2023.03.10
日本におけるフットボールの厂史(6) 1936~秋
お知らせ
◆ 1936(昭和11年) ◆
昭和11年はフットボール歴では3年目であつた。
この年の1月16日の新聞には「全米10傑5態」と云う見出しでフットボールに関する面白い記事が出ていた。それは「アメリカの聯合通信社では例年通り1935年度の優秀選手をはじめ5項目について全米のスポーツライターから投票で募り、3、2、1と得点を与えた結果、ファーストテンは次の如く決定した。これはアメリカスポーツ界の“スポーツ英雄”とそれに対するフアンの関心とを如実に示すものであつて興味深い(特筆すべき競技者)
1.ジョールイス(拳斗)
2.ローソンリトル(ゴルフ)
3.ジェシーオーエンス(陸上)
4.ゼイ・パログナー(全米選抜蹴球チームのハーフバック)
5.ミッキーカクレン(デトロイトタイガースの監督兼捕手)
6.マルコム・キャンベル(英囗の自動車快走王)
7.アンディー・ビルニー(ノートルダム大学蹴球選手)
8.ジェームス・ブラドック(拳斗)
9.ディジー・デイン(聖ルイス・カージナルス投手)
10.ユーレイス・ピーコック(陸上)
と云うもので拳斗のジョールイスがトップで、3位の陸上の100米のランナー、オーエンスが入つているが、10人中フットボール選手が2人入つている。
つづいて「(女子の優秀競技者)(返り咲いた競技者)の次に(卓抜したチーム)卋界野球爭覇戰に優勝したデトロイトタイガースが290点で第1位、カレッジフットボールの覇者ミネソタ大学が第2位となつた。
1.デトロイト・タイガース(野球)
2.ミネソタ大学(蹴球)
3.サウザン・メソジスト大学(蹴球)
4.プリンストン大学(蹴球)
5.シカゴカブス(野球)
6.英囗デ杯チーム(庭球)
7.ノートルダム大学(蹴球)
8.南加大学(陸上)
9.デトロイト・ライオン(プロ蹴球)
10.加州大学(漕艇)
11.米囗ライダー・カップ・チーム(ゴルフ)
となつており、その年のワールドシリーズで優勝したデトロイトタイガースが第1位で、続いて2、3、4位と大学フットボールが続いており、9位にプロ・フットボールが入つている。又フットボールの名門南加大学がフットボールではなく陸上競技で入つているのも面白い。
「(番狂せの傑作)春の練習では精々ナショナルリーグの5位程度と予想されていた、シカゴ・カップスがシーズンの終りには21試合に聯勝、デトロイト・タイガースと卋界選手権を爭うに至つたのが番狂せのナンバーワン、ブラドックの奇蹟的勝利が第2位、最後の2分間で強敵オハイオ大学を攻めまくり1点の差で破つたノートルダム大学が第3位、第4位はペリーを破つた庭球のアリソン、次は蹴球でノートルダム大学を破つたノースウェスタン大学、第6位は全米オープンゴルフで奇勝を博したサム・バークス、第7位は全米陸上の100米でオーエンスを破つたピーコック、第8位はルーイスにTKOされたベアー、第9位は蹴球でノースカロライナを25対0で刺止めたデューク大学チーム、そして最後の第10位はシーズンの後半期に2年つづいてスランプに陥つたニューヨーク・ジャイアンツ」
とありここでも第3、第4、第9位と3つ大学フットボールが入つており如何に当時アメリカでは大学フットボールが全盛であつたかが判るのである。
なお1936年元旦のローズボウルはスタンフォード大学が7対0でS.M.Uに勝つている。
昭和11年は1月、2月、3月は行事がなく、2月末から3月にかけて各選手は学期末試験で苦労したが、それが終り3月中旬の入学試験が始ると新入部員勧誘のため休暇中ではあるが学校に出かけて受験生を説得するのに忙しかつた。何しろ当時の立教大学は予科学部総人員が1,200名位の小数で、したがつて予科1年の入学生全でも250名しか居ないので部員を獲得するのは本当に骨が折れた。
それでも4月の新学期開始当時には部員も少数ではあるがふえたのである。
学部3年では主将太田二男、相京徹夫、井上和雄、中田文男、
学部2年では安藤眉男、菊地隆吾、浅賀隆義、亀井勇、栄実、
学部1年では服部慎吾、細田孝、池上弥太郎、鈴江弘、岸髙誼、竹内義雄、小林万寿治、
予科3年では阿部健一、稲熊正男、
予科2年は中村健一、戸庸彬、杉山亀雄、上田守政、
新入部員には小黒博、鈴木辰雄、裵俸旭、洪興亀、田辺進と5人が入つた。
この内小黒と鈴木と田辺は二卋であつた。そして新入部員を含めて27名で4月末から春の練習を石神井公園のグラウンドで行つた。
立教大学のアメリカンフットボール部は米式蹴球部とは云つてはいたが立教大学体育会に正式には加入していなかつた。正式に加入していなかつたと云うよりは正式の加入を体育会で許可してくれなかつたのである。それはまだ出来たばかりでもあり、又実績も少いし、又部員も初年度の如きは他の部の流れ者が多く、それに又立教大学の全学の学生数が前述の通り1,200名位である為に体育会に来る予算も多くはない。然し体育会に加入している運動部は20位もあつた。
その20位の部が少ない予算を分けるのであるから既設の部とすれば一つでも新しい部が出来ればその部に予算を分配しなければならない。それだけ既設の部の予算が少くなるので新設の部の加入は出来るだけ認めないように各部とも考へているのでフットボール3年目になつても加入を認めてもらえなかつた。それで体育会部外団体としての取扱いを受けて年間予算30円を体育会の方から分けてもらえるようになつた。
