記事一覧へ

INFORMATION ニュース

2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(7) 1936米国遠征

お知らせ

◆ 1936(昭和11年) 米国遠征発表 ◆

 

そしてその試合のあつた11月26日午後8時から聯盟ポール・ラッシュ理事長以下役員が選拔した遠征軍のメンバーを各新聞社の担当記者を集めて記者会見をしその席上で発表したのである。

翌11月27日の各新聞スポーツ欄では何れも大きく掲載していた。その内代表的に書いた朝日新聞では“米式蹴球団22名、遠征軍顔觸れ決る。来月3日秩父丸で渡米”と云う見出で選抜軍各選手の顔写真入で大きく取扱つていた。

 

「昭和9年誕生以来短日月間に急速なる発展を来たした東京学生米式蹴球聯盟の初渡米遠征メムバー並びに試合日程は26日午後8時聯盟理事長ポール・ラッシュ氏より左の如く22名が決定発表された。一行は12月3日横浜解纜の秩父丸で華々しく渡米、ロスアンゼルスに於いて3試合を挙行、明年1月23日に帰朝の予定である。尚一行には米国蹴球界の機構或ひは競技方面研究のため特に理事長ポール・ラッシュ氏の私費で早大部員川島治雄君がマネージヤーの私設秘書として派遣されることとなつた。決定したメムバー並びに試合日程次の如し。

選手(20名)
〔早大〕:中山晟、有賀太郎、下田正一、野村武雄、末武広士、井上素行、永井愛人
〔明大〕:畑弘、畑進、畑稔、保田進、黒川博人、阿部武人、町田整治
〔法政〕:梶谷正明、梅野一夫
〔立教〕:中村健一、安藤眉男
〔慶応〕:福田栄、今村徳之、
〔コーチ〕武田道郎(明大コーチ)
〔マネージヤー〕加納克亮

遠征日程:横浜出帆12月3日秩父丸、羅府着12月19日
〔第1試合〕:12月27日 対羅府ハイスクール選拔軍(於羅府ギルモアフィールド)
〔第2試合〕:1月1日 相手未定(於サンフランシスコ又はゾローリー)
〔第3試合〕:1月3日相手未定(於ロサンゼルス)
〔横浜帰着〕1月21日(竜田丸)」

と報じている。

 

この選拔については色々と批判はあつたことは事実である。特に早稲田においてはその感が深いものがあつた。早稲田には二卋が多く、その二卋達の活躍によつて優勝出来たのであるが選拔されたメンバーの中には中山、有賀の2人の日本生れが入つているのであるが、これは早稲田の家庭の事情であつたのかもしれない。即ち早稲田は将来二卋だけではこの競技はやつて行けなくなる時期が来ることを予測して、早く日本生れを育てようと云ふことであつたかも知れないが、選からもれた者の中には不平の出たことも事実であつた。なおこの20名の選拔の内、早稲田の中山、有賀、立教の安藤、慶応の福田の4人だけが日本生れの選手で、その他16名は全部アメリカ或はハワイ生れの二卋であつた。

 

遠征チーム一行は翌日から浜松町にあつた朝日新聞社のグラウンドで武田コーチの指導の下に合同練習を始めたのである。その間に渡航準備等大変な忙しさであつた。実際には11月中旬頃に渡航選拔チームは内定しており各人には内示があり各人は準備はしていたのであるが……。そして一行は12月3日は朝8時30分に朝日新聞社に集合し加納マネージヤーの引率で明治神宮に参拜し更に宮城を遥拜し、12時30分東京発の臨港列車で横浜に向い、午後3時出帆の秩父丸に乘つて遠征の途についたのである。一行は紺のブレザーコートを着、その左胸には日の丸と星條旗を交叉させたワッペンをつけて元気一杯で出帆した。12月8日の朝日新聞には聯盟の加納克亮氏が昭和11年のリーグ戰の総評を次の如く書いている。

 

「誕生第3回のシーズンを迎へた東京学生米式蹴球リーグ戰も11月23日の早明戰で1ヶ月余のシーズンを終つた。戰績から見ると明大、早大が共に3勝1敗で第1位、第3位は法政、第4位は1勝3敗で立教、慶応が同位と云う順であつた。同リーグでは最髙位チームが勝負同率である場合殊更に特別の試合を行つて飽くまで勝負を決せねば・・・といふ態度を取つていないため、今シーズンは早大の対明大快勝によつて早明は同率となり優勝なしで唯單に1936年度は最髙位チーム早明といふ記録に止まつたが、勝敗の変転経過のみを見ても実に年1年と各チームの技倆が接近して来た跡が認められる。

 

早大はシーズン始め弱敵と見做していた法政に得点をリードされ第3クォーターでやつと同点までに漕ぎ付けたが意外に法政には底力があり、遂に最終クォーターに1タッチダウンを加へて物の見事に追いすがる早大を土俵際で堂々投け飛ばして早くもシーズン初頭から波瀾を思はせた。早大にしてみれば学期試験明けて2日目が対法政戰であつたといふ非常なハンディキャップのあつたことも無視することは出来ないが、法政ラインズ・メンの元気、バックフィールドの尖鋭だつた突進速度は好調な早大をも苦戰せしめたであらうと思はせたものであつた。

 

明大はシーズンを通じてどの試合が特別に不調であつたといふものもなく全試合を能く緊張した気分で精巧な戰術を縱横に揮つて戰ひ拔き流石は優勝第一候補として目させた十分な貫禄を備へてゐた。これに就いては今回米国遠征軍のコーチに選ばれた明大武田コーチの周到な頭腦が能く選手の肉体の條件を試合に際して最好調に達せしむるやう、その方法を誤らなかつた事が最大な要素の一つとなつてゐよう。

 

法政は明大と並び称される強チーム早大をシーズン始めに破つて意気軒昂たるものがあつたが、その後バックフィールドの西原君を負傷から出場せしめ得ず、何となくバックの攻撃力を衰微せしめて明大に敗れ対慶応戰では極端に緩慢なプレイ振りで意外な拙戰を演じて敗退し、法政のシーズン最後の試合であつた対立教戰には今迄の法政と位置を据え替えたやうに不調であつた立教を大敗せしめて、辛くも第3位をかち得たが、法政がシーズンを通じて示した好調不調の波は実に大きくこの点よりしてみても、今後シーズンを通じて或る一定の力を保ち進歩の歩みを続けて行くためには、尚一層練習方法、時間等その他に余程研究の余地を残してゐるといへやう。

 

立教は僅に慶応に一勝したのみで明大、法政には大敗を喫し、慶応は又法政に快勝したのみで早大には60対7といふ最大記録差で敗退したが、立教も慶応も共に法政同様、全シーズンの試合に際して自己の絶好のコンディションを生かすべき努力が必要であらう。

 

これには早明に比し他の3チームは競技者の数も少く、シーズンの深まると共に負傷者の続出によつて止むを得ざる力量の低下を来すこともシーズン中一定の限度を保つことが出来なくなる理由の最大原因となつてゐやうが、早明が主戰斗士に余り変りなくシーズンを完了することよりして見れば、まだまだ技術的方面にも研究の余地十分ありといふことが出来やう。

 

さてシーズン中最も優れていたのは何と云つても早明の一戰であつた。もつともこの日迄早大は法政に敗れて2勝1敗、明大は慶立法をなぎ倒して無敗、而も明大は優勝すれば米囗遠征に12名の選手を送ることが出来るし、早大はこの明大に勝たねば2名の選手を派遣するのみといふ惨めさをみるので試合は開始直後から猛烈な意気と意気の衝突となり、前半第2クォーター早大が鮮やかなフォワードパスでタッチダウンを果した以外は、やつとダウンを2~3回重ねて2~30ヤードの前進を計つても、遂に対手の決死的防禦陣を割ることが出来ず、キックに攻撃権を放棄するといふ接戰ぶりで、リーグ3シーズンを通じて最も見応えのあつたゲームであつた。

