記事一覧へ

INFORMATION ニュース

2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(4) 1935春~立教大合宿

お知らせ

◆ 1935(昭和10年) 春 ◆

 

このようにして多忙であつた初年度はこのアメリカオールスターズの来日によつて第一段階の終止符を打つたのである。然し実際には第2年度の準備に着手していた。昭和10年1月頃には慶応と法政にチームが出来たのである。これは聯盟からのさそいかけによつて慶応ではハワイ育ちの今村が、法政では同じくハワイの二卋の梶谷等が主力になつてチームを作り聯盟に加盟した。ここに東京学生米式蹴球聯盟は5校となり、この5校の期間が昭和16年に日大にチームが出来るまで6年間続いたのである。又関西においてもアメリカオールスターズの来日が発表された一月関西大学がチームを編成した。関西では関大1校と云う時期が長い間続いた。

 

東京学生聯盟の5大学では各校共3月の初旬が入学試験であつた。

各校の部員は新入部員獲得のため入学試験の日には学校に行き受験生に入部を説得し1人でも多くの部員を入部させるように努力した。又一方では対アメリカチームとの試合に備えて練習する者、又アメリカオールスターズ戰の諸準備等各校の部員も大変忙しい思いをしたのである。そしてアメリカオールスターズが帰國すると同時に第二年目の第一学期が始まつたのである。

 

聯盟の規約によつてシーズンは9月からであるが春には1カ月のプラクティス・シーズンが許可されていた。それで各校共大体4月の末日から1カ月の5月末日迄を春の練習期間としたようであつた。然し何しろ出来た許りのチームであるので各大学共正規の体育会の部としては認められず、殆ど体育会の部外団体としか認められていなかつたので練習のグラウンドに苦労したのである。何処の大学でも広大な敷地を必要とするグラウンドに余裕のある大学は少ない何れも何処かの部が使用しているのである。それで関係部と話合つて時間的に都合をつけて交互に使用するか又は何処か他にグラウンドの代用になる処をさがすしかなく、新しく出来たフットボールのマネージヤーはグラウンド探しに苦労した。それでなくても一つのグラウンドを二つの部位で使用しているのが多いのにそこに割込もうとしても話合いも時間的にうまく行かなかつた。

 

立教大学もご他聞にもれずその通りであつた。当時立教大学のグラウンドと云えば池袋の大学の裏に陸上競技とラグビーが使用しているものと上石神井公園の清水組のグラウンドをサッカーとホッケーが借りていた。そしてそれは何れも満員の状態であつて新しくフットボールの割込む余地は無かつた。それでも方々探した結果、目白の海上火災保険の野球場を借用することが出来たので春の練習はそこですることになつた。毎日午後から武蔵野線(現在の西武池袋線)の椎名町まで行きそこから歩いてグラウンドまで行くのである。グラウンドと云つても野球場とラグビー場を兼ねたグラウンドであつた。海上火災保険のグラウンドは目白の髙台にあつて中々見晴しも良く環境も良い処であつた。そしてその近所の風呂屋と契約をしてその風呂屋で練習着に着替えて練習をし、終つたらその風呂屋の風呂に入浴して帰ると云うものであつた。

 

そして、その年は春の新入部員も3名入部し、更にそれまで居た他の部からの借入れ部員も整理され、又在学生中から入部した者等も増えてやつと正規の部員のチームになり、部員数も29名となつた。学部の2年生では主将太田二男、マネージヤー相京徹夫、井上和雄、田中軍雄、根本春男、中田文夫、藤井式、学部1年では会計安藤眉男、堂本誉三、村松守男、亀井勇、菊地隆吾、浅賀隆義、天田利男、満岡敏義、栄実、予科3年では鈴江弘、岸髙誼、細田孝、池上弥太郎、服部慎吾、予科2年では廬正仁、阿部健一、上田守政、本吉勇、山口千三、予科1年では中村健一、戸庸彬、杉山亀雄の29名でその他客員待遇で予科3年の安部博(柔道部)、上村陽一(角力部)が入つていた。

 