新設の部は大低部外団体として取扱はれ、その部外団体を何年か経過して実績が認められれば体育会加入が許可されるのが普通であつたのでこれは止むを得ないことであつた。毎年根気よく加入の申請を続けて認めてもらへるようにするより仕様がなかつたのである。然し年間30円の予算ではいくら物価の安い時でも当抵足りるものではなかつた。それで部員からは月50銭宛の部費を徴集して僅かにその日活しの様な計算でやりくりをしていたのである。道具も補充しなければならないし、ユニフォームもボールも買はなければならないグラウンドの借り代も支払はなければならないし、又通信費もかかると云うことで何時もピーピーしていた。
そして玉沢運動具店には何時も相当額の借金があつた。玉沢のセールスマンの岡崎氏などには何時もいや味をいわれていたが無いものは払えないので、ついつい延ばしていた。玉沢には悪いことをしたと思つているが止むを得なかつた。然しそれでも文句を云いながらも玉沢は練習や試合に支障の無いようにしてくれたことに対しては大変感謝をしている。
この年に寂しいことが起つた。それはフットボールの日本の親とも云はれ日本のフットボール創立に大変努力したと同時に立教大学のフットボールのコーチをしていたジョージ・マーシヤル教授が6月中旬に任期満了となつてアメリカに帰囗したことであつた。
我々部員としては本当に親を失つたようで先行に不安さえ感じた。その上昨年FBとして活躍した坂口が両親の反対にあい部を止めたことと重なつて大変寂しい思いをしたが、コーチの帰囗はこれも止むを得ないことでこれからはコーチなしで主将の太田が中心となつて全員一致協力を約束して結束を固めマーシヤルコーチの恩義に報いるよう決心したのである。
7月に入つて間もない頃立教大学に学生騒動が起つた。それは木村総長の排斥運動であつた。そしてその排斥運動が頂点に達した頃は夏休みになつて学生の大半は田舎や遊びに出掛けて居なかつた。その頃体育会でもこの排斥運動に加入していたと云うよりはその中心となつていた。それで総長が辞任しなければ全学生は退学すると云うことに決定し、体育会から各部に部員の退学届をまとめて出せとの指令が来た。部員は散り散りになつて9月の合宿迄には居所をつかまえることも困難である。然し体育会の方からは1~2日の内に出せとの指令である。この指令に逆らつて退学届を出さなければ今後の体育会加入はおろか僅かではあるが年30円の予算もおぼつかなくなるおそれがあつた。それで安藤からその聯絡を受け安藤と私で7月10日頃であつたか小川部長宅にその件で相談に行つた。いくら学生側に勝つ自信があるからと云つて不在者の退学届を本人の承諾なしに無断で書くのであるから気が引けた。万が一にも退学届けがそのまま通つたら本人に申し訳ない、それで小川部長に相談に行つたのである。すると小川部長は体育会からの指令ならば出したら良いだろう、全体育会の退学届だけでも相当数になり退学と云うことは有り得ないだろうと云うことで全員の退学届を代筆することになつて半紙を買つて来たが、そこで又一つ問題にぶつかつた。
それは、退学届は毛筆で書かなければならない。安藤も私も毛筆は不得手である。それで小川部長に書いてくれと頼んだら小川部長は学校側の教師が学生の退学届の代筆をしたなどとは前代未聞だと云つたがそれでも27名の部員全員の退学届を書いてくれたのでそれを体育会に提出した。結果は全学で集つた退学届は800通を越え全学生1,200名の2/3になり結局木村総長は辞任した。それで全員の退学届は7月中旬校内の食堂の前の藤棚の下で焼いて万事無事解決したのである。
この年の6月頃今年優勝したチームを中心にして各校から優秀選手を選抜してその年の暮にアメリカ遠征をすると云うことが決定したので春の練習から皆張り切つていた。それで夏の合宿にも皆大きな希望をもつていた。
又小川部長の尽力で小川部長がアメリカのペンシルヴェニア大学に留学中の知人の斉藤一男氏と野波福三郎氏等を中心にして立教大学米式蹴球部後援会が出来て物心両面から後援してもらえることになつた。何しろ部の創立が新しいのでまだ一人もO.Bが居ないのでその方面からの援助は望むことが出来なかつたのでその点大変有難かつた。
合宿は昨年と同様9月1日から9月13日まで軽井沢星野温泉明星舘に定つていたので、8月31日午前8時40分発の列車で一同現地に向つた。当時の汽車賃は学割で片道1円70銭であり、合宿の費用は13日間で22円であつた。これは勿論全額個人負担であつた。その年は前年の様な不手際はなくスムーズに経過して予期以上の成果を得て9月13日夜帰京したがマーシヤルコーチの居ないことが本当に寂しく思はれた。
◆ 1936(昭和11年) 秋季リーグ戦 ◆
合宿から帰つて又石神井公園のグラウンドに毎日練習に通つていたが、10月21日にリーグ戰の正確なスケジュールが発表された。22日の朝日新聞ではそれについて次の様に書いている。
「東京学生米式蹴球リーグでは創立第3年目のシーズンを迎へて21日午後7時半から東朝講堂に理事会を開き今シーズンのスケヂュールを発表したが競技場は総て昨年同様芝公園で24日の明慶戰から11月7日の早立戰までは夜間試合(午後7時半)を行ひ以降は晝間(午後2時半)挙行する。日程は左の通り。10月24日:明慶、25日:早法、31日:立慶、11月1日:明法、7日:早立、9日:法慶、13日:明立、14日:早慶、21日:立法、23日:明早、26日:リーグ優勝校対横浜外人(3時横浜YCAC)」と書いている。
昨年は全試合夜間であつたが11月の夜間は寒いのとモヤが降りてコンディションの悪くなる日が多いので前半を夜間、後半を晝間としたのである。この記事発表の前から我々にはリーグ戰開始は24日からと云うことは判つていたのでそれを目標に練習を重さねていたのである。
10月18日の朝日の記事にもアメリカの状況を報道している。