 

遠征はかくして早大7、明大7、立法慶より各2名宛の選手が選拔され、本家の米国に渡つて技を練り、この競技の誤りなき精神を攝取する段取りとなつたが、果たして如何なる戰績を残し、如何なる成果を収めて凱旋するか、年一年と劃期的飛躍をとげつつある米式蹴球界今後の発展についてはこの遠征軍に選ばれたる20名の選手諸君の責任は重いと云はねばならぬ」

 

と加納氏はシーズンの総評を書いているが実際その通りであつて、立教も調子のむらがあり負傷者も多く出たことも事実であつたが、それにしても最終戰の対法政戰はひどかつた。それには昨年までのマーシヤルコーチの帰国が大きくひびいていたことは事実である。主将の太田がコーチを兼務したが、太田では主将は務まつてもコーチは無理で、特に最上級生の部員の間のコミニケーションが上手くいかなくそれが全チームの志気に影響を及ぼしたのである。

 

確かに早稲田、明治に比較すると他の慶応、法政、立教は競技者の数も少なかつた。早、明が30名以上の競技者数を有するのに対して他の3校は20名位でしかも有効に使用出来るプレイヤーが少なかった。日本生れの競技者は一番永い経験を有する者でも3年しかなく、その上、毎年新しく入部して来る者が殆ど素人の無経験者である為、或る程度の人数は揃へることが出来ても実戰に使用することが出来なかった。從つて常に試合に出場する者は限られた人員である為、負傷の率も多かった。又一方では新人を早く使用可能なプレーヤーに育てるべく練習もはげしくなる為、負傷者も多くなると云ふ結果を来たし、シーズン終了間近になるとチームの編成にも苦労する有様であつた。

 

それであるから各競技者は一つのポジションだけでは事足りず、2つも3つものポジションを練習しなければならなかつた。即ちガードとタックルのポジションの者は両方を練習しどちらでも使用出来るようにしたり、クォータ-バックとハーフバック及びフルバックのバックはどれでも出来なければ試合が出来ないのである。從つて早・明のように一つのポジションを1人で受持つていれば良いと云ふチームとは大きなハンディキャップがあつたことは事実で止むを得ないことであつた。

 

又ラインからバックに廻つたり、エンドが事故があるとバックがエンドに入つたり、1人2役も3役もやらなければならないのが3校の実情であつた。その為に法政にしても立教にしても試合毎にチームの最髙のコンディションを作り上げることは非常に困難であり、從つてシーズン中試合毎に大きな波が出来たのである。

 

昭和12年1月第1号のアサヒスポーツに立教大学体育主事であり又東京学生米式蹴球聯盟の審判員でもあつたJ・E・ファウラー氏が、1936年度のリーグ戰を回顧してオール・スターズ・チームの編成をしているが、その編成した理由を次のように書いている。

 

「本年度の10試合を通じて回顧すれば、幾多波瀾の富んだ好試合が展開されたが、いまここに各試合にわたる戰績をふり返へるを避け、立教大学体育主事たるJ・E・ファウラー氏が、その戰績を検討して作り上げた全日本学生軍の編成を米蹴フアンならびに一般読者諸君にご紹介することとする。

 

エール大学の名フットボールコーチ、ウォルター・カンプ氏が初めてオールスターチームなるものを作つて以来、このチーム選定は一種の年中行事の一つとしてもう大分長い間存続してゐる習慣なのだ。カンプ氏は有名なフットボール研究家であり、批評家である。そして彼のこの独創は今や全米を風靡し、シーズン後のフアンの話題はこれを措いてほかにはないと云つても過云ではあるまい。しかし、これをやることは決して生易しい仕事ではない。私はこれをやることが日本の、まだ若いフットボールの成育のためによいことだと思ふので、私としては第2回目の全日本フットボールチームの選定、編成を一つやつて見ようと思ふ。

 

前述の通り、この編成は中々困難な仕事で、フアン全部が私の意見と一致するということは望み得ない。何故ならばチームが強いということは、そのチームのぞれぞれのポジションにある選手がそのポジション特有の技能を発揮するということで、そのポジションの「技能」といつても、範囲は相当広いのである。だからその選手が自己の技能の範囲をどこまで遂行し得るかということによつて、その選手をオールスターチームのメムバーに推薦せねばならぬのである。

 

このオールスターチームに何等の躊躇もなく推薦し得るのは、ライトハーフバックとして立教の中村である。彼はこのポジションの要求する技能の殆ど全部を遂行し得る。それのみならず、もしや他のポジションが危機に瀕する場合、よくこれをカバーする技能さえ有している。彼は実に三位一体の選手と云つてよかろう。彼はウイングバックフォーメーションにおいて蹴ることが出来る。パッスすることが出来る。また球をキャリーすることが出来る。

彼のキックは、パントも、ドロップキックもリーグ随一のものであらう。そのパントは実に大きいと同時に髙さをも持つているので十分エンドが前進する余裕をもち、敵に球を与へる前にタックル出来るのである。守備においても優秀であるということは衆目の一致するところであらう。そして彼の体格は非常に頑健で、何等の心配を要しない。またその判断も冷靜で適確である。

 

今一つのハーフバックのポジションには、明治のH・畑を推す。彼の第一の長所は、ボールをよくキャリーする点にある。優秀なチームワークの援助があつたとはいえ、彼の今シーズンの成績は賞讃に値する。背が低く、分厚い彼は、牡牛を思わせるものがあり、そのピストンのようによく動く短い脚は機関車のように彼を前進せしめる。彼はまた、戰况に応じてペースを変えるよいジャッジメントをも併せ持つているのだ。この技能は、どんなチームにとつても無くてはならぬものであらう。

 

フルバックは同じく明治の大前をあげる。早稲田のフレッシュマンスター内藤は、これに次ぐ猛者である。しかし今度は一歩を先んじている大前に、このポジションを与えることとしよう。大前は実に良く動く選手であり、必要に応じて確実に2、3ヤードの前進をいつでも敢行し得る力を持つている。なお立教の坂口がフットボールをやめた事は実に残念である。自分はフアンと共に、彼の姿をフルバックのポジションに見出し得なかつたことを悲しむものである。しかし彼はまだ2年間学生生活をしなければならないので、来るシーズンには彼の颯爽たる姿を見出す事を望んで止まない。

 

クォーターバックの人選は至難である。またある意味から最も容易であるとも云えるのは、このポジションには数人の推薦し得るプレーヤーがあるからである。しかしどれも実は団栗の背くらべに近い。クォーターバックという役割は、船でいえば船長にも較べられるもので、正にチームの頭腦であり、原動力である。諸種の点を考慮した結果、自分はここに早稲田の野内を推そう。彼はなんら花々しいところはないが、その判断力は見るべきものがある。

 

ライトエンドには早稲田の下田を置く。彼は早稲田のコーチなのだ。彼の身長と、重量と力量と、スピードとを買うものである。彼は猛烈なタックルにも良く耐え、パントに際してはこれを追つてよく駆け、フォワードパスを受けるにもまた巧みであり、その輝かしい防禦力は今更喋喋する必要はない。彼の対明治戰における、防備線上の活躍は、感銘深いものがある。レフトエンドには明のスター町田を推そう。軽くて早い彼は、防備の上では大したこともないが、その攻撃力は恐るべきものがある。彼のロングパスを受ける技倆はこれまたリーグ随一であろう。このポジションについて是非附云せねばならぬのは同じく明治の椙村が、僅な所でこの選に洩れていることである。

 

ハーフバックの中村と同じく、レフトタックルには異議なく早稲田の井上を推すことが出来る。彼の戰斗力は、このポジションは取つて無くてはならぬものである。彼の僚友、レフトエンドの野村がしばしば美技を演じたのは、井上の援助に負うところ実に大である。かくの如く井上は、エンド、ガードを器用に援助している。彼はまたゲームの判断にも長けていて、必要に応じてその精力をよく傾倒している。彼のスピードにも見るべきものがある。