そして部長には小川徳治教授、コーチにはジョージ・マーシャル氏がなつていた。29名の部員は居たが、新設のしかも体育会の部外団体であるのでひやかしの者も居て、常にグラウンドに来て練習をする者は22〜23名位のものでやつと2チームが出来る位であつた。それでも皆熱心に練習にはげんで居た。マーシャルコーチも常に学校の授業が終るとグラウンドに来てコーチをしていた。フォーメーションも前年とはがらりと変えて相当混入つたものになつて来た。そしてその数も40位のプレーがあつた。スピンプレーからリバース、ダブルリバースとかパスにもフェークを加入したものだとか前年の10位のフォーメーションに比較すると格段の進歩であつた。そして基本フォーメーションはアンバランスラインのシングルウイングバックフォーメーションであつた。

 

こうして皆熱心に海上火災のグラウンドで春の練習を続けたがこの期間中鈴江が足の骨折の負傷をして入院し約2カ月休んだ。そして春の練習期間の終り近くに池袋の立教のグラウンドで慶応との練習マッチを行つた。これは練習マッチであるが朝日新聞には次のような予想記事が出ていた。このことは現在ではとても考えられないことである。

 

「東京学生アメリカンフットボール聯盟に新たに加盟した慶応大学では春期練習終了にあたつて立教大学チームと25日午後4時半から池袋の立教大学競技場で試合を行ふこととなつた。この試合は先に本社が招聘した米囗蹴球団に直接フィールドで鍛へられたメンバーを有する立教大学チームと、現在米本国で行はれてゐる該競技の精神的並びに技術的の眞髄をつぶさに観察した後誕生した慶応チームとが前年度リーグ戰に較べて果して如何なる進歩向上をとげてゐるかに多大の興味をひかれてゐる」

 

と云うものであつた。ただの練習試合にベタ記事ではあるが朝日新聞がこれだけの予想記事を書くとは少なくとも現今の新聞にはあり得ないことだろう。それと云うのもその年の春全米オールスターズを招聘し異状なるスポーツ界の反応を招んだことについて朝日新聞では大変な関心を持つていて、将来日本のスポーツ界にフットボールの位置を予想していたのであろう。

 

そしてその立教と慶応の練習試合は7-6で慶応が勝つた。この試合も朝日新聞はベタ記事ではあるが次の様に書いている。「慶応米式蹴球勝つ立教対慶応の米式蹴球試合は25日午後4時半から池袋で挙行、慶応はライン強固でバックメンもダッシュ鋭く、よくダウンを重ねて立教を圧迫しついに初の対校戰に勝利を得た。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 7 0 7
立 教 0 6 6

以上である。出来た許りの慶応が3カ月でも半年でも先にチームを編成し、しかも第1回のリーグ戰にも又対YCAC戰にも或は対アメリカオールスターズ戰にも数人の選手が参加した立教に勝つたのであるから慶応の得意は思いやられる。又立教としても予想外の敗北に呆然としたものである。然しこれは練習ゲームであつて新しい部員の1カ月の練習の結果の総合である点においては立教も慶応も変りはないのである。事実リーグ戰その他の過去の試合に参加した立教のメンバーは殆どが他の部、即ちラグビー部、柔道部、角力部の部員を借りて来てチームを編成し、そして試合を行い、又その中から選抜されたのであつて、4月から新しく正規の部員となつた者の中には、それ等他の部の者は居なかつたのである。事実過去の試合に出場したことのある者と云へば主将の太田、井上、安藤、亀井、田中、鈴江、相京、の7人で鈴江、相京は怪我をして欠場していた。一方慶応でも今迄試合に出た者は今村、武田と2人居る。こう見ると立教も慶応も全く同じ条件である訳である。この試合も試合開始間もなく慶応に点を取られてしまつたのである。まだ全員がその気になつていない間にズルズルと押されて得点され、後半盛り返して慶応を押したが1タッチダウンしかとれずに涙を呑んだのである。

 

とに角この試合を最後に春の練習期間の1カ月は5月末日を以つて終了し、9月1日のシーズン迄は各校とも練習をすることも試合をすることも禁じられていた。

◆ 1935(昭和10年)9月 立教大合宿 ◆

 