「ワールドシリーズ終了と共に米囗運動界は挙げてフットボール・シーズンに入り大学チームは職業団と共に数万の観衆の前に毎週熱戰を繰り返へしてゐるが、17日一昨年来全勝を誇つていたプリンストン大学チームもペンシルヴェニア大学に7対0で敗れエール大学が海軍チームを12対7で撃破し陸軍チームが又ハーバード大学を32対0で撃滅フットボールシーズンを弥が上に煽つてゐる」と報じた。
そしてその記事に続いて「日本でも25日から」と云う見出しで「我が囗でも米式蹴球リーグが誕生して早くも3年目、明早立法慶の5校は来る25日から芝公園競技場で日本では珍らしい夜間試合を挙行する。夜間試合では本家の米囗と同様、球に白の着色を施して使用するが眩ゆい電光のもとで白球を抱いて突進激突を繰り返へすこのゲームはやがて我が囗でも秋季競技会を飾る花形とならうとしてゐる」と大変ひいき目な記事がのつていた。第一、電光眩ゆいとは程遠いものでうす暗い電光であつた。秋のスポーツ界の花形もこれから約40年経過した今日でも未だ花が咲かないような状態である。
又10月24日の朝日には大きくリーグ戰の予想が出ていた。
「東京学生米式蹴球聯盟も創立以来早や3シーズンを迎へて今24日から芝公園競技場でリーグ戰を挙行することとなつたが、リーグ戰前半の5試合は未だ気候も暖かく夕方よりゲームを開始する方が却つて四囲の雑音に妨げられることが少い―といふ理由から電気照明下に午後7時半キックオフで挙行することとなつた。今シーズンはリーグ戰終了後リーグ優勝校を主体として各大学より優秀選手を選出、招待に応じてロスアンゼルスへ遠征の計画が着々進行してゐるので各校は夏期合宿以来異常な緊張振りを見せて猛練習を続けてゐるが“オーバーコートはアメリカで購はうぜ”といふほほえましい流行語が生れてゐる程各校の優勝につなぐ野望は烈しいものだ。
又今シーズン全試合を通じて特記せられるべきことは各校共に期せずしてゲームのスピードアップが慎重に考えられてゐることで、米式蹴球では攻撃側が攻撃開始の位置につく前集合して次の攻撃法を司令することは重要な要素の一つであるが未だ普及の度も浅い現在ではこの独特の味も理解されることが少く却つて無用視される傾きさへあるので、一日も早くこのゲームを理解するものの一人でも多からんことを希つて各チームは多大な犠牲を払つてゲームのスピードアップをすることとなつたのである。そこで各チームの陣容は如何に?
明大 昨年一昨年と2ヶ年聯続優勝の栄誉に輝く明大チームは今シーズンも優勝候補のナンバーワンであつて昨年のメンバーからは主将であつたクォーターバックの松本君およびラインから塚平君の2名が卒業しただけ竹下、渡辺両タックルを除いてはプレーヤーの殆ど総ては加州或はハワイで経験を積んでいるもののみなので非常に復雑多岐に亘るプレイが可能で数多のフォーメーションを魔術師の一団の如く鮮やかに行使する。その上驚くべきことにはこのやうな復雑なプレイを行ひ乍ら各チームに率先してプレイ開始前の集合ハドルを廃止しダウンからダウンへ息つく暇もなくゲームを運んでいくことである。攻撃法としてはノートルダム大学の攻法を主体として精巧なラインズメンの動きで相手のラインを乱し間髪を入れずにこの空間を突破ししようといふラインプレイを重視しこれに長短のフォワードパスを混用して一挙に10数ヤード或は数十ヤードの前進を目指してゐる。
早大 2ヶ年共明大と決勝戰を行ひ乍ら惜くも敗れ去つた早大は今シーズンこそ石にかじり付いても勝ねばならぬと必勝の意気物凄く平均18貫の理想的体重を馳駆してライン突撃に力を集中、漸進主義の如くではあるが、4回のうち3回失敗してもよいから残る1回に長距離の前進を獲得しやうといふラクニー戰法を信奉してゐるチームであるからその攻撃は悠々動く戰車のやうなところもあるがこの戰車が爆音物凄く何時全能力を挙げて長距離の快走を試みるかも知れず、永井、末武、内藤君らバックフィールドの突進を補ける重量ラインズメンの動きこそ観ものであらう。
立教 殆どど無経験者から叩き上げたこのチームも3ヶ年の経験は漸く実を結んで来た。昨年は又ハワイ時代優秀な経験を持つていたフルバック坂口君の出現で精彩を加へた。坂口君の活躍はシーズン終了後聯盟役員有志の選出で作られた全日本チームのフールバックに挙げられた程峻烈な突進果敢なタックルを讃へられた名選手であつたが、今シーズンは家庭の反対で出場を断念してゐるのでこの痛手は立教チームに可成りの違算を生んだことであらう。併し乍ら、これも同じく名キッカーとして注目を集めた中村君依然健在であるから長蹴によつて立教の危機を挽回するであらうし又ラインズメンの充実はフォワードパスを完成に導いて明大、早大に肉薄するものと思はれる。
法政 ラインズメンに重量級を揃へた法政は、攻法を南加大学の形にとつて僅少な前進ではあるが確実に歩一歩とボールを進めるジョーンズの戰法を行つてゐるのは策を得たものである。経験者の数から云へばバックフィールドの西原、梶谷の両君を除いては凡て昨シーズンから始めたもの許りであるが、ラインズメンの進歩と共に西原、梶谷、三枝、名護、竹中諸バックメンの突進は好個の突撃路を見出すことが出来るであらうし、立教と共に早明にとつては油断のならぬ存在である。
慶応 昨シーズンはラインズメンの頑健な体格から恐らく早明と誰もこのラインを突破することは容易でなからうといふ見方からしてリーグ中のダークホース視せられてゐたが如何せんこの競技に対する経験の薄弱さは個人的にも力の配分を誤つて意外の破綻を生み初陣では是非もない全敗の記録を残したのであつたが、今シーズンはラインズメンの向上とバックメンがタイミングのコツを会得したことによつてライン突撃に一段と鋭さを増し、殊に右へ展開するライン突破には相当の自信を持つてゐるものの如くである。又保木、武田君の送るフォワードパスに対して桑原、山片君等の捕球に慶応の攻撃に変化を加へるものとして活躍を期待されてゐる」
