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2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(3) 1935~全米学生来日

お知らせ

◆ 1935(昭和10年) ◆

 

昭和10年はフットボール誕生第2年目である。この年の正月の読売新聞のスポーツ欄には写真入でローズ・ボウルゲームのことが出ている。この年のローズボウルはアラバマ大学が29対13でスタンフォード大学に勝つている。

◆ 1935(昭和10年) 全米学生来日 ◆

 

この年の2 月16日の朝日新聞の運動面には「米國式蹴球団招聘」の大きな見出で社告が出た。そしてその内容には

 

「アメリカ南加州大学蹴球部の先輩マロニー君の主唱によつて諸大学の選手から選抜統合されたアメリカン・オール・スター蹴球団 35 名は、本社の招聘に応じて、来る19日ロサンゼルスを出発、来月10日横浜着と決定した。昨秋我が國にも米式蹴球聯盟の誕生を見、既にその片鱗を窺ひ得た人士は少なくないであらうが、アメリカにおける蹴球が学生スポーツの花としてその王座を占むること年久しく、その精神において我が日本人の性格に適合すべきものあるべきは、疑をいれない。

本社が今回、多数の学生選手を招聘して我が國における新興スポーツとしてのアメリカンフットボールの基範を江湖に紹介せんとする所以も、先づその発足点において、このスポーツの真の精神並びに技術の誤りなき範を示さんがために、外ならぬオールスター軍は約4週間日本に滞在し、東京、大阪、名古屋の各地において米選手赤、青両チームのエキジビジョン及び、日米対抗の試合約10回を行ふはずである。」

 

以上が当日の社告であるが、これは相当な大冒険である。昨年、日本に初めて移植され、チームもまだYCACを加えても4つしかなく、日本になじみもないこのスポーツにアメリカから35人ものプレイヤーを呼び、しかも4週間も日本に滞在させる費用は、膨大なものである。それを試合その他で賄ふことは当抵不可能である。それをあえて実施したのは、朝日新聞社としてはフットボールを日本に定着させる為の相当な犠牲的精神の発露であつた。

 

勿論ポール・ラッシュ理事長以下の聯盟の幹部の要請もあつたことは実事であろうが、然しこれだけの費用を仕出すると云うことは並大低のことではない。朝日新聞としても、将来に希望を託して決行したのではあろうが、この招聘は日本のフットボールに明るい未来をあたえてくれた。朝日新聞のこの行為は、日本のフットボール界として忘れてはならないことである。

この社告の出た日の運動面には記事ものつていた。

 

「アメリカ諸大学蹴球部の選手らから成るアメリカン・オールスター蹴球団が、紅青2チームを編成し本社の招聘に応じて来朝することは社告の通りであるが、かく35名といふ多数の選手が海外から一団となつて来訪するのは、蓋し空前といつてもよからう。
アメリカンフットボールの光景は、しばしば映画によつて我國に紹介されたのみならず、昨年早稲田、明治、立教の三大学間に米式蹴球聯盟が生れ、この春に至つて慶法の両大学がこれに加盟し、関西では関西大学がトップを切つて最近米式蹴球部を編成して直ちに練習に着手するなど、日本における新興スポーツとして既に雄々しき産声をあげているが、朔風吹荒ぶ寒天下に5万8万、時としては10万以上の大観衆を吸引し、その環視のうちに22個の肉弾が火花を散らして相衛撃する豪快味は、自ら渡米して親しくその光景に接した人でなければ諒解し得ざるところのものであつた。

 

殊にこの競技は、学生スポーツとして極度の発達を遂げ、現在アメリカの諸大学が各運動部の費用を殆ど蹴球部の収入だけで賄ひつつあることは卋界周知の通りで、利を得るに機敏なる資本家がこの人気のある蹴球を見逃すはずなく、大学時代から鳴らした知名の選手を集めて職業蹴球団を幾つも編成している。然し何れも微々として振わず人気の点において、学生蹴球の足許にも寄りつけない。

 

この点はアメリカの野球が殆ど職業団の独歩に任せ学生野球が振るわないのと正反対の実情にあるといつていい。では何が職業団の蹴球より学生の蹴球に圧倒的人気が集るのかといふ問に対し、アメリカのフアンは異口同音に“蹴球は技術を見に行くのではなく熱と意気を見に行くのだ”と答へる。それは丁度大阪における本社の全國中等学校野球大会に集るフアンと同じ心理なのである。

 

即ち、アメリカンフットボールが技術以上に精神を重んじる学生スポーツとして発達し、一般大衆の関心を得る点において、到底職業者の企及し能はざる統制と訓練及び貴重の精神を持つていることが判る。今回、本社が特に35名といふ空前の学生チームを招聘したのも、日本における新興競技として米式蹴球の黎明期ともいふべき時期に際し、学生諸君は勿論一般の人士に正しく競技を理解して貰ひたいからである。」

 

と書いている。確かに35名と云ふ大量のプレイヤーを日本に招聘すると云うことは、未だかつて日本には無かつたことであろう。

極東オリンピック大会を除けば、これ程の大量な選手が日本に来たことは無かつた。アメリカから野球のチームが来ても20名以内であるから、35名に比較すれば物の数ではない。それだけに、日本の一新聞社としての朝日新聞がこれだけのものを招聘することは、大英断であつたのである。

 

この記事の中にもプロと学生フットボールと比較しているが、前にも書いた通り、この頃のフットボールは、プロはそれこそ微々たるものであつて、フットボールはその精神において全國中等野球と同じであると書いている点は面白い。そして最後に朝日新聞が招聘したのは、日本人に正しくこの競技を理解して貰いたいからであると云ふ点は、これは本音であつて、決してまやかしではない。これだけのチームを4週間も招聘する費用は、國内の試合入場料だけではとても賄い切れるものではない。この点において、現在でもフットボール関係者はこの朝日新聞の快挙には感謝していなければならないものがある。

 

そしてこの記事が出た日の運動面には、1940年のオリンピック大会を東京に招致すべく、オスロ会議を控えて東京市は牛塚市長の名で卋界の40カ國宛に参加する國には、役員及び選手の出張費用として100万円を補助すると電報を打つたとの記事が出ている。1人100万円ではなく、1カ國100万円であるのは時代の相違をつくづくと感じさせる。

 

そしてそれから後には毎日のようにフットボールの記事が紙面を賑はせていた。朝日新聞事業部としても、引受けた以上は少しでも損害を少なくさせようと思うのは当然である。

16日にはヘッドコーチ、マロニーの選手照介とチーム編成の苦心の話がロサンゼルス特派員から送られて来ている。

 

「カールクレメンスはハーフバックとして全米第1人者である。エルスキンスはバスケットボールでも全米一であり、ウィリアムソンはフットボールの他陸上の槍投げでも優秀だ。又オレゴン大学のモールスは1934年度のオールアメリカに選抜されている。等々そしてこのチームを編成するについては南加大学のジョーンズコーチの意見を大いに取り入れてある。又このチームは日本でラグビー、バスケットボール、拳斗の試合もしたり」

 

と書いてゐる。その中で面白いことは

 

「ただ心配なのは飲料水で我々はシカゴ、ニューヨークどこの試合に行くにも水だけは必ず持つて行くのですが、まさか日本へ水を持つて行くわけにもゆかないし選手は皆、日本の水は大丈夫だらうかと心配してゐます」と云つている。遠征するたびに水を持つて行くと云うことも又大変なことである。」

 

2月17日の朝日新聞朝刊にはロスアンゼルスの特派員16日発として練習状況を次の通り報じている。

「紅軍が圧倒的正攻法をとつて例のジョンズの「オフタックルプレイ」(前衛の先端第2者の内側を抜く攻法)に次でウヰークサイドの猛突を2回、3回繰返へした後突如巧妙なエンドランに出で、今度は南加大学独特のクヰックキックの鮮かなところを見せて遮ニ無ニ猛襲すれば、オレゴン、スタンフォード、加州、ワルサ、サンタクララ、オレゴン州立、シカゴ、ワシントン各大学のピカ一のスターを選抜した青軍は一糸乱れぬチームワークで目にも止まらぬデセプション(米式蹴球特有のトリック戰術)と物凄いスピードに電光石火のパスを以つて巧みに敵の意表に出る千変万化の作戰を縱横に駆使し両軍とも天晴れ米囗蹴球代 表オールスターとして十二分の技倆を発揮した。

 

因にこの訪日蹴球団は旧臘クリスマスに行はれた東西爭覇戰で完全に全東部を撃破した全西部軍の選手を網羅してゐるし、当地タイムス社の運動部長ブレヴーン・ダイヤース氏も記者に対しこの米囗オールスターズから11名の名を挙げて全米東西選抜軍とやらしても、問題なくこのチームが勝つことは蹴球記者なら誰1人異存はあるまいと語つてゐた。」

 

と報じ前景気をあほつている。又この日には南加大学の名コーチとして全米に有名なハワードジョンズの云葉も載せている。

 

「自分も一緒について行きたい位である。このチームは名実共にオールスターキャストであることは勿論、各大学チーム中、各ポジションに最も優れた成績を示した者を1人づつ推薦した、米国蹴球界の最髙名誉のオールアメリカンのメンバーをこれ程一緒に揃へたことはオリンピック以来ないことと思ふ。

 

蹴球は第1に厳格であつて合理的な国体統制と各選手の機敏、勇敢、忍耐、優れた技倆、体力等の他に日頃秩序正しい訓練を要することはいふ迄もない。この点より見て勇敢で然も頑張り強い日本人には最も適当したスポーツだと信ずる。選手一同には日本最初の米囗蹴球として恥しからぬ試合をするよう懇々に訓しておいた。紅青両チーム共理想的な強チームで紅軍の特長を、強豪揃ひの攻撃力の物凄いチームとすれば青軍は奇襲作戰の巧妙さと比類なき防禦陣を以つて戰うチームといへよう。」