 

ライトタックルには明治の主将畑を推す。彼は井上とは変つた性質のプレイヤーである。というのは、井上が精力的で積極的であるに反し、畑は動作緩慢ではあるが実に確実である。彼はリーグの最も重量ある選手で、敵に対し磐石の如き防壁となる。彼は正に地面の上に低く築かれた山の様なもので、東京名物の地震にも一寸では動くまい。彼の綽名は「石垣」と称されている。

 

クォーターバックに次いで、人選の困難を感ぜしむるものはガードであろう。このポジションはチーム中最も重要なものと云へるにも拘らず、また最も地味なもので正に縁の下の力持ちと云つた形だ。敵の猛撃をよく退けねばならぬと同時に、味方の攻撃に対して通路を設けてやらねばならぬ。かくの如きいやな辛い仕事は一手に引受け、そしてその功名は一切他に譲らねばならぬ。レフトガードには明治の黒川を挙げよう。彼の軽量はこのポジションには物足らぬものがあるが、その良心的な勤勉と確実なプレイはオールスターチームの一員たるに十分であらう。

 

ライトガードには立教の安藤を拔擢する。彼は日本でこのゲームを習得した選手中のピカ一であり、現在わがリーグ選手の多くはカリフォルニア、或いはハワイでプレイの経験を有しているが、彼は純国産の偉大、優秀な選手である。彼は体格も、プレイの型も、早稲田の井上とよく似た選手で精力的、積極的でいつも激戰の真只中に突入している。彼はまたセンターとしても優秀なプレイヤーである。

 

センターには明治の安部を推そう。彼を挙げたのは、対早稲田戰における目覚ましい活躍と、安藤がガードに選らばれているためとである。対早稲田戰に彼は異常な奮斗をした。もし明治の全部が彼のような見事なプレイをしていたならば、その結果は逆賭し難いものがあつたろう。彼のセンターからのパスは確実で彈丸のような鋭さをもつている。

 

さてこれで今年度の全日本軍ともいうべきオールスターチームの編成を終つたわけだが、明治の6人に対し法政、慶応は1人も代表を出していないことに就いて一云したい。慶応には今村というリーグで最重量を有する選手がある。彼がもう少しそのテクニックを錬磨したなら、彼はオールスター軍編入は間違いのないところであろう。彼はセンター、タックル両ポジションを相当よくこなしている。法政は現に、2人の水準以上の選手を持つている。1人は西原だが、身体がもう少し丈夫にガッシリして来なくてはクォーターバックに推すことは出来ない。他は梶谷だが、自分は彼がハーフをやることに疑を持つ。ハーフとしての彼は中村や畑と同じレベルに立つことが出来ぬことを自覚すべきである。もし彼がエンドをやつていたとしたなら、必ず本年度のオールスターの1人となることが出来たであろう。

 

1936年度オールスターチーム
R・HB 中村(立教)
FB  大前(明治)
L・HB H・畑 (明治)
QB  野内(早稲田)
R・E  下田(早稲田)
R・T  M・畑 (明治)
R・G  安藤(立教)
C   安部(明治)
L・G  黒川(明治)
L・T  井上(早稲田)
L・E  町田(明治)」

 

以上のようにJ・E・ファウラー氏は1936年度オールスターズのメンバーの選抜発表とその選拔理由をくわしく書いていて、その発表によれば明治が6人、早稲田が3人、立教が2人となつている。リーグ戰成績が上位の法政から1人も選ばれずに、法政より下位の立教から2人も選拔されているのはファウラー氏が立教の先生である為に選拔したものではない。立教の2人は確かにオールスターズに選拔されるだけの実力を持つていた。特にファウラー氏も立教の中村をRHBに推すについては何等の躊躇も要しないと書いているが実際その通りであり、彼のキックの正確で距離の出ることは定評があつて50ヤードは軽く出るのである。その上、ドロップキックも正確で、現在まで日本にフットボールが移入されてから40年の間に試合中でドロップゴールを定めて得点したのは中村以外には私の記憶にはない。その上、パスも正確で距離があり40ヤード位は軽く投げていた。ただ足は余り早くはなかつたが彼の天性の柔なんな身体と又その運動神経によつて、彼のランニングのコースの良さと腰の重さによりダッキング或はスピンによつて敵のタックルをはずす上手さは独特なものを持つて居り、フットボールをやる為に生れて来たような人間であつた。從ってファウラー氏だけでなく他の誰でもが中村がオールスターズに選抜されるのは当然であると思つていたに違いない。

 

彼が立教でなく明治か早稲田に居たならばもつともつと活躍出来たであろうと思はれる。彼はハワイの二卋でハワイのハイスクールを出て立教に入学する為に日本語修得する為に玉川学園に1年許り入学してそれから立教に入つて来たのである。過去40年のフットボール厂史中においてもその技倆の点において多くのプレイヤーが出たがその中での一・二を爭う名プレイヤーであつたことは彼を知るフットボール関係者は皆うなづくことであろう。又彼の人柄も実に良くおとなしい性格でチームメートのみならず他のチームのプレイヤーからも親しまれていたのである。

 

彼と並んで立教からRGに安藤が選拔された。これはファウラー氏も書いているように只一人の純国産プレイヤーとして永くフットボール界に名を留めおかなければならない人である。彼は東京市立第二中学校を卒業し立教に入学し直ちに水泳部に入つて競泳をやつていたが、その内にウォーターポロに主力を向け競泳よりウォーターポロの方が専門になり、ウォーターポロでは強力なメンバーであつたが、ケンカ早い彼は水泳部内の色々の因習にあき足らず、フットボールが誕生すると同時に水泳部をやめてフットボールに転向したのである。フットボールに転向する際にも水泳部と色々ゴタゴタがあつたようであるが、それが又彼の負けん気をかき立てたのであろうか、とに角フットボールで一流になつて見返へしてやろうと云う気を起したのか、とにかく体力も有つたが、気力はものすごい気の強い人であつたので練習も猛洌にやつたのである。とにかく気の強さにおいては人後に落ちる事はなく、親友であつた浅賀等はよくケンカをしていた。浅賀は安藤と非常に仲の良い友達であつたが突然ポカポカとなぐられ、浅賀が気がついてなぐり返えそうとする時にはすでに周囲の者からとめられてしまい、俺は何でなぐられたのか見当がつかない等よくボヤイていた。その位負けん気の強い男であつた為、人一倍の練習を積みファウラー氏の選んだオールスターの中の唯一の国産選手となつたのである。

 

彼はこの年に彼の友人で彫刻家の加藤と云う人に依頼され昭和11年の夏頃から彼のフットボールのユニフォーム姿をモデルにして“安藤選手の像”と云う彫刻のモデルとなつて練習後夜加藤氏のアトリエに通つていた。その“安藤選手の像”が何かの展覧会に入賞したと云つて彼もよろこんでいた。そしてそのミニチュアの像をもらつていたが、彼は立教卒業後、日立製作所に入社したが、その年の昭和13年12月に横旦を病みあつけなく死んでしまつた。戰後リーグ戰が復活した時、聯盟に金がなく優勝杯も買うことが出来ず、又戰前の朝日、毎日両新聞社から寄贈されたトロフィーは焼けてしまつて無くて困つている時に、安藤の遺族のお母さんからそのミニチュアのブロンズを何かに使つてもらえたらと云う話があつたのでよろこんでもらつて関東聯盟のリーグ戰の優勝チームの持ち廻りのトロフィーとしたのである。それが今日の関東リーグ優勝校の“安藤杯”である。

 

彼は初めはセンターをやつていたが、2年目位からガードとセンターをやり4年目頃からはフルバックをやると云うオールラウンドプレイヤーで確かに二卋の中に入つても二卋以上の実力を持つていたのでオールスターズにも選ばれ、又アメリカ遠征チームにも選拔されたのである。