と云う長文の記事であつて、これは勿論朝日新聞の記者であり、又聯盟の役員でもある加納克亮氏の記事であつた。
確かに日本の観衆にはすぐラグビーと比較する為にハドルが気になつたのである。ハドルの為にゲームが寸断されて興味がつなげなくなると云うのである。然しラグビーでもタッチキックやスクラム等ではゲームが中断するのであるが、フットボールのハドルはとにかく気になるらしい。それでハドルの時間をスピードアップしようと云うのである。それで明治はフットボールを本場でやつたことのある者が多いのでハドルを廃止したのである。その方法はボールがレディフォアプレーになるとすぐ全員そのポジションにセットして、エンドの町田が立上つて番号を5つ位聯続コールすることによつてシグナルが決定するのである。即ち番号の組合せによつて次のプレーのシグナルが出るのである。ハドルと時間的には余り差はないが、それでもゲームが聯続しているように見えるので観客も満足するのかも知れない。
このリーグ戰に出場の立教のチームは、主将太田二男(21)、相京徹夫(45)、井上和雄(23)、中田文男(22)が学部3年で、安藤眉男(24)、菊地隆吾(25)、栄実(26)、浅賀隆義(27)、亀井勇(28)、金義行(29)以上学部2年で、学部1年は服部慎吾(30)、池上弥太郎(31)、鈴江弘(32)、細田孝(33)、岸髙諶(34)、小林万寿治(46)、竹内義雄(47)、予科3年は阿部健一(35)、稲熊正男(36)の2名、予科2年は中村健一(37)、上田守政(38)、杉山亀雄(39)、戸庸彬(40)、予科1年は小是博(41)、鈴木辰雄(42)、田辺進(43)、裵俸旭(44)、洪尖耄(48)であつたそしてこの年からユニフォームが紺で両腕が白と紺の縞模様になつており番号は白く、パンツは紺でその背部に白のたての縞が入り、ストッキングは両腕と同じく白と紺の横縞の入つたものに変つた。
この頃フットボールのことは“アメラク”或は“アメラグ”と云はれるようになつた。これはアメリカンラグビーを詰めて云つたのであろうが、私達にとつては嫌な言葉であつた。それは吾々のやつているのはアメリカンフットボールであつてアメリカンラグビーではないのである。
然し日本人にはボールの形とかタックルなどでどうしてもラグビーと云う先入感があるのであろう。然し私達は何だか新興スポーツで馬鹿にされているようで嫌であつたが“アメラク”、“アメラグ”の言葉は40年経過した現在でもなお続いていることは気にかかることである。関係者はこの言葉は使はないようにすべきである。
この頃の用具の値段はヘルメット10円、ショールダーパッド12円、パンツA 7円、B 5円50銭、ヒップパッド2円50銭、B 2円で、ジャージーはA 5円、B 2円70銭、靴は8円であつた。全部揃えると1人円44円位かかつた。現在にすると8万円か9万円位の計算になる。
この年の2月には2.26事件が起り、物情騒然として日本は戰爭に前進し軍囗調がみなぎつて来たが無事にリーグ戰開幕と云うことになつた。
10月24日午後6時から昭和11年度のリーグ戰開会式が芝公園競技場で行はれた。聯盟加盟5大学は校旗を先頭に入場し、メインスタンド前に整列、ポール・ラッシュ理事長の開会の挨拶、選手宣誓と型の如く開会式を終り、引続いて第1戰の明治対慶応の試合がポール・ラッシュ理事長の始球式によつて開始された。その結果は次の通りであつた。
(ファーラー(主)、梶谷(副)、西原(計)、鷲塚(線))
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
6 |
7 |
0 |
7 |
|
|
20 |
|
慶 応 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 明 治 |
|
慶 応 |
| 椙 村 |
LE |
桑 原 |
| 渡 辺 |
LT |
上 村 |
| 清 水 |
LG |
福 田 |
| 阿 部 |
C |
今 村 |
| 坂 本 |
RG |
稲 葉 |
| 畑(稔) |
RT |
加 藤 |
| 半 田 |
RE |
柳 田 |
| 仁 井 |
QB |
松 井 |
| 畑(進) |
LH |
保 木 |
| 保 田 |
RH |
田 村 |
| 大 前 |
FB |
片 岡 |
| 交代
(明治):竹下、伴、黒川、鈴木、町田、原田、横山、石橋
(慶応):山片、光吉、根木、竹村 |
明治はトリックプレー等変化のある攻撃を展開し、プレーにもスピードがあり慶応を眩惑して得点を重ねたが、第3クォーターから軽量ラインの脆さを暴露し重量慶応に中央をしばしば破られて苦戰したが、慶応バックのフアンブルに助けられ又総体的に攻撃手段を多彩に変化させ又プレーの数も多く慶応を圧倒した。
次で10月25日午後7時30分から芝公園で早稲田対法政の試合がファーラー(主)、船田(副)、グレー(計)、松本(線)の審判の下に行はれた。その結果は次の通りであつた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
法 政 |
0 |
7 |
0 |
6 |
|
|
13 |
|
早稲田 |
0 |
0 |
7 |
0 |
|
|
7 |
| 法 政 |
|
早稲田 |
| 藤 間 |
LE |
野 村 |
| 鈴 鹿 |
LT |
井 上 |
| 大 村 |
LG |
有 賀 |
| 間 宮 |
C |
島 |
| 中 島 |
RG |
小 林 |
| 寿 |
RT |