 

と語つてゐる。

 

勇敢な忍耐力のある日本人に適してゐると云つていることは、過日の日本第1回の試合の時駐日米大使のグルー氏の挨拶の云葉と期せずして一致している。そういうことはフットボールの性格が明確に現われていると思はれる。又この夏に駐ロスアンゼルス領事の堀公一氏の日米親善のために大いに期待すると云う云葉が出ている他、ロスアンゼルス・タイムズの運動部長のブレヴーン・ダイヤース氏が今度渡日するチームのメンバーの豪華さを唱えた云葉も載つている。

 

又南加大学総長ヴォンリーン・スミス博士は

「アメリカの代表的フットボールチームが今回朝日新聞社の招聘で渡日することは昨年日本を訪問し、畏くも叙勲の恩命に浴した自分として特に喜ばしく感じる。

チームワークの訓練と青年の士気を新興する上にもつともよいフットボールを日本に紹介せんとする此のアメリカンオールスターズは、渡日によつて日米両国民間の親交をますます密接ならしめると同時にまた將来日本の大学において必ずやこのフットボールが普及発 達し日本チームの渡米招聘の日が一日も早く実現されんことを切に望む」

 

との辞が出ている。現在でも40年経過したがまだそれが実現していないことは実に残念に思う。

 

その翌日の新聞には重光外務事官が、「・・・由来スポーツ精神は国際的諒解の基礎となるものでありこれによつて從来国際的親善が培はれた実例は枚挙に遑がない。・・・」と日米親善の為に実に有意義であるとの云葉がのつていた。この時の重光外務事官は後に昭和14年に上海事変の時の4月29日天長節の日の祝賀会で上海において爆弾の為負傷し片足を失い、又第二次卋界大戰の終了の昭和20年9月には東京湾内で米軍艦ミズリー号上で日本の降復文書に署名した人である。

 

又この日の同面には東京学生聨盟のポール・ラッシュ理事長は次の様に述べている。

 

「今回朝日新聞社が米囗学生フットボール花形選手35人を招聘して大試合を催して下さることに深甚なる感謝の意を表するものであります。我等アメリカンフットボールを日本に紹介せんとする先駆者にとりましては、当地に於ける新聞の支援、協力の御精神ほどうれしく感激させられるものは他にありません。この事は一般の興味を増進させ、幾百の選手の卵に真のプレーを見せ、如何によく訓練されたものであるかを理解させる絶好の機会であると信じてゐます。

日本で最初の試合は旧臘11月神宮で挙行されたが、その時米国大使ヂョセフ・グルー氏は次の様にいつて居られた。

「アメリカンフットボール程觀衆にも選手にもスリルを感ずるスポーツはない。そして苟くも米囗人たるものは、このゲームを持つことに誇りを感じないものは一人もあるまい。このゲームにおける勝利は、より機敏なこと、より辛抱強いことによつてかち得られ、日本人の伝統的武士道精神、生活への根強い献身的精神、競技に対する全魂的熱意は、必ずやこのゲームに適することを進云したい」

大使のこの御云辞は全く我等がこのスポーツを日本へ移植せんとする目的を吐露せられたものであると確信してゐます。幸にも、朝日新聞社の最初の御催が2組の「教授チーム」の招聘であつて草創時代にある日本にとつては願つたり叶つたりであります。我等はアートマン氏(スタンフォード大学コーチ)バーク氏(オレゴン大学コーチ)及び35人の選手によつて、啻にアメリカンフットボールのテクニックを指示されるばかりでなく、斯技の裏に潜む偉大なるスポーツマンシップをも堅く握りしめたいと希つてゐます。」

 

と語つている。

 

随分朝日新聞社を誉めているようであるが、当時の聨盟関係者としては全くこの気持であつたのであろう。そして又このチームを招聘することについては当然聨盟の理事にも朝日新聞から事前に相談を受けていたことは事実であるので、聨盟としても是否このチームを招聘したいし、そして又このゲームを盛大にしたい、それには大いにP.Rをしなければならなかつたことは事実であるので機を見ては色々朝日の紙上に出て来ている。

 

この数日後には関西大学のコーチをしていた加納五六氏が語つている。同氏は南加大学を1931年卒業して日本に帰朝し出来たばかりの関西大学のフットボールのコーチをしていた人である。今度来日するチームの中にはロングビーチのハイスクール時代の同氏の同窓生が6人入つているのである。

「素晴らしいチームで、このチームなら1934年度の全米№1のミネソタ大学にも劣らない。南加大学はこゝ10年位アメリカのフットボールを牛耳つていて、南加大学選手中7名は1932年度に全米に覇を唱えた当時の選手である。」

云々とそして各選手の紹介をしている。

 

この年に入つてから東京では慶応と法政がチームを編成して正式に東京学生蹴球聨盟に加盟したのである。一方関西に於てはこれと時を同じくして関西大学がチームを編成した。これで東京学生聨盟は5大学となり関東においてはYCACを入れて6チーム出来たのである。関西では関西大学とKCAR(神戸外人クラブ)で2チームが出来た。

 

2月20日の朝日新聞は一行の出発を次の様に報じている。

 

「(ロサンゼルス特派員19日発)写真班とニュース映画班の前に並ぶ純白のスェーターに揃ひのフェルト帽子と左腕につけた朝日新聞社のマーク。太洋丸の甲板はアメリカン・オールスターズ渡日蹴球団の晴れやかな笑顔と、壯途を見送る大学の交友学生各部運動選手や、スヰート・ハート達。選手の中には蹴球映画によく出てゐる聯中があるのでハリウッドの女優聯も繰り出して身動きも出来ぬ賑ひ、船室には武者修業に出で立つ昔の剣客のやうに、例のヘルメットと肩当、頑丈なフットボール・パンツなどを大事にしてゐる。

 

紅チームのユニフォームは真紅なヘルメットに同じ色のジャージ、パンツは華美な黄金色のサテン地でバックに紫色の太い線をくつきり現はし、一方青チームは真白なヘルメットに青色のジャージ、パンツは緑色のサテン地のバックに白筋を浮き出しどんな混戰になつても紅青両軍選手が一目で分るやうにしてゐる。やがて午後 3 時テープの紅と南加大学校歌合唱の裡に華やかに日本に向け出発した。」

と花やかな出帆風景を報道して来ている。

 

又、この日は駐日米国大使ジョセフ・C・グルー氏も「日米親善に偉功を確信する」と祝辞をのべていた。一行は全員ロサンゼルスから大洋丸に乗船したものではなく、ロサンゼルスのサンピドロからは30名が乗船し、20日サンフランシスコに寄港し、ここから乗船する5名を加えてサンフランシスコで練習をして2月21日に出帆した。

 

2月21日の朝日新聞には明治大学教授であり東京学生フットボール聨盟委員の松本瀧蔵氏が「スポーツの王座米式蹴球の人気」と云う題で一文をのせている。

 

「・・・シーズンのいよいよ始まらんとする9月頃から新聞紙上はフットボールの記事で賑ひ11月の大試合の前売切符もこの頃より申し込まなければ手に這入らないといふ有様である。

競技に対する人気は1890年頃より既に沸立ち、当時全米一と称せられてゐた8,500人のスタンドの収容力を有せる競技場も狭く2万数千人も押込めた記録が残つてゐる。その頃は1ドルの入場料は1,903年には2ドルになり、欧州大戰後は2ドル50セントに昇り、1,921年には更に3ドルとなり、今日では5ドルも支佛つて見に行くといつた状況であり、その人気も何時峠に達するか解らないくらいである。而も今日は8万人以上も収容出来る大競技場が全国致る所の大学によつて建設されて居り、今では既に狭すぎるかの感を与えてゐる。米囗の伝統を誇るハーバード大学対エール大学の試合当日の如きは各地から集るフアンを乗 せた特別臨時列車だけでも100本に達するといはれてゐる。

 

自動車の如きもニューヨークからニューへブンの競技場73マイルを殆ど続く位のすばらしい人出である。況んやパサディナにおいて年々正月に催されるローズ・ボウルの東西試合当日の人出の如き想像以上である。競技場へ態々鉄道線路を敷き各地の列車を集るが如き現象はフットボールを除いては他の競技では見られない。

 

米囗の大学における運動競技に要する一切の経費は殆どフットボールの収入から得られるのである。米囗の諸大学を見学したもので運動設備の宏大であり且つ完備せることに驚かざるものは一人としてゐないであらう。これ等は悉くフットボールの恩恵に浴せるものである。

 

さてこの競技はなぜに斯くもポピュラーなのであらうか。即ちフットボールの対校試合は 他に比類のない華々しい環境で決行されてゐる。宏大なるスタンドを埋めつくした大観衆が而もひいきひいきの学校のスクール・カラーを身にまとひ秩序正しい応援団と歩調を合して、或る待望と感激とで昂奮してゐる晴れやかな且つ緊張し切つた空気の裡に行はれて行くか
らである。

 

ドッと閧の声が一方のスタンドから揚る。すると学校のバンドを先頭に22名の選手が頑丈な体格をユニフォームに包んで肅々として進んで来る。選手は中央で列をかへして間もなく所定の位置に走つて行きウォーミングアップを始る。するとスタンドはリーダーの指揮の下にカレッジエールをやる。科学的といふよりも優美な応援のデモンストレーションが開始され観衆の大きい叫び声が競技場に満ちて響き渡る。すると反対側のスタンドが一斉の拍手と共に応援の応酬を始める。相手チームの入場である。正しくこの応援は日本に輸入され、その一端が吾が大学野球リーグ戰に今日用ゐられてゐるのである。本場の米囗でフットボール試合を観戰してこの光景に接した時、感激と昂奮の波涛の胸に迫るのを覚えざる者はゐないであらう。

 