それで部員は各々道具を各自でシーズン迄保管して9月1日を待つたのである。6月の末から7月の初めにかけて予科は第一学期の試験があり、それから夏休みになつた。各自夏休みは自分の好きな行動をとつて体力の養成に務めるのである。夏休みに入る前に部会を開いてシーズン入りの合宿は9月1日から軽井沢千ヶ滝と決つた。

 

合宿は2週間で、これの費用は20円、出発は8月31日午後11時の夜行列車で沓掛下車、上野沓掛間の旅費学割片道1円70銭であつた。このような事がミーテイングで部員全員に知らされ、又夏休み中の聯絡を密にするように夏季部報を出すので各自現況をハガキで小川部長宅に出すことも要請されて解散し夏休みに入り部員は各々山に海にそして故郷に散つて行つた。そして長い夏休みの間には小川部長宅には部員から近況がとどいた。これを小川部長と中田文夫が編集してガリ版印刷の部報を作り、又各部員宛に発送した。この仕事も大変な仕事であつた。暑い盛りに山や海で遊んでいる部員の便りをまとめるのであるからその苦労は大変なものであつたであろう。然しそれでも原稿がよく集り第2号迄発送したのである。

 

8月31日夜上野駅には部員が続々と集つてきた。皆元気一杯で海や山で充分遊んで来た様子が見えた。4~5人が合宿に直行するので当夜上野駅に集合したのは部長、マーシヤルコーチ以下20名位であつた。一同は上野駅から乗車して車中で一泊したが皆ねる者は居なかつた。中学校当時の修学旅行のような賑やかさで、朝5時頃まだうす暗い頃沓掛(現在の中軽井沢)駅に到着した。軽井沢の9月の早朝は寒かつた。バスがまだ動かないのでしばらく駅で待つことになつた。寒さは肌にしみとおるようであつた車中で元気だつた一同も寒さの為おとなしくなつてちぢこまつてしまつた。その上雨まで降つて来た。バスはまだ動かない雨は降つており外に出ることも出来ない、それに寒さは寒い、汽車の中で元気だつた聯中も皆だまり込んで駅の待合室のベンチにジッとして座つてタバコ許りふかしていた。

 

その内に外はもう大部明るくなつて7時頃になつたろうか、やつとバスが動き出した。一同立ち上つて荷物を持つてバスに乗込んだ。バスは雨の中を沓掛の町を通り抜け坂を登つて千ヶ滝に向つた。沓掛の町を抜けると附近には人家も少なく寂しい所になつた。約20分位して人家のある所で停つた。千ヶ滝である。皆下車して相京マネージヤーの先導で宿舎に向つた。宿舎は箱根土地株式会社の千ヶ滝公会堂である。周りは静かな良い所でテニスコートやラグビー場がある中にその公会堂はあつた。公会堂と云つても木造の大きな建物で、丁度映画館のように広い土間と舞台があり、その舞台を上つて奥の方に行くと100畳敷位の広い畳を敷いた広間があつた。其所は宴会や集会にでも使う部屋なのであろうが、只だだつ広くて殺風景な上に畳も赤茶けてほこりぽく、ブカブカして足の感触が悪い。合宿所であるのでそんなに奇麗な部屋は予想していた訳ではないが、余りにもきたなくて殺風景なのに皆がつかりした。

 

だが一同あきらめ顔で荷物を各々部屋のすみにおいて一休みをしている内に、朝食が出た。そして食事をすませて休憩して部屋で体操をする位のものであつた。外は雨が大部強く降つており外に出ることも出来ない、と云つてほこり臭い大広間にゴロゴロして居るのも気分が悪い。皆することがなくて困つている時に荷物の中からボクシングのグローブが2組出て来た。これはマーシヤルコーチの私物であつたがコーチが何かの用にと持つて来たものであつた。それを見付けるとそのグローブを持つて舞台に行き交代で拳斗を始めた。グローブをつけた手を盲めつぽうに振り回すだけであつたが、それが顔に当ると痛い。始めの内は冗談にやつていたが、まともになぐられた方はムキになつて本当になぐり返す、すると一方も又本気になる。3回やると両方クタクタになつてしまう。次の者が2人又出てグローブをはめる。で大騒ぎした。栄実は予科2年迄拳斗部に居たのでさすがに堂に入つたもので、皆歯が立たなかつた。