西 岡 |
| 浜 本 |
RE |
山 田 |
| 西 原 |
QB |
永 井 |
| 三 枝 |
LH |
内 藤 |
| 梶 谷 |
RH |
末 竹 |
| 梅 野 |
FB |
鈴 木 |
| 交代
(法政):名護、小池、内海、宮尾、博多、小泉、持田
(早稲田):中山、兼安、大林、松井、下田 |
この試合も前日の明治対慶応戰と同様に正面、バック両スタンド満員で約3,000人位の観衆がつめかけて満員の盛况であつた。試合は早稲田の圧倒的勝利が予想されていたが法政の健斗で早稲田を破つた。即ち早稲田はラインには法政を圧倒するものがあつたが、バックに弱く苦戰をしている内に法政は梶谷、西原、三枝等の駿足が早稲田陣を突破してしまつたのである。早稲田は予想外の敗北を喫したのである。
10月29日には早稲田は東伏見のグラウンドで新聞記者団と試合をして14-0、12-0、0-0、6-0、計32-0で勝つた。各紙の担当記者聯中も新しいスポーツに非常に興味を持つて記事を書くだけでは物足りず試合をやろうと云うことになつたもので、殆どがラグビー出身者であつた。かつてのラグビーの名選手揃いの記者団も勝手の違うフットボールでは零敗した。
10月31日は午後7時30分から芝公園でズーバ(主)、梶谷(副)、下田(計)、松本(線)の審判で立教対慶応の試合が行われた。その結果は次の通りである。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
立 教 |
0 |
0 |
3 |
6 |
|
|
9 |
|
慶 応 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 立 教 |
|
慶 応 |
| 岸 |
LE |
桑 原 |
| 鈴 江 |
LT |
上 村 |
| 池 上 |
LG |
福 田 |
| 安 藤 |
C |
今 村 |
| 栄 |
RG |
稲 葉 |
| 金 |
RT |
加 藤 |
| 亀 井 |
RE |
柳 田 |
| 上 井 |
QB |
松 井 |
| 細 田 |
LH |
保 木 |
| 中 村 |
RH |
田 村 |
| 菊 地 |
FB |
木 村 |
| 交代
(立教):浅賀、鈴木、尹、田辺、服部、中田、小林、稲熊
(慶応):桂、根木、光吉、竹村、疋田 |
立教のキックオフで開始したが前半は慶応の強固なラインに惱まされ攻めあぐんだが、第3クォーターに立教の中村が慶応陣30ヤードの地点からのドロップゴールが成功して3点を得た。これはフィールドゴールであるが、ボールをプレースしたプレースキックではなく中村がパントフォーメーションからボールをドロップしてその跳ね返つて来るボールを蹴つてゴールしたものである。中村は日本のフットボール界に未曽有の名キッカーであつた。そしてドロップキックも常々練習して居り、折があつたらドロップゴールをねらうつもりであつたが、たまたまチャンスを得て実施したのが成功したのである。このドロップキックによつてフィールドゴールが成功したのは日本のフットボール40年の厂史中これが一つあるだけである。
この得点によつて立教は調子が出てフォワードパスやエンドラン等変化のある攻撃で慶応を一方的に押しまくつた。特に中村の鋭い突進力と好キックは多くのチャンスを作り、第4クォーターでは中村のエンドランが成功してタッチダウン成り立教は快勝した。
11月1日は午後7時30分から芝公園でファーラー(主)、ズーバ(副)、ハインライン(計)、船田(線)、の審判で明治対法政の試合が明治キックオフで行われた。その結果は次の通りである。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
6 |
7 |
0 |
0 |
|
|
13 |
|
法 政 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 明 治 |
|
法 政 |
| 町 田 |
LE |
藤 田 |
| 富 永 |
LT |
鈴 鹿 |
| 黒 川 |
LG |
大 村 |
| 安 部 |
C |
間 宮 |
| 坂 本 |
RG |
中 島 |
| 畑(稔) |
RT |
森 |
| 椙 村 |
RE |
浜 本 |
| 畑(進) |
QB |
西 原 |
| 畑(弘) |
LH |
三 枝 |
| 保 田 |
RH |
梶 谷 |
| 大 前 |
FB |
梅 野 |
| 交代
(明治):藤家、石橋、神田、花岡、竹下、原田、栗崎、横山、仁井、布田、金、伴、半田
(法政):宮尾、持田、博多、名護、竹中、内海、小泉、小池、髙田、藤間 |
前半明治の変化のあるスピードプレーがよく成功し、第1クォーターには畑(弘)が40ヤードを快走し法政12ヤードに入り、次の第2ダウンで畑(弘)の右エンドランでタッチダウン、第2クォーターでも法政15ヤードから畑(弘)の右エンドランでタッチダウンを挙げ13-0としたが法政もよく防ぎ自陣で試合をしていたが明治のバックも突進力がおとろえて得点を追加することが出来なかつた。
同じ11月1日早稲田は横浜でYCACと試合をしたが13対7で早稲田は快勝した。これは今迄毎年優勝校がYCACと試合をしていたが、YCACとしては物足りなくなり各学校とシーズン中に試合をするように聯盟に申し入れたのを受諾したもので、聯盟から各校に通達をしてスケヂールに組込まれたもので各校とすれば一寸迷惑であつた。特に部員の少いチームはこの試合は本当に迷惑であつた。それは怪我がそれだけ多くなつて、本来のリーグ戰に手うすになつては何もならないからであつた。