併しフットボールの真の興味は試合そのものにあるのである。この競技程頭脳と勇気とスピードを要する団体競技は他にはあるまい。プレー毎に一々作戰を練つて攻撃を開始する点など実に科学的である。試合は万雷の如き拍手裡にキックオフと共に開始されるが、球を所有せる側のダウンから直に本格的の戰斗が始る。選手達はフォーメーションを作り腰を降ろして身構えをする。10万の観衆の前で誰にも見える公明正大なる広庭でプレーを開始する瞬間の選手達の姿は、ある犯し難い権威と英雄的気分を与へる。それはある純真なる莊厳さである。それは他の西洋のスポーツに見ることの出来ない一種の気合である。この瞬間の眞剣味は丁度撃剣の試合の時剣をとつて立ち上つた時のあの肅然とした気合である。而もこの真剣さが選手たちの全身に溢れて見えるのがフットボール選手の姿である。

 

クォーターバックの信号と共にセンターがバックの1人に球を投げると一斉に両軍の選手が電気装置の機械のやうな敏捷さをもつて動く! 球を受け取つたバックが韋駄天の如く走るのを相手側がタックルしてダウンする。その地点からまたたく間に再び攻撃のフォーメーションを組む。何と勇ましい競技であらう。このアメリカンフットボールに対する知識の何等ない者ですら映画でこれを見て血を沸さない者があるであらうか。進化した今日のフットボールは、頭脳、技術、スピード、気合の四要素は必須条件としてゐる点からして、この競技が我々日本人の性格にピッタリ適合せることは論を俟たない。

 

我国においても昨年の秋突然アメリカンフットボールに対する興味が抬頭し都下大学生によつて聨盟が生れ神宮競技場並びに大阪において試合が決行されたが、不幸にしてこの競技の有する真のスリルと魅力を十二分に発揮することが出来なかつた事は返す返すも残念であつたが、初期のデビューとしてはこれも止むを得ない事であらう。

 

今回朝日新聞社の招聘によつてアメリカ西部における一流大学選手中から選つた優秀プレイヤーが来朝して真のアメリカンフットボール精神並に技術を指示して呉れることになつたが、この新興スポーツを正しく我国に紹介する意味において、その貢献する所は計り知ることが出来ない。我々は絶大なる待望と感激をもつて彼等を歓迎すると同時に過渡期にある我国における此のフットボール競技に格段の進歩と発達を残して帰国してくれるものと期待してやまない。」

 

以上長編の来日フットボールチームの歓迎とPRを述べている。

 

この文章の中で松本氏は入場料が1,890年頃は1ドル、1,902年は2ドル、1,921年には3ドルで1,934年は5ドルになつたと書いているのは面白い。又大試合には各地から臨時列車が100本もあると書いている。特にローズボウルでは臨時に鉄道線路を敷設して臨時列車を競技場迄乗入れると云うのであるから大変なことである。大学の各運動部の経費は殆どフットボールの試合の入場料で支出されるとか、試合の風景や、色々面白く書いており全六段を使つてのキャンペーンは大変なものであつた。

 

又朝日新聞は上・下2回に亘つてジョージ中尉(駐日米大使館付武官、1,919年米囗陸軍士官学校の主將でオールアメリカのクォーターバック)、ブース中尉(駐日米大使館付武官、1,917年~18年米囗陸軍士官学校のガード及びタックル)、ジョージ・マーシヤル教授(立教大学体育主事、1,925年~28年オハイオ大学のクォーターバック)及びポール・ラッシュ教授の4人による座談会の記事をのせている。その中でジョージ中尉は現在ではアメリカの国技は野球ではなくフットボールであると云つている。

 

そしてプリンストン大学、エール大学、ハーバード大学が米囗で始めたもので陸軍、海軍はこれに次いで居り、シーズンは 9月中旬から12月のクリスマス頃迄であり、「ポースト・シーズン・ゲーム」と云つて西海岸と東海岸の優秀チームが元日にやる、とアメリカでの厂史と現況を語つている。又「体格の点から云うと日本人は平均的にいつてフットボールをやるには身体が余り大きくない。つまりあの豪勇無双という感じのゲームをやるまでに身体が出来ていないといへる。然し良きものを取つて以つて更に良きものとする日本人はこのゲームを日本に入れて技を戰はすうちに段々立派なゲームをするようになると思ふ」とも云つている。

 

要するにフットボールは体力を非常に必要とするが日本人には日本的に充分にフットボールを消化して立派にやつて行くだろうと云つて居るのである。更にこの座談会の中でブース中尉は「どのスポーツでもそうであるが完全なチームワークがフットボールでは絶対的に必要である。このチームワークは身体、精神、智能の三者を渾然一にして、肉体的の障害物を征服すると云う所に視点をおき、第1年から猛烈な訓練をやる。主眼はチームワークであるが、これが選手個人に与える利益は極めて大きい。フットボールの試合は両チーム共力倆は✁仲しているから、第一に決断力つまり機敏,スピードを要し、これを各選手個人について養うことが必要である」

 

と云つている。

 

又同中尉はフットボールの現況について「フットボールが盛んになつたのは 1,912年頃で、現在は“イントラミューラル・システイム”と云う一つの大学の中に11~12の色々な部や会で作つているチームの内の優秀なプレイヤーをピックアップして、その大学の代表チームを編成して他校との試合をすることが広がつて来ている」と説明している。

 

とにかく朝日新聞としても莫大な経費を使うのであるから少しでも入場収入を挙げるように紙面を最大に利用してPRをしていた。引いてはこれはフットボールのPRにも当然なつたのである。

 

一方東京学生米式蹴球聨盟では2月25日午後7時から大阪ビル(丸ノ内)地下のレインボウグリルで昨年11月29日に対YCAC戰の日本最初の試合に参加した早明立の三大学の出場選手とYCACの出場選手の懇親夕食会を開催し、学生聨盟から日本のフットボール発足について大変卋話になつた御礼としてYCACにトロフィーを贈呈すると共に此度来日するアメリカチームのスケジュールとこれに対戰する日本側のチームとそのコーチを選任したのである。

 

こうして日本内地では朝日新聞紙上で聯日来日フットボールチームの記事を掲載してPR している内、2月21日いよいよ来日チーム一行は正午大洋丸でサンフランシスコを出帆して日本への航路についたのである。そして大洋丸船上からは監督マロニーから聯日のように聯絡があり、その都度朝日新聞には大きくその記事が掲載されていた。

又来日フットボールチームと対戰する全日本チームのコーチに選任されたジョージ・マーシヤル氏は次のように朝日新聞に手記を載せている。

 

「朝日新聞社がアメリカの一流選手を招聘しフットボールの真価を日本に知らせ、又日本のプレイヤーを指導することは感謝にたえない。

現在の東京学生リーグ戰ではフットボールの真価を充分に発揮することは出来なかつた。現在揺籃時期の日本チームの実力ではアメリカのチームに勝つなどは到底望むことは出来ない。日本人の体格は欧米人に比して劣つてはいるが体躯も大きく素質もよいのであるならこれに越したことはないが、只單に体躯が大きいと云うだけの者ならば素質の良い小男の方がはるかに勝つている。日本人は重量の点ではハンディキヤップがあるが数年を出でずして必ずや米囗チームと勝負を爭うまでに発達するであろう。

 

アメリカンフットボールについて余りにも緩慢であると比評することを聞くがこれはラグビーと比格して考えるからである。フットボールとラグビーは味うべきところが違うのである。自分は日本で初めてラグビーを見てフットボールの立場からのみラグビーを見ようとしたが、この両ゲームが本質的に全く異つたものであると云うことを知つてからはラグビーに興味が沸いて来た。フットボールは日本人が要求する形のゲームであり、日本の民衆にピッタリ気分の合致する競技であると考えている。

 

勿論ラグビーもフットボールも虚弱な人のゲームではない。健全な男子によつてのみ行はれて発達して行くものである。我々はフットボールを普及させることによつて広く日本の青少年達にこのゲームを通じて自己の力を必要に応じて充分発揮させると同時に敏捷な判断 力と克己心とを養はせたい。更に自己のみならずチームの為に最善の努力を盡すとゆう服從心即ち共同動作という精神を学ぶし、自己の失策は自らとの責に任じてひるまず、必要に応じては、最後の力、最後の勇気を揮い起して自己の努めるべきを努める責任感をも養つてくれる。

 

又勝利は必ずフェアプレイによつて獲なければならぬと同時に敗れたゲームでもフェアプレイと云う云葉の域を一歩でも出てはならないと云う教訓を深く与えている。戰に敗れて相手の技倆を貶したり或はそのスポーツマンシップがどうのこうのと難じたり、泣く等ということは絶対に禁物である。

 

フットボールマンは常に頭を髙く上げ、胸を張り、目も髙らかに自尊心を持たなければならない。フットボール競技場こそこれ等髙尚な精神を次の卋の人々に養う最髙の場所であり、プレイを行う者のみならずこのゲームを見る者にこうした精神を吹き込む好個な場所ともいえる。フットボールは日本のスポーツ界に新たに一つの種目を加えることになつたが、必ずや多くの青少年がこの競技を行うことにより、フットボールの持つ精神を充分に養うことになるであろう。」

 

大体以上のような手記を載せているのである。然しアメリカとの体格の相違により40年後の今日も未だアメリカと対等な試合の出来ないのは残念である。又ラグビーとの比較については全くマーシヤル氏の云う通りでゲームそれ自体の性格が違うので、それを同等に比較することは困難である。次の精神論においては全くその通りであると思はれる。

 

アメリカオールスターズの乗船大洋丸が太平洋上を日本に向けて進行して居る3月初旬に、試合の前半のスケジュールが大洋丸上のマロニーとの打合せで次のように決定した。

 