 

このオールスターズに選抜されてアメリカ遠征に選拔されなかつたプレイヤーも居た。明治の大前と早稲田の野内の2人であつた。大前は明治でレスリングの選手もしていたのでその関係で遠征軍に参加しなかつたのかも知れないが、野内が参加しなかつたその理由は不明であつた。とにかくこのようにファウラー氏が苦心してオールスターズを選拔したその作業は偉大なもので、そして又その選拔は正確で誰が見ても充分にうなづけるものであつて何等それに異議をはさむ余地はなかつた。

 

さて一方アメリカ遠征軍と云うよりはアメリカに勉強に行く選拔軍は前述の通り昭和11年12月3日、明治神宮に参拜し宮城を遙拜して渡米の途についた。明治神宮参拜、宮城遙拜はこの当時はオリンピック参加チームを初め、各競技共海外遠征する場合には必ず実行した一つの行事であつた。それだけ卋の中は軍国調の色彩が強くなつて来ていたのである。

 

渡米チームを送り出した12月9日には午後3時から横浜のYCACのグラウンドに於て、今シーズン優勝した早稲田の留守チームと当時グアム島に居たアメリカ海軍々艦ゴールドスター号の乘組員のチームとの試合が行はれた。このゴールドスター号と云う特務艦はグアム島に常駐して居り、年に一度12月に日本に寄港して買物をする艦であつた。この早稲田との試合を皮切りにゴールドスター号と東京学生リーグのどこかのチームと国際定期試合としたいとの意向があつて来年からも実施することが決定したのである。試合は早稲田が7-6で辛勝した。早稲田は7人の主力選手を渡米させている上に相手は大きなアメリカ人であり、その上リーグ戰終了後であるので練習もしていなく苦戰を強いられた。

 

試合終了後YCACのクラブハウスで交歓パーティーが行はれた。ビールとサンドウィッチ外で米艦からは艦長以下応援団まで入り、早稲田の選手の他YCACの関係者等も交ざつて大変賑やかであつた。水兵達もビールを飲んで大気炎を挙げて居る内に誰かが水兵にその帽子をくれないかと云ふと一斉に20~30の白い水兵帽を投げてくれた。水兵帽は官給品であるのに気軽にくれる所など如何にもアメリカの軍隊らしく日本の軍隊ではとても考えもつかない所であつた。

◆ 1936(昭和11年) 米国遠征 ◆

 

12月8日の朝日新聞には郵船秩父丸から銚子無線経由で渡米途上の第一報が加納氏から次のように打電された記事が載つていた。

 

「米囗遠征の途にある吾吾米式蹴球団を乘せた秩父丸は3日出港以来相当のゆれ方であつた。毎日午前8時からと午後3時から約1時間半行ふ練習にこの日迄に落伍してベッドへもぐりつきりとなつたもの2人揃ひも揃つて中山、有賀の早大組の両君だ。その他の聯中は贈られたキャンディーや果物をパクパク食事の合図を待ち兼ねて食堂へラッシュする元気さである。

 

船中のことで広い場所も得られず自由な練習は出来ないがそれでも船長や事務長の好意で船では一番広い後部甲板のベランダ前を使つてフォーメーションの練習を行つている。ピックアップのチームではあるが各ポジションにムラがないだけどんなプレイをしても運行が、円滑でやつぱり日本最優のチームだと肯かせるものがある。

 

一行中の布哇出身者には音楽が好きな聯中が多くハワイヤンギター、ウクレレ等で巧みなチームを作り、練習の余暇を自分等も楽しみながら一行を退屈から救つている。從来日本から外国へ遠征した各種の競技団体は大方この方面では何等の準備もなくかなり不自由を感じていたことと思ふがこの点が我が一行は豊富な材料を備えて、競技場以外の交歓に慰安に役立てている。出発に先立つて作られた遠征団歌ももう2回程伴奏つきで練習し、これならばと自信を固めている」

 

と云うものであつた。

 

早稲田の中山、有賀が船醉いでベッドにもぐり込んだままだと云うのも愉快であるが、たしかにハワイの二卋聯中は誰もが殆どウクレレ位はひけるのでハワイの二卋が5人集まればすぐハワイヤンバンドが出来てしまう位であるから、畑3兄弟を中心にしてバンドが出来て遠征軍一行だけでなく他の乘客にも慰安の役に立つたものである。

 

12月10日夜一行はハワイのホノルルに入港した。そしてハワイ報知新聞社の斡旋によつてハワイ大学の学生から歓迎を受けて、11日の午後にはハワイ大学で久し振りに大地をふんで思い切り練習を行い、その夜はハワイ大学のスタディアムで挙行されたカリフォルニアのサンノゼ大学対ハワイ大学の試合に招待され、本場のフットボールを勉強したのである。そして12日にはホノルルを出帆して又サンフランシスコに向つたのである。

 

そして12月17日サンフランシスコに着いたのである。その状况を朝日新聞は次のように報じている。

 

「米式蹴球選手桑港へ着く。佐藤選手紐育へ直行」と云う見出で

 

「わが米式蹴球選手及び庭球選手佐藤俵太郎氏が乘つた郵船秩父丸は17日予定より入港遅れ午後9時サンフランシスコへ着いた。夜中の入港ではあるが海員罷業中のこととて移民官は特別に沖合に出張旅客の便宜をはかつた。同船には庭球選手佐藤俵太郎氏のほか米式蹴球選手団一行も乘船しており何れも元気であつたが秘書の川島君は航海中在米の母親死亡の悲報に接し悲しみの中に上陸した。

 

一行は自動車に分乘し卋界最大を誇るサンフランシスコ、オークランド間の大鉄橋を渡り更に夜のサンフランシスコ市内を見物した。18日朝はサンフランシスコの蹴球運動場において軽い練習を行ひ、正午ロサンゼルスに向ひ出発する筈」

 

と云うものであつた。

 

一行の乘つた秩父丸には庭球のデヴィカップの日本代表で当時卋界的選手の佐藤俵太郎が一緒であつたのである。翌19日の朝日には「桑港羅府間秩父丸特電」がのつていた即ちサンフランシスコを18日正午出帆してロサンゼルスに向う途中で加納特派員の報告である。

 

「我等の米式蹴球遠征団一行はホノルル出帆後2日許りは大暴風雨に遭つて練習どころか起きてもゐられず床の中で暮していたが、その後は静かな航海で昨日桑港入港、19日午前中にはサンピドロへ入港の予定である。

 

ハワイではハワイ大学々生聯盟の好意により停泊の2日目の晩加州サンノゼ師範大学とハワイ大学のナイトゲームを見ることが出来た。場所がホノルルなのでサンノゼ側には応援団がなく気の毒であつたが、ハワイ大学側は片側のスタンドを全部埋め盡しリーダーは胸に青のHをつけた白いスェーター、その両側には白のスカートに軍服型の青い上衣を着けた女大学生が2人さながらレヴューのダンシングチームのやうに踊りながらタクトを取つて映画そのままの応援熱狂振りを見せた。

 

プレイについては昨年本社が招聘したアメリカンオールスターズが当時の最髙プレイであつたことは間違ひないが、その後2シーズンを経た現在ではプレイはなほ一層迅速となりシフトも同じ調子、1、2、3で動かずクイック、クイック、スローのこれも急テンポであつた。そしてゲームの早いこと鋭いことは想像以上でタイムアウトが少なからずあつたので試合が終るまで2時間15分程かかつたが、少しもゲームはだれず観てゐてもそれ程長い時間がかかつたとは思はれなかつた。

 

サンフランシスコではオリンピック役員で、又本聯盟の書記者であつた松本明大教授の意外な出迎えを受け一同嬉びに歓声を上げた。同氏の語るところによれば、ロサンゼルスでは日本人会も大いに力を入れて歓迎準備に大童であるとの事で、これ又一行をよろこばせた」