11月7日午後7時30分から芝公園でズーバ(主)、ハインライン(副)、デヴィン(線)、黒川(計)の審判で早稲田対立教の試合が行われた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
早稲田 |
0 |
7 |
0 |
0 |
|
|
7 |
|
立 教 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 早稲田 |
|
立 教 |
| 兼 安 |
LE |
岸 |
| 井 上 |
LT |
鈴 江 |
| 有 賀 |
LG |
池 上 |
| 島 |
C |
安 藤 |
| 青 木 |
RG |
栄 |
| 西 岡 |
RT |
金 |
| 野 村 |
RE |
亀 井 |
| 永 井 |
QB |
井 上 |
| 野 内 |
LH |
中 村 |
| 末 武 |
RH |
細 田 |
| 内 藤 |
FB |
菊 地 |
| 交代
(早稲田):下田、中山、岩本、小林、秋中、山本、斉藤、柏原、平野、大林、角野
(立教):浅賀、尹、杉山、服部、田辺、稲熊、鈴木、中田、上田 |
第1クォーターは早稲田のライン攻撃で立教を押し、第2クォーター8分立教ゴール前のスクリメージから内藤の中央突破でタッチダウンを挙げトライフォアポイントに成功し7-0と早稲田リードしたが、13分に早稲田のフォワードパスを立教、中村自陣20ヤードでインターセプトし70ヤード長駆し、早稲田のゴール直前まで攻めたが惜しくもハーフタイムとなつた。
第3クォーターでも中村の30ヤードのロングランで攻め、第4クォーターに入り、立教は早稲田陣30ヤードのスクリメージから鈴木のフォワードパスを中村が成功し早稲田ゴール3ヤード前に迫り、第1ダウン中村のオフタックルで2ヤードまで進んだが、その後早稲田の強固な防禦にはばまれて得点出来ず零敗した。特に後半は立教優勢であつたが、中村がマークされ最後の決め手に欠けたのは残念であつた。ここにおいてFBに昨年の坂口が居たら得点は出来たであろうが、惜しい一戰を失つた。これがリーグ戰での夜間試合の最後となつた。その後40年後の今日までリーグ戰を夜間にやつたことはなく、これが本当の最後の夜間試合であつた。
11月9日は午後2時半から芝公園で松本(主)、ファーラー(副)、坂口(線)、加藤(計)の審判で慶応対法政の試合が行われた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
慶 応 |
0 |
7 |
0 |
6 |
|
|
13 |
|
法 政 |
0 |
7 |
0 |
0 |
|
|
7 |
| 慶 応 |
|
法 政 |
| 稲 葉 |
LE |
藤 間 |
| 上 村 |
LT |
竹 中 |
| 福 田 |
LG |
名 護 |
| 桂 |
C |
間 宮 |
| 加 藤 |
RG |
大 村 |
| 今 村 |
RT |
中 島 |
| 山 片 |
RE |
内 海 |
| 竹 村 |
QB |
宮 尾 |
| 松 井 |
LH |
三 枝 |
| 柳 田 |
RH |
梶 谷 |
| 木 村 |
FB |
梅 野 |
| 交代
(慶応):田村、光吉、淨土、根木、中田
(法政):持田、森、小池、小泉、保科、博多 |
この試合は先日早稲田に快勝した法政とは思えない位に凡戰をくり返へしていた。QB西原の負傷欠場が大きく響いていたらしく、プレーにもまとまりがなく、又フアンブルも多く先日の法政の勢いは何処にもなかつた。この試合で慶応はリーグ戰加盟以来の聯続無得点記録をまぬがれて初めて得点を得ると同時に初勝利をかざり気をよくしたのである。
11月13日午後2時30分から芝公園でブース(主)、梶谷(副)、船田(線)、加藤(計)の審判で明治対立教の試合が行われた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
明 治 |
0 |
6 |
7 |
13 |
|
|
26 |
|
立 教 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 明 治 |
|
立 教 |
| 町 田 |
LE |
中 田 |
| 富 永 |
LT |
鈴 江 |
| 黒 川 |
LG |
池 上 |
| 阿 部 |
C |
安 藤 |
| 坂 本 |
RG |
栄 |
| 畑(稔) |
RT |
小 黒 |
| 半 田 |
RE |
亀 井 |
| 大 前 |
QB |
井 上 |
| 保 田 |
LH |
中 村 |
| 畑(進) |
RH |
細 田 |
| 畑(弘) |
FB |
菊 地 |
| 交代
(明治)椙村、横山、仁井、竹下、伴、花岡、藤家、金、石橋、栗崎、山田、田沢、松本
(立教)杉山、鈴木、上田、田辺、尹、太田、浅賀、稲熊 |
立教のキックオフで試合は開始されたが立教はこれまでに負傷者多く出て練習も充分でなかつた為、明治に思うように走られて何等良い処なく敗退してしまつた。こうなるとマーシヤルコーチの居ない事が大きく響いて来た。
11月14日午後2時30分から芝公園で坂口(主)、西原(副)、デヴァインズ(線)、山田(計)の審判で早稲田対慶応の試合が行われた
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
早稲田 |
21 |
7 |
13 |
19 |
|
|
60 |
|
慶 応 |
7 |
0 |
0 |
0 |
|
|
7 |
| 早稲田 |
|
慶 応 |
| 兼 安 |
LE |
稲 葉 |
| 井 上 |
LT |
上 村 |
| 青 木 |
LG |