3 月 14 日(木曜日)全米囗学生対抗試合 明治神宮外苑競技場
3 月 17 日(日曜日)全米囗学生対抗試合 甲子園南運動場
3 月 21 日(祭日) 全米囗学生対抗試合 甲子園南運動場
3 月 23 日(土曜日)明治大学対南加州大学 甲子園南運動場
3 月 24 日(日曜日)全日本軍対米囗学生聯合軍 甲子園南運動場

 

会員券前売は3月6日より3円(指定席)2円、(同)1円、50銭、前売場所朝日新聞社受付、プレイガイド、三省堂(神田)、美津濃(神田)、美満津(本郷)、栗本(銀座)各運動具店、稲門堂(早稲田)、横浜朝日新聞支局であり、関西のは勿論大阪地区で前売りを始めたのである。

 

そして一方では新聞紙上による規則の解説やその他の記事が聯日掲載されていた。特に第2試合から第5試合迄は立続けに甲子園で挙行される日程であったが、関西地方ではその年の1月に早稲田大学対明治大学の試合が甲子園で行われただけであった。関東では既に6試合が行われているが、関西ではこの時点では1試合だけしか行われていないので、初めて見る人に対する解説的記事が多く出ていた。その内でも面白いことは関西のラグビー界の重鎮である厳栄一氏が、フットボールの面白さについて語つている記事が出たことである。

 

他方アメリカのチームと試合を行う明治大学と全日本チームは、3月10日頃各校の学期試験終了と共に練習を開始した。特に選抜チームである全日本学生チームは立教大学のコーチであるマーシヤル氏をコーチに東京芝浦にある朝日新聞社のグラウンドで聯日練習を行いチームワーク の形成に務めていた。

 

訪日アメリカチームは大洋丸船上でトレーニングを続けながら18日間の航海で太平洋を渡り、3月10日午前9時に横浜に入港した。東京学生米式蹴球聨盟の役員や朝日新聞社の関係者はランチで港外迄出迎えたのである。そして一行は横浜から省線電車で東京に向い、東京駅には午後1時頃到着した。東京駅には又学生や朝日新聞社の人の出迎えがあり、直ちに日米囗旗のついた15台の自動車をつらねて宮城を遙拝し、引続き明治神宮に参拝し外苑競技場を見て朝日新聞社に挨拶して、宿舎の帝国ホテルに着いたのである。然し直ちにユニフォームに着換えて又自動車を聯ねて池袋の立教大学のグラウンドに向つた。そして上陸第一歩の練習を行つた。練習と云うよりはデモンストレーションで立教大学のグラウンドには多くの日本人が見に来て居り、巨漢揃いのチームには皆目を見張つていた。

 

この日の朝日新聞の夕刊は、一面トップに6段抜きで一行の東京駅着と明治神宮参拝の写真入りで「本社招聘米囗学生蹴球団荒波冒して来る 巨人35選手元気一杯で入京」と云う見出しで大きく記事を掲載した。その中で面白いのは「流石は巨人の一行、平均体重は180ポンド約22貫で重量拳斗選手の資格がある訳、事実大学の重量選手が7名もゐる。少し曲つた鼻つぶれた耳で明かにそれと判る。日本人でいへば角力一行と思へばその身体の偉大さが想像出来る。男女ノ川、武蔵山級の人間が半数を占めてゐる。ただし顔つきを見ると何れものんきそうな坊ちゃんのやうである。・・・」と書いている。当時の角力は武蔵山、男女ノ川の両横綱が人気を呼んでおり、天下無双と云はれた双葉山はまだ平幕か幕下に居た頃である。

 

翌3月12日は正午に宿舎の帝国ホテルの大宴会場で歓迎午餐会が開催された。出席者は約200名でグルー米大使夫妻を初め、徳川家達日米協会々長、朝日新聞関係者、フットボール関係者、それに全米軍と対戰する日本チームの選手等大勢で大変な盛会であつた。この午餐会終了後直ちに神宮外苑競技場で本格的な練習を行つた。赤軍は南加大学コーチのジョーンズフォーメーションに対し青軍はヌート・ラクニーのノートルダムフォーメーションと、各々異つたフォーメーションを使用しての練習であつた。

 

そしてその夜6時半からは九段の軍人会館(現在は九段会館)で歓迎会の「アメリカンフットボールの夕」が催され、入場者1,500人で満員の盛況であつた。主催者の朝日新聞社の編集局長の挨拶、元ペンシルヴェニア大学の選手であつた赤星四郎氏の「フットボールの見方」、グルー米大使の挨拶代読、ポール・ラッシュ氏の歓迎の挨拶、等でこれに対してマロニー監督の謝辞等の後、松本瀧蔵氏の紹介で各選手1人1人を紹介した。その他R.K.O社製作の「米囗十大学応援歌集」と前に書いた日本題名「蹴球大学」本題「ノートルディームの精神」の2本の映画を上映してこの歓迎会は終了した。この時の入場料は10銭であつた。いくら物価の安い時代であつても10銭とは安いものであつた。その当時そばのもり、かけが8銭であり、2流の映画館の入場料は30銭位であつた。

 

この歓迎会に先立つてマロニー氏は6時25分からJOAKのマイクから全国に中継放送を行い、アメリカにおけるフットボールの話をした。3月13日の朝日新聞のスポーツ欄は全面フットボールの記事で埋まつていた。

 

「・・・青軍はワシントン、オレゴン、スタンフォード、ワルーサ、サンタクララ、サンノゼ、羅府加州等7大学の優秀選手から成る選抜混成チームであるのに対して、紅軍は“東にラクニー西にジョーンズ”と謳はれている現南加大学の名コーチ、ハワード・ジョーンズ氏の戰法を遵奉する南加大学チーム11名を根幹としてゐる。青軍の戰法は西のジョーンズに対して11日軍人会館で挙行された歓迎会“アメリカンフットボールの夕”に映写された “蹴球大学”の撮影に監督として招聘され飛行機で向ふ途中不幸墜落惨死を遂げた故ヌー ト・ラクニー氏の創案にかかるノートルダム・システイムを代表する諸大学選手を集めたものであつて期せずして現代米本土で対立をしてゐる二つの科学的戰法を我が国において見る事が出来るといふことは・・・」

 

と書いているが、確にその当時の米国におけるこの二つの代表的戰法はフットボールフアンにとつては重大な関心事であつたのである。

 

又四至本八郎氏は

「朝日新聞が経済を度外視して招聘したその儀性的精神は立派である。フットボールは野球と違つて学生はプロ以上であり、卒業生はプロには行かないでむしろプロレスリングに転向する者が多い。ノートルデイエムの名選手であつたガス・リンネンバーグ等はその例であり、日本でもフットボールが今後盛んになればプロレスリングも出て来るであろう」

と云つてゐるのは面白い記事である。

 

現在から見れば日本においてはプロレスリングは終戰後のものであるが興業の上手であつた結果か、フットボールより盛んでありフットボールからプロレスリングに転向したものは立教の大山、慶応の百田位のものでまだ数と実力の点でプロレスリングの中程とは云えない。戰後プロレスリングの力道山がプロレス級の重量の者を集めてフットボールのチームを作つたら面白い だろう、と云つたと云うことを聞いたことがあるが、これは四至本氏の予想とは逆になつたことである。

 

そして3月13日の朝日新聞の朝刊には、2頁全紙を使つてフットボールの見方、ルールの解説、競技者のポジションの説明、フォーメーションの解説、審判員の任務、用語の解説等実に詳しく記載して初めて観る人の為に有効な手引となるものをのせている。これ位の記事はこれ以外、現在迄もどの新聞にも出なかつた様な立派な解説記事であり、朝日新聞が如何に熱を入れているか一寸悲壯なものさえ感じさせる位であつた。

又同日の夕刊にも大きく選手の動静を取扱い、又入場券の売行が凄いばかりであり3円券は売り切れと云うような記事が大きく出ている。来日したオールアメリカンのメンバーは次の通りであつた。

 

青軍

 

ウイリアム・バーク (オレゴン大学) H・B 兼コーチ、24 才、5 呎7吋、165 封度。ウォーターポロの正選手を 3 年間やつた。

 

アレックス・F・イーグル (オレゴン大学) R・T、22 才、6 呎 2 吋、210 封度。桑港ロウェル・ハイスクールを卒業し 1930 年同チーム主將たり。3 年間正選手を続けトラック競技も行ふ。全米代表選手、オールコースト選手、並に 1935 年ホノルルで行はれた西部オールスターゲームに出場した。

 

コーウィン・アートマン (スタンフォード大学) 青軍サイン・コーチ並に C、G、T、26 才、 6 呎 2 吋、250 封度。ロングピーチ・ポリイ・ハイスクール卒業。3 年間正選手を続け、1924年カリフォルニア・プレボスクール・チームに参加し、次いで全米代表選手に選ばれ、1930年パシフィックコースト・オールスター選手を勤めた。

 

シンクレア・ロット (羅府加州大学) RE、22 才、6 呎 2 吋、185 封度。ロサンゼルス・ポリテクニック卒業、3 年間正選手を続け、ラグビー、トラック選手として活躍し、全米リレー・チームの優秀なメンバーである。

 

ウェズレェイ・ハッバード (加州サンノゼ大学) LE、24 才、6 呎、190 封度。4 年間正選手を続け 2 年間主將たり。東西シュライン・ゲームに参加した。

 

アル・ドード (サンタクララ大学) C、24 才、6 呎 2 吋、212 封度。桑港ロウェル・ハイスクール卒業、3 年間フットボール、野球選手を行ひその内 1 年間は両競技の主將たり。次全米代表選手に選ばる。

 

チャールス・ムーチャ (ワシントン大学) G、22 才、5 呎 10 吋、200 封度。フェンガー・ハイスクール卒業、3 年間フットボール、水泳の選手を行ひ、水泳部主將であり、メドレー・リレー記録保持者である。フットボールではオール・コーストのガードを 3 年間行ひ全米代表選手に選ばる。