 

と報じて来ている。

 

即ちホノルルを出帆の直後から海が荒れて、今度は早稲田の有賀中山以外にも船醉いをした者が居たが、しかし大半は元気で毎回の食事は船醉者の分まで食つてしまうような元気さであつたが、ただ甲板に出ることが出来ないので、從つて特2等の自室でゴロゴロしているか、或はロビーに行つて遊んでいるかしかすることが出来なかつた。3日目当りから天候が回復すると例の通り甲板に出てフォーメーションとコンビネーションの練習をしていたのである。

 

そしてサンフランシスコには夜上陸して夜のサンフランシスコを見物したのである。当時日本には思いもつかない、バレースクに入つて一行呆然としてそのストリップショーに見とれたりもしたのである。サンフランシスコでは松本瀧蔵明大教授の出向かえを受けたのは意外であつた。一行の中には明治のプレイヤーが多いので特になつかしがつたのである。松本氏は二卋であるので冬休みにアメリカに出張を兼ねて帰国していたのである。

 

一行は予定通り12月19日にロスアンゼルスの港サンピドロに午前中に到着したのであるが、税関の手続に手間取り上陸したのは午後3時頃になつてしまつたのである。そしてロスアンゼルス市内の「ヤマトホテル」に宿を取つたのである。ロスアンゼルスには日本人が多いのでその一卋、二卋は大変な歓迎をしてくれた。

 

そして試合予定は12月17日に南カリフォルニアの髙校選拔と対戰し、1月3日には在留邦人との対戰と2試合が確定し、出来ればサンフランシスコでも一試合を予定されていた。上陸して2日間許り休養をして27日の試合に備えて一同張り切つて練習を開始した。それには当然日本から用意して行つたフォーメーションが主であつたが、ハワイで見たハワイ大学とサンノゼ大学の試合を参考にして新しく作られたフォーメーションも加えられていた。一同は陸の上での練習は久し振りなので大変よろこんで疲れる位に練習をして、早く船でくづしたコンディションを取戻すべく懸命であつた。

 

ところが第一試合の12月27日は前夜から豪雨が降つて朝になつても雨がやまず午前10時頃になつてやつと雨はやんだが、その前に試合延期と決定し、そのことをラジオで放送してしまつたので、雨は晴れたが試合は1月3日に延期されることになつて一同ガッカリした。試合延期決定がもう少し遅ければ出来たのであるが、この試合には保険金がかかつていた関係で早々に延期と決定してしまつたのである。

 

それで1月3日迄正月を入れて練習の聯続であつた。そして練習の間にロスアンゼルスの見物を楽しんだ。或るいは土産物の買集め等相当忙しかつた。一行の殆どは二卋であるので町に出ても英語には不自由しなかつた。又日本生れの国産選手も2週間も居る内には片云ながら英語を話せるようになり、特にアメリカ人の云つていることは英語で理解出来るようになつて一人で町に出掛けて行く者も多くなり、町でも一人で買物をしたり飲食店で飲み食いするのに不自由を感じなくなつて来た。

 

そしてその間の12月25日にはプロの試合を見学したが一行が思いかけない幸運にめぐり合つたのはローズボウルゲームの見学であつた。ローズボウルスタディアムを持つているギルモア氏の好意によつて1月1日のローズボウルゲームに招待されたのである。しかも中央線付近の良い席であつた。日本を出る時は思つても見なかつたことであつた。

 

この時はピッツバーグ大学とワシントン大学の試合で、一行はそのスタディアムの大きさに吃驚りしその美しさに呆然としたのである。この時の入場者数は有料87,196名と発表されている。その人の多いのにもさすが本場であると云うことを思い知らされうらやましく思つたのである。又応援の見事さ、それに全米の一、二を爭う両大学の髙度の技術には只々見とれるばかりであつたが大変勉強になつたのである。試合は21対0でピッツバーグ大学が勝つたが、このローズボウルゲームを見ることが出来ただけでも渡米した目的が達せられたようなものである。

 

なお同じ日サンフランシスコで行はれた東西対抗戰は大接戰で第3クォーター東軍のクォーターバックのサンドバック(プリンストン大学)の決めたフィールドゴールが唯一の得点となつて3対0で東軍が勝つたのである。

 

1月3日は晴天であつた。ロスアンゼルス郊外にあるギルモアフィールドは小さなスタディアムではあつたが、芝生のきれいな小じんまりとしたグラウンドであつた。試合は午後2時から開始されたが、この日、日本チーム応援のためロスアンゼルス及びその近郊に住んでいる在留日本人を主として観衆は約1万人もあつた。日本でこんなに多くの観衆の見ている中で試合をしたことのない一同は第一試合と云うこともあり、又相手の力量もわからないので大いに緊張していた。

 

相手は南カリフォルニアのハイスクールの選抜チームである。ハイスクールとは云つても体格は大きく平均日本チームより40ポンドも多く体重のある聯中で試合開始早々はその体力に圧倒されたのと緊張のため一同上つてしまつたことで、充分に実力が発揮出来ず第一クォーターに一つ、第2クォーターに二つのタッチダウンを入れられ前半で19対0となつてしまつたが、後半は相手にも馴れ又緊張もホグして第3クォーターにハーフバックの中村健一が敵陣3ヤードから飛び込んで唯一のタッチダウンを挙げて大いに見物の日本人の声援に応えて気をはいたのである。後半は常に押し気味に試合を進めたがその他は得点出来ず遂に19対6で惜敗した。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
南加州ハイスクール選抜 7 12 0 0 19
日 本 0 6 0 0 6

ロスアンゼルスでもう一試合出来得ればサンフランシスコでもう一試合の予定であつたのであるが第一試合が雨で延期になつたこととサンフランシスコで適当なチームがなかつた為、この一試合を行つただけで帰国することになつた。一行はもう一試合位はやりたかつたのであるが誠に残念ではあつたが、1月5日ロスアンゼルスサンピドロ港出帆の日本郵船竜田丸に乗り込んだのである。一同サンフランシスコやロスアンゼルスで買つたお土産をドッサリと持つて帰国の途についた。

 

もう一試合アメリカでやりたかつたと云う気持ちが一杯で何か忘れものでもしたような気持ちであつた。ところがその船中にホノルルからの電報でハワイのホノルルで今シーズンハイスクールの優勝校となつたルーズベルトハイスクールと試合をしないかと云う照会であつた。一同ウズウズしていた所であるので直ちにOKし、帰途ハワイに立寄るのが1月12日であるので試合期日も1月12日と決定、一行は又大いに張り切つたのである。

 

サンフランシスコを出帆してからしばらくは海があれて練習が出来なかつたが、それから後ハワイに着く迄は、来る時と同じように甲板でフォーメーションの練習を続けたのである。ホノルルには1月12日の午前に着いたのである。一行は船の中でユニフォームに着換え、ユニフォームのまま下船してバスでホノルルスタディアムに向かつたのである。ここでもハワイ在住の日本人を主として約4千人の観衆が集つた。宣伝期間が短かつたので見物が少ないと云うことであつたがそれでもその位の観衆が集つて来たのである。試合は日本チームは船から降りたその足で試合をする不利な条件であつたが、カリフォルニアでの経験を充分に生かしてハワイのハイスクール優勝チームであるルーズベルトハイスクールと対等以上に試合を行つたが、遂に0対0の引分けに終つた。試合終了と同時に又バスに乗り竜田丸に帰つた。竜田丸は5時30分にホノルルを出帆したのである。帰途のハワイは本当に試合をするだけの時間しかなかつた。こうして大変に忙しい試合をしてハワイを後にして一路帰国の途についたのである。

 