 

彼になぐられるとほんとにかすつただけでもジーンとひびいて来るようであつた。皆で拳斗を楽しんでいる内に阿部健一が舞台に出ていた釘を踏んで足に怪我をしてしまつた。我々の合宿には怪我の手当をする為に当時日本体育協会の医事部で日本のスポーツ医学の大家の日本医科大学の斉藤博士と云う人が居たが、その弟子の櫻井栄三と云う人がフットボール担当であつた。その櫻井さんの下に居た日本医大の整形外科のマッサージ師が一緒に合宿に来ていたのである。私達は早速彼がカワウソに似ていると云うのでカワチヤンと云うあだ名をつけた。そのカワチヤンが早速阿部の足の手当をしてくれたが、大部深い傷で靴がはけなくて、阿部は折角合宿に来たのに殆ど練習も出来ずに終つてしまつた。

 

とにかく外は雨降りであるし合宿第1日は軽い体操と拳斗をする位で何も出来なかつたが、マネージヤーの相京や会計の安藤、それに小川部長は大変忙がしかつた。それは合宿所が余り見すぼらしいので気の毒になり、何所か他の所に合宿所を探すべく雨の中を走り回つたのである。然し仲々適当な所は急に探がしても見着からなかつたが、やつと千ヶ滝から歩いて20分位の所にある星野温泉明星館に交渉して其所を合宿所にした。

 

明星館は普通の旅館でありお客も沢山居るのだが9月になつて部屋が空いたのが幸であつた。一同は又荷物をまとめて又バスに乗つて雨の中を来た道を少し引返へして星野温泉に行つた。ここは旅館であるので公会堂のようなことはなく部屋も設備も良かつた。一同大嬉びであつた、風呂も四六時中温泉があつて申し分なかつた。そして部屋も八帖位の部屋に5人位づつ分けて入つた。そして上級生が室長になつていわゆる合宿の気分が出て一同やつと落付いた。その他食事、ミーテイング用に大広間も使用することが出来て申し分なかつた。皆部屋に入つて荷物を整理すると今度は各部屋対抗の拳斗の試合を始めた。一部屋に集つて大騒ぎであつた。下の部屋のお客はたまつたものではなく文句が出て外でやつてくれと云うことになつた。それで風呂場の前の板の間にリングを移してそこで又拳斗を始めた。皆エネルギーを持て余ましているようであつた。

 

その内に大広間で夕食になつた。さすがに旅館であるので一人一人お膳が出たそれも二の膳付きで皆大嬉びで女中さんはご飯のおかわりでテンテコ舞いであつた。食事がすんで夜は明日からのスケジュールの打合せ等をすませて10時頃には皆就寝した。こうして合宿第一日目は雨と移転の為何も練習することが出来ずに終つてしまつた。

 

第2日目からは朝7時起床、体操、ランニング、食事、午前の練習、食事、午後の練習、食事、ミーテイング、就寝とスケジュールは一杯であつた。第2日目は晴天で起床と同時に宿舎の前庭で体操をしてそれが終ると沓掛の町まで往復約4キロのランニングをして、それから洗面食事の日課である、午前の練習は10時からで皆道具をつけてスパイクをはいて約20分歩いてグラウンドに着いた。ひどいグラウンドであつた。

 