 

ポール・バフキン (ワシントン大学) QB、22 才、5 呎 10 吋、175 封度。テキサス・アマリロ・ハイスクール卒業、3 年間正選手を行つた。ラグビーの選手である。

 

ジーグフリード・フアンク (羅府加州大学) G、C、24 才、5 呎 9 吋、180 封度。サンタバーバラ・ハイスクール卒業、3 年間正選手を行ひ、レスリング、ラグビー選手。

 

ヂャック・ドローン (スタンフォード大学) T、20 才、6 呎 3 吋半、225 封度。ロスアンゼルス・ポリテクニック・ハイスクール卒業。大学では 2 年間フットボール、バスケット、テニスの選手であつた。

 

ポール・R・サルコスキー (ワシントン大学) FB、21 才、5 呎 10 吋半、200 封度。ワシントン・ブヤラップ・ハイスクール卒業。3 年間フットボール陸上選手を続け、その内 2 年間は次全米代表選手に選ばれ東西ゲームに出場した。

 

ノーマン・フランクリン (オレゴン州立大学) HB、24 才、5 呎 9 吋、185 封度。ロングピーチ・ポリテクニック・ハイスクール卒業。3 年間正選手を続けオール・コーストの HBを勤めると共に次全米代表選手に選ばる。

 

レイモンド・ネヴュー (オレゴン大学) QB、24 才、5 呎 9 吋、175 封度。3 年間フットボール、陸上競技の正選手であつた。

 

ハワード・W・クラーク (オレゴン大学) T、23 才、6 呎 1 吋、205 封度。ロサンゼルス・ポリテクニック・ハイスクール卒業。3 年間正選手であり、トラック及びレスリングの選手である。

 

ハル・バングル (オレゴン州立大学) QB、22 才、5 呎 9 吋、195 封度。サンタ・アナポリ・ハイスクール卒業。3 年間正選手を行ふ。ポロ、ラグビーの選手であり、フットボールでは全米代表選手に選ばる。ブロッカー、タックラーとして名声あり、校内随一のプレイヤーとして知らる。

 

ウッドロウ・ウーリン (ワシントン大学) T、21 才、6 呎 1 吋、195 封度。スントラル・ハイスクール卒業、3 年間正選手を行ひ、ラグビー、バスケット、スキーの選手である。1934年にはカレッジチームの主將となり、全米代表選手に選ばる。又サンフランシスコで行はれた東西ゲームに出場、1935 年ホノルルの西部オールスターゲームに出場した。

 

紅軍

 

ゲラルド・オストリング (南加大学) 右 E、右 T、右 G、左 T、22 才、6 呎、200 封度。ラグビーの FW もつとめヘビー級拳斗及びレスリング選手である。

 

エー・エル・マロニー (南加大学) QB、26 才、5 呎 6 吋、145 封度。来朝軍の総監督。1930年度全米代表選手に選ばる。

 

ウィリアム・ヴォーヒース (シカゴ大学) 右 E、24 才、6 呎、185 封度。籠球、野球、ラグビー、陸上の選手でもある。

 

バイロン・ジェントリー (南加大学) 左 HB、23 才、5 呎 11 吋、200 封度。3 ヵ年南加大学の正選手で野球選手をも兼ねている。

 

オリバー・バーディン (南加大学) C、G、22 才、5 呎 10 吋、205 封度。3 ヵ年南加の正選手であつた。

 

ケネス・ブライト (南加大学) 右 HB、22 才、6 呎 1 吋、215 封度。3 ヵ年南加の正選手、野球、ラグビーの選手。

 

レイ・モース (オレゴン大学) 左 E、23 才、6 呎 1 吋、195 封度。オールコーストの E で第3位全米代表選手に選ばる。他に野球は 2 ヵ年間正選手である。

 

ワード・ブローニング (南加大学) E、6 呎 1 吋、205 封度。3 カ年南加の正選手で他に野球、篭球の選手。

 

ハリー・ボヴィー (ワールサ大学) 右 T、22 才、6 呎 2 吋、220 封度。3 ヵ年間ワールサの正選手で他に水球、ラグビー、篭球の選手でもあり、2 ヵ年間全オクラホマ州チームの Tに選ばれた。

 

バーディー・ボイヤー (羅府加州大学) G、23 才、5 呎 9 吋、190 封度。3 ヶ年間加大の正選手でラグビーもやり、オールコーストの G 並に次全米代表選手に選ばる。

 

ロバート・アースキン (南加大学) T、22 才、6 呎 2 吋、225 封度。蹴球は 3 ヵ年、篭球は 2 ヵ年南加の正選手でオールコースト並に次全米代表選手に選ばる。

 

ジャック・ホールゲート (南加大学) C、20 才、5 呎、190 封度。蹴球は 1 ヵ年、ラグビーは 2 ヵ年南加の正選手。

 

セシル・ストーレー (シカゴ大学) FB、22 才、6 呎 1 吋、205 封度。3 ヵ年シカゴの正選手であり他に篭球、陸上、ラグビーもやり、加州アマチュア拳斗ライト級の選手権保持者。

 

カル・クレメンス (南加大学) HB、21 才、5 呎 10 吋、205 封度。紅軍の選手並にコーチで 3 ヵ年南加の正選手であり水泳、ラグビー、陸上もやり 1933、34 年全米代表選手に選ばる。又南加の最優キッカーの一人でもある。

 

エベレット・ブラウン (南加大学) HB、24 才、5 呎 9 吋、165 封度。3 ヵ年南加の正選手で他に篭球の選手。

 

ベン・パラマウンテン (スタンフォード大学) T、21 才、6 呎 2 吋、215 封度。蹴球の他拳斗、ラグビーの雄。

 

ラリー・スチーヴンス (南加大学) G、22 才、6 呎 2 吋、215 封度。33 年正選手として出場オールコースト並に 1932、33 年の全米代表選手に挙げられた。

 

マネージヤー・トレーナー

 

ヂャック・ガードナー (マネージヤー) 先年バスケットボールコーチとして来朝したことのある名選手であり、一行中唯一の日本を知る人である。蹴球、陸上。南加大学卒業。

 

ハロルド・ハーディング (トレーナー) トレーナーとして加州屈指の技術者で一行選手の食事から体のコンディション、その他総ての相談役である。

 

以上 35 人が来朝した顔ぶれである。

 

一行中でケネス・ブライトは頭の毛の色が赤色で彼のあだ名はブリック(練瓦)と云い、彼の名刺にはケネス・ブリック・ブライトと印刷されていた。又バーデー・ボイヤーは23才の若さなの頭の毛がなくツルツルにはげて居り、グラウンドでもヘルメットを脱いだことが無い変り者であつた。

 

3月13日午後4時から霞ヶ関の外務次官々邸で外務省主催の歓迎のお茶の会が開催され、重光次官以下が出席して一行を歓待する等官民挙げて大歓迎を繰り返えしていた。

3月14日の朝日新聞朝刊スポーツ欄は全頁を使用し、当日挙行されるゲームの両軍のコンディション、予想される戰法、メンバー、両軍主將の談話等を載せているがその中で面白いのは観衆に対する要望事項がのつて居ることである。

 

今回のアメリカンフットボール試合は今後我が国において行はれる同試合の軌範ともなるべきものと考へられますから、すべてにその範を垂れて同競技の完全な発展を遂げさせたいため、いづれの競技にも起り易い野卑な弥次、ばかげた応援等は十分慎んで頂きたいと思ひます。尚活動写真の撮影は他の見物に迷惑をかけますので同機械の御持参は固くお断り致します。

 

と云うものである。その当時はラグビーの試合でも拍手以外の声援は禁じられて居たのでそれに從つたものであろうが、現代の時代に於てこのような注意事項を主催新聞に堂々と掲載出来る新聞があるであろうか。野卑な弥次とか馬鹿気た応援等と云つたら観衆は怒り出すであろう。野球でもサッカーでもバスケットでも現今のような野卑な馬鹿気た応援はその当時は無かつた。ましてグラウンドに飛び出すような馬鹿者は、絶対と云つてよい程居なかつた当時である。それはスポーツを見る人種が現今とは違つていたのではないだろうか。本当にスポーツを理解し楽しむ者が観衆となつていたのではないだろうか。

 

又活動写真を撮影してはいけないと云ふのも愉快である。活動写真は当然映画のことである。当時はもう一部のモダン人種は映画とかシネマ等と云ふのが普通であつたが、一般には活動写真であり又活動であつた。そしてその活動写真も一般には撮影機、映写機を持つて居る人は殆ど無く、こゝで云つているのはニュース映画のことを云つているのであろうが、大部分撮影機と云えば35㎜のスタンダードかニュース用の16㎜の撮影機で、8㎜のものは和製ではまだ無い時代であつた。ここで活動写真お断りと云うのは当時朝日新聞ニュースがあり、一週間のニュース映画を製作し各映画館で上映したり、又東京の方々にはニュース、短編専問のニュース映画館があつて10銭の入場料で見せていたがそのような処に配給を朝日が独占する為のものだと思はれる。

 

第一戰の3月14日は晴天であつた。その日の朝日の夕刊は、第1面のトップに5段抜きで大々的に試合前の競技場の状景を出していた。仲々の美文で次の様に書いていた。

 

「晴の第一戰の日は来た。日本ではまだ本当の搖籃時代のアメリカンフットボール、しかもその本場の試合がけふこそは我等の前に展開されるのだ。あの物々しい革兜は紅、青に彩られて、小随円球は快音をたてて、たくましい毛脛は風を切つて・・・キックオフの午後3時30分、それは我国スポーツ史上の記念すべき瞬間、選ばれて来た35の精鋭、それは重大使命を帯びた我国スポーツ界の大恩人選手達はもうすつかり船旅の疲労も癒えて今や両チ ーム共斗志にはち切れん許りだ。