そして横浜港には予定の1月22日より一日早い1月21日午後5時入港した。多くの出向えを受けて一同元気で上陸して来たがハワイや加州に親の居る二卋はそのまま現地に残つて後日の船に乗ることになつたので、竜田丸で横浜に帰つて来たのは12名であつた。その日はそのまま皆家に帰つたが、翌日朝再び船に集合して荷物を降し税関の検査を受け、それから一同揃つて宮城を遥拝し、次いで明治神宮に参拝して解団式をしてこのアメリカ遠征の大行事は無事終了した。

 

この遠征にマネージヤーとして同行した朝日新聞の運動部の記者であり聯盟理事の加納克亮氏は朝日新聞運動面に2回に分けて「米蹴遠征土産」を次の通り書いている。

 

「競技聯盟創立第3年目にその競技発祥の国へ遠征したといふ全日本スポーツ界を通じておそらく例を見ない惠まれた東京学生米式蹴球聯盟の代表団一行は横浜出帆以来15日目の12月15日の夜桑港へ入港、初めて発祥国の香りを嗅いだのだつた。

 

何しろ米囗側から招聘の確定電報を受けたのが出発1週間前といふあわただしさであつたが羅府の港サンピドロに着いて第一番によろこばされたのはサンピドロ在留邦人小学生が300名、殆ど全部を挙げて朝から歓迎のため埠頭につめかけてゐるといふ報らせであつた。そう聞いたばかりで一行の誰も彼も早く上陸して歓迎に応えたいと願つていたのであつたが、旅具の検査に少し手間取り折悪しく中食の時間にかかつてしまつた。然し小学生の一行は午後1時半頃まで頑張つていてくれたが税関倉庫をへだてたまま遂に会えずにしまつた。真に吾々としても残念なことであつた。

 

羅府到着後2日間は船の疲れもあるので全然練習も休み体の恢複を計ることにしたが、ホテルは日本人経営、食事は純然たる日本食で各自は家庭でくらしてゐるのと少しも変らない、それに真冬だといふのに気候は東京の秋のような温さなので船酔も疲れも2日間の休養で殆ど恢複した試合の予定は12月27日に南加州のハイスクール選抜軍と第1回の試合を、正月の3日に在留邦人選抜軍と2回の試合が予定され出来たら桑港で1回試合を行ひたいと云う招聘者側の希望であつた。

 

そしてこの間にはプロフェッショナルチームの試合見学それから又正月元旦には全米最大の試合であるローズボウル試合の見学が予定されているなど我々としてはこれ以上望むところがない程の好意をよせられてゐたものであつた。ローズボウルゲームといふのは日本でも各種の競技がシーズンの総決算的にシーズンの最後を飾つて東西対抗ゲームを盛んに行つてゐたが、丁度これと趣旨を同一にした全米の東西対抗戰で毎年元旦にパサディナ市のローズボウルと呼ばれてゐるスタディアムで西部地方の最優校とこの最優校が東部のいくつかの最優校の内から自由に選定したものとの間に東西対抗の形で試合が行われるもので、今年は西部の優勝校ワシントン大学が西部の代表となり、このワシントン大学は東部のピッツバーグ大学を選定したのであつた。

 

我々はこの競技場の所有者であるギルモア氏の好意でフィールドの西北側45ヤード線を真下に見下す良いシートを与へられ、このゲームの人気の素晴らしさは西部地方はいはずもがな、東部、中部でもこのゲームを一度見物しないことにはフットボールフアンとして資格の軽重を問はれるといはれている程で、米囗人にとつては渇仰の的となつているゲームでもある。もし我々がこの日与えられた入場券を2枚一組にして市中で買手を見附けるとしたら、原価1枚が4ドル半の入場券が何と100ドルなら羽が生えたように売れるだろうとの話であつた。

 

さて我々の第1回の試合は27日の予定なので我々も何とかこの日にチームをベストコンディションに持つて行こうと苦心し、幸いこれなら実力を十分発揮出来ようといふ所に漕ぎつけたが、当日は朝から雨降りで普通の場合と状態が違うので主催者側でこの試合をやむなく延期することになり、我々もその事情を察して延期に同意したのでした。

 

そして尚も練習を続け一週間後の日曜正月3日に南加ハイスクール選抜軍と聖林に近いギルモア競技場で待望のゲームを展開した。結果は既報の通り19対6、タッチダウンの数で云えば3対1の接戰で惜くも敗れたのであつたが、相手は髙等学校程度の選手とは云えハイスクールの規則によつてシーズン以外の試合に出場した選手は、翌年選手として学校を代表出来ぬことになつてゐるので、選手の凡ては今年卒業と共に大学選手として嘱望されて、やがてはオールアメリカンともなる輝かしい将来を持つたプレイヤーばかりである。

 

体格からして我々の140ポンドに対して平均180ポンド、中には200ポンドを越す者もゐて約40ポンドの差があり競技年月から云へば数段の差があつたのだから、この対手に対して3対1の接戰を演じ、しかも後半試合をリードし続けたのだから全然ハイスクールにも問題ではなかろうと思つてゐた観衆を驚嘆させたのは勿論のことであつたが、驚きはむしろ自分等の実力を疑問視してゐた我々自身の方が大きかつた。

加州では始め3試合の予定であつた処が種々の理由から3日の試合1回限りとなり多少物足らぬ気持ちがしないでもなかつたが・・・」

 

と報告している。

 

確かに生れて僅か3年目で海外遠征をすると云う競技団体は少ないであろう。それからこの報告にもあるようにアメリカからの正式の招聘が来たのが出発1週間前であつたので、その間のあわただしかつたことは事実であろうが、しかし選抜を内定されていた選手は遠征が出来るのかどうかで気が落着かなかつたのである。その点日本人と違つて米囗人は鷹揚なものである。渡米したチームがプロの試合とローズボウルを見学出来たことは思わぬ幸運であつた。この報告でもその点にはくわしく書かれているが詳細に書かれているのはローズボウルの方でプロの試合については殆どふれていない、プロの試合は見なかつたのではなく確実に見たのであるが、その当時のプロは出来て余り年月が経過していなく、人気も少なかつたのである。

 

フットボールは学生のスポーツで野球はプロのスポーツでると云う気持ちがアメリカにあつたのである。事実日本チームが見たプロの試合のロスアンゼルの近くの余り大きくないスタディアムで行われた観衆も1万人位のもので、とてもローズボウルの比ではなかつた。フットボールの印象としても余りにもローズボウルの偉大さに、プロの試合の印象がかすんでしまつたのである。

 

1月3日の対南加州ハイスクール選抜軍との試合でアメリカのハイスクールのスポーツ選手の規制が書いてあるのが面白い。この頃は対手がハイスクールとは云え180ポンド平均で我々より40ポンドも重い。そしてその技術も大学に準ずると云ふことの前程として書かれたものであるが、もう一方にはシーズン制の確立を云つているのであると思はれる。たしかに米囗は明白なシーズン制を採用して居り、そしてそれを又確実に守らせていることは立派でありそして気持のよいことである。そしてシーズン以外に競技をやつた選手は翌年はその学校の代表選手とはなれないと云う。たしかに1月3日はシーズン以外であるのでこの規程が適用されるのである。相手がはるばる日本から来たチームであつてもこの規程はまげない精神は見事である。その為に来シーズンはそのハイスクールを卒業してしまう選手のみを選抜したのであるからハイスクールの最髙学年であるので体格も大きいのである。そのチームに後半は対等以上むしろ押し気味にゲームを進めたのであるから日本チームが如何に健斗したか想像出来るのである。

 

「帰途桑港から乗船後ハワイの申込みを受けてハワイ・インターハイの覇者ホノルルのルーズベルトハイスクールと一試合を行つた。この試合は両軍無得点に終つたが、我々としては加州で相当優秀なチームと接戰した結果、一段と自信を増してゐたので、初めからこの試合こそ勝つて帰らなくてはといふ気持が強かつた。併し桑港出帆後の2日ばかり非常に海が荒れたので船酔のため気は張り切つてゐたのだが何としても足がフラフラで思ふように走れず掴み得るチャンスを逃したことも数回に及んで遂に引分けの勝負に終つたのであつた。