平になつて居りゴールポストも立つては居たが石が多いのには驚いた。石と云つても浅間山の火山礫で大きいのは握りこぶし位のから、小さいのは拇指の頭位のが一杯になつて居り、更に奥の方は石だらけでグラウンドの1/3は使用出来ない様な状況であつた。それでもその石を片付けながら練習をした。午前の練習を終つて食事にもどり又午後3時から練習に出た。
午後の練習を終つて宿舎に帰り道具をほして風呂に入つて夕食、夜はマージャンやポーカー、拳斗である。しかし第3日目位になると体の方々が痛くなり階段の登り降りも四つんばいにならなければ出来ないようになつて来ると拳斗の試合も自然にとまつてしまつた。グラウンドは石を片付けてもスパイクでほり返すと下から又軽石のような火山礫が出て来て限りがない、仕方がないからその上でやるとすり傷のたえ間がない。カワチヤンはヨーチンや赤チンで忙がしい。又このグラウンドは雨上りなどにはブヨが沢山出て来て練習中のプレーヤーの手や足や首すじをさすのである。その数も一寸やそつとのものでなく動いて居る足に眞黒になる位たかつてさすので、皆足が大根のようにはれてしまつた。カワチヤンは又この手当にも忙がしかつた。皆カユイカユイでカユミ止めの薬をぬつてもらつた。

 

明星館の附近には別荘が多くあり、別荘の人達は明星館に風呂に入りに来るのである。有名な詩人土井晩翠氏もタオルをブラ下げて和服でよく入浴に来ていた。9月になつて別荘の人達も随分帰つて空屋になつた所もあつたがまだ残つている人達も大部居た。そしてその人達は星野温泉に風呂に入りに来るのである。その風呂は我々と一緒であつて我々が入浴するのは一時に20数人が入るのだから浴場は満員になつてしまう、しかも汗と泥でよごれた者が入浴するのであるから他の人は大低時間を外して入浴していた。我々の入浴も乱暴なもので風呂の中で大騒ぎである。

 

毎日午前と午後練習をくり返している内にだんだんと皆の気持が荒んで来てケンカが起きるようになつて来た。10日目頃になると極限に近くなり、主将の太田と同学年の中田が猛烈なケンカをした。それでその夜は小川部長、マーシヤルコーチ、相京マネージヤーが相談して夜の食事の時はビールを1本づつつけて宴会をやり、そしてそれから皆のカクし芸をやる慰安会を開いた。1人1人やグループで色々カクし芸をやるのだから大変賑やかであつた。それで宿の女中さんや宿泊のお客さん迄が大広間に集つて来ての見物で一同皆大変張り切つて演芸をやつた大好評を得た。この演芸会の行事は次の年以後も毎年合宿の年中行事になつてしまつた。そしてその夜は門限を12時迄にしたので沓掛の町まで出掛けた者も居た。

 

翌日は何時もの通りのスケジュールで又練習にはげんだ。マーシヤルコーチも小川部長も別室ではあつたが我々と皆一緒に行動をして2週間の合宿を終つた。グラウンドは悪かつたが夜は涼しいし食物は良いし待遇も良かつたので合宿の成果は充分に挙がつた。

合宿最後の日は午前の練習を終えて、グラウンドでミーテイングをして星野温泉に帰り風呂に入つて晝食をして荷物をまとめて、バスを待つた。大変お卋話になつた明星館の人々に皆別れを惜んでバスに乗り沓掛の駅に向つた。来る日と異つてその日は晴天で浅間山がよく見えた。沓掛から汽車に乗つて夜8時頃上野駅に着いて解散をして、皆それぞれ家に帰つて第1回の合宿は終つた。

 

合宿から帰つて1日おいてすぐ東京での練習が始つた。各大学とも9月以前には練習することは出来ないので皆8月31日の夜合宿に向つた模様であつた。このシーズン制は相当徹底していたのである。東京での練習は9月半ばでまだ暑い日の聯続であつたが目白の海上火災のグラウンドで行はれた。もう学校も第2学期が始つていた。それで午前の授業を受けて午後から練習に行くのである。その内に9月末になつた頃グラウンドが石神井公園の清水組のグラウンドに変つた。それはラグビー部が清水組のグラウンドの隣に新しくグラウンドを作つてそちらに移つたので、ラグビー場をホッケー部が使い、サッカー場がサッカー部だけになつたのでサッカーと時間を区分してフットボールは午後3時から使用することが出来るようになつたのである。

 