 

その上天気は晴朗、明治神宮競技場のコンディションは絶好、胎蕩たる春風にゆられて芝生スタンド中央には日米両国旗が微笑んでゐる。そしてこの日を渇望してゐたフアンは午前から続々と詰めかけた。南加システイム勝つか?ノートルダムシステイム押えるか?緻密な正攻法と奔放な戰術とそして人間戰車群のばく進、巨体の激突、羚羊のやうな俊敏さ、余りにも日本人の性格にピッタリするこのスポーツの精神は“東洋に移植されたこの日”からファンの心を捉へ健康な熱病人にして了つた。

 

刻々増してゆくファン、次第に髙まつてくる興奮・・・指定席にはグルー米大使夫妻、クライヴ英大使夫妻、パッソンピエール白国大使父子の顔・・・正 3 時場内に嵐のやうな拍手が爆発した。選手の入場だ。

 

戸山学校軍楽隊の行進曲に乗つて紅のヘルメット、紅白縫ひ合せのスェーターをつけた紅軍、青のヘルメットに青と黄の青軍がスタンド南方入口から姿を現わした。どれもこれもデカイ体の持主、満場歓声拍手で遠来軍を迎へればアメリカ学生らしく手を差し上げてこれに答ふる気安さ。日本学生聨盟加盟チーム早、慶、明、法、立の各大学各5名宛25人の代表選手から成る日本チームは北口から登場かくて日本チームを中にしてフヰールド中央前に整列。空には折から場上空に飛来した本社プスモス機、貴賓席に向つて敬意を表せば両国国歌が吹奏されて芝生スタンド上にヒラヒラと日章旗と星條旗が掲揚された。いよいよ華やかなウォーミングアップ。観衆狂喜の中に3時30分は近づいて来る」

 

以上のように試合開始前の状況が書かれて居り、又場内風景の内には“切符入口前に長蛇の陣を作つてゐるフアンは休暇中の学生、会社を休んで来たらしいサラリーマン、紳士、モダンガール……。手に手に「米式蹴球の見方」を持つて熱心に見入つてゐる等々云々”とも出てゐる。当時はまだモダンガールが居た頃である。

 

さて試合の方は3時30分から主審ジョージ中尉、副審ブース大尉、線審浜田、計時マーシヤルの四審判の下に開始され

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
青 軍 0 0 14 3 17
紅 軍 0 0 6 6 12

で青軍が勝つた。然し内容的には余り見る可きものは少なかつた。それはシーズンオフでありしかも優秀なプレイヤー揃いではあつたが寄せ集めのチームであつた為である。

 

試合経過は前半は両軍共一進一退を続けて無得点であつたが、第3クォーターに青軍のHBバッキンが紅軍3ヤードから左インサイドタックルを抜けてタッチダウン。サルコスキーのトライ・フォ・ポイント成つて7点。続いて10分に青軍QBバングルが又もインサイドタックルを突き40ヤード快走してT.D。サルコスキーがT.F.Pを挙げて合計14点とした。紅軍はQBマロニーがオフタックルで60ヤード快走してT.Dを挙げ14対6とした。第4クォーターになり紅軍はリバースパスからフォワードパスによりバングルがこれを捕球して14対12としたが、タイムアップ前に青軍は紅軍20ヤードからフィールドゴールを決めて3点を挙げ、計17対12の接戰で青軍が第1戰に勝つた。

 

この試合開始について始球式をした松田文部大臣は「ああゆう純真なスポーツによつて結ばれる日米親善の効果は必ず大きいと同時に米囗でも学術品性ともに優秀である選手達が打つて一丸となつて動く協同的精神とその進取的なプレイとはわが学生スポーツ界にも十分の貢献をもたらすものと信ずる」と云つて居り、又来賓として来席した内田鉄道大臣は「今日のアメリカンフットボールを一語に評すれば肉彈相搏つ肉彈戰だつたといふ感じだ。その試合ぶりはただ勇気ばかりで勝うといふのではなく一々作戰を練り知識を交へ秩序整然として試合を進めてゐた。こんな国体競技はチームが一糸乱れず作戰してこそはじめて勝利を得る。要するに智と勇と秩序が重大な要素だらう云々」と語つている。

 

3月15日の朝日の朝刊のスポーツ欄は全頁この試合の記事で埋まつてしまつた。

 

一行は15日に東京を出発して甲子園の試合を行う為大阪に向つたのである。そして翌16日には朝日新聞の大阪本社、第4師団、大阪府庁、大阪市役所、毎日新聞社等に挨拶廻りをした。

第4師団に挨拶に行つたと云うのは面白いことであるが、それは17日の甲子園の試合に第4師団長の東久邇宮殿下がご観戰になるからではあるが、もうすでにその当時の軍国日本の色彩がだんだんと強くなつて来ていた為でもあろう。

 

第2戰の3月17日甲子園南運動場は、快晴の日曜日とあつて満員の盛況であつた。試合開始前、東久邇宮殿下はグラウンドに降り一列になつてお向えする来日選手一同にマロニー監督の紹介を受け一人一人握手をして廻わられた。

 

試合の経過は第2クォーター青軍はFBサルコスキーが2度に渉つてフヰールドゴールを決めて6点先取すれば、紅軍もFBクレメンズの60ヤードのロングランを加えてTDで同点とした。第3クォーターに紅軍はクレメンズの活躍でTDを挙げ12対6とリードした。第4クォーターは青軍がサルコスキーのランニングプレーでTDを挙げ同点とすれば、紅軍も青軍ゴール前のスクリメージからHBストーレーが中央突破してTD。TFPもなつて7点を挙げ19対12で紅軍が勝つた。スコーアは次の通りである。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
紅 軍 0 6 6 7 19
青 軍 0 6 0 6 12

19日には甲子園南運動場で関西OB軍とラグビーの試合を行つたがこれは全く余技的なもので、木下(明)、丹羽(明)、伊地知(同大)、長沖(慶)等のOBが入つた関西OBに26対5と大敗した。これは全くの御愛嬌であつた。そして20日は一行は奈良見物で楽しんだ。

 

第3回戰は21日午後2時半から甲子園南運動場で挙行された。

その結果は次の通りの得点で紅軍が勝つた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
紅 軍 0 7 14 0 21
青 軍 0 6 6 0 12

3月23日は同競技場で午後2時20分から南加大学と明治大学の試合が行はれた。主審ジョージ、副審ブース、線審マーシヤル、計審ガードナーの下に開始されたが、誕生したばかりの明治大学と米囗でも屈指のチームの南加大学では役者が違つて居り、全々相手にならず71-7で南加大学が勝つた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
南加大 12 13 25 21 71
明 治 0 0 0 7 7

ラストコーターに南加のキックオフのボールを明治の吉岡が自陣10ヤードで受けロングランをし、南加25ヤードで鳥羽にラトラルパス、鳥羽が唯一のTDを挙げた。挙げたと云ふよりは挙げさせてもらつた方が正確であろう。明治はフットボール部員以外に当時のラグビーの名TBであつた鳥羽を入れていた。鳥羽は俊足で有名な人であつた。彼も又このような競技は大変好きな人で、自分からかつて出たのである。

明 治 南加大
河 辺 LE オストリング
塚 平 LT アースキン
黒 川 LG ブラウン
唐 木 C ホールゲート
山 田 RG スティーヴンス
RT バーディン
山 木 RE ブローニング
吉 岡 QB マロニー
大 前 LH ジェントリー
松 木 RH ブライト
畑(進) FB クレメンズ
交替

南加:モース、パラマウンテン、ボイヤー、ボヴィー、ストーリー、ヴォーヒス

明治:畑(弘)、仁井、鳥羽、加藤、横野、花岡、富永、三浦、井上、梶谷、西原

 

この内井上は早稲田であり、梶谷と西原は法政から助つ人として出場したのである。この試合の翌日の朝日には次のように書いていた「・・・之に反して南加がライン突撃に出る場合、明大のブルーのユニフォームは赤い大きな番号を背負つた南加ラインズメンの巨体に掩はれてしま つてさながら明のラインは地下に埋つてしまつた観があつた・・・」と書いている。

この試合に続いて米軍同士の模範試合を2クォーターだけ行い、その結果紅軍が12対7で青軍を敗つた。

 

3月25日午後3時30分から甲子園南運動場でヂョーヂ中尉(主審)、ブース大尉(副審)、ガードナー(線審)、マーシヤル(計審)の下に全米軍と全日本軍との試合が行はれた。結果は73対6で全米軍の大勝に終つた。全米軍は来日オールスターズの青軍であつた。第2クォーターに全日本チームは第2クォーター開始と同時にHB鳥羽が自陣45ヤードからロングランをしてタッチダウンを挙げて気をはいただけであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
全米軍 20 13 20 20 73
全日本軍 0 6 0 0 6
全日本軍 全米軍
畑(弘)(明) LE ハッバード
黒 川(明) LT ウーリン
三 浦(明) LG ムーチャ
唐 木(明) C ドード
畑(稔)(明) RG クラーク
黒 沢(立) RT ドローン
梶 谷(法) RE ロット
松 本(明) QB アートマン
畑(進)(明) LH バフキン
大 前(明) RH バーク
川 島(早) FB サルコスキー
交替選手

(米):フアンク
(日):西原(法)、吉岡(明)、仁井(明)、加藤(明)、黒川(明)、河辺(明)、

鳥羽(明)、山田(明)、山部(明)、富永(明)、山本(明)、塚平(明)、

井上(早)、野内(早)、安藤(立)、安部(立)、武田(慶)、西島(立)

 

この試合に引続き米軍同士の試合が2クォーター行はれ青軍が7対6で勝つた。

 