併したら今回の遠征の目的は初めから試合に勝つことを第一目標として行つたのではなく米蹴発祥の地へ行つて、実際にこの競技の精神並に技術及び施設環境等を凡ゆる角度から視察し体験して誤りなくこの競技を日本に移植しようといふのであつたのだから・・・

 

米本土以外で本土と同様な発達をとげ髙い水準を維持してゐるハワイで試合の経験を得たことも大きな収穫であつた。さて今回の遠征から我々の使命である競技についての収穫は何があつたかといふと2回の試合によつて選手が得た体験が最も大きなもので、この体験によると今後我国においてより一層体格の良い者を訓練して行つたならば多少平均体重に差があらうとも向ふの大学チームと十分に対抗し得るといふ自信を得たことである。

 

又戰術については我々軽量級のチームとして進むべき道は、初めから体重差で不利なラインつまりプレイヤーの密集地帯に球を進めるといふことを出来るだけ避けて球の進路をオープンに求めなくてはならない。最近米囗の戰術の推移を見ても昭和10年本社が全米の名選手をよつた全米オールスターズ蹴球チームを日本へ招聘した当時は、この代表チームの間においてもスクリメージラインに突撃して球を3ヤード、5ヤードと漸進せしめるいわゆるジョーンズ戰法といふものがプレイの大部分を占めてゐたが、その後米囗では戰術が著しく変化を来たし、球は極端にオープンに廻され複雑なフォワードパスなどが発達して1回のプレイで10ヤード或いは数十ヤードの前進を得るプレイが隆盛となつて来た。

 

殊に新しい傾向としてラグビーのように球の保持者より後方にゐる味方にパスする方法が盛んに用ひられ効果を上げてゐる。我々軽量チームとしては重量級チームと対戰する場合の必然的な方法としてオープンプレイを行うといふ結論に達したのであり、米囗では従来の戰法にあきたらず変化を求めてここに致つたのであるが期せずして我々がラグビー蹴球から取入れ又独創的に考案したオープンプレイが現在米囗における尖端的戰法と合致してゐたといふのは面白い廻り合わせであつた。

 

併しながらこのような戰術的歩調の偶然の一致も米囗チームの行ふオープンプレイといふのは敵味方同様の体格をもつチーム間で行はれるものであつて我々として国際試合のこの戰術を取入れるやうな場合には尚一層研究して我々の行い得るものとしなくてはならない。この点今回の遠征中最も豊富な参考資料を提供してくれたのはハワイ大学チームであつた。一行は12月12日夜ハワイ大学と本国より遠征して来てゐたサンノゼ大学との夜間試合を見学することが出来た。ハワイ大学は今シーズンこそ余り香ばしい成績を挙げなかつたが過去数年間は米本土より多数のチームを迎へてこれを破り、数年前には西部代表チームを迎へてこれを撃破した輝かしい歴史を持つてゐるチームである。チーム全部が軽量である、中でも俊足の闘将クアルククイ君といふハワイ人のハーフバックは身長5尺4寸程で目立つて小造りだが、彼の快速で急角度の走路転換の技術は戰前から観衆期待の中心であつた。彼はこの試合でも全ゲームを通じて一回の交代もなく戰ひ通し球を運ぶ任務を過重と思はれる位負はされゐた。

 

このクアルククイのチーム、ハワイ大の戰法は軽量チームが重量チームに対抗するためには斯くの如く進むとりほか道がなからうと思はれる程実に我等の得た結論をその儘もつともつと複雑化して実地してゐた。攻撃主体は球を持つたバックを3名或はラインズメンを加へた4名で囲むやうにして掩護してオープンへ走り出る。そして奇襲的にラインを突く場合には球がプレイに移された直後味方のラインズメンが球の通路を作り僅かな時間ではあるが持ち耐えてゐる間にその通路へ突進する方法と、バックメンがスクリメージ背後で誰が球の保持者かをだますスピンナー等を行ふ場合があつたが、後者の場合はラインズメンがバックフィールドで時間をとり、それから前進して来るまで持ちこたえられぬ場合が多いので殆ど成功したのを見なかつた。

 

この結果に微してみても軽量チームがラインを突く場合には味方のラインズメンが割つて作つた通路をその瞬間通過するやうな突進法でなくては成功率が低いといふことを教えられた。このやうに重量に差のあるチーム間の試合を見ていずれが優つてゐるかを見分けることはさして困難なことではないが、今までその比較を実際について体験し又は観察する機会のなかつた我々にとつては得がたい研究材料となつたのだつた。

 

今回の我々の遠征は見たもの体験したものの総て参考とならぬものはなかつたのであつたが、ハワイで試合を行い、又ハワイ大学に対する認識を深めたことは、ハワイが米式蹴球の正統派を汲む我国にもつとも近い土地であり、将来我国と相互にチームを交換し我国米式蹴球界の発展を促進するためには米本土より遥かに負担が軽いので、この発見こそは将来日本に於ける米式蹴球発達の過程に偉大な役割を演ずることになるのではないかと思はれる」

 

ここではハワイの試合について書いているルーズヴェルトハイスクールとの試合はサンフランシスコを出帆後の竜田丸の船中で決定したものであつて決してスケヂュールに入つていたものではなかつたが、南カリフォルニアのハイスクール選抜軍と試合をやり自信を得た聯中にはアメリカの一試合だけでは物足りずハワイの試合申込みに直ちにO.Kしたのであるが、サンフランシスコ出港後2日許り海があれたため船酔と練習も、不充分であつたので勝てるチャンスを逃したと云うので本当であろう。船でユニフォームを着けて直ちにグラウンドに向ふと云うのは前代未聞のことであつたであろう。

 

そしてこの遠征2試合を通じて日米の体格の差をまざまざと見せつけられ、この差がもう少し少なければ日本人のファイトと熱心さを以つてすれば何とか焚対抗出来ると感じたのである。それは軽量チームが重量チームに対抗するには重量チームと同じ事をやつていたのでは勝てない、勝つ為にはボールを早くオープンに廻わしインターフェアランスを沢山つけてランナーを守らせしかもその上にラグビー式のラトラルパスを多く使用する等早いプレーで重量陣をかく乱する戰法が最良であると云うことは遠征チームが最初に見学したハワイ大学とサンノゼ大学の試合を見てつくづく感じたのであつた。又アサヒスポーツ昭和12年2月第2号には同じく加納氏が執筆して次のように書いている。

 

「アメリカンフットボールほど、国際的に均衡のとれてゐない競技は少ないだろう。何しろアメリカでは野球より何より国民的スポーツとして人気のある点では断然他のスポーツを抜いてゐる。けれどもこのアメリカ内で最大の人気を有するアメリカンフットボールも、一歩国外に出ると何のことはない、競技方法すら知つてゐるものが無い状態である。

 

これには大きな障害がある、と云ふのはアメリカンフットボールはアメリカから映画を輸入興業されてゐる国では、ニュース映画または劇中にもしばしばある競技やこれを主題としたもの等も現はれとにかくボディーコンタクトに終始するゲームだといふ観点を植付け、そしてアメリカでは1ヶ年にこの競技から何十人の死者が出ると云つたやうなことが耳に這入つて来るので、第一に非常に危険なゲームだと畏怖先入感がある。その上に用具が相当複雑だし髙価でもあるので、財政的にもなかなか誕生が難しいといふ状態で、国際的の発展が遅々として進まぬのであろう。

 