福 田 |
| 島 |
C |
桂 |
| 秋 中 |
RG |
加 藤 |
| 西 岡 |
RT |
今 村 |
| 野 村 |
RE |
山 片 |
| 永 井 |
QB |
竹 村 |
| 野 内 |
LH |
田 村 |
| 末 武 |
RH |
木 村 |
| 内 藤 |
FB |
柳 田 |
| 交代
(早稲田):中山、岩本、大林、有賀、斉藤、平野、松井、角野、柏原、北村、下田
(慶応):光吉、保木、根木 |
慶応元気なくリーグ戰開始以来の記録的大敗をした。
丁度この頃東京学生米式蹴球聯盟では加盟5校の選抜チームを編成してアメリカ遠征が決定した。この件については5月頃その噂はあつたが、聯盟ではアメリカ側と具体的交渉に入り11月中旬にアメリカ側からの確答があり決定したのである。それは監督、コーチ各1名、選手22名で、選手は優勝校を主力として他4チームから2名づつ選抜し、12月3日横浜出帆の秩父丸で渡米、12月19日ロサンゼルス到着、南加州の諸大学と3試合を行い昭和12年1月下旬帰囗と発表された。これについて朝日新聞では次の通り大きく報道した。
「我が囗に移入されてから未だ僅かに3年の才月を迎へたばかりのアメリカンフットボール界に劃期的な米囗遠征の快挙がいよいよ具体化することとなつた。早慶明法立の5大学をようする東京米式蹴球聯盟ではかねてから本場米囗に遠征し競技の真髄を会得すべく計畫を進めてゐたが、先年本社招聘により来朝した米囗選抜軍のコーチ、マロニー氏のほん走により加州においてレタース王として知られ、先年我囗へもフレスノ野球団を組織して来朝したことのある荒谷氏の好意を受け日本軍を加州へ招聘の議がまとまり、14日マロニー氏より聯盟理事長ポール・ラッシュ氏にこの快報がもたらされたのである。聯盟では直ちにこれの対策を協議した結果、既定の如く今シーズンの優勝校を主体とし他四校から優秀選手を拔擢、監督並びにコーチも加へた総員22名の選拔軍を組織し晴れの征途につかしめる事と決定した。
一行のスケヂュールは12月3日横浜出帆の秩父丸で遠征の途に上り同19日ロサンゼルス着、南加州諸大学と3試合を挙行、昭和12年1月下旬帰国の予定である。今回の遠征実現はこの競技が日本において着々急速度の躍進を遂げつつある現状に対し如何に米囗民が深甚な関心を拂ひ、凡巾る好意の披瀝を惜まぬ気概を示してゐるかの現はれであつて米囗において全スポーツ界に圧倒的人気を有するこの競技を通じ相互の遠征により日米青年の交流を行ふことは日米青年の親善に貢献するところが少くないと思はれてゐる。尚リーグ戰は未だ法立、早明の2試合を残し優勝校の確定を見ないが、聯盟ではアマチュア精神に立脚して最髙位チームが同位となり優勝チームの決定を見ざる場合も特別に優勝を決する試合は行はず、今シーズンの最優チームは最髙位の2チームとすることとなつた。而してこの場合の遠征チームは最髙位の2チームより各7名他の3チームより2名宛の選手を選拔してチームを組織し、11月26日挙行の予定であるリーグ優勝校対YCACの試合は遠征に参加せざる5校の選手選拔軍で行ふこととなつた」
と報じている。
このようにして吾々の夢は実現することに確定したのであるがまだ誕生してから3年目で本場に行くについては多少の不安があつた。特にアメリカの実情をよく知つている二卋達に特にその不安は多かつたようである。然し勉強に行くのであるから選手一同は大変張り切つたのであるがあと残つている2試合を消化するのであるが、この時点においては既に優勝チームは早稲田か明治の何れかであつて、他の3校には優勝のチャンスは絶対にないことが確定しているので1校から2名を選ぶだけであつた。然しそれにしても大変愉快なことであつた。
11月21日午後2時30分より芝公園で加藤(主)、松本(副)、坂口(線)、大前(計)の審判で法政対立教の試合が行はれた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
法 政 |
13 |
7 |
6 |
12 |
|
|
38 |
|
立 教 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 法 政 |
|
立 教 |
| 藤 間 |
LE |
中 田 |
| 鈴 鹿 |
LT |
鈴 江 |
| 小 池 |
LG |
池 上 |
| 間 宮 |
C |
安 藤 |
| 大 村 |
RG |
栄 |
| 森 |
RT |
小 黒 |
| 浜 本 |
RE |
亀 井 |
| 三 枝 |
QB |
鈴 木 |
| 梅 野 |
LH |
細 田 |
| 名 護 |
RH |
中 村 |
| 梶 谷 |
FB |
浅 賀 |
| 交代
(法政):竹中、内海、博多
(立教):菊地、井上、金、服部、岸、稲熊、上田、尹、田辺 |
この試合は立教の楽勝が予想されていた。然し法政と云うチームは不思議なチームで強豪早稲田に勝つているのに弱い慶応に負けると云うその時のコンディションに非常にムラがあり調子が良いと途方もない力量を発揮するチームであつた。
この日も梶谷、三枝のコンビによるフォワードパスがよく通り又重量のあるラインは立教のラインをわり一方的な試合となつてしまつた。
11月23日午後2時30分から芝公園でブース(主)、坂口(副)、船田(計)、ファーラー(線)の審判で今シーズンの最終試合でしかも優勝決定戰となつた早稲田対明治の試合が行はれたその結果は
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
早稲田 |
0 |
7 |
0 |
0 |
|
|
7 |
|