翌26日は来日米チームは三宮駅から列車で福岡に向けて福岡での試合の為、出発した。当時はまだ関門トンネルが出来ていないので、下関から朝日新聞社特別仕立のランチで門司に着いて初めて日本式の旅館に泊り大喜びをしたと報じている。一行の行動が色々と新聞に出たが、その内面白いことが沢山あるがその内に皆酒もタバコもやらないでゲームに専念していると報じて いる。又“紅軍中全試合を通じて一回も休まず交代もしない選手にケネス・ブライト君がある。頭髪は紅軍の代表者といつていいやうに紅毛だ。ヘルメットをかぶつてさえ猛烈な衝突では目から星がでるといふのに、ブライト君のみは紅毛を振り立ててヘルメットを用ひない。実に八面六臂の武者振りだが彼ブライト君の超人的精力はいつたい何処から出て来るのか―ブライト君が公式の招待会以外は全く外出をしない。紅練瓦(ブリック)と呼ばれてゐる仇名も彼の日常を知つて初めて解つた。即ち單に頭髪が紅いといふだけでなく、練瓦の如く日常は沈黙を続け、ゲームとなれば練瓦の壁の如く対手を跳ね返す彼だと”と随行の記者は彼を大変にほめて書いている。

そして彼等は福岡で初めて桜の満開を見て大変に喜んだとも報じている。

 

福岡での紅青対抗試合は3月27日に行はれる予定であつたが、豪雨のため3月28日に挙行された。この日も強風をまじえた豪雨の為、午後4時から試合を開始すると云う相当無理をしたゲームで主審松本瀧蔵、副審バングル、線審ガードナー、計審フランクリンで行はれ7対0で青軍が勝つた。そのスコーアは次の通りである。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
青 軍 7 0 0 0 7
紅 軍 0 0 0 0 0

一行はこの試合を終了後、夜8時福岡発11時下関発の夜行列車で東京に向かつた。29日午後7時40分に東京駅着直ちに帝国ホテルに入つた。この間約24時間の列車の旅には一同大部疲れたようであつたが、翌30日には明治神宮外苑での東京第2戰が待つていると云ふハード・スケヂュールであつた。

 

3月30日の朝日新聞にはスポーツ欄に大きく「待望のフアンの前に、けふ決死の一戰、昨夜両軍元気で入京」と云ふ見出しで予想記事が出ている。その記事の下の方に「兵学校のコーチはるばる上京」と云ふ見出しの記事があつた。それには「江田島の海軍兵学校ではかねてから米式蹴球を学生にやらせてゐるが、そのコーチたる同校教官北林琢男氏は本社招聘の全米学生蹴球団の来朝をこの上なき機会とし、是非実地に見学をした上、同校学生に最新式の競技法を指導したいと29日はるばる江田島から上京した」と云う記事であつた。

 

この記事によると兵学校では以前からフットボールをやつてゐたと云うのであるがそれは何 時頃からやつているのか吾々も知らなかつた。そしてどんな道具を使用してどのような方法で試合をしたのか解らない。当時の軍とは余り関係がなかつたので知られなかつたのであろうが海軍は色々と新しいものを取入れていたので或は本当にやつていたのかも知れないが、吾々の想像するところでは道具を装着しないいわゆるハワイ等で行はれていたベア・フットボールではなかつたかと思はれる。海軍魂の強い兵学校の聯中であるから道具なしで本式のフットボールをやつたのではなかろうか。とにかく吾々学生聯盟との交流は全く無かつたのでその様相はわからない。

 

東京における第2試合の3月30日は朝から夜来の雨が降り続き午前中は全くの雨天であつたが正午頃やつと雨は止んだが、グラウンドはぬかつて悪いコンデションの下に行はれた。主審ジョージ中尉、副審ブース大尉、線審マーシヤル、計審ガードナーの4審判の下午後3時50分開始された。結果は次の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
青 軍 0 0 7 0 7
紅 軍 0 0 0 0 0

この日の明治神宮競技場は夜来の雨でグラウンドは泥田のようにぬかるんでいたので細いプレーが余り出来ず、それに聯日の試合、旅行の疲労もあり凡戰であつた。

 

翌る3月31日は全日本学生対全米学生の試合が行はれたが、この日も前夜からの雨が続き晝頃には吹降りとなる最悪のコンディションになつてしまつた。然し貴賓席には秩父宮、同妃殿下、髙松宮殿下、比白川宮、同多恵子女王、竹田宮、同妃、李王、同妃の各殿下が台臨され全日本軍も意気が挙つたが、何しろ最悪のコンディションは軽量の日本チームには不利で大敗した。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
全米軍 13 6 14 13 46
全日本軍 0 0 0 0 0
全米軍 全日本軍
モース LE 畑(弘)(明)
パラマウンテン LT 塚 平(明)
スティーヴンス LG 黒 沢(立)
ホールゲート C 唐 木(明)
ボイヤー RG 安 藤(立)
アースキン RT 井 上(早)
ブローニング RE 梶 谷(法)
マロニー QB 吉 岡(明)
ヂェントリー LH 川 島(早)
ブライト RH 大 前(明)
ストーリー FB 松 本(明)
交替選手

(米):クレメンズ、ブラウン、ボイヤー
(日):山本(明)、山田(明)、三浦(明)、畑進(明)、畑稔(明)、

加藤(明)、今村(慶)、安部(立)、河辺(明)、富永(明)、

野中(早)、鳥羽(明)、鈴江(立)、西島(立)

なお全日本軍のコーチはジョージ・マーシヤル氏であつた。この試合終了後模範試合として紅青対抗で1クォーターの試合が行はれたが、これは0対0で引分けた。

 

然し一行は皆若さに溢れて元気であつた。一行の中には他にも色々とスポーツをする者が多く、ジーグフリート、ハワード、オストリングの3人は明治大学のレスリングの1日コーチを行つた りした。明治のHBの大前はレスリングの選手でもあつたのでその関係で依頼したものであろうが、4月1日の日に明大のレスリング道場に行つてコーチをしたのである。

又4月1日の朝日新聞のスポーツ欄にはコラムで次のような記事をのせている。

 

「夜間試合の弊害」と云う見出しで「夜間試合の発達しない日本では凡てが想像にすぎないが、馴れ切つた米囗あたりではもうソロソロ飽きが来たと見え色々と文句をつけてその弊害を指摘している。その理由は夜間フットボールに対して、全選手、コーチ、父子から指摘されたもので米囗らしい所がある。
①睡眠不足になる。
②晝間太陽光線に輝されるのと比較して夜間の冷たい空気は堪らぬ。
③夜間競技場をおおう強力な放射光線による視力の害。
④晩餐時間を変更させられる為に起こる健康上の被害。
⑤祝勝宴の遅くなる為に学生選手自身の健康を害すること。
⑥夜間試合の往復に起る交通事故の頻発」

 

と云うものである。当時はまだ日本では夜間照明の装置のある処と云えば早稲田の野球場位のものであり、その年の10月からのフットボールを芝公園のグラウンドで夜間試合をやる位であつたが、米囗ではすでに夜間照明のあるグラウンドは数多くあつて夜間試合が盛んに行はれていたのである。この記事にも夜間試合の弊害については学生の事しか書いていないが、この当時はプロの試合はあつたのであるが、学生の試合の人気には足下にも及ばなかつた頃である。

 

4月2日には一行は名古屋で3日に挙行される試合の為東京を出発した。そして4月3日午後2時から名古屋市鶴舞公園運動場で名古屋で初めてのフットボール試合を挙行した。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
紅 軍 0 6 7 7 20
青 軍 0 7 0 6 13

の成績で同夜名古屋を出発して東京に向かつた。

 

そして4月6日にはオールスターズ最後の試合が明治神宮外苑競技場で行はれた。この試合の前座ゲームとして明治大学対早慶法立4大学の聯合チームとの試合が行はれた。この前座試合について明大には紅軍のモース、聯合軍には青軍のフランクリンの2人が名古屋行を止めて各コーチとしてチームをコーチングしたのである。その結果は0対0で引分けになつた。

明 大 聯合軍
花 岡 LE  陶 (早)
加 藤 LT 鈴 江(立)
唐 木 LG 安 部(立)
富 永 C 安 藤(立)
畑(稔) RG 風 間(早)
塚 平 RT 今 村(慶)
畑(弘) RE 梶 谷(法)
吉 岡 QB 太 田(立)
畑(進) LH 福 田(早)
松 本 RH 西 原(法)
大 前 FB 川 島(早)
交替

(明):山本、黒川、河辺、三浦、岩村、仁井、山田、半田、鳥羽
(聯):村山(早)、三上(早)、西島(立)、島(早)、久保田(早)、

井関(早)、亀井(立)

引続き午後3時30分からヂョーヂ(主)、ブース(副)、ヅーバ(線)、ヒーシュ(計)審判の下に日本における最後の紅・青対抗試合が行はれた。天気は良好で両軍とも最後の試合で張り切つて行い仲々の好試合が展開された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
青 軍 15 7 0 0 22
紅 軍 0 0 0 0 0

そして翌4月7日には同外苑競技場で関東クラブとのラグビー戰を行つた。これは29対0で関東クラブが大勝した。

 

とにかく3月10日来日以来約1カ月の間に紅青対抗試合を9回、対日本チームとは3回、その外にラグビー試合を2回とハードなスケヂュールであつたが皆若く元気で大した事故もなく、無事来日の目的を果したのである。その精力には感服する以外にはない。そしてまだ揺籃期にある日本のフットボール界には大変良い刺激を与えて呉れたし、又一方一般の人にはフットボールがどんな競技であるかを良く知らせてくれたのである。とにかくこの一行は日本のフットボール界の恩人である。終戰後昭和27年この時の監督マロニー氏は日本に再び單身で来訪し、日本の最優秀チームにと云つてトロフィーを寄贈して行つた。そのトロフィーはマロニー杯として甲子園ボウル優勝チームが持ち廻りしている筈である。

