。
この委員の内の松本瀧蔵氏と加納克亮氏が40年後の今日には故人となつたことは残念である。
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