明 治 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 早稲田 |
|
明 治 |
| 野 村 |
LE |
町 田 |
| 井 上 |
LT |
富 永 |
| 青 木 |
LG |
黒 川 |
| 島 |
C |
阿 部 |
| 有 賀 |
RG |
坂 本 |
| 西 岡 |
RT |
畑(稔) |
| 下 田 |
RE |
半 田 |
| 永 井 |
QB |
胡 子 |
| 野 内 |
LH |
保 田 |
| 末 武 |
RH |
大 前 |
| 内 藤 |
FB |
畑(弘) |
| 交代
(早稲田):秋山、中山、岩本
(明治):石橋、花岡、伴、栗崎、椙村、山田、藤家、竹下 |
この試合は優勝決定戰であるので芝公園のスタンドは満員になつた。又両チーム共大変な張り切りようであつた。それには明治が勝てば米囗遠征には明治から12名が選拔されることになり早稲田は2名しか送れない。早稲田が勝てば優勝は明治と分けるので7名の選手を送ることが出来るので両チーム共必死の試合であつた。それだけに内容も立派な試合であつた。
ラインの重量は早稲田が重くその重量ラインを有効に使つて、第1Qの終りには早稲田は明治のゴール前1ヤードまで押して第1クォーターを終った。第2クォーター早稲田は明治陣1ヤードから攻撃を開始したが明治のラインはよく頑張つて早稲田の得点をゆるさずパントで20ヤードに返えしたが、早稲田はこの第1ダウンで永井から野村へのフォワードパスに成功してタッチダウンを挙げサクセスフルトライ・フォア・ポイントも成功して7点を得た。
その後も好調であつたが後半は明治も調子を出し、大前、胡子が活躍し早稲田陣で試合を続けたがどうしても早稲田の重量ラインを拔けきれず7対0で早稲田が勝った。これで優勝は早稲田、明治、(3勝1敗)、第3位は法政(2勝2敗)、第4位は立教、慶応(1勝3敗)となつた。この結果米囗遠征チームは早稲田、明治から各7名、他の慶応、法政、立教から各2名宛と決定した。そして早稲田はリーグ戰3年目で明治を破り同率ではあるが初優勝をしたのである。
11月19日の朝日新聞にはロサンゼルス特派員発の記事を次のようにのせている。
「東京学生米式蹴球聯盟では既報マロニー氏の招聘に応じて米囗遠征を決行するべく準備を進めているが、一方米囗においても着々準備は行はれ、この招聘問題について奔走してゐるシェラピー及びマロニーの両氏は18日記者を訪れ左の如く語つた。
時期が年末で各大学のビッグゲームが済んだ後に1月1日にパサデナで全米東西爭覇戰が挙行されるので主催者側が相当犠性を負ふことを覚悟せねばならぬが、将来日本における米式蹴球に資し、行く行くは日米間に爭覇戰が行はれることを希望して今回招聘する次第である。この計画が発表されるや方々の大学から試合の申込みがあつたが、今度は各ハイスクール選拔チームと試合する予定でクリスマス明けの27日と1月3日の2回当地ギルモア競技場で挙行、その間にローレイで1回或はサンフランシスコで1回やる計画でハイスクール選拔軍はなまなかな大学チームより強いので勿論日本チームとは丁度良い対抗試合になると思ふ」
と云う記事であり最初の予定の大学チームとは試合は行はないことになつたが、たしかに米囗では12月末から1月元日にかけては各地にビッグゲームが行はれる時期であるので生れてから僅か3年の未熟な日本チームとハイスクールの試合にどの位観衆が集るかは大変不安があつたのは事実であろう。なるべく多くの観衆を集めるには日本人の多く住んでいる地域で試合を挙行し、初めての日本フットボールチームの試合と云うことで一卋二卋の応援を引付ける必要はあつたのでロサンゼルス近郊とかサンフランシスコ等を選んだのであろう。
然しそれにしても招聘することが決定してもまだ場所も相手チームも決定しないと云うこともアメリカらしい大まかな所がある。それにはグラウンドの心配がいらないと云うことが先ず第一の条件であつたのであろう。日本ならその当時は競技場の数が少なく各競技団体で取り合いの状况であるので何か月も前から競技場を確保していなければならなかつたが、アメリカでは5万や7万の観客を収容出来る競技場はいくらでもあるのでその心配がないのである。チームの編成についてもその時はシーズンの最中であり、いくらハイスクールとは云えまだ選拔することは無理であつたのであろう。大体のスケヂュールで招聘すると云うことも大胆な話であるがチームの編成については長いことフットボールをやつている聯中であるので合同練習なども短期間でよいのであろうから11月中旬から決定しておく必要もなかつたのであろう。
とにかく念願の米囗遠征が正式に決定したことはフットボール関係者一同大変なよろこび方であつた。そしてこれにより日本のフットボール界もアメリカ本国の新しい技術を学んで来ることにより一段と躍進することが期待されたのである。
この昭和11年と云う年は日本のスポーツ界全体においても大いに飛躍した年であつた。すなわち夏にはベルリンにおいてオリンピック大会が開催され、日本は水泳競技において優秀な成績を挙げた他、陸上競技でも三段跳やマラソンに国旗を上げる成績を挙げて大いに国威を発揚した年であり、又第12回オリンピック大会の開催地が東京と決定してその準備等にかかり始めた年であつた。その年末に新興スポーツのフットボールが本国のアメリカに遠征すると云うことは大きな話題ともなつたのである。
11月26日にはシーズンのスケヂュール通り早稲田と優勝を分けた明治が横浜の根岸のYCACのグラウンドで3時10分からファラー(主)、梶谷(副)、スミス(計)、坂田(線)の審判で試合を行つたが13対0で明治が勝つた。
次のページへ
一覧へ