部員一同大嬉びで武蔵野電車の定期を買つて石神井公園まで通つた。此の頃になると春の時と部員のメンバーも大部変つてきた。即ち面白そうだとかカツコいいと云う気持ちで春に入部した者は練習がきびしいのと、規則正しく練習の時間には出なければならないと云うしばられる生活の出来ない者はやめて行つた。春の練習の時であつた堂本と云う二卋の部員が居たがある日練習中に突然“僕もうご飯の時間だから帰る”と云つてさつさと練習をやめて帰つて行つてしまつたことがあつた。残つた者は皆アッケにとられて呆然としてしまつたことがあつたが、このようなひやかしの聯中は皆やめて合宿からは本気でフットボールをやる者だけが残つた。

 

主将太田二男、マネージヤー相京徹夫、井上和雄、田中軍雄、中田文夫、安藤眉男、村松守男、亀井勇、菊地隆吾、浅賀隆義、天田利男、栄実、鈴江弘、岸髙誼、細田孝、池上弥太郎、服部慎吾、廬正仁、阿部健一、上田守政、中村健一、戸庸彬、杉山亀雄の23名が残つた。そして新たに秋の東京での練習からハワイの二卋でハワイ大学のフットボールをしていた坂口哲雄とラグビー部をやめて来た竹内義雄の2人が加はり25名となつた。この内、太田、坂口、中村、杉山の4人は二卋で皆アメリカ本土、ハワイで中学か髙校時代にフットボールをやつた経験者であつた。特に坂口はハワイ大学時代にフットボールをやつたし、中村はハワイのハイスクールでフットボール経験者でそのパント力とパス力は非常に優れており過去40年の厂史の中でもこれ位のプレーヤーは居ないと思はれる位であつた。パスレシーブも見事であつたし、又走るスピードは速くなかつたがその柔らか味のある無理のない走り方は抜群に優れていた。坂口もパントパスに優れていたが彼の場合は馬力でとばす方であつた。然しこの2人の優れたバックを持つた立教は練習にも熱が入つた。毎日午後池袋から武蔵野電車で石神井公園に行き風呂屋で練習着に着換えて池のほとりを歩いて髙台のグラウンドに行つた。

 

この風呂屋はラグビー部、サッカー部、ホッケー部、それにフットボール部と四つの部が使用して大変賑やかであつた。グラウンドに着くと体操、ランニングをやつて、それからランニングパス、ダッシュ、ブロッキング、タックリング、シグナルプレーと毎日猛練習のくり返しであつた。そして九月の末には秋のシーズンに使用するプレーが正式に定つた。昨年のようにNo1、No2と云うようなものでなく右エンドラン、左オフタックル、右インサイドタックルと云うように大変混み入つたものが多くなり、プレーも30位になつた。それを毎日マーシヤルコーチの指導の下にスクリメージをやつて、コンビネーションをつける練習をくり返へしたのである。

 

夕方日が落ちてグラウンドを去り風呂に入つて着換え、そばの餅菓子屋で大福を食つて又電車で池袋に帰り各自家途につくのである。この電車の石神井公園の先には大泉があつてそこには新興キネマがあつた。その新興キネマの女優さんとも友達になつた。田中筆子、浦辺粂子、松平竜子、等とも知り合いになつた。又途中の武蔵野音楽学校の生徒等とも知り合いが出来たりした。

又風呂屋ではフットボール部だけは道具が多いのと又一番汚れているので正面からは入れて来れないで裏の釜場の方からしか入れてくれない。それで我々は裏で練習着を脱いで釜場を通つて風呂に入るのである。ある時は練習が終つて帰り途グラウンドのそばの草むらで蛇を見付けた亀井がその蛇をつかまえて風呂屋に持つて帰り風呂屋の物干棹にかけたら、おやじが顔色を変えておこつたこともあつた。又練習を終つて風呂屋の裏で安藤が浅賀のジャージーを脱がせてやつている時、ジャージーから首だけ抜け出した浅賀の顔が気に入らなかつたとかで浅賀をポカポカなぐりつけた、首だけジャージーから抜けた浅賀は手がジャージーにかかつていて手の自由がきかないのでなぐられつぱなしになつている内に仲裁が入つて浅賀はなぐられ損でブーブー云つていたこともあつた。何れにして若い元気でいたづらつ気一杯の聯中には風呂屋のおやじも呆れたりおこつたりで忙がしかつた。