 

4月9日一行は東京学生聯盟の選手達に見送られて東京駅発電車で横浜から日枝丸で帰米の途についた。横浜にも聯盟関係の多くの者が見送つた。来日丁度1カ月を日本で生活した彼等は名残り惜しさうに出帆した。それで面白いことにはこの日枝丸にはこのオールスターズ一行の他にカナダのサスカトンアイスホッケーチームの10名も乗つており、更にシカゴで挙行される全米 プロ・ゴルフトーナメントに参加する日本のプロ・ゴルファー安田卓吉、浅見線蔵、宮本留吉、中村兼吉、陳清波、戸田籐一郎、の現在の日本のゴルフ界の重鎮が乗船しさながらスポーツ船と云う感があつた。

 

マロニー監督は日本を去る日に朝日新聞に次の様な手記を出した。

 

“私及び私の監督下にある全米蹴球学生チームの選手達が日本で受けた印象をのべる前に何よりも先づ日本滞在中に受けた懇切丁寧な歓迎に感謝の意を表したい。吾々全米学生蹴球団は限りない歓迎に全く何と感謝していいか判らない。我々の見る所ではこれこそ日本人全般の持つ特性である。この考へはアメリカへ帰つても変わらないだろう。

神宮競技場及び其他における試合は天候によつて幾分ハンディキャップをつけられた。即ち数次の試合において降雨のためにアメリカンフットボールの神髄を発揮することが出来なかつたのである。然し日本のスポーツの証云や我々の競技の観衆の熱心さからして私は日本の大学においてフットボールが正課となるものと確信する。日本人は立派なフットボールのプレーヤーとなるだらう。我々米囗選手は日本人選手との数回の試合で彼等の剛勇とスポーツマンシップと、そして体格の小さく経験も浅いにも拘らずこのゲームへの適応性のあることについて深い印象を受けた。

 

日本についての印象-といつてもその風景の美しさについては云葉で表現することは全く困難なことだ。建築様式の違うこと、伝統や慣習の相異、その他アメリカと異る多くの物ごとが我々の目に最初は非常に珍らしく映つた。然しこの短い滞在の間に吾々は日本人と同じ目で物を見、日本の慣習を理解し、日本建築の真価が判るやうになつて来た。そして我々のチームの誰でもが皆日本を新しい光の下に見直させるという使命をもつて故国へ帰り日 本人の卓越した点を故国の人に伝え、これによつて国際平和、日米間の理解、調和の一助ともなさうといふ大目的を土産にしている解である“

 

と云うのである大変社交的、外交的辞令が多く入つているようであるが、しかし彼等自体本当にそう考へていた節も多分にあつた。この調子で進んだならば、6年後の日米間の戰爭は起らなかつたのではなかろうか、両国の役人同士のかけ引きよりも、純真な若者同士の心のふれ合いこそが国際間の真の平和をもたらすものである。

 

事実終戰後マロニーは再び日本に来て日本の学生のフットボール王座チームにとトロフィー を寄贈したのである。マロニーは若き日に訪れた日本を忘れることが出来なかつたのであろう。マロニーの再度の来日については又後の方で書くつもりである。この文章の中でマロニーはフットボールが日本の大学正課となるものと確信していると云つているが、現在まで正課にはならなかつたが、66の大学と55の髙校と16の社会人チームが出来るようには成長して来たのである。

 

こうして一行は4月9日に丁度日本滞在1カ月の期間を終り秩父丸で横浜を出帆して帰囗して行つたのである。そしてシヤトルに直行し、シヤトルで解団式をして各自想出を残して故郷に散つて行つた。

 

4月26日ロサンゼルスの朝日新聞特派員はその帰国の模様を次のように報じている。

 

「本社招聘のアメリカンフットボール全米スター軍はシヤトルで解団式を挙げ各出身地 に向かい、南加大学と羅府、加州大学組一行は24日元気で当地に到着、マロニー君以下何れも日本で作つた白服と日本製の靴、ネクタイ、腕時計ですつかりメイド・イン・ジヤパンになつて大学、各新聞社等を厂訪し本社寄贈の日本刀、写真帖、ポスター、朝日新聞等を見せ「日本は素晴しい国だ」を聯発してゐる。また最近当地各新聞の運動欄で身体の小さい日本人が米式蹴球に果して見込みありやと云うことが問題になゐるに対してマロニー、ドラウン、ロットなど全部口を揃へて、日本チームは僅か半年足らずの練習でよくもあれ程やれたものだと感心した。日本人は平均130封度の小躯だからランニング・パスには無論我々の方に分があるが、フォワードパスやラテラルパスはとてもうまい。

 

何しろ日本人は斗爭精神が旺んで決断が早く我々がラグビーで惨敗したのでも判る通り、科学的研究心の旺盛なること驚たんに価するものがある。恐らく5年後には立派な遠征軍が渡米して二流どころのアメリカ大学チームと互角の試合をするだろう。また大阪で東久邇第四師団長宮殿下より握手を賜り、東京でも宮様方の台覧の光栄に浴したことはアメリカのスポーツ史上未だ嘗てないことで非常に感激してゐる。日本で受けた素晴らしい待遇ともつともよい見学の如きは我々35名のものが永久に忘れることの出来ぬものであると語つてゐる」

 

と報じている。

 

これも社交辞令的なものが多分に含まれてはいようが彼等としては又一面において真実であ つたのであろう。この文章の中で一寸不可解な点がある。それは日本人は130ポンドの小躯であるからランニング・パスは不向きだが、フォワード・パスやラテラル・パスは大変うまいと云ふ件である。130ポンドは15貫600匁であるからそれはその通りであるが、フォワードパスには向いていると云うことである。フォワードパスも身体の大きい方が有利なことは当然である。ラテラルパスはラトラルパスのことであるが、これはラグビー式のパスで、ラグビーは余りやつていないアメリカより日本の方がうまいのは当然のことであろう。彼等のお土産もネクタイだとか靴等は当時の日本にはそれ程上等なものは出来なかつた筈であるが丁寧に作られていたので珍しいので買つて行つたものであろう。

 

又日本人は斗爭精神が旺盛だと云うことは、彼等の目には小さな体で大きな彼等と試合したのでそのように感じたのであろうが又日本人は好戰国民だと云う先入観もあつたのではなかろうか。

 

そして5年後には日本からのフットボールのチームがアメリカに遠征してアメリカの二流の大学チームと互角の試合をするであろうと云つている。その二流と云ふのが泣かせるところであつて、決して一流のチームとは云つていない。たしかに今度来たチームは一流中の一流であつた。日本人の体格をもつてすれば相当に経験を積んでも一流大学チームとは無理であると彼等も思つていたものであろう。たしかにその通りであつて、40年経過した今日でも二流はおろか三流或は髙校にも及ばない状況である。5年後と云つたがその翌年の昭和11年には東京学生聯盟の選抜軍が渡米してアメリカの髙校チームと対戰しているのである。そしてそれから以後は正式なチームの遠征はない。然し彼等は今度の日本遠征で大変良い印象を得て帰米したことは事実であつた模様で、日本のフットボールの将来に大変期待したようであつた。

 

このようにして昭和9年の中頃から計画された日本にフットボール移植に関しては約10カ月の間に大成功をおさめたのであつたが、又一方においてはフットボール界には大変忙しい10カ月であつた。即ちフットボール設立の準備、スケヂュールの計画、選手の養成、創立試合の準備、日本で最初の試合、第1回リーグ戰の準備、実行、アメリカチームの招聘等、大多忙に過ぎてしまつたのである。11月29日の第1回のYCACとの試合においても、それまで日本では行われていなかつた試合の進行を場内にマイクロフォンを通じて観客に解説することもアメリカの方法を 採用して、明治神宮野球場で場内放送をしていた江頭氏に依頼しゲームの内容を細く彼に説明して、場内に放送したことなども日本のスポーツ界においては未曽有のことであつた。

 

そしてその頃のフォーメーションは各チーム共シングルウイングバックフォーメーションを採用していた。アメリカでもその頃はシングルウイングバックフォーメーション全盛の時期であつたのである。初めTフォーメーションにセットして、それからクォーターバックのワン、ツー、スリーのシグナルでバックがシングルウイングバックのフォーメーションにシフトするものである。バックだけでなくラインのガードもシフトする場合もあつた。

 

又早稲田ではこの当時からスタチュアオブリバティー(自由の女神)を使つていた。又各チーム共リバース、ダブルリバース等のトリックプレーは随分採用していた。来日したアメリカオールスターズも両軍共シングルウイングバックフォーメーションでフォーメーション自体として はそれ程日本と変つては居なかつたが、パスの距離とキックの長さでは格段のものがあつた。

 

アメリカのチームが来てその道具が日本のものより数段良いのには皆大変驚いた。ヘルメットもそれまでの日本のは皮製で内部にフェルトを張つたもので全体にやわらかく、二つにたためる様なものであつたが、彼等の持つて来たものは外部がベークライトの様な堅い物質で出来て居たしパンツもそれまでの吾々のものはキャンバス地で出来たゴワゴワのものであつたが、彼等のはやわらかく自由のきく布地で色も美しかつた。このように彼等の来日はただ技術的なものだけではなく、その道具にも日本のフットボール界に大きな刺戟を与えた。それで彼等の道具を一通りゆづり受けて、それを玉沢運動具店に貸して直ちに日本製の新しい道具に各チーム共作り直し出した。

 

この来日アメリカオールスターズは誕生したばかりの日本のフットボール界に技術的なもの ばかりでなく用具の面についても大変な影響を与へてくれたのである。そしてこれから日本のフットボール界の行方に指示を与へてくれ、又明るい将来を約束してくれたのである。この点において日本のフットボール界は将来共このアメリカのチームを招聘した朝日新聞社の恩義は忘れてはいけないことである。

 

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