日本とアメリカンフットボールとの関係は、東京学生米式蹴球聯盟が、昭和9年立教大学のポール・ラッシュ教授の唱尊によつてリーグが創設され、その翌年には朝日新聞社の招聘にによつて時のアメリカ学生球界を代表するアメリカンオールスターズの渡日を見、一躍アメリカに於ける最髙標準の技術並びに精神に触れることが出来たのだつた。それから2シーズンを終へた去る12月3日には、アメリカンオールスターズの監督として来朝したアルバート・マロニー氏の斡旋によつて、日本のスポーツ界に例を見ない急ピッチで海外遠征を実現したのである。

 

この遠征は成績の如何を問わずアメリカにとつても外国チームの遠征を向えた最初のものであつて、アメリカ蹴球界の国際的発展の第1頁を飾る快挙でもあつたのだつた。先年来朝したアメリカンオールスターズもそうであつたが、どうもアメリカンフットボールの遠征には雨がつきものらしく、我々も雨の珍らしいロサンゼルスで相当雨に悩まされた。

 

それでも、第一試合を予定されてゐた12月27日までは大した降りもなく、当日の蹴球場に当てられてゐたギルモアフィールドで練習を行ひ、着々船旅の異状もとれて暖い気候にも慣れて来たのだつたが、この暖かさといふのが想像以上の暖かさで、膝に入れてゐるファイバー製のプロテクターが水気を吸つて丸味がなくなり、パンツの中へ菓子折の四角なフタでも入れてゐるように、ピンと平らな板になつてしまつたのには驚いた。

 

そして試合の前日には遠征のハンディキャップを除けば最上のコンディションととも云へる状態になつたが、惜しいことには27日は朝から降り続いて何時晴れるとも知れなかつた。それでも我々としては試合があるつもりで準備していると、朝の10時頃になつて主催者側から試合を中止するといふ報せが来た。一同は張り切つてゐたことであり、ちょつと落胆したのだつたが、大きな団体を招聘して全責任をもつてゐる主催者側の特別な事情を察して試合延期に同意したのだつた。

 

この事情といふのはロサンゼルスでも欧米諸国で実地されてゐるレイン・インシュアランスといふ面白い保険があつて、試合の開始1時間前から試合終了予定時間内に1ミリメートルの雨が降れば、何程かの率によつて掛けた保険金がとれる。そこで主催者側では当日の降雨を考へ、この保険を契約して降雨中の試合をやらずとも、この保険金で負担を補ひ、遠征国の優待を計ろうとして中止したのだつた。ところが朝からの降雨はこの規程時間中だけ一粒も降らず、主催者側のは何と云つて良いやら解らない程気の毒な思いをした。

 

一週間繰り延ばされた南加ハイスクール選抜軍との対戰は正月3日、ギルモア競技場で1万2千余の観衆を集め華々しく挙行された。若し27日に第一回戰が済んでゐたならば、この日は南加の邦人チームと第二回目の試合を挙行する予定だつたが・・・、その日は朝から晴れ。東京でいへば「颯爽とハイキング」と鉄道省のポスターが眼につく10月中頃の陽気、何しろ試合中選手か使つた水の量がこの競技場のレコードだつたといふだけでも、その暖かさが想像されませう。

 

試合は、対手が重量もあり、平均して5尺8寸程の大柄なので前半は何となく我軍は圧され気味であつたが、前半を終る頃から対手の実力が殆ど知れて来たので、後半は気分にゆとりが出来て積極的な攻撃を開始してみると、案外脆いところがあるのでますます調子が出てダウンを3回4回と重ねたこともあつた。試合は日本軍がリードして行つたが、対手は40名もの選手を揃えてゐるのに対し、我々は負傷者も相当出て、後半中頃には僅かに15名にまつてしまひ、出場選手に休養を与えることが出来ず、大事なところで走力が低下し遂に得点機を掴めず、対手の反則でゴール線前のスクリメージを中村ラインに突撃して1タッチダウンを還したが、19対6、タッチダウンの数で3対1の接戰で敗れた。

 

試合としてはこの試合と帰途ホノルルで行つた試合の2つに予定が変更され、2試合が減じられた訳であるが、その他に我々は往路ホノルルでサンノゼ師範大学対ハワイ大学の試合を、またロスアンゼルスでは職業選手の試合とアメリカ人でもめつたに見られぬ全米東西対抗戰を、ギルモア氏の好意により見学出来たことは何よりの収穫であり、一生の想い出となる見学であつた。

 

この遠征の最大の目的であつた競技についての収穫は・・・先づ我がチームは体格の相異より受けるハンディキャップをいかにして抹殺するか、それには独創的なプレイを案出しなくては対抗出来ない。そこで最も体重の差より受ける打撃の多いスクリメージラインを衝くことを避け、フォワードパスおよびオープンへ球を運ぶプレイを攻撃の主体として作戰を樹てて行つたのである。

 

ところがハワイ上陸第一歩に見学したハワイ大学対サンノゼ大学の試合で軽量のハワイ大学チームの戰術こそ我々が苦心研究してゐたものを実際に見せてくれたもので、遠征中最大の見学であり、将来我々が範として進むべき指針を与へてくれたものであつた。ハワイ大学は如何に戰つたかといふと、矢張りオープンプレイを主とし、フォワードパスを送るにも捕球する者が大きな対手に邪魔されないやう、出来るだけマークを外すために、例へばパッサーが恰も左オープンへ突進するかに見せてグッと後退し、対手をその方に引付けてから、その前方へ置き忘れられたやうに見えてゐる味方に、突如パスを送るなど常に出来るだけ体格の相異より来るハンディキャップを補ふために、慎重な戰術がめぐらされてゐた。名はアメリカ遠征だつたが、我々はハワイで実に貴重な経験を得たのであつた」

 

以上のように書いてゐるが、確にフットボール位おかしな競技はないアメリカでは非常に盛んな競技ではあるが、一歩國外に出るとフットボールをやつている国は実に少い。それはこの当時から40年を経過した現在でも同じことが云える。サッカーのように卋界中何処に行つても盛んな競技、或は新興スポーツとして共産圏から未開発国を中心にして盛んになつたヴァレーボール等卋界中何処でも盛んに行はれているが、あれだけアメリカ人の血をわかせているフットボールは僅かアメリカを中心に僅かな国しか行つていない。

 

これには用具の問題、危険度の問題等色々の点があるであろうが、それよりもアメリカ人自身にその気がないと云ふことではなかろうか、英国人のように植民地を拡張して行く国民には自国の文化を植民地に押付けるように自国のスポーツを最髙のものとして積極的に他国に押付ける気持がアメリカ人には無いのであろう。もしやりたかつたら勝手におやりなさい、多少の援助ならしますよ、よそ様のことより自分が楽しんでいられればそれで充分ですと云う態度である。

 

この遠征もアメリカとしては他国のフットボールチームを本国に迎えたのはアメリカ建国以来の出来事ではなかつただろうか。それも先年来日したオールスターズのマロニー監督の一方ならぬ努力によつたものであつた。この遠征によつて日本におけるフットボールの技術は一段と向上したのである。そして小型のチームが大型のチームに対戰する戰法は出発前から色々と考えていたことであるが、それが初めてハワイでハワイ大学とサンノゼ大学の試合を見学して、それが小型チームのハワイ大学で実証されているのを見て一同気を強くしたものであつた。

 

ハワイでハワイ大学とサンノゼ大学の試合見学は往路でもあり又予想外の見学でもあつたし更に初めて見るビッグゲームであつたので一同の感激は一層深いものがあつた。そしてローズボウルゲームはその規模の優大さとはなやかさに気をとられてしまつて呆然としたと云ふのが本当であろう。それにしてもプロフットボールのゲームも見たのだが、その点にはどの報告も殆どふれていないのが面白い。それには吾々の当面の対手は学生であり又吾々も学生であると云ふこともあつたであろうが、それよりもその当時は野球はプロのものであつてフットボールは学生のゲームである云ふ思想がアメリカでもあつて今日のようにプロが盛んでなかつた為、入場者も少なく遠征軍も余り興味を示さなかつたのであろう。

 

次のページへ

一覧へ