 

こうして各大学共合宿を終つて各々自校のグラウンドで練習を行いリーグ戰の開幕を待つていたのであるが、聯盟も又リーグ戰開幕の準備で多忙であつた。先づ最大の難関はグラウンドであつた。

 

当時東京には観客を入場料をとつて集めることの出来る競技場と云えば明治神宮外苑競技場しかなかつた。他はそれだけの設備はなく、殆ど各大学の練習用グラウンドだけであつた。その明治神宮外苑競技場は陸上競技、ラグビー、サッカー、ホッケーと既にある程度日本に歴史を持つ競技が使用契約をして春、秋のシーズンはウィークデーでもなければ空いていない状況であつた。これら古い競技でも土曜、日曜等は仲々使用出来ない状況で1年位前から使用委員会で決定していた。その委員会のメンバーにはこれ等の競技の役員がなつておりお互いにケンカ腰で使用日割を決定していたのである。そうかと云つてウィークデーでは学校の授業もあり、又入場者も少ないので採算はとれないし、観客を動員することは無理であるので、何れも土曜日曜をねらうのである。

 

フットボールのような新しい競技でしかも日本体育協会に加盟していない競技団体には使用割当委員会のメンバーにもなれず、従つて神宮外苑競技場の使用は不可能であつた。そうかと云つて各大学のグラウンドでは何れも都心から離れており観客は集らず、草野球のようになつて将来の発展はおぼつかないし、又少しでも入場料を挙げて道具その他の購入資金にしなければならないのでどうしても都内のしかも入場料のとれるグラウンドをさがす必要があつたので聯盟役員は大変苦労して方々さがしたが適当な所が見付らなかつた。

 

その時芝公園の競技場が約1,000人位収容出来る簡單なスタンドを持つている陸上競技用のグラウンドがあるのに気がついた、然しここは陸上競技用ではあつたが一周200米位の小さなもので、しかもフィールドは芝生でなく小ジャリのまざつた土であつた。小さいのとフィールドの状況が良くないので他の団体は気が付かなかつたのであろう。その盲点を見付けたのである、然しこの競技場は陸上競技の練習場であるのと東京市のものである為、土曜日曜は一般に開放しているのでウィークデーしか使用出来ないのである。そこでここに夜間照明をつけて夜間試合をやる決議がなされてそれが決定し、東京市と交渉し夜間照明設備を東京市で設備することになつた。夜間試合であるなら学校の授業にも差しつかえはないし、又市内であるので観客も来るであろうと云うのである。東京市との交渉も難行したが、夜間照明設備をすることによつて一般の使用率も増加し東京市も名目が立つので応じたのであろう。これにも聯盟の加納理事他の大変な尽力のおかげであつた。

 

こうして難関であつたグラウンドの件も解決し、10月5日の夜5時から帝国ホテルで理事会を開き競技場は芝公園で試合開始は午後7時と決定し、スケジュールを決定した。10月19日:立-慶、10月20日:明-法、10月26日:早-法、10月27日:明-慶、11月9日:法-慶、11月10日:立-早、11月16日:明-立、11月17日:早-慶、11月23日:法-立、11月24日:明-早と決定した。夜間試合は日本では屋内競技を除いては全く無かつた当時である。やつと早稲田の安部野球場に夜間照明装置が出来たがまだエキジビション程度のことしかやつていなく、正式の試合は日本では殆どなかつた。その点フットボールは日本のナイターの草分けとでも云うものであろう。フットボールは今迄の日本には考えられなかつたようなことをドンドンと採用実行するのでその突飛さには日本のスポーツフアンも少々驚き気味で興味深くそのやり方を見守つているようであつた。各大学のフットボール部員は9月1日の合宿から1カ月以上たつてやつとスケジュールと競技場が定まつて皆大変に嬉んで練習にも一段と熱が入つて来た。

 

次のページへ

一